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描きたいものは無いけども絵を描く事は好きという人

は、意外に多いです。

もちろん、これは工芸系でも当てはまります・・・あ、というか、大人になって収入のために仕事をする場合は、全てに当てはまるか・・・と書いていて気づきました。出だしからイキナリかい!笑

何にしても、職業にする場合は、どの分野でも趣味と違って単に好きなだけでは通用しませんから「それほど好きでも無い事だけど、他の人には耐えられない事が耐えられる」とか「それほど好きでも無いけど、それほど苦労無く他人よりも出来てしまう事」を選択するのが良いですね。

世の中、自分の思う通りに出来ていませんから、特別やりたい事が無い場合・好きだけどもその資質と才能が無い場合は「自分にとっては楽だけども成果が得られる事・・・でもそれは特別好きでもない事」を、能動的に好きになってしまうしか無いですね。実際、自分の他人よりも優れた面は、それを好きになる事はそれほど難しい事ではありませんし・・・

そもそも「好き=資質と才能がある」とは限らないのですから。自分が好きになった異性が、自分を好きになってくれるとは限らないのと同じです。

そもそも「自分に向いている事」「自分が本当に好きな事」を掘り当てる事が、実は結構難しいのです。手間がかかります。自分の事だから良くわかっているのだ、なんて事はなく、むしろ自分の事だから分からない。自分を掘り下げて観察してみたら、自分が心底好きだと思っていた事が、実は他人からの無自覚な影響に過ぎなかった、なんて事は良くあります。

特に、資質と才能に恵まれた人が、その自己観察/確認をやっておかないと、後々後悔したり、精神的・肉体的に病んだりしますから(私はそういう人を沢山見てきました)自分の資質や才能と対決しておくのはそれなりの年齢に達したらやっておくべき事なのでしょう・・・

だいたい、他人から観ると「あいつ、アレが本当に好きだよなあ・・・」と思う事が、本人としては「え?別に好きでもないけど・・・」という事は良くあります。本当に好きな事は、意識しないでもその事をいつも考えているし、それに関係する事をいつもしているし、それに対して何よりも丁寧で、とても詳しい事に自覚が無いものです。まるで呼吸するようにそうしているので、当人は気づけ無いのですが、他人から観れば「あいつ、ほんっとアレが好きだよなぁ・・・」となるわけです。

だから、自分の事を知るには自分の実像にピントを合わせ、それを自己観察し把握する、そしてそれを元に何かを産み出し、自分の実像を他人という鏡に映しそれを観察する・・・そのサイクルを繰り返して自分の実像を具体的に把握し、それを活かした活動をしていく事が必要だと思います。

ただし「他人を鏡として使う」というのは、アドバイスを求めるというよりは、自分の何かを相手に示した時の反応を観る、という感じですね。初動の反応に本音が出ますので・・・あるいは、何かを産み出し、それに価格をつけて他人とやりとりが出来るかどうかを観ます。

本当に親身で、かつ的確なアドバイスをくれる人なんて、そうそういないからです。もちろん「的確な人」が身近にいるなら、その人の意見を伺っても良いわけですが・・・

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とりあえず、ここでは、いわゆる制作関係に絞って書きます。

何かを作っているのは好きだし、割と得意な方だけども・・・もっと言えば、手を動かしているのは好きだけども、深層では自分自身で新しい価値観を作り出すような創作をしたいわけではない、という人は多いです。

しかし本人は「オレは創作が好きだ、アートが分かる人間だ!」と思っていたりします。

何かモノをつくる行為には面倒な事が多いですが、人によってはその作業自体に麻薬的な快楽を見出します。こういう言い方をすると問題のようですが、それは悪い事ではなく、職人系の事を生業にしたいなら必要な資質でもあります。

そういうタイプの人は多いのです。そういう人は、手仕事の作業面に向いています。

ただし、そのキモチイイ行為のみを繰り返し行いたい、他の事は面倒だから可能な限り避けたい、手の仕事の快楽に閉じこもっていたい、となるのは問題です。

もちろん、そのように閉じこもる事が無ければ「技術の練度・技術の創作」という範囲で学習・訓練し、優れた仕事をすれば良いのですから、何の問題もありません。自分がその作業が好きで、収入も得られ、納得した生活を送っていれば良いのです。

