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母は認知症に!私は鬼になった!

家族が認知症になって困っている人は少なくないと思う。
特に私の年代に多いだろう。
子育てが終わると次に待っているのは介護だ。

母がいつ認知症になったのか、同居している私にも分からなかった。
脳神経内科に行って認知症だという診断結果が出たのは、母が少しおかしいと思い始めて大分後になってからだ。
私が50代の時だ。


誰も分かってくれない認知症初期

「お母さんがカギがなくて家に入れないと言ってるからすぐに帰って来て」と言って電話してきたのは近所の人だ。
ものがなくなるという、認知症にはよくあるであろう症状が出始めたころだ。

ものがなくなり被害妄想が強くなる

なくなるのは家の鍵、お金、通帳、年金手帳などだ。
母は元々とても気の強い人だった。
お金がなくなったのは誰かが盗んでいるからだと、これも認知症患者によくありそうな被害妄想だ。

どこへ隠してもまたなくなるので今度は親しい人に電話をするようになった。
誰も自分の病気が原因で認知能力が落ちているとは思いたくないのだろう。

その頃は近所の人が犯人だと言っていた。
いつ誰にどんな電話をするか分からない状態だ。
私は近隣の人に、母が認知症で何を言い出すか分からないので、もし変なことを言っても許して下さいと触れて回った。

ある日の夜、母の従兄弟から電話があった。
その電話には妻が出た。
昼間に母が電話をしたようだった。

妻は「はい」としか言いようがなかった。
母が近くで聞いていたからだ。
「お母さんは認知症で」と言ったところで信用してもらえなかっただろう。

母の従兄弟が母の電話を信じ切っていたからだ。

後で私がスマホでその方に母は認知症だと説明したが、それでも信じてはもらえなかった。
母の電話の様子に何の違和感も感じなかったからのようだ。

だれが見ても普通で普段と同じだが、たまにおかしなことを言い出すこの認知症初期段階が最も厄介だと教えてくれたのは仕事で付き合いのあった介護施設の施設長だ。

それから一年ほど経った頃だろうか。
母の被害妄想の矛先が家の中に向き始めた。

お金や通帳がなくなる度に家族が犯人扱いされるようになった。
何度探し出してもすぐにまた別の所に隠すから母は四六時中探し物をするようになった。
お金や通帳だけではなくありとあらゆるものがなくなった。

家族も一緒になってやっと探し出しても、母の中では家族が犯人なのだからまた別の場所に隠すという繰り返しだ。

私たちは2階で寝ていたが、1階から深夜2時や3時に探し物を始める音が聞こえてきた。

そして深夜に階段の下から「お金を返してくれ」「お金をどこにやった」などと怒鳴るようになっていった。

私も50代で忙しく仕事でもストレスを溜めていた頃だ。
妻も働いていたが、家の玄関を開けるのに勇気がいったようだ。

家の中で事件が勃発

ある日、妻が帰ると母が鬼のような形相でにらんだ。
見なかったふりをしてキッチンに行くと、そこのゴミ箱に母のパジャマが切り刻んで捨ててあった。
ただ事ではない。
母は「私のパジャマに何をした」と言って妻に攻撃的な言葉を浴びせた。
正気とは思えない。
妻は「早く帰ってきて〜殺される〜」と言って私に電話をしてきた。

パジャマがなくなって数日後に出てきたようだが、それを隠した犯人が妻になっていたようだ。

とうとう妻は家を出ると言い始めた。
無理もないと思ったが、私は何とか落ち着かせようと妻の話を聞いた。
その頃私は仕事だけではなく、子ども二人が大学生で仕送りも大変だった。
しかし妻が家を出るとなると更にアパートを借りなければならなくなる。

私は仕事で付き合いのあった介護施設を廻った。
しかしどこの施設も順番待ちで入所できるような施設はなかった。
母のようにまだ自分のことができる間は入所の優先順位も低かった。

もしあったとしても本人が入所するとは絶対に言わなかっただろう。

その事件の1か月後に妻の髪の毛が抜け始めた。
強いストレスによる抜け毛だ。
妻は仕事にも行けなくなった。

ウイッグで対応したが最終的にはすべて抜け落ちた。

穏やかに対応してあげてね

介護の経験がある人に相談すると「穏やかに対応してあげてね」と言われた。
「病気のお母さんが一番不安なのよ」「何を言われても我慢して、そうねそうねって言ってあげてね」とも教わった。

私にはそれができなかった。
仕事のストレスも重なってそんな優しそうな言葉はひとつも掛けてやれなかった。

私たちも探しものにはもう疲れ果てていた。
いつものように探し物をしている母にも愛想が尽きていた。

母は私の所へ来てこう言った。
「私の金をはよ出せ」「お前のような親不孝者はどこにもおらん」
私も怒鳴った。
「何とでも言え」「わしはもうしらん」
そうしたら今度は母が怒鳴った。
「もう死んでやる」
私の心は既に鬼になっていた。
「本当に死ぬんだな」「明日起きて生きていたら承知せんからな」

家族全員が精神を病んでいた。

母が死んで10年たった今でも言ってしまったことを後悔する言葉だ。

心の鬼を追い払うために

ある日妻が家に帰ると母が玄関で倒れていた。
びっくりしてまだ仕事をしていた私に電話をしてきた。

救急搬送された病院の診断は脳梗塞だった。
その後、母の部屋のゴミ箱の底から袋に入ったままの血圧のくすりが見つかった。
私には飲んだと言って隠していたのだ。

母は左半身麻痺で車いす生活になったが、退院しても家で面倒を見ることはできなかった。

私たち夫婦が仕事を辞めることができなかったこともあるが、認知症の母が自力で歩けないと言うことを自覚できないからだ。

麻痺のことを忘れて車椅子から立ち上がろうとし、前かがみに倒れて腕を骨折するのは確実だと言われた。
病院を退院する時、そのまま母を無理やり介護施設に入所させた。
母は家に帰りたいと泣いた。

病院からストレッチャー付きの介護タクシーに一緒に乗り込み介護施設に行くまでの間、私は姥捨て山にでも連れて行くような罪悪感に苛まれた。

それから1年間、私が施設を訪れる度に母は「家に連れて帰ってくれ」とせがんだ。
私はその都度「今は仕事中だから夜になったら仕事帰りに連れて帰るから」と嘘をついた。
毎回、後ろ髪を引かれながら施設を後にした。

施設からは、息子さんが来られると里心が付くから来るのを控えて欲しいと言われていた。

その後母は肺炎で入院したが、私は仕事が終わってから毎晩40キロ離れた病院に通った。

母のためではない。
自分のためだ。

母に鬼のような言い方をしたことや、無理やり施設へ入れたこと、毎回連れて帰ると嘘を付いたことを最後に帳消しにするためだ。

親孝行など何ひとつしたことがなかったが、最後に背中をさすってやったり優しい言葉をかけたことで自身の鬼の心を追い払おうとした。

しかし母が亡くなって10年経った今は、母にした最後の優しい記憶だけが私を救ってくれている。

あれがなければ今も鬼のままでいなければならなかっただろう。

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