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「お願い」されて、喜んでお金を出したくなるのはどんなときか。

昨日、「お願いでは、モノは買えない」というnoteを書きました。
携帯ショップでゴリゴリの営業をされたときに思ったことです。

確かに、消費者の立場としては、お願いされても商品は買えないな、と思いました。

でも、よくよく考えると「お金出してください!お願いします!」とアピールされてお金を出すこと、あるよなあ。ふとそう思ったんです。

たとえば「寄付金」。
ユニセフやUNHCRといった世界の困窮した状況にある人々を救うために、お金を出すことがあります。かくいう私も、かつて街頭でPRしていた某非営利団体が熱心に寄付を募っている時に声をかけられ、「月1回の外食分くらいのお金が世界の貧しい人々のために使われるならいいか」と、定期的に寄付するようになりました。
お金を出しても、特に見返りとして何かがもらえるわけではありません(ある程度税金が控除されることはありますが)。それでも、この事業にお金を出している人は、趣旨に賛同し、進んでお金を出していることでしょう。

最近は「クラウドファウンディング」も一般的になってきました。
「こういうことがしたいです!」「いくら必要です!」とアピールするその事業や志を受けて、お金を出す。出資者には特典がある場合もあるし、ない場合もある。

いずれにせよ、こういった「見返りを求めずお金を出す」という行為は、昔も、そして今も、健在だよなあと思ったわけです。

不思議ですよね。
商品を買えば、見返りとしてその商品がもらえる。だけど、「お願い」されてその商品を買う気にはなれない。
でも、何かしらの理由があって「いくら必要です!」「お願いします!」という訴えに対しては、何の見返りがなくても、進んでお金を出そう、むしろ出したい、という気持ちにさえなることがある。

この違いは、なんだろう。

私は、「応援者」という立場でその人・あるいは事業と出会ったかどうかが、ひとつのカギではないかと思ったんです。

携帯ショップに行く時、私はあくまで「消費者」として、少しでも携帯代を安くしようと思って行きました。
携帯ショップの店員さんは確かに頑張っていたけれど、私がお店に行った目的は彼を応援することではありませんでした。
「消費者」が商品を売る側に願うことは、支払った分に対してそれなりの見返りがあることです。等価交換、あるいは、支払った以上の良い見返りがあることを求めます。それが「お得」というやつです。

しかし、「応援者」として出会う場合は、そうとは限りません。「お金出すから、頑張ってね」と、お金を出した相手に対して願うことは、多くの場合「その事業、あるいはその人の志が達成されること」ではないでしょうか。そして、その事業や志が達成されたところで、「応援者」が益を受けるとは限らないのです。
結局のところ、基本的に「応援者」がお金を出すのは、「お金を出す相手の成功」が第一なのであって、自分に見返りがあることが第一ではない。

そう考えると、「応援される」って、すごいことですね!!
見返りを求めず、その人の成功を願ってくれるのだから。

コロナ禍で苦戦を強いられた飲食業界や観光業界では、「食べて応援」というPRもされましたね。
もちろん、応援したいと思うようなお店や地域は、「応援者」にとって魅力的であることは確かだと思うのですが、それでもそのお店や地域のモノを買おうとする人のマインドの根本にあるのは「応援したい」ではないかと思うんです。

「応援したい」と思わせる何かを持っている人、あるいは「応援したい」と思わせる志があるところ。
彼らと「応援者」として出会い、その志の達成のために必要なものがあると知る。そのあたりに、「お願い」が喜んで受け入れられるポイントがあるような気がします。

なんにせよ、「応援してくれる人がいる」ってだけで、ものすごいことです。
お金を出してくれるかどうか関係なく、自分を応援してくれるということに感謝しよう思いました。

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