「価値観の創作」(一般的に創作と思われている部分)をしなくても、加工技術的な面や、素材の見極め、その他にも創作性はありますので、それも創作です。そちらの方面に特化して優れた人もいて、そういう人は社会に具体的に貢献しますし、本人もその自分の資質と才能を理解していれば仕事に喜びがあります。

ただ、最近はそういう「手仕事の技術面に特化した方向だけ」では、なかなか勝負しにくい時代になって来ているとも言えます。

そこで、あまり深く考える事なく、創作面の学習や訓練なく、思いつきで自分の技術で何か作品をつくる、という方向に行くと、あまりうまく行かない事が多いようです。また、多くの人が、無責任にそういう「作品づくり」を推奨するのですが・・・。

そういう場合に、いわゆる「〇〇工芸会」などの美術団体に出品するのは「創作面を他者へ預けてしまうようなもの」なので、私は創作的活動とは考えていません。作者自身に創作的指針が無いから、そちらへ流れるわけです。

そういう団体に入選するには、それなりにその団体に合う作風を構築する必要がありますから、創作面に考えが無い人にとっては楽が出来ます。逆に社会に向けて直接創作性と技術で勝負出来るレベルにある人にとっては、むしろその「固定した価値観の枠」が邪魔になるわけです。だから、そういう団体の入選作は、何十年も前と殆ど変わらず古臭いですし、同じような作品ばかりが並ぶ事になっていますよね。

話が少しズレました。

例えば、キモノを作っている人が、キモノが売れないから困っていると言うと「それでは、その伝統技術を活かしたストールとか、小物とか作って売れば良い。着物よりも買いやすい価格帯だから売れる!」というアドバイスをして来る人は多いです。これは、金融関係の人も、どこかのコンサルタントの人も、一般社会の人々も、皆さん言います。

ところが、実際にはそんな簡単な話ではありません。殆どのそういう流れでのモノづくりは失敗します。「ストールやその他小物は、品質もデザインも良い適正価格のものが既に市場に溢れている」のです。そこに「ただ伝統技術だけが拠り所のセンスの悪いもの」しかも「モノの質の割に高価格なもの」を投入しても、勝てるわけが無い・・・普通に考えれば、当たり前の話です。リサーチもたいしてせず「その分野の審美的な部分の学習もしていない」のですから。

そういうビジネス面とは別の理由で・・・「職人」と呼ばれるよりも「作家」と呼ばれたいという野心?が出てくるのでしょうか、創作系の学習や訓練もなく「作品」を作り始める人もおります。

「職人技術自体の創作性」はあるけども「価値観系の創作性」の学習も訓練も無く、販売の一般常識も無い人が、えらく上から目線で「オレサマは伝統工芸技術者だ!」と「作品」を作り販売し、結果、迷子になる事は大変に多く、うまく行っても行かなくても人格が歪んでしまう事は多いものです。

工芸系で言えば、いわゆる「職人」も「作家」もそれぞれ、自分の資質や才能に合った商売のスタイルに過ぎませんからどちらが上という事は無いのですが・・・(上に書いたように技術のなかにも創作性はあるので)

これは年齢やキャリアは関係なく、若い人でもそこに陥る人はおります。

そうそう・・・少し話がズレますが、関係ある事なので書いておきます・・・工芸の世界で良くある「キャリアロンダリング」の事です。

例えば、美大を卒業して23歳ぐらいから、普通の友禅染めの工房で(どこかの問屋さんから図案が送られて来たものを加工するタイプの工房)5年修行した女性が、28歳ぐらいで結婚し、子供を授かり、子育てがある程度落ち着いた頃・・例えばその人が40歳の時に、また友禅染めをやり始め、作家を名乗って活動し始めたとします。

その人の現実的キャリアは見習い期間も含めた5年で、しかも長いブランクもあるのに、不思議とその人は、23歳から40歳までの17年間、ずっと現役で友禅関係の仕事をしていたかのような態度を取る・・・経歴もそのように書く・・・そういう人は多いです。

