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ボイスレコーダーの男⑤

《対話の試み》

 既に時刻は正午を過ぎ、ホテルの裏手にある公園を何周もしていた。強すぎない日光と暖かい風に吹かれて、海岸近くの飾り気ない平坦な公園を歩き続けていた。
 ここに来る前は冬も終わりでコートが必要だったが、ここでは上着も不要だった。私は海風で錆びたベンチに座り、部屋に一人でいるのも寂しい気がして、ホテルの売店のサンドイッチでも買って、ここで食べようかなどと思っていた。

 私は、私から彼が現れ、彼が覚醒し、同時に私が眠りにつくことを想像しつつ、私と彼を比べていた。
 1.この人生を歩んできたのは私であって彼ではない、ように思う。
 2.毎日の生活をしているのは私であって彼ではない、ように思う。
 3.私は彼の記憶を使えないが、彼は私の記憶を使える、ように思う。
 4.私は彼の正体は分からないが、彼は私のことを知っている、ように思う。

 ところで、私と彼を区別できる輪郭というものはあるのだろうか。私と彼との間にグレーゾーンはないのだろうか。私と彼と言っているが、その間を意識は往復していないだろうか。
 私は公園の向こう側にいる旅行客の男女をみながら、彼らを見ているのは私だが、同時に彼も彼らを見ているのかもしれないと思った。

***

 彼と話したかった。そういう気持ちになったのは初めてだった。既に私を脅かした彼を許していたし、彼の存在がぼんやりわかってきたような気がしていた。
 彼は私が平穏に長らく暮らしているので、それに飽きたのかもしれなかったし、いたずらして、私に気が付いてほしかったのかもしれなかった。
 私は漠然と、彼が覚醒する準備を整えているような気がしていた。彼が出てきたときに、彼が誰かきいてみよう。しかし、そのとき、身体の主人は彼になるので、尋ねている私は消えゆく向こう側で、彼が答えたものを覚えていないかもしれない。
 昔ヨーロッパの科学者がギロチンにかけられたときに、頭が離れても意識がしばらくあることを証明するために、切断されてから瞬きをするということを弟子に伝えており、確か数十回したという話をきいたことがあった。
 だとしたら、彼が私の体の占有者になるまで、仮に数秒間あったとしても、最後の私の問いを彼が答えたとしたら、それは私の遠い記憶になるのではないか、と考えてみた。

***

 彼のことに集中していたせいか、彼が内側から近寄ってくるのがわかった。そのとき、確実にわかった。彼は半分現れた。
 私は「誰だか教えてくれ!」と声を振り絞った。それは金縛りにあったときのように声にならない苦悶になった。遠くの男女がこちらを見ていた。
 私はベンチで座っている姿勢からずり落ちていき、「生まれて初めて聞かれたよ」という彼の内なる声を聞いた。
 そうして私は彼となり、気が付いたときはホテルのベッドの上で、時計は午前3時だった。ホテルのガウンも着ていたし、身の回りも整頓されていた。今回の彼は平凡な半日を過ごして引っ込んだようだった。
 私は覚えていた「生まれて初めて聞かれたよ」。
 それは軽い驚きというか、はにかみが少し混じったボイスレコーダーの男の声だった。

ボイスレコーダーの男①《拾った男》
ボイスレコーダーの男②《ホテルでの再生》
ボイスレコーダーの男③《巡りの果て》
ボイスレコーダーの男④《気になる思い出
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