見出し画像

「オケバトル!」 15. 地獄のオルフェ ②

15.地獄のオルフェ ②



「つい不安に駆られて振り返ってしまったがために、永遠に妻を失ってしまう竪琴弾きのオルフェウス。ギリシア神話でも有名な、オルフェウス伝説です」

 舞台にて、宮永鈴音が今度はヴァイオリンを竪琴に見立てて縦に持ち、ポロン、ポロンと、指で弦をなで、さりげないアルペジオを奏でて見せる。
「西洋では、夜空に輝く『こと座』は、オルフェウスの竪琴とも言われています」

 ソワレの本番らしく、ラメ入りレースのシルバーのショールをノースリーブの肩に絶妙なバランスで羽織る優美な姿は、さながらオルフェが恋したニンフのクローエのよう。

 はて? オフフェウスの愛する妻は、エウリュディケではなかったか?

「そのオルフェウス伝説の辛辣なるパロディーが、今宵、序曲をお送りしますオッフェンバック作曲の《地獄のオルフェ》。これはフランス語の直訳で、日本では《天国と地獄》の題名で知られていますね。オルフェ、オルフェウス。そして妻のウリディースも、エウリュディケ、ユーリディケ、エウリディーチェなど、様々な呼ばれ方があるようです」

 ヴァイオリンの名手オルフェと妻のウリディースは夫婦でありながらも、各々思いを寄せる相手がいた。オルフェはニンフのクローエを。ウリディースは羊飼いのアリステ ── 実は冥界の王 ── を。
 冥界の王の策略にはまり、自分が仕掛けた毒蛇で妻を亡くしたオルフェ。悪妻から解放されたと、内心は大喜びであったものの、学校の音楽教師という世間体もあり、妻を連れ戻すべく、しぶしぶながら冥界へ赴いていく。
 神々による飲めや歌えよの地獄のどんちゃん騒ぎが繰り広げられる中、オルフェは、

「地上に出るまで振り返ってはならない」

 というお決まりに従い、妻を連れ帰ろうとするのだが、途中「うっかり」振り向いてしまい、永遠に妻を失うこととなる。
 ウリディースはバッカスの巫女として天の神に召され、一方のオルフェはこれ幸いと、喜び勇んで愛するクローエのもとへ向かうのであった。


 こうしたオペレッタの内容は、ジョージの素敵なイラストに、物語の読み聞かせも得意な青井杏香の落ち着いたナレーションを乗せ、後の編集で放送時に紹介されることになったので、舞台で司会が長々と物語を語り演じる必要もなくなり、鈴音はいく分か気が楽だった。台本は殆どナシで、周知の事実を語りゆく。

 ベルリオーズにして「シャンゼリゼのモーツァルト」といわしめたオッフェンバックは、ドイツ系からフランスに帰化して名前も改め、パリで劇場を持つに至り、先の《軽騎兵》スッペとは真逆のように、出身国と活躍した国が入れ替わっておりました。スッペはベルギーとイタリア系から、ドイツ語の名に改名し、ウィーンで専属の劇場を得られたわけですし──、といった作曲家の情報に、作曲の経緯をすらすらと紹介していく。

「人混みの中でもガンガン曲を書き続け、多作かつ多忙だったオッフェンバックの作品は、オペレッタだけでも有に百を超えるほど。ですので、本編のおまけに当たる序曲なんて作ってる暇がない、ということで、序曲においては殆どが他人任せでした。この《天国と地獄》もまたしかり。
 パリの初演から半年後のウィーン初演の折、楽しい序曲を期待する観客のために、現地の作曲家が劇中の音楽をつなぎ合わせてこしらえたものです」
 ここで鈴音は例によってヴァイオリンを構え、フレンチカンカンでも有名な旋律をチャチャチャッと軽く流し、
「地獄の神々の大宴会を表すこのメロディー。あまりに軽快で調子が良いので、後にフレンチカンカンの曲としても定番となったり、運動会なんかでも頻繁に聞かれますよね。ご存じカステラのCMでは、白鳥たちがラインダンスを──」

 舞台の手前下方から司会に合図を送っていた進行スタッフが、さっと手を上げて待ったをかけ、──白鳥じゃなくて、熊ですよ──と、教えてやる。

「えっ? 白鳥じゃなかったかしら?」と、うろたえる鈴音であったが、意地悪ディレクターのアサミに「永遠の笑いネタ」として、そのままカットなしで番組で流されそうな気がしたので、
「そういえば白い仔熊だったかも。バレエと混同したんだわ。何しろそのCM、頻繁に流れていた頃は見ていない世代ですので」と、開き直る。

 この往年のCMは、実のところは仔熊でもなく、オーストラリアのマリオネット作者夫妻の手による仔猫のラインダンスであり、当時日本で人気の高かった熊ということにされたまま今に至っている。しかしこうした裏事情は、本題と関係ないので番組では明かされず。

「オペレッタ全幕も、鋭い風刺に満ちていながらも大変楽しい作品となっています。機会がありましたら是非ご観賞くださいね」と締めくくる。

「それでは始めていただきましょう! オッフェンバックの《天国と地獄》序曲です」

 先攻Aチームの有出絃人としては、こうした楽しい曲でコンサートマスターができるのは大いなる喜びであり、バトル四曲目にして、ようやく本領発揮といったところであった。斜め向かいのチェロ首席には、信頼のルームメイトで演奏の腕もピカイチの白城貴明がいる。自分の隣のお嬢さんも素直で感じが良く、反応もいい。彼女なら大丈夫だろう。