そういう人は、例えば美大を卒業した23歳から10年間、非常にクリエイティブで活動的で仕事量の多い友禅工房で修行し33歳で独立し、プロの作家になったような人に対して、自分よりも年下でキャリアが少ない後輩として接したりします。

実際には、前者はハイアマチュアに過ぎず、年下とはいえ後者は現役のプロ作家として活躍しているのですが、その年上のハイアマチュア作家さんは、プロの若い作家さんを未熟な後輩扱いしたがります。

そのような「キャリアロンダリング」は、アートや工芸の世界では良く行われます。

そのハイアマチュア作家さんは、ブランクの時期であっても染め物の事は気になっていたでしょうし、その間小物ぐらいは自分で制作していたかもしれませんし、キモノや帯も、年に数点はつくっていたのかも知れません・・・しかし実質的に戦場のような仕事場で10年修行してプロの作家活動している人とはまるで違うのです。

しかし、そういうキャリアロンダリングする人は「わたしは、友禅のキャリアは17年!だからキモノに詳しいし、センスも技術もあるのだ!」という態度なのです。

そんな感じで「創作的な物事って、それについて気にしているだけで身につくし、それはキャリアとして積み重なっている」とする人が多いのです・・・ものすごく多いですね。

・・・何事もそんな楽なわけないですよねえ・・・

(もちろん、若い頃やっていた何かの制作を、後にもう一度やる事の否定ではありません。そういうキャリアロンダリングして、若い人にマウントを取ろうとするのは恥ずかしい事ですよね、という事です)

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とにかく、審美的な面も、学習と訓練が必要です。有名な人の本を沢山読んだり、沢山の展示会を観に行って感心したり感動したりしても、殆ど自分の作品に直接関係するようなものは身につきません。耳年増・眼年増になるだけです。

自分自身の創作を発見し、出力出来るようになるには、かなり手間がかかります。簡単には行きません。

審美的な面の学習や訓練は「入力」と「出力」の両方が必要です。

重要なので繰り返しますが「両方必要」です。

ただ沢山のものを観たとか、買ったとか、業界に長年いた、ではダメなんですね。

しかし「入力」は楽で「出力」は大変なので、どうしても人は「入力」ばかりしてしまうわけです。

また、モノを作る仕事の場合は「語れる」だけでもダメです。「言った事が実際に出来ないとダメ」です。当たり前なのですが、多くの人たちはあまり重要に考えていないようです。

長年、興味を持っていろいろなものを観たり聴いたりしていると、それなりの意見は言えるようになるものです。もちろん、評論家として「評論という創作」を出来る程ではないから、それは中途半端な市井の評論家という、ありきたりな存在に過ぎませんが・・・

元々あるものを品評するのと「自分自身で全てを判断し、作品として完成品を制作し、それを社会に浸透させる」というのは「別次元の話」です。だから、その骨太な何かを得るには粘り強い長年の努力が必要だと私は考えます。

自分自身の創作を産み出すための訓練方法は、いろいろあります。

その創作や創作姿勢を尊敬し、人間的にも信用出来る師匠が身近にいるなら、師匠のいろいろを真似ながら、自分なりのものを構築して行くのが早いと言えますね。

当たり前なのですが、そこで重要なのは「師匠選び」です。

この「自分に向いた師匠」選びに失敗し、人生を棒に振る人は多いです。素晴らしい仕事をする師匠でも、Aさんには合ってもBさんにはまるで合わない、という事は当たり前に起こります。師匠が弟子を選ぶように、弟子も師匠を厳しく選ぶべきです。

しかし、自分が望むような師匠がいるとは限りませんし、いたとしても弟子入りさせてくれるとも限りませんし、師匠が提示する、いろいろな条件がクリア出来ず、弟子入りが出来ない事もありますし・・・現実は、なかなか厳しいです。

それと、師匠であろうと誰であろうと、他人のレールに合わせて自分の創作をするのが苦手な人もおりますから、そういう人は独自に学ぶしかありません。

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しかし、今は情報社会ですし、いろいろな選択肢がありますから、独学でも相当な事を学べます。

