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職人技術だけでなく、創作的な部分も訓練しないと良い工芸品は出来ません

いろいろな和装の加工職人系の人が、創作的な方面へも乗り出して、いろいろ制作し、作品を発表することがありますが、それは多いに結構な事だと思います。

個人やメーカーのいろいろな試行錯誤やチャレンジが新しい何かを産み出すキッカケになり、業界に良い影響を与えるからです。

が・・・正直に言えば、ちょっと展示会の声がかかるようになっただけで、まるで大物芸術家気取りになってしまう加工職人さんには、ちょっと引きます・・・

創作の実績が特に無いのに急にアーティストやデザイナーを名乗りだし、変にオカルトめいたことを言い出したり・・・自分は神の信託を受けた存在であるといった態度で、他人を上から説教したりするようになったり・・・

とにかく「凄く偉そうになる」人がいます。大物ぶります。滑稽なぐらいに。しかも、それは割と良くある事なのです。(もちろん、そうでない人もいます!)

そのような人たちの作品は「技術ドヤで、センスは酷くダサい」のですが・・・。当たり前ですよね。創作的なことをちゃんと修練していないのですから。しかし、そのような作者さんはそれに全然気づいてない感じです。

(一級品、特に極上品は、技術と表現が完全に一体になって分離がないので、超絶高度な技術が当たり前に観えてしまうようになります。技術だけ浮いて観えるようでは一級品ではありません)

なので、そういう人たちは、もう少し創作について学ぶ必要があるのではないかな、と私は正直に思います。

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いつも書いている通り、私は手仕事系の仕事において「いわゆる作家と、いわゆる職人は、ものづくりにおいての営業スタイルが違うだけ」と思っているのでどちらが上位などとは全く思っていません。

しかし、創作性の種類が違い、出力方法と営業方法が違う、ということです。

どちらも、それぞれの仕事での創作性は必要なのです。創作性というのはあらゆる面においてあらゆるパターンで必要です。

そもそも、何かモノを作るには、創作的な部分と技術は、切り離せないのです。

何かをつくるには、そのどちらも「同時に必要」です。

手作りの工芸品の制作においては、いろいろな職人さんによる分業になる場合もあるし(職人的)ほぼ一人で完結する場合もあります(作家的)。両方併用する場合もあります。どれも正解です。

それは作るものによって違いますし、一人の作家が、仕事の内容によって両方のアプローチを使い分ける事も普通にあります。

加工の専門職人さんが作品をつくる際には、自分が持つ技術を元にして発想するでしょうし、作家であるなら、自分のイメージが欲しがるものを起点に組み立てるでしょう。一人の人のなかでも、仕事の種類によってその比重が移り変ります。逆に固定してしまってはいけません。

だから職人と作家とでは「技術と創作的な面の起点や比重が違う」というように私は把握しています。

アマチュアの場合は、その辺りの把握が曖昧なままでも、あまり問題は起こりません。

プロであっても自分の得意とすることで「こんなの作ってみました」と、地方自治体の助成金の消費のために制作する程度であれば、曖昧なままでも問題はほぼ起こりません。

しかし、もっと高度なものを産み出そうとするなら、制作進行上に起こる、創作性と技術のせめぎ合いの問題や、創作性と技術の分離、技術のことでも分野の細分化という「制作進行の際に起こるいろいろな問題」を具体的に把握し、考える必要が出てくるのです。

高度なプロの仕事になると、仕事の深度が段違いに深まるため、それぞれの分野がさらに細分化せざるを得なくなり専門性が高くなります。これは医療や工業でも同じですね。

なんとなく作っている時には問題にならなかった問題が、高度になることによって問題になるのです。

高度なプロの世界では何かを産み出す際に必要な工程全てを、一人で同じ高度でやりとげることは、ほぼ不可能になるので分業化するわけです。

技術と表現は分離出来ないのですが、しかし制作進行上は分離せざるを得ない場面が出てくるのです。これは、非常に重要なことで、ここを把握しておかないと良いものをコンスタントに作ることは出来ません。

そのような「高度化による細分化・専門化・進化・深化」に対応するために「専門職人」が必要になるわけです。

また、より新しく深い創作を追求するために、創作系に力を振った専門家も必要なわけです。

それは車の両輪のように、どちらが欠けても成り立たないのですが、構造上は分離してしまう事があるのです。

どちらも、自分の立ち位置で完結する作品をつくる場合があり、それぞれ単独で作品を作る場合は、それぞれの立ち位置や起点から作品をつくります。

どちらのアプローチで作品を制作するにしても、創作性や技術に対する敬意がなければいけないと私は思います。

その両方を高度に持っていて、高度な作品を実現する個人もいますが、それは非常に数が少ないので、ここでは話題にしません。

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専門職人の高度な技術はその技術自体に創作性や美を感じるぐらいに優れたものです。それだけの技術の研究と学習と努力があって、その事実があるわけです。

また、技術的にもキチンとした作家は(個人的には技術の無い自称作家のものは論外)優れた専門職人ほどの精緻な技術はありませんが、自分の創作を形にするには充分な技術を持ちます。そして創作的な面で、より優れているところがあります。それは、それだけの創作の研究と学習と努力があったからです。

