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僕にとっての音楽と、これから

今まで個人的な範囲で音楽と向き合ってきました。
音楽と暮らしを維持することのバランス、周りからどう思われるか、いろんな葛藤があり純粋に音楽を楽しめない瞬間がよくありました。

そして僕は自分の作品を正式な形で周囲と共有することにあまり価値を見出せなかった。自分の音楽を聴きたい人がいると考えることができなかった。受け入れてもらえる勇気がなく、寂しさと葛藤の時間が続きました。
地元でもミュージシャンとして認識されることはなく、いつも手伝いスタッフで呼ばれるくらいでした。

僕は音楽を好きになって30年間以上の時間を、”音という波動の法則性と、その起源”や、”音楽を認識する心の基盤、思考という実在”について研究、考察を続けてきました。
漠然とした恐れや将来への不安などから、感じて楽しむことよりも考えて理解すること、問題や疑問を解決することを優先してきたんです。

幼稚園を保護者会の意向により辞めさせられ、親からも理解されずに居場所がありませんでした。自分でも自分がコントロールできずにいつも後悔して泣いて過ごしました。
小学校でもいつも僕は悪者で、6年間異端児扱いで友達もいませんでした。自尊心や自己肯定感なんてものはとうの昔に完膚なきまでに叩きのめされ、破綻し、跡形もありませんでした。
唯一の理解者は心療内科の先生で、僕はADHDと診断をされた時腑に落ちて納得した記憶があります。
そんな僕は幼少から向き合い続けるある問いがあります。

それは、”ここはどこで、わたしは誰なのか、なぜ明日も生き続けなければならないのか”

冷静に、考えてみてほしいんです。
呼吸を繰り返し、生きているという状態をについて。
ここに存在していることに対して、それが当たり前の前提で生きている自分に気づくまで。
僕は生命として、自分が置かれているこの状況を常に疑問に思っていたし、理解したかった。
生まれてこなければ楽だったのにと思っていたからです。
だから明日も生き続けることの価値を論理的に理解し、言語化できるまで噛み砕き、言い聞かせて、モチベーションを得る必要がありました。

僕は音楽に対しても、その問いと同じ延長線上で向き合ってきました。文化的な意味合いで音楽を捉えるようになったのここ最近のことです。

天体の調和運動から、元素の世界などのマクロからミクロまでのあらゆる次元で共通して観測できる事象のパターンや一貫性、(どんなに大きくても、どんなに小さくても変わらないこと)宇宙規模でのマクロな時間軸で観測され続けるであろう普遍性(どんなに時間が経ってもかわらないもの)だけを、
それだけを見つめて生きてきました。
それだけがぼくの希望であり、
それ以外のことはあまり関心を持てませんでした。
それ以外のことはいつか、色褪せて変わっていく。
そう思っていたんです。

さらに身体の構造や脳科学、神経支配、免疫や恒常性維持などの無意識的な生命維持活動をフィジカルな側面から認識、分解を繰り返し、
その対極(根源)にあるものごとである、哲学や宗教的な概念を越えて意識や思考までの
あらゆる境界をこえて浸透する"創造性"を極めて論理的に体系づけて"聴き"続けました。
僕にとってそれは、音楽という調和原理の背後にある”創造性”と完全に同一のものだったのです。

これらの探求のプロセスは僕にとってはものすごく充実した時間だったし、畏敬の念を持って、熱心に研究した時間でした。
しかし、それは長く苦しい時間でもありました。

僕にとって音楽は、みんなで分かち合って一つになること、楽しむためのものなんです。
なのに、一人考えることや湧き上がる疑問を放置できないまま走り続けて、周囲の音楽コミュニティにも馴染めないまま、気付けば35歳になりました。
今までずっと、人と繋がって受け入れられる自信がなかったんだとおもいます。

僕は思いついたことをメモに書き続け、参考文献や論文を読み漁り、それを消化した上でまた考察し記録することを狂気的なまでにひたすら繰り返していました。
全てが鮮明に理路整然となるまで、
あらゆる研究結果や、偉人達が出した結論などが、
相互的に立証しあう地点まで掘り下げたかったのです。

しかしその甲斐もあって、
僕は"音楽"と、"音楽を認識する人の心"というものが表裏一体で同一の存在であることを理解することができました。
自然界という生き物や物質的な世界の存在の均衡を司る”創造性”は音楽という法則性の背後にある”創造性”と同一のものであり、巡り巡って私たち自身なのだと理解することができました。世界は無限の多様性を持っていますが、根源はひとつなのです。

論理的思考と直感的な認識が裏付け合う境界を体験として刻みこんだ結果、
それは人生という大きな海を航海するための羅針盤となり、あらゆる創造や判断の基準として機能し、直感を運んでくるようになりました。
そして僕の思考の旅は一旦終わりを迎えます。
これからは学んだことを糧に現実の世界で旅を始めようとおもいました。
本当に僕はこの世界のことを何も知らない。

僕はこの認識と感覚をもって意図的に、そして心に委ねながら旅をすすめることを楽しみにしています。思考(認識)は創造性を持っていて具現化されていくからです。
日本国内での習慣や、考え方の傾向を一旦離れることによって、新しい思考の習慣や心の持ち方が形成される時、それらが旅にどう繁栄していくのか記録し共有していきたいと思います。

そしてその体験が最終的に音楽として生まれ変わりみなさんのもとへ届けられる日を楽しみに感じています!



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