資格が必要なものの場合はキチンと資格を取る必要がありますが、そういうものでも自習はいくらでも出来ますし、何にしても、自分がやりたい事なら、どしどし自分で学習すれば良いのです。誰もそれを止めません。好きでやるのですから。誰かにやらされるのではないのですから。能動的にどんどん突き進めば良いのです。

もし、誰かから何か有効なアドバイスしてもらって、自分でそれをし始めたとして、それなりに結果は出るものの、やらされている感じがするなら、そこで結論が出ます。自分で能動的にそれを好きになるか、変にそこで粘らずに違う分野を探しましょう。

だから、どこかの工房に長年いた、というだけではダメなんですね。惰性で長年いて何か技術を身に着けても「言われた作業は出来る」ようになっていますが「自分の創作で勝負する」というレベルでは無いのです。

それと「入力」「出力」どちらも「行為に慣れない事」が大切です。精神的に慣れてしまうと、何十年やろうと進化はありませんし、発見もありません。

常に新鮮な気持ちで、いろいろな本の研究、いろいろな動画の視聴、いろいろなワークショップへの参加・・・そして、それを元に自分なりの作品をつくってみる・・・それら全てを、とにかく沢山体験する事で、自分の向き不向きが少しずつ観えて来ます。

だから、自らの時間とお金と体力を使っても惜しくない、かつ楽しい!他人から厳しいダメ出しされても、自分の成長に結びつくなら、むしろ快感!と思える分野を自ら特定するのが大切ですね。

まずは、これは第1段階。

いろいろやってみたけども、特に好きな事も、得意な事も無かった・・・となっても悪い事ではありません。それが分かっただけでも良い事です。そこが新しいスタートラインになるのですから。それなら他の分野へ行けば良いのです。

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次に、師匠につくにせよ、独自にやるにせよ、どちらにしても絶対に必要になって来るのは

【自分の性質を掴む事】

なんですね。

この上に書いた行為は「自分が実際に行う分野の特定」で、次は「自分の性質を把握する」事が必要です。

多くの人が【他人から無自覚に受けた影響の堆積物を自分の個性と思っている】事に気づいていません。

多くの人が、この確認作業を疎かにしています。どこかでキチンと修行をして技術を身に着けていたとしても迷路に迷い込んだり、どこかの団体に所属してそれなりの地位を得たとしても、結局、師匠と見分けがつかないような作品を作り続ける人たちはその確認作業をしてないからそうなるのです。

人は、意図して自己確認しない限り、自分の特性を把握なんて出来ません。自分が譲れない物事も、分かっていません。

だいたいは、自分が譲れない物事、大事にしているもの、影響を受けたもの、と思っているものは、例えば、学校の先輩からのオススメをそのまま受け入れてしまったものだったり、会社の先輩から教えられた事をそのまま受け入れてしまい、それらが堆積して、自分の個性や嗜好だと思いこんでしまっているのです。「本当の本当に自分が欲しいもの」を把握していないのです。

だから、それらを検証する必要があります。

ちなみに自分の性質を掴んでいない人が、何かしら自分の意見を文章に書くと、引用ばかりになって、それらを編集しているだけの文章になります。もちろん、作品もそういうものになります。

* * * * * * 

自分の性質を知るには、いろいろな方法がありますが、そのなかのひとつを紹介します。

例えば、ピンタレストなどに、自分が好みだと思う画像、気になる画像を、考えずに感じるままに、どんどん集めて行くのです。考えるな、感じろで、とにかく自分が「つい反応してしまう画像」を集めます。

最低500枚ぐらい、1000枚以上あっても良いです。

それぐらいになると

「へえ、自分って、こういう方向性のものに反応しちゃうんだな・・・」

という事が分かります。

ここで、大切なのは「それについて批評をしない事」です。ここで大切なのは「自分の特性を知る事」ですから。そこに良し悪しはありません。単純に「それは何なのかを知るための行為」です。

量が集まったら、その画像を特性や分野ごとに分類しておきます。

2〜3ヶ月ぐらいそうすると「あれ、オレってこういう傾向があるんだなあ・・・」という事がかなり具体的に分かります。

良い事も悪い事も・・・

ここでの注意点は「SNS上でつくった写真アルバム自体を作品化しない事」です。

以前、私はこの方法をハイアマチュアの工芸作家さんにオススメした事があるのですが、その人はSNS上に集めた自分のアルバムに付く「いいね!」が嬉しくなり、そのアルバムでのウケが良いように、そのアルバムを作るようになってしまいました。そうなると本来の意味合いから外れ、結局その自分を知るための写真集めは「SNSでウケの良い写真を狙って集めた作品」のようなものになってしまったのです。

