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山あいの海

普段はそんなことをしない夫が、つなごうとした手を強く振り払った。
ああ、ここは彼の故郷なんだな。
その時胸の真ん中を強く殴られたような気がした。
 
ある秋の日、夫と二人、北関東の山あいにある義実家へ帰省した。
2泊くらいしたかと思う。大型台風の影響で連日雨ばかり、観光になど出掛けられる訳もなく、居間の大型テレビに映し出される各地の被害の様子を眺めているしかなかった。
 
2泊目の夕方、遂に雨があがり、日の傾きかけた空は水色とオレンジ色に染まった。
夕ご飯まで二人で散歩でもしてきたら、というお義母さんのすすめもあり、私たちは湿り気を帯びた空気の中へ出て行った。
 
人気無い集落の一本道。草木には雨粒のあとが光り、畑は大地の色に染まり、雲は穏やかに綿をのばしたようだった。寂しいような嬉しいような、何とも言えない空気におされ、傍らにいた夫の手を取ろうとした。
しかし、夫は「やめて!」と言って強く振り払ったのだった。
 
普段東京では、うだるような暑さの日でもない限り、なんとなく手を繋いで歩いたりしている。彼のほうから手を取ってくることもある。だからちょっとびっくりした。
ただその衝撃のせいで、自分もまた「東京もん」に擬態した田舎者にすぎないことを思い出していた。
 
振り払ったのは、夫自身ではなく、彼の中に静かに横たわる故郷の力。

人気が無いと思っていた道も、軽乗用車が確かめるようにゆっくりとしたスピードで脇を通り抜けていく。むぎわらをかぶり鎌を片手にしたおばあちゃんがどこからともなく現れる。
もしかしたら、知っている顔。
東京のように「知らない人」の波は打ち寄せない。
ここにあるのは、うまれた時の素っぱだかの、拳の痛みの、いじめられた涙の、頬の赤さの、壁の穴の、すべてが含まれた苦い海だ。
「あれえ、●●さんちの●ちゃんじゃない?」などと声がかかる、「●●さんちの●ちゃんが女の人と手つないで歩いてたよ」と噂される、山あいの深い深い海なのだ。
そしてその海は、山国育ちの私の故郷にもつながっている。
 
来春、故郷を遠く離れる。

離れた先で、夫はまた手を振り払うことがあるだろうか。

私にとって故郷ってなんだろう。
いずれ別の稿で考えてみたいと思っている。    

🍩食べたい‼️