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苛立ちの裏

日々過ごしていると、鼓動が速くなるような、なぜか嫌になってしまうような、そんな事柄がたまにある。
少し意地悪な気持ちになって、相手の「上手くいったよほら見て」ということに否定の態度を示したり、こちらの苛立ちをぶつけようとしてしまったり。
この感覚の裏には何があるのか、そっと立ち止まって考えてみる。

例えば。
「髪の毛が上手く巻けたよ」と見せる妹に、面白くない気持ちになる。
そこには負けたくない気持ちが強く反映されていて、「妹の方が私よりヘアアレンジができる」ことが嫌だと感じている。
私ももっとそういうことができるようになりたいのに上手くできなくて、そして大して髪を巻く練習もしていない。
やる前から諦めてしまっている。
何度かやってみて上手くいかなかった経験から、私には無理なのだと思い込んでしまっている。

例えば。
「今年昇格しなかったら仕事と給料が見合わないからやめるって言ってきた」と言う恋人に、なんだか苛々してしまう。
私は根本的に自分に自信がない一方で、誰かが自分に自信を持っていてそれを人に自分から言ってしまうということをあまりよく思っていない節がある。
"謙虚であることが美徳"という価値観がかなり強いせいで、まず自分でそういうことを言う人が近くにいると辛く感じてしまう。
その上自己評価の問題やら負けず嫌いの問題やらが絡んできて、私はダメだと思いながらも相手が自分に自信を持って先を歩くことに負けたくない。
常に私はダメだという感覚から抜け出せないせいで、永遠に置いていかれている気分になる。
これがどこまで実際そうなのかは、主観を排除した場合どうなるのか不明なのだけど。
ただ本当にそれを変えたいなら、少しでも自信を持つためには何ができるのか、どういう状態になったら自信を持って進めるのか、そういうことを考えて実行して改善していかなければならない。

苛々してしまう瞬間、ふと立ち止まって自分を眺めてみると、だいたいこういう理由があるようだった。
少し遠くから眺めようとしてみて、頑張ってできるようにしたいことや改善したいことと、それはもう手放して諦めて受け入れることと、判別していくことで苛立つことを減らせるように思えた。

これまでの人生、何が不足していてそれを埋めるために何をしたらいいか、なんてことをずっと考えてこなかった。
ただ漠然と負けず嫌いで、負けることが嫌なのに自分は何もできないという認識を持っていて、がんじがらめになったまま動けなかった。
今やっと外側から眺められるようになって、必要なのは何なのか、少しずつわかってきた気がしている。
日々を送る中での感情の動きは、自分の心の奥にあるものを見つめなおす大切なきっかけで溢れている。

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