当然、その人は自分の特性を掴む事は出来ず、作品に活かす事も出来ませんでした。

そのような場に陥らないように気をつける必要があります。

それはともかく、そこで自分の「思考的手癖や、慣習化した反応をする感性」を知ります。

それから、それを検証します。

これは、誰かからの影響かな、とか、これは子供の頃から気になっていたもので、今も気になっているんだなあ、とか。

そこから「本当に好きな画像だけを抽出する」と、自分の嗜好が、絞れます。

そうやって行くと少なくとも「自分の性質の一部分」は具体的に分かります。

ここで説明しているのは「画像」ですが、これを、音楽でも、映像でも、文章でも、いろいろな分野でやってみるのです。もちろん、とりあえず画像だけでも良いです。

これは一見面倒ですが、毎日の生活に組み込んでしまえばそれほど面倒な事でもありません。朝、起きて顔を洗うのと同じようにしてしまえば良いのです。

もし、そこで面倒だなあ、とか、強く意識しないと出来ない、続けられないというのであれば違う方法を考えましょう。上記は、あくまでも一例ですので・・・

そのような事をいろいろ試しても、結局長続きしないで放り出し、その残骸が溜まるだけの場合は「そもそも創作自体に興味が無い」という事が判明した事になります。それはそれで良いのです。そんな事でその人の人生が不幸になる事はありませんので。

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次に行う事は

【自分の性質が納得する何かを作る事】

です。

何かしら、作品を作るのです。

それは何でも良いです。写真でも、文章でも、絵でも、工芸でも音楽でも、何でも良いのです。自分がやりたい事をやります。(上で画像を集めて・・・という方法を書いているので、ここでは画像に出来る系の作品を前提に話を進めます)

単純に、その時に出来るレベルの、自分のオリジナル作品を制作します。重要なのは、ここでは完成度を求めない事です。ここでも「自分の特性を知る」事が目的だからです。

ここから、かなり大変になります。

トライ・アンド・エラーの連続ですし、自分が苦労して作ったものを他人に否定されたりもしますし、自分自身でも何がなんだか分からなくなったりもします。

そこで頼りになるのが「自分で集めた画像たち」なのです。

自分が制作した作品を写真に撮り、その画像集と並べて観察する事で、自分の現状がかなり分かります。

その自分のチョイスしたいろいろなものたちと、自分のその作品の波長は合うのか?響き合うのか?反発し合うのか?レベルは自分が上か、下か、同じぐらいか・・・など、検証するポイントはいくらでもあります。

そういう事をしていると、

自分は、こういう方向に向いているのか、全体を観察するとそれで良さそうだ、とりあえず、そのまま進んでみよう・・・あるいは、ああ、今回つくった作品は自分にピッタリ来るものでは無いようだ、違う方向を模索してみよう・・・その他その他、いろいろな事が「具体的に」分かって来ます。自分自身の作品も、自分が集めた画像にしたように突き放して「観察する」のです。

繰り返しますが、重要なのは「観察は綿密に行うけども作品の良し悪しの判断はしない事」です。自分の好みや理想と、自分が現状作れるものとの乖離や、親和性や、波長・・・その他を観察するためにしている事だからです。

そういう事を繰り返すと、ある程度自分の「出力に関する特性」も観えて来ます。

ある程度、自分の作品が溜まったら、それをSNSなどで公開して世の中の反応を観ても良いです。

そこで把握出来た事を元に、自分が行くべきだと思う方向へ進みます。

そこまでした上で、自分が納得した作品であるなら、それがその時点で社会に受け入れられなくでも、迷わないものです。なぜなら、現状、自分はそのようにしか出来ないという事を確認済なのだから。

そこで、気になる他人の作品や作者も具体的になって来ます。そうなったら、その人を徹底的に調べ上げるのも良いでしょう。そういう人のマネをしてみるのも、大変勉強になります。

