人は認めたいものを認めるのであります
今回は、グチっぽい話題です。いや、いつもグチっぽいですけど(笑)
題名のような事例は社会人をしばらくやっていれば普通に経験する事ですが、私も散々経験しました。
例えば・・・
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私が35歳ぐらいの時でしょうか・・・ある日、知り合いの作家さんの個展のイベントで、私も混じえた対談をしたいという事で、出かけて行き、なんだか進行役の人が今ひとつ進行出来ない人だったので、進行役も兼ねて、私が普段話している自分の考えを混じえて、その作家さんの良さを紹介しました。
それは大変、喜ばれました。
そうしたら、その個展を企画した評論家の人が、私の考えに痛く感心したとかで
「その考えは、本当に素晴らしい!文化の過去と未来をつなげても分断も矛盾も起こらない・・・いったいどこの先生の考えなのか?私はそんな思想、今まで知らなかったが・・・」
とおっしゃるので、私が
「え?いや、自分の考えを言っただけですよ」
と答えたら
「え、あ、そうなの?なんだぁ・・・」
と一瞬で興味を失い、どこかに行ってしまいました。
「え〜?今、あなた感心してましたよね?」と思ったのですが「またか」と思いました。
自分が感心した考えを持つどこかのエライ先生がいたら、その人にお近づきになってその先生を利用したいとか、わたくしは〇〇先生のお考えを現代的に総合し・・と使いたいと思っていたのかも知れません。
そうしたら、どこの馬の骨とも分からない、学歴も修行歴も受賞歴も所属もない無名のあんちゃんの考えだったというオチだったので、使えねえ、という事で興味を失ったのでしょうね。
それと、その人はその人なりの自分の考えに対する自負があるでしょうから、オレサマとした事が、こんな野良の言う事に感心しちまったのか、全く恥ずかしい、無かった事にしよう・・・となったのでしょう。これは結構多いですね。
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こんな事もありました。
どこかのギャラリーの代表さんとお話をしていて、自分の作品画像を見せ、説明し、自分の考えを述べると
「作品と考えがこれほど一致している人は観た事がないし、これほど自作をキチンと説明出来る人に出会った事がない。作品も力強い・・・あなたの個展をやりたいと思います。ところであなたは、誰の元で修行したの?」
と聞かれるので
「はい、修行は特に無いですね・・・技術は独学ですし、考え方も誰かの考えに則ったものではなく、自分の観察によるものです」
と答えると
「ああ、なんだ、独学なんだ。これはキミ自身の考えなんだね・・・」
と興味を失ってしまって、そのギャラリーでの展示も有耶無耶になってしまいました。
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どこかの美術館のキュレーターの方と、作家たちと、バーで話していた時
私が創作の話をしているとキュレーターの方が
「それさ、確かにその通りだし、理論だけではなくて、実用的な考えではあるけども、それはあなた自身の考えでしょ?私はあなたと違って、ちゃんと美学を学んでいるから、そういう考えではないから」
とおっしゃる。
「え?オレの考えじゃイカンの?あなたも、自分の考えを言えばいいじゃん。あなたは、あなたの考えは無くて、どこかのエライ人が言った事をただ覚えて言ってるだけなの?そんなの、本を読めばいいだけで、あなたの存在は必要ないじゃん」
と思ったのですが・・・
「貶し言葉が、なぜか褒め言葉になっている」のが面白いですね。
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こんな事もありました。
ある有名な工芸家の人と話していたら、
「ボクは日本文化の根幹なんて、考えた事はないよ・・・あなたの言う通りに考えると、確かに日本の伝統に矛盾なく一本筋が通るね・・・なるほどねえ・・・すごく納得した」
と、お世辞ではなく、本気で感心して言っていたけども、それが、私自身の考え方であって、どこかのエライ人の考えを踏襲しているのではない事、私自身に商売や権威に有効な人脈が無い事を知ると「なんだ、あなた個人の考えだったのか・・・」と興味を失われてしまいました。
やっぱりお墨付きや権威って大切だよなあ、と噛み締めましたね。
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こんな事もあります
ある日、取材を受けて作品を見せて話をすると
「いやあ、いろいろな人の取材をしましたが、あなたの作品も考え方も、本当に現代的で、今までの工芸作家さんたちの、言っている事とやっている事が微妙に違うと感じていた私の疑問を解いてくれるものでした。是非、あなたの事をしっかり記事にしたいです!あなたのような人を探していました!」
とおっしゃって下さる。
もちろん、私は嬉しい(笑)
その後、いつまでも記事にならないので、ああ、いつものようにあの話は流れたかな・・・と思っていたら、そのライターさんから電話が来て
「すみません、上の判断で、あれは発表出来ないと・・・他のいつも掲載している作家さんたちと、あなたと考えがぶつかってしまって、本としてまとまらなくなってしまうんです・・・ごめんなさい・・・」
これは、割と良く起こる事です。
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これは少し違うものですが、
私は、複数の工芸作家になりたい人たちを、自営業者として必要な事から創作の事、実際的な技術までアドバイスし、何年もかけて直接・間接に教えて来ました。
それこそ、伝票の書き方から、借金の仕方まで教え、お取引先も紹介したり・・・それは数年に渡り、その間は、こちらは無償どころか、持ち出しです。相手は私の弟子というわけではありませんが、実質的には外弟子みたいなものですね。
が、そういう人達が数年して、そこそこ名前が出るようになると、有名作家の〇〇先生が師匠です、と名乗るんですね。
その師匠という人とは、ただその人の教室に通っただけとか、数ヶ月だけインターンとして所属していただけとかで、何も教わってないに等しい関係しか無いのに。
私のようなどこの馬の骨とも分からない人間から習ったと言ったら、その教わった事自体の信用が無いものですが、有名な先生から習った内容はそれ自体に信用があります。それは、有名大学出身、という効果と似ています。
有名な先生から=ありがたき教え
私から=胡散臭い教え
という扱いになるのは仕方がないのです。
だから、有名な人の名前を使うのは当然です。
結局、そういうのは、私自身に信用が無いから起こる事であって、その信用とはやはり「社会からの認定」なんですね。それが私には全く無い。
内弟子からは「外弟子にエネルギーを使って分散した上に、さらにそれをないがしろにされるのなら内弟子にその分投資せよ」と言われて、確かにその通りだなあ、と思って今は、あまり他人には進んで教えていません。
まあ、そんなこんなで、
「人は、自分が感心しようが、事実として恩恵を受けていようが、認めたくないものは認めない」
ということ・・・
【人は、認めたいものを認めるのであって、事実は関係ない】
という事なんだなあ、と理解が深まったものです。
【人は信じたいものを信じる。事実は関係ない】のと同じ事ですね。
が!
どんなに失敗ばかりしようと、他人に迷惑をかけようと、テキトーであっても、不思議と他人から愛される人徳のある人もおります。
そういう人がうらやましいですね。
また「結局、オマエの実力が無いからそうなるんだ、本当の実力があるヤツはちゃんと社会に認められる」と言われる事もあります。
まあ、そういう部分もあるかと思います。
しかし
「酷く貶されたり拒否されているのに、なぜかその言葉は褒め言葉になっている」という事があるのは事実です。
何にせよ私の唯一社会から(それもごく一部)評価されている部分・・・創作的な魅力が無くなれば私は即座に世の中から排除されます。
「だからこそ、純粋に制作の力だけで生きている」と言えるのでこれはこれでヨシとしております。
今生では、仕方がありません、来世に「人徳」が標準装備されるように願います。
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