表現の自由という美名で、やりたい放題に「表現を暴力として使う人たち」が苦手です
最近の(2022年7月)朝日新聞の、安倍晋三元首相に対する川柳問題は「表現の不自由展」と同じような背景があるように思います。
私にはどちらの作品も理解出来ません。
風刺的表現物自体は、もちろんあって良いものですし問題無いのですが、そういうものには高度な教養とセンスと、大きな愛情が必要です。また、そうでないと「鋭い風刺表現」が出来ないと思います。
Twitterなどで、芸術家、音楽家、落語家、演劇関係の人など(その他いろいろ)が、政権批判したり、誰か個人を攻撃しているのを良く見かけますが、表現者としてのセンスを疑ってしまうぐらいに酷いものを目にする事があります・・・それ、ただ憎悪を吐き出してぶつけているだけじゃん・・・みたいなものがかなり多いように感じます。
SNSを使っている、使っていないは別として「そういうタイプの人たち」のなかの先鋭化した人たちは、ありえない程酷い「作品」なるものを制作しますね・・・それは最早「表現という暴力」と言える程のものです。
「表現を暴力として使う人達」は「自分が嫌いと思った対象には何をしても良い」という歪んだ人格と奇妙な特権意識があるとしか思えない・・・それでいて、彼らは平和や多様性や自由を訴えているのだと主張する・・・酷く矛盾しているのです。
自分は他人に、下劣なまでに罵詈雑言を浴びせ、名誉を毀損しようと何をしようと自由だけども、他人が自分を批判する自由は無いのだ、と・・・そういう態度ですよね、彼らは。支離滅裂です。
こういう人達は、芸術云々関係なく「下劣」「極度に自分勝手」というだけの話で、そういう精神の持ち主が自分のイメージを昇華させる事なく、ただ単純に憎悪を形にしただけの作品だから「ただ不快なもの」にしかなっていない・・・人間性はどうあれ作品だけは素晴らしいのなら良いのですが、こういうタイプの作品ではまずそれは無い。
そういうタイプのものは、そこにどんなに高尚な理屈をつけたとしても、作品として全然おもしろいものではありません。
例えば自分が不快に思っている人物の写真を焼いて踏みつける映像を芸術作品として公開したとしましょう。そういうものは「本当にイジメで暴力をふるい被害者が大怪我を負った実際の動画」のようなもので、全然面白くなく、ただ「イヤなものを見せられてしまった不快感」だけしか残らない・・・
「表現を暴力として使う人達」は「オレサマがムカついた」→「そいつを罵倒し、拷問し、殺害し、その名誉も全て汚す、関係者も全て根絶やしにしてやる・・・というのを実際にやったら犯罪者だが、表現だからアリ」といった感じの異様な情念を作品としていますが、その「表現の自由という名目への甘え」がなんといっても、気持ち悪い・・・
それと、その手の「政治的主張の強い下卑たもの系」の、いろいろな表現物は、明らかに特定の人や存在に、おぞましいほどの憎悪を向けた作品ですが「常に批判から逃げるための言い訳を用意してある」のが何とも「(自称)正義の芸術戦士」として情けない。
彼らは、社会からの批判が強かったり、名誉毀損で訴えられたりすると「そういうつもりは無かった」と逃げたり「意味不明な高尚ぶった理論を並べ立てて煙に巻く」のです。それも自作に対する覚悟が無いですよね。
「表現を暴力として使う人達」ほど「オレって本物だから批判が多いんだ」なんて思っている傾向があるし、そういう人たちを愛好するファンたちも、そういう人たちですね。
私には到底理解出来ません。
表現の自由というのは、罵倒、攻撃、中傷を「表現という美名で」好き勝手に行う事ではありません。
表現にも責任がついて回ります。
芸術だのなんだの言っても、特別な事なんてないのです。それは単なる人為であり、その結果生まれる人工物ですから。
それが他人へ何かしらの被害を与えてしまい、それを被害者が訴え、認められたなら、作者は責任を取らされるのは当然です。
そもそも「彼らは芸術家だから特別な自由人であり、自由な行いを許されているので何をやってもお咎め無し」なんて、そんな甘やかされた環境で制作された風刺物が面白いわけがありません。