その人が、自分と似た性質だから惹かれる場合もありますし、全く違うからこそ惹かれる場合もあります。

もちろんマネをしていたら影響を強く受けてしまって、抜け出せないという場合もありますし、場合によっては元々の感性が似ていて、どうしてもその人の作風と似てしまう、という場合もあります。「似ている」というのも、そのようにいろいろな種類があるのです。そのような精度で自分自身を把握する必要があります。

元々その惹かれる人と創作的な感性が似ている場合は、自分を磨き出す事によって「似ているけども、違う」というところに行き着けます。それは試行錯誤の連続と作品の数で乗り越えるしかありません。

また、偉大な人の影響を受けるのは仕方がないところもあります。例えば、マティスもピカソも、セザンヌの影響を色濃く受けていて、それが明らかな作品を沢山残しています。それについてマティスは「ええ、セザンヌはみんなものですから」と語ったとか・・・うまい事を言いますね。

人は、自分自身が慣れた思考や感覚で習慣づいてしまっているので、一人でうんうん考えても結局いつもと同じようなところに陥ってしまうものです。だから、自分のいろいろな部分を具体的に形にし、一度それを外部に出力し、並べ、観察し、把握して行くのです。

しかし、一人でそれを行っていると、やはり堂々巡りに陥るので、時に他人の眼と感性が必要になります。ただし、友達はだいたい役に立ちません。お世辞を言うからです。だから、時にSNS上に自作を公開し、その反応を観察するわけです。

これももちろん、他人からのウケの良いものの編集だけではダメで「自分が自然に創作出来、かつ社会とも交流出来るもの」に集約し、鍛え上げて行く必要があります。

他人からのウケが良いものばかり追うと、制作に飽きてきますし、指針が「他人からのウケ」だけだと他人から批判された時や、自分が創作的に迷子になった時に、進路が分からなくなります。

* * * * * * 

長々と書きましたが、上記の方法をまとめますと、

1)とりあえず、自分の好みを知るために気になる画像を集めまくる。(その画像自体に良し悪しの判断は入れてはいけない)

2)その画像集の傾向を観察し、分類する。そこでいろいろな事が観えて来る

(ただし、その画像集自体に満足したり、楽しまないようにする。あくまでもそれらは分析対象として突き放した感じの態度でいる事)

3)それらを参照にし、自分の作品をつくってみる

4)出来上がった作品を、集めた画像集と並べてみる。SNSなどに、自分の作品を公開してみる

そこで、いろいろな事を観察し、次作のデータとする

5)(2)〜(4)を繰り返し、練り上げて行く

という感じです。

そこで、特に創作的な熱が沸き起こらないのであれば、違う方法を模索します。

上記は「あくまで一例」ですから、いろいろな方法、自分に合った方法を見つければ良いのです。

そして、いろいろやってみたけども、自分の価値観の創作に関する熱が盛り上がらなかった、そういう行動を面倒に感じるという事であれば「価値観の創作面は自分を駆り立てない事が分かった」わけですから、他の何かをやれば良いわけです。

例えば素材と関わる事、何かの加工をしている事自体が、自分の「技術面の創作熱を沸かせる」のであれば、技術自体の創作をすれば良いわけです。

とにかく「いろいろな刺激を自分に与え、自分がどのように反応するかを観察し、それを元に作品を制作する」その繰り返しが、自分に向いた何かを発見するための具体的な行動になります。

それを繰り返して行くと、創作物を観た時の深度、範囲、精度、具体性が高まって行きます。それは創作者の持つ独特な観察力と理解力です。

それは、ただ本を読んだり、誰かの作品を観るという受け身の行動だけでは得られないもっと強いものを受け取れるようになるという事です。

ようするに「創作の当事者性」をしっかり得られると、自作と、他人の作品と、両方の観察精度が上がる=いろいろな作品の違いがより鮮明に分かるようになる という事です。

繰り返しますが「これは一例に過ぎない」ので、あらゆるアプローチをすると良いです。自分を成長させるための努力の方法も、創作出来るように構築する事が大切だと思います。

どうも、タイトルと微妙にズレたところに着地した気もしますが、このままにしておきます。笑


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