見出し画像

一年、あっという間に過ぎますねー

なんだか、新年なのに、あっという間に今年も終わりそうで、トシを取る毎に時間が加速するのではないかと感じます。(良く言われていることですが)

新年になり、去年を振り返ると「こんなに作ったのか。。。」というぐらいに制作しましたし、極一部の人以外、誰も読まない文章もこうやって仕事の合間にSNSや、noteにつらつら書き連ねているわけですが(笑)自分が去年制作したものを年始の今、振り返って「バカじゃねーの?」というぐらいの量になっているのは、やっぱり生活のためにやっているからだなあとを確認します。(私の文章自体は直接収入になりませんが)

私がいろいろ書く内容は、自分の制作の解説、考え、創作姿勢と、その周辺に関することが多いです。

それは、まず、私自身が、学歴、修行歴、所属、受賞歴が全然無いからということと、私自身の創作姿勢が、あまり一般的ではないらしく、解説が必要だから書いている、ということです。

ようするに、私の文章は直接お金になりませんし、一部の人以外に望まれていませんが、しかし、これも生活のためですね。私の創作姿勢や作品を解説してくれる方は少ないし、なかなかこちらの意図が伝わりにくいので、自分で自分と自作を解説するしかない、という単純な理由です。

「作品が良ければ黙っていても理解され、受け入れてくれる」

なんてことはありません。

まして権威や人々の興味と違う場所に生息しているなら、黙っていては絶対に誰にも発見されません。まして受け入れてもらえません。

「自分の言葉で自分自身を、自作を語らないのは単に手抜き」だと思います。

「言葉じゃねえ」と言ってふんぞり返って、それでもやっていけた時代は過去にありましたが、それは幸福な時代だったのです。今は違います。

私が普段している、自分に出来ることは全てやり、それで社会とつながり、どうにか自作を購入していただき、それで生活をする。

それは普通一般の商売では、誰でもやっていることを私もやっているに過ぎません。

だから、私はそうしているだけです。

ただ、私の仕事ような手でつくる、手のかかるタイプのものは、卸販売の場合は大量に制作しないと生活出来ないので、作品量は多くなり、副産物的に、書く文章が多くなったり、その他の制作も多くなります。私のような「何か作っていないと死ぬ病」罹患者は、制作の疲れは制作で癒やすしかないからです。

それと、普段書くのは、仕事中に思いついたことや、何かしらの刺激で、もやもやしたものが自分の内部に発生すると、それを形にして保存しておくためなのですが、それは、私自身にさしたる資質と才能が無いので、常にそういうピントを合わせながら生活をする必要からです。

言葉は当のものではない、というのは絶対の真理ですが、しかし人は基本的には言葉を使って思考し、言葉で解説をし、言葉の間に浮かび上がるものを共有することによってコミュニケーションをしますから、私にとって言葉での確認作業はとても大切です。

私は「最近、ちょっと調子が悪くて作品が出来なくてねー」なんて呑気なことを言える身分ではないのです。常に大量に制作し、それを全て売りつくしてやっと生活出来るかどうか、という生活ですから。

私のような「スポンサーなどはなく、固定の取引先もなく、世襲資産もなく、制作品を販売することだけで生活をする」ということは、生活そのものが創作そのもの、というシステムにして行く必要があるのです。

そんなタイトな日常ですが、私は一年たりとも過去に戻りたいと思ったことはありません。今が最高です。常に「今」が一番楽しいのです。毎日新しい発見があり、それが嬉しいそんな生活です。

ある意味、未来に夢も希望も無い私の生活なのですが、しかし制作して生きるという生活は、私にとって何ものにも代えがたいことですので、どうにかこうにかしぶとく、極力死ぬまで現役で、かつ世間に迷惑をかけないで一生を終えたいものです、と思ったりする年始なのでした。

写真は、仕事場のベランダから見える夕焼けの富士山です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?