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珈琲を飲みたい、と選びたいは違う

instagramでも書いたことなんだけど書き足りなかったので追記。

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「サードウェーブというバズワードによってコーヒーは不自由になった」という話が話題になっています。


サードウェーブというのはコーヒーの潮流というかトレンドの名前です。(知らなくていい)

これは日本一ざっくらばんな説明をすると、1stがコーヒーの消費量が爆発的に増えはじめた時代で、2ndはエスプレッソの様な深煎りの細挽きをアレンジして楽しむスターバックスを筆頭に、コーヒーが様々な世代に間口を広げた時代です。
そして3rdはコーヒーそのものの品質(とそれにふさわしい加工)を楽しむという時代だったのです。

サードウェーブはコーヒーの文化の拡大とコーヒー屋の店舗数の増加という面では確かに一役買った。分母は圧倒的に増えたし楽しみ方も増えた。

ところが

「サードウェーブが届いてコーヒーは自由になった。」(村岡俊也:文)という論は、二重の意味で間違っている。
まず、誰にとって《自由になった》(と、この雑誌で読ませたい)のか? 焙煎家? 生産者? 《自分たちが好きなコーヒーを提供する》? これは業界誌か? 飲用者がコーヒーを注文するに、‘ホット’や‘冷コー’の一言で済まされない。頼んでもいないのに好みをしつこく訊かれ、《生産者と繋がって、上質な豆が絶対条件》などと延々と講釈を垂れられる。 コーヒーを消費する者にとっては、「サードウェイブというバズワードが届いてコーヒーは不自由になった」のである。
次に、どこまでが《自由になった》(と、この雑誌で読ませたい)のか? インスタントコーヒーは? 缶コーヒーは? コンビニコーヒーは? 《生産者と繋がって、上質な豆が絶対条件》とは言い難いところの市場が、コーヒーのかなりを占めているのに。そして、それら(真の意味での)コモディティコーヒー市場までもが、偽りの‘高級’や‘贅沢’を強いられている。コーヒー市場の全体にとっては、「サードウェイブというバズワードが届いてコーヒーは不自由になった」のである。

その通りだな、と感じる。生まれた文化によってその文化が殺される、という皮肉。
”アルジャーノンに花束を”の様に生態系を破壊するのは余分な贅肉です。身の丈に合わず増えすぎた知識と言い換えたほうがいいかもしれません。

「コーヒーください」というただコーヒーを飲みたいタイミングでお店に行けば銘柄、淹れ方、講釈などの色んな情報を与えられ、しかもこちらで選択しなければいけないという負荷までかけられる。
くれぐれも、僕はそういうお店も好きだし、実際に行く。善悪2つの対立論ではありません。選ぶ楽しさもある。


僕は以前好きなお店(これは表参道LOTUSのことですが)が
「押し付けがましいコーヒーの扱いを始めたら幻滅する」とnoteでも書いてきた。
コーヒーを飲みたい、はコーヒーを選びたいとは違うのです。
普段は適当な豆を適当に淹れてくれれば十分なのだ。

プロフェッショナルは自分の持つ知識や情報を無かったことには出来ないので、コーヒーに精通していない人の気持ちを追体験することができない。

僕も自社のコーヒー教室の中ではそういう専門的な話を(なるべくくだいて)しますが、普通の営業中にお客様にそういう話をしようとは全く思わない。すればするほどコーヒー、ひいてはうちの店から自由が奪われる気がするのですね。
お客様がお店に何をしに来ているのか?
圧倒的な他者目線で想像し、考えることを徹底しないと自分たちが知っていることは誰もが知っているのだと勘違いすることになる。

なんの説明書きもないプアオーバーを一体どれだけの人が分かるというのか。
「生産者は良き消費者もであれ」
ということ。自分たちの世界は全体の世界ではない。


実際サードウェーブというものは僕らのような仕事の人にだけ共有され、一般化されることはとうとうありませんでした。
これからの時代はノーウェーブだそうです。

そもそも波なんかなかった。バンドブームという最低な言葉があったけど昔からバンドをやっている人たちはたくさんいたんだよね。

波なんかなくなったほうがコーヒーは自由かもしれませんね。

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こんな話を含めて、もう少し本気で書いている定期購読マガジンもよければ覗いてみてください。


お店にも来てくださいね〜〜!!