紅茶とお菓子と、信頼関係
先日、アフタヌーンティーに行った。
大学時代の友人と数ヶ月に一度女子会をしていて、夏以来の再会を兼ねた会だった。
ここ数ヶ月、休職してからあまり前から付き合いのある友人と会うことに気が進まない状態が続いていたけれど、少しリハビリも兼ねて参加することにしていた。
当日、どうにも私は調子が悪かった。
最近は毎日涙が止まらないような状態からは脱したと思っていたのに、その日はまるっきり駄目だった。
駅まで向かう道でも涙が止まらず、電車に乗っても泣き続けていた。
会場の最寄り駅まで着く頃になっても涙を拭くタオルが手放せず、キャンセルの連絡をいれようか何度も迷った。
迷った末、今からキャンセルなんてできないだろうという現実的な決断をして、参加した。
友人と会ってしまえば、比較的なんとか平静を装いきれるような気がした。
「久しぶり」「ここにくるまで道に迷っちゃった」なんて他愛無い話をして、なんとか無事に過ごしきれるように思った。
自分の話をしようとすると涙の蓋が壊れてしまうから、今日は聞き役に徹していようと心に決めた。
いつも通り、話が進む。
恋愛や仕事、卒業以来会っていなくその場にいない友人の話、結婚や将来の家・子供の話、そんないわゆる「女子会」な話をして、何事もなく安全に時間は過ぎた。
苦しい話もどういう顔をしていればいいのかわからない話も、なんとか空を見つめて相槌を打った。
終わりかけた頃、一人が転職する話をした。
そのメンバーの中で転職した経験があるのは私ともう一人だけで、転職してどうだったかという話題を振られた。
そこまでくると、もう駄目だった。
留められていた涙は堰を切ったように止まらなくなり、なんとか今休職をしている旨だけを伝えた。
暗い雰囲気になってしまうだろうからそこは言わないようにしようと、「久しぶり」に会うような日常を共有しているわけではない人と過ごす時間を、参加しているみんなにとって綺麗な思い出として完結させようと、思っていたけど、できなかった。
けれどこれで、良かったのだと思う。
隠し事をして場を綺麗に終えることをゴールにするのは、私が人を信頼して自己開示できていない証拠のようなものだった。
これを話して涙を見せてしまったことで、誰かに責められたりなんてしないのに。
心配して励まして、存在を肯定してくれる言葉をかけられて、やっとなんだか、心の荷物をひとつ降ろせたような気がした。
相手を信頼して自己開示できないのは、私の悪い癖だ。
この女子会も大好きな同期会も、日常を共有しているわけではないから悩み事を話してはいけないとルールを決めていたのは私だ。
それは余裕がある時ならば、理想として正しく綺麗な選択ではあるのだと思う。
だけど余裕がない時にその余裕のなさを吐いてしまっても、受け止めてもらえるだけの信頼関係はきちんと出来上がって続いている。
甘えすぎるのは、よくない。
愚痴っぽくなるのは、よくない。
でも頼るのは、大丈夫。
弱みを見せるのは、大丈夫。
むしろ友人と会うというのは、そういう安心感を得るための部分もあるのかもしれない。
泣きじゃくってしまった後に飲んだ紅茶は少しだけ、甘く優しい味がした。
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