「それでも、大丈夫」

自己肯定感が高い状態って、何がどうとかではなくて「それでも、大丈夫」だと思えることなのではないだろうか。
持っていないものは持っていないけれど、それに卑屈にならずにそんな自分も肯定して認められる、「私は可愛くて頭もいい!最強!」とかではなくて、「私はそんなに可愛いと言ってもらえないかもしれないし人より頭が良くはないけれど、それでもこんな強いところがあるしそのままの私を自分は好きだよ」ということなんじゃないだろうか。

人は生きていく過程で価値観やものの見方を形成していくから、成長した私たちは現実をありのままのサイズで認識することからもう難しい。
私が「こう」と思っている現実はそうじゃないかもしれなくて、でもそのことに気が付くことすら頑張らないとできない。
正しく認知することは重要だけど、見方を変えようとすることはできても、真にそれができることはあまりないのだろうと思っている。

自己肯定感が低い状態でいると、その歪んだフィルターを通してみた世界が本来より少し辛く見えてしまう。
無条件の愛と対照的な、無条件の自己否定。
そんなことが至るところに顔を出して、やたらと自分を否定し続ける。
そこに自分への期待や正体不明の自信が加わると、「こんなにもできなかった」「これすらできないなんて」と、掛け算式に思考の溝にはまってしまう。

最近、きっと人生についてたくさん悩んで得たものがあるんだろうなというような優しさを持った方々が、自己肯定感について考えているものを見て、自分へ過度な期待をしないことが生きやすさに繋がるのだろうなと思ったりしている。

自分に過度な期待をした上で更に自分はダメだという前提に立つと、本当に簡単に人は崩れてしまうのだと思う。
私はずっと、自分はダメだと何度も自分に言い聞かせるように繰り返しながら、自分はもっとできる筈だと信じては苦しみ続けてきた。
自己肯定感が低いくせに、潜在的な自己評価がべらぼうに高くて自分に諦めきれない。
「ほら、その証拠に頑張ったらこんな結果が出た」と言えるうちはそれは強いかもしれない。
それでも物事が上手くまわらなくなった途端、やっぱりダメなやつだからだとか、本当はもっとできる筈なのにとか、そんなことがぎゅうぎゅうと自分を締めあげる。
"条件つきの自己肯定感のようなもの"は、条件が崩れると跡形もなく消えていってしまう。

私は自己肯定感は低いけれど、より豊かに生きるためには高い方がいいと思う。
ただそれは、ありのままの自己を受容するという文脈において、だ。
自分に期待しないでいると、些細なことに喜びを得られる。
自己評価が高いか低いか、そことの掛け算で生きづらさの締めあげ度合いが決まるんじゃないだろうか。

「それでも私は大丈夫」
それだけおまじないのように持ち続けていられたら、自己肯定感はきっと味方になってくれている。

お読みいただきありがとうございます! サポートいただきました分はnoteを続けるエネルギーに変換していきます。