〈ウィリアム・テル序曲〉でのピッコロ騒音騒動を受け、今回もまたクライマックスの大合奏にて憂慮すべき箇所があり、問題の女性にまたしてもピッコロの番が回ってきたため、
「ピッコロのないヴァージョンもあるようだから、この際、我らもピッコロ抜きにして、ピアノにでも回ってもらおう」という勝手な都合の提案もされたが、
「嫌々だとしても、用意されたスコアの編成に従うべきでは?」との意見も出て、
「まずはやってみましょう」と、彼女の技量は皆の意地悪い監視下によるリハーサルにて試されることになる。
 ここで降ろされてなるものか! とピッコロさん、周囲から同じ注意を受けたくなかったか、本当に反省して学んだか、リハーサルの段階で音量を注意深く調整したので、降版トラブルは回避された。
 おかげで順調に終えることができたリハーサルにて、絃人が一同に特に注意を促したところといえば、おしまいの部分、アレグロになってからの楽しい地獄の情景。はしゃぎたい気持ちは極力抑え、テンポを気持ち遅めにしっかり保ち、派手に暴走して「爆奏」にならないよう充分気をつけて欲しい、ということであった。途中、金管を中心にチェロも従え勇ましく鳴り渡る豪快なテーマにかぶる、残りの弦や木管、トロンボーンによる凄まじい後打ちでは、テンポが速すぎると、ともすれば頭打ちにズレてしまいかねない。テーマを担う者も「後打ち」を感じながら落ち着いて奏して欲しい、等々。

 そして本番も、コンマスの冷静かつ明確なリードにて滞りなく進んでゆく。
 しっとり落ち着いた白城貴明(=ウリディースの)のソロも、のびやかで生き生きしつつ、実に粋な感じの有出絃人(=オルフェ)のソロも、仲間や審査員をすっかり魅了し、ワルツのリズムでソロを支えて残りの皆をまとめる隣の女性もしっかり調子を合わせ、いよいよ最後のページを彼女がめくろうと──、彼女が弓を持った片手で譜めくりをしようと──、え?

── いきなり裏表紙? ──

 曲は既に最終ページのアレグロに入っており、地獄の大騒ぎの前触れの、かわいらしくもおどけたスキップが始まっている。

 しかし譜面はめくれない。

 なぜって、いくらめくろうとしても最終ページはどこにもなく、裏表紙が出てきてしまう。彼女が譜面をパタパタ、口をパクパクやるばかりなので、ついにコンマス有出も一瞬だけ弾くのを諦め ── 曲の流れは周囲に任せ ── 楽譜を触ってみる。自分の目と手を疑わざるを得ない、信じがたいことが起きてしまった。

 最終ページが裏表紙にしっかり貼り付いているではないか。

 これではめくれるわけがない。絃人は周囲をさっと見渡した。他の連中はしっかり弾いているので、楽譜のトラブルは我が1プルト目だけと判明。隣の女性に、楽譜ナシでも大丈夫か? と、鋭い目線だけで確認する。
 自分はもちろん、ヴァイオリニストなら誰だって、最終ページは楽譜を見ずとも弾けるたぐいの単純な音楽であったのだが、彼女が恐怖の瞳で「ダメです!」と否定したので、絃人はとっさに判断を下して立ち上がった。

── 踊れ! ──

「後ろに回って譜面を覗け」と、ヴァイオリンを弾きながら小声で指示し、陽気な調子でリズムをとる。

── 踊るんだ! ──

 絃人に再度促され、ようやく彼女もぱっと立ち上がり、引きつったニコニコ顔で楽しげに上半身を左右に動かし、弾きながらファーストヴァイオリンの背後に回ってゆく。
 一方の絃人は、よくある弾き振り、指揮者がヴァイオリンを弾きながら調子をとるように中央に踊り立ち、身体を思い切り上下させたり傾けたり、ある時は片足でピョンピョンやったりもしながら、地獄のバカ踊りを披露する。
 審査員のジョージが膝を叩いて笑い転げている姿が目に入ってしまったので、客席には背を向け気味に指揮者の体勢を保つことに。しかしながら、盛大な後打ちをリードしながら飛び跳ねるなんて至難の業。一歩間違えばド素人のピエロになりかねないところを、ここはプロの大道芸人ダンサーに徹し、楽器を持ったまま宙返りこそしなかったが ── そんなスペースもなかった ──、踊りだけでも「魅せる」質の高いパフォーマンスを試みるのだった。
 地獄のダンスも、いよいよおしまいというところで、下手に回って踊り弾いていた彼女に絃人が「こっちへ!」と、振り仰ぐように体を傾けて合図。彼女がルンルン戻ってきて真ん中に二人がそろったところで、絃人がお嬢さんの手前に片膝ついて優雅にしゃがみ込み、バレエのパ・ド・ドゥの決めのごとく、はい、ポーズ!
 最後の全打の余韻が消えて、ホールに静寂が訪れた。

 コンサートマスターは弓を高く掲げた、音を切るポーズのまま微動だにしない。

 永遠の時が流れたかのところで、こらえきれなくなったジョージが、パン! パン! と大きな拍手とともに、ブラヴォー、ブラヴァーの悲鳴に近い大笑いを始め、舞台の全員もやっと力を抜いて深いため息をつくのだった。
 ヴァイオリンを抱えたまま、へなへなと床にへたり込んだ彼女を、コンマス有出が助け起こし、全員一礼の音頭をとる。

 誰もが長岡氏の言葉を待っていた。
 司会の宮永鈴音も、自分の下手なフォローより、こうした大波乱の事態ではプロデューサーに収拾をお任せしようと判断する。しかし呆れた彼の口から出た言葉は、実に決まりきった文句だった。

「いったい何事が起きたんだね?」




16.「ひとたび舞台に乗ったなら」に続く...




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?