ようするに、職人的な技術も、創作的なことも、どちらも長年の研究と努力、そして資質と才能が必要なのです。

創作的なことも、自然に出来るようになるのではなく、長年の厳しい修練が必要です。専門職人の高度な技術を身につけるのと同じレベルの修練が必要なのです。(天才は別。しかし天才でもプロになるにはある程度の訓練が必要)

なのに、加工職人さんで一部の勘違いした人たちは、創作を当事者として訓練し、学んだわけでなく、ただ仕事上いろいろなものを観たことがある、その加工をした事があるというだけで、自分は創作的な良し悪しがわかるし、自分は創作的なことにも能力があり、素晴らしい作品を作ることが出来る、という態度だったりするのです。

で、実際、そういう人たちのものは典型的な日本の職人さんの作品で「技術は巧いけど酷くダサい」ものになっています。それは「創作」ということで言えば「作業であって創作ではない」からです。

例えば、地色を染める加工職人さんで、注文で何十年も沢山の文様を見たからと、オレは文様の良し悪しや力のあるヤツの仕事が分かる、と言う人がいたとします。しかし実際にはそんなに簡単な話ではありません。

いろいろなものを沢山眺めていたとしても、文様の本質的な良し悪しが分かるようにはなりません。まして自分自身が良い図案を描けるようになったり、素晴らしい文様を自ら描き出したり、素晴らしい配色が出来たり、ため息が出るようなニュアンスを出せるようにならないのは当然の話ですが、そういう人は、自分がスゴイものを作れると思ってしまい勝ちです。

もちろんそういう人がつくった作品は酷いものにしかなりませんが、ご本人自身が分かっていないのですから、それはスゴイ作品だと思っているのです。

・・・ようするに「門前の小僧」では創作的に良い作品はつくれないのです。

門前の小僧がいろいろなお坊さんのお経を毎日聴いていて、お経を口マネして唱えられるようになったとしても「その内容は分からない」ので仏教の教えは分かっていません。

だから、人々の心に響く説法は出来ないし、人々の相談にのって的確なアドバイスをしたり、悩める人を導いたりは出来ません。

ようするに、ちゃんと修行し、勉強したお坊さんとは全然違うわけです。

どのお坊さんのお経は上手いな、という程度の感想は言うことが出来ます。

「自分の好みを言うことは出来る」わけです。それは誰でも出来ます。

しかし、それは「分かっている」のではないし「出来る」のでもないのです。

しかし勘違いしてしまうのですね。

学習が足りず「分かっていないから勘違いしてしまう」のです。

物事を深く理解し、自分化して自由に使えるようになるには、キチンと意思と意図を持って体系的に学び、長年の反復練習で身体と精神に刻み込む事が必要です。

門前の小僧はそれをしていないのですから、出来ないのは当たり前の話です。

そんなわけで・・・・眺めていた経験が長いだけで、モノの良し悪しが分かるようになるとか、まして、個性的で世間に通用するレベルの創作を自力ですることは出来ません。さらにそれを長年売り続けるということは出来ません。そんな甘いものではないのです。

もう少し例を・・・

例えば、見た目がほぼ同じような二つの作品があったとして、

A)片方の作品は技術的には少し甘いところがあるけども、300万円の値段で創作的評価が高い

B)もう片方の作品はAよりも技術は精緻だけども、30万円の値段で、それは職人的技術料であって創作的な評価は付いていない

という違いなどは、創作的な訓練を積んだ人や審美眼を鍛えた人、あるいは元々美的な資質や才能が大きな人でないと「どうしてこっちの仕事の方が技術が上手いのに安いんだ!」という感想しか持てないのです。

逆に、いわゆる作家系の人で、高度な専門職人のような仕事だって自分は簡単に出来る、と調子に乗ったことを言う人もいます。

また「自分はあえて技術は追わないんだよね。僕は自由に楽しくやりたいんだ。職人みたいに仕上げちゃったら、作家じゃなくて職人になっちゃうからさ。やろうと思えば職人みたいに出来るけどね」なんてバカなことを言う自称作家さんもいます。本当は出来るんだけど、なんて笑わせるな、と思います。

そういう作家さんを観ると、専門職人の人たちは「あのバカ、何チョーシこいてるんだよ?」と苦笑してしまうと思います。

そういうことなのです。

もちろん「特別優れた個体」なら、別の話ですけどね。彼らは別の次元に生きていますから。

しかし、困ったことに、上で話題にしたことよりももっと酷い「まるで基礎も創作性も無い自称作家さん」を、専門店や、有名デパートが取り扱うようになってしまいました。

そうなると、もうその分野の終わりが始まっている感じです。

お客さまが、そのようなものを好む場合はありますが、専門家がそれを許すどころか、良し悪しが分からないということになると危険水域に来ています。

何かしらの分野の文化レベルは、その業界人の審美眼や良心とプライドによって維持されますが「そもそもその審美眼と良心が無い」となれば、終わるのは当然です。

それは、その分野の文化的寿命が来た、ということなのだと思います。

無理に延命しても、文化と関係無いタイプの権威がはびこり、腐敗しますから、終わりが来たなら終わらせた方が良いのかも知れません。


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