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山梨でプーランク③プーランクの生涯その2

こんにちは、ウチダユメミ(@yumemiob_sub)です。
山梨に移り住んで、約3年。
ぶどう農家を営みつつ、
オーボエの演奏やレッスンなどの音楽活動をしております。

2023年4月1日にYCC県民文化ホールで
オーボエを中心とした室内楽で全曲プーランクのコンサートを行います。
オーボエの魅力や
ワイン県・山梨だからこそフランスの作曲家・プーランクの素敵な曲たちを
広く山梨の皆さんに知って頂けたらいいなぁという想いがあります。

#山梨でプーランク 」note第三弾

プーランクの生涯その1はこちら

それでは、本編へ!

プーランクの生涯その2

フランス6人組とその周辺

1917年〜1920年にチェリストのドラグランジュが若い作曲家によるコンサートを催していた。
そこにはオーリック、デュレ、オネゲル、ミヨー、タイユフェールがおり、ここにプーランクを加えて「6人組」として知られるようになる。
(因みにオネゲルはスイスのお札になっている)

プーランクは、ここまででも濃厚なキャラクターの人物たちと出会っているが、さらにサティ、ファリャ、そしてさらにさらにその後のオペラや声楽作品に多大な影響を与えたジャン・コクトーとマックス・ジャコブなどとも出会い、生涯を通して交流している。
特筆したいのが、プーランクとラヴェルの関係。1917年に出会い、音楽について真剣な議論を交わす。
互いの意見は合わず、プーランクの好きな作曲家に対し辛口コメントのラヴェル。
落胆はするけど自作に対して謙虚なラヴェルの事は尊敬してた。

第一次世界大戦の時期

1918年、第一次世界大戦終結後(出兵していた)、ミヨーと共にウィーンへ。
そこでシェーンベルク、ウェーベルン、ベルクと会っている。
1920年、バレエ・リュスの為に描かれた「牡鹿」で国際的に認められ、プーランク20歳あたりからさらに成功を収める。
若い時期に活発に音楽活動を展開できたのは彼の社交性だけでなく1920年代のフランスという時期も関係している。
芸術に対するパトロネージュの支えも大きい。
コンサートで演奏する「ノヴェレッテ」と「トリオ」もこの頃に作曲されている。
この頃の成功により、プーランクは28歳の時、郊外に邸宅を購入しパリの自宅と共に2か所に活動拠点を持っていた。
1930年代はさらに作曲活動は活発に。
ピアノ曲、歌曲、室内楽がその中心であった。
しかし、郊外に買った別宅が原因で資産難になり映画音楽なども手掛けるようになった。
資金難の1930年代に描かれたものは六重奏曲。手直しをして最終的な完成は1939年8月末。
戦争前夜(ドイツのポーランド侵攻)に完成された。
洒脱な面もあるがシリアスな部分はそういった時代背景も影響しているのだろう。

1939年に第二次世界大戦が勃発した当時、短期間軍隊に召集された以外は郊外に疎開し作曲活動を続ける事ができた。
ただ、この頃に身近な人を次々と亡くし1930年代中ごろから宗教的な題材の作品を手がけるようになる。

LGBT

プーランクはLGBTとして知られているが
1946年に娘が生まれている。
娘の母親とは結婚はせず、娘にはプーランクが父親ということは知らせず、親戚の1人として接していた。

第二次世界大戦の後

第二次世界大戦後、
プーランクは活動の場をヨーロッパに留まらずアメリカにも広げた。
さらにこの頃、ラジオ放送にも興味を持ち、自分の作品や音楽についてラジオを通して語ることも始めている(のちにラジオで話した内容が本になっている)

1950年代に入ると室内楽を中心としつつ、
オペラなど大きな作品も手がけた。
この頃、ブーレーズが創設した現代音楽の会にも顔を出してた。
若い世代と自分の手法の方向性が異なる事に関して知人に「自分には調性のある音楽しか描けない」と伝えてる。

亡くなった当日

1963年1月30日、友人とランチの約束をしていたがキャンセルの電話を入れた直後にプーランクは心臓発作を起こし亡くなっている。
この前年に描かれたオーボエソナタは遺作に近く、本人も「最後の楽章は典礼の歌に近いものである」と語っている。

コンサートチケットインフォメーション

4月1日YCC県民文化ホールでのコンサートチケットのお申し込みは
下のリンクからも承っており!


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