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よいエッセイとはなにか

なにかの記事で「賞をとれる文章はちがう」という言葉を見つけ、改めて「賞をとれる文章」を読みたくなった。

そこでチェックしたのが、キッコーマンがおそらく毎年開催している「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」コンテスト。表題のとおり、おいしい記憶にまつわるエッセイを投稿するものだ。

そこで昨年の「一般の部」にて、最高賞である「キッコーマン賞」受賞の作品『おいしいの二乗』を読んだ。

私はエッセイがとても好きで、よく読む。
「書く仕事」のなかでもとくにエッセイを書く人に憧れるし、その能力がほしいからだ。それこそベスト・エッセイのように、著名なエッセイストの作品ばかりが収録された、間違いないものは確実に読む。

といいつつ、エッセイに必要な能力についてはイマイチわかっていなかった。

「なんかいい」「理由はわからんけどすき」という漠然とした感覚を湧かせることこそがエッセイの魅力だと思っていたし、エッセイストによってテイストはバラバラだからである。漠然と「表現力」だったり「構成力」(とくに始まりと終わり)が必要だとは思ってはいたけれど。

が、キッコーマン賞受賞作品『おいしいの二乗』を読んで、ふと思った。いいエッセイに必要な能力は「正直」を書けること、なのではないか。

正直な文章はむずかしい。自分の感情にぴったりな言葉を見つけるのはむずかしいし、そもそも自分のこまかな感情を捉えるのがまずむずかしい。捉えた感情に着色しないことや、説明しすぎないのもまた、むずかしい。

受賞作品のなにがよかったって、そういうむずかしさを、さらりとクリアしていたところ。

彼のドタバタの様子が思い浮かぶ。猛烈な爆発音に仰天し、扉を開けて血の気が引き、破裂した卵を半泣きで片付け、レンジの中を必死で掃除したはずだ。ゴミ袋に入れただけでバレないつもりじゃぁ、お母さん笑うわ。

「お母さん笑うわ」の一言に、家族の空気感がにじみ出る。「書くぞ」という力がいい意味で抜けていて、浮かび上がるあたたかさにつられ、思わず顔がゆるんでしまった。


正直さとおなじくらい、大切だと思ったのが目線。

たとえば今回のエッセイ。「あなたのおいしい記憶を教えてください」と言われて、このエピソードが浮かんだことが素敵だと思う。毎日発生する「食べること」。数ある記憶から選んだのは、ある日息子がおにぎりを作ってくれていたという日常なのだ。

日々、大きい物語に流されずに、ささやかな幸せを大切に暮らしている人なんだろうなと思った。おにぎりにグミが入っていても、あははと言って食べてしまうおおらかさもあたたかい。

いいエッセイって、つくづく、技術だけではないんだろうな。少なくとも私が「いいな」と思うエッセイの書き手は「いい生き方」をしていると思う。文章そのものというよりも、日常の過ごし方や感じ方、透けて見える人柄に惹かれてる。

「いい文章を書くために必要なのは、善く生きること。」

ふと、近藤 康太郎さんの本『三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾』に書かれていたことを思い出した。

善く生きて、正直に、書く。私がほしい能力は、きっとその先にある。


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