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祈りの器としての和装

太古から、衣類の文様には魔除けやお守り、そして人を元気づける意味がありました。

昨今のコロナ禍で、それは再び手作りの和装において大切な要素になるのかも知れないな、と個人的に感じております。

「人を守るもの」「人の心を癒やすもの」「人の心を包むもの」「未来に光を感じさせるもの」・・・

そんな「祈り」のような要素を、安物のメルヘンや物語ではない、変な伝説ではない、権威と利権ではない、真の信仰とリンクするような波長を持つもの、そんなものを現代、作り手として提供出来たら・・・と改めて思います。

もちろん、それは縄文時代の土器のような直接的な、呪術的表現のものではありません・・・

かといって、妙に深刻なものではなく、昔の工芸品のような、非常に高度でありながら、どこかお気楽感がある感じのものです。

結局、私はいつも古典の波長に戻るわけですが・・・しかし、古代の美術品や工芸品(当時はその両者に分離はありませんでしたが)から受ける、非常に純粋で素朴な信仰・祈りの香りを現代人が再現し、現代人が味わうのは良い事ではないか・・・と思います。

「何か出来事があったら、立ち戻る場所」

それが古典であり、そのようなものを提供する事が、現代、わざわざ古典的な衣類である和装を手作りする根幹的意味なのかも知れません。

着る人にとっては

「着ること自体が祈りになるようなもの」

(それは人の心を開放し自由にするのです)

・・・そういうものです。

布というものに、抽象化された「祈り」が染込まれる、織り込まれる、縫われる。

そして

作る人の祈り、着る人の祈り、どちらの祈りも受け止める、柔らかな器としての和装

それが理想です。

モノは作っただけでは成立しません。

使ってくれる人がいて、喜んでくれる人がいて、初めて成立するのです。

だから作る人と、着る人の両方の「祈り」を受け止めるものでなければなりません。

元々、手作りの和装を愛好する人たちには、そういう「祈り」が無意識にあったのかも知れません。(和装に限らず、手作りの工芸品を愛する人々はそうなのかも知れません)

私は今回のコロナ禍で、現代、手作り品を作り上げる人たちにも、祈りが必要だと再確認したのです。

昔々の着物には・・・いや、工芸品や道具にはそのような「祈り」がありました。

だから、あれほど美しく、今も人々の心を打つ・・・

高度な伝統工芸品の未来は、素材の貴重性とか、スペックとか、ブランドとか、そういう事ばかりで値段を高く売ろうとする「業界人の都合」での価値観は無くなって行き、本当の意味で、人々の心を打つ「祈りの装置」としての伝統工芸が意識される時代になったらちょっと面白い、などと私は夢想したりもします。

繰り返しますが、その「祈り」は甘ったるい、ぬるい許し合いのようなものではありません。作り手にとっては、むしろ、その逆にあるものです。それは生命の根源に直結する抽象的な力です。

だから、使う人、着る人は癒やされ、力を得るのです。

作り手側は、そのようなものを作れた時にだけ、癒やされるのです。ただの繰り返しの作業からそれは産まれません。

それは、現代の作り手の人たちはもっと厳しくなるという事でもありますから、それを実現する職人技術自体は高まらなければなりません。

工芸品は、制作者の思いが深いとしても、職人技術が伴わなければ、ただのいやらしい不気味なモノに成り下がるからです。

あれほどいやらしいものはありません。

そのような場所から抜けたものが、人々に癒やしを与えるところへ行けるのです。


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