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【読書記録】後編:人が成長するとは、どういうことか 発達志向型能力開発のためのインテグラル・アプローチ

本記事は、一般社団法人Integral Vision & Practice代表理事である、鈴木規夫さんの最新刊『人が成長するとは、どういうことか 発達志向型能力開発のためのインテグラル・アプローチ』を扱った前回・前々回の読書記録記事の続きです。

ひとつの記事にまとめようとする場合、あまりにも長くなりすぎてしまったため、記事を一旦分割して公開しています。

また、前・中・後編を一気読みしてみたいという方は、完全版の記事も用意しています。

それでは、後編の続きを見ていきましょう。


高次の段階へ発達することによる社会的危機

ここまで、高次の発達段階に足を踏み入れることによって、「実存的危機」が惹起されることを見てきました。

時に、不意の「事故(アクシデント)」によって自分がこれまで描いていた人生設計や成功、幸福が脅かされたり、何より、自分が信じていたその成功や幸福というものが、実はある限定的な状況(特定の文化的・社会的文脈)のもとに成立する「虚構(フィクション)」であることが意識されてしまうことがあります。

しかし、それでもこの有限の生を生きていかなければなりません。そこから、個人としての実存的変容が始まっていきます。

その意味では、発達とは単純により幸福になることではなく、それまでには経験することができなかったより質的に高い光と闇を経験できるようになるということなのである。まさに発達心理学者のスザンヌ・クック・グロイター(Susanne Cook-Greuter)が述べるように、「発達は幸福を保障しない」のである。p39

と、ここまでは個人の内面における、いわば精神的な危機とも呼べるものですが、高次の段階に発達していくことは、同時に社会的危機、社会適応上の困難を生み出すことがあることを、本書では指摘しています。まず、能力の発揮については以下のような説明がなされてます。

その名称が示す通り、これらの発達段階は「例外的」なものである。すなわち、現代において、いわゆる「普通」の社会生活を営んでいくのであれば、必ずしも必要とはされない高度な能力を発揮する段階である。そうした能力が要求される状況は比較的に稀であり、また、実際にそうした能力をそなえた人の数そのものが非常に少ないということである。p328

また、さらに興味深いことに、高次の発達段階に到達することを通して、より単純(シンプル)な課題や問題に対する対応能力は低下することもある。高次の発達段階とは、ある意味では、そうした発達を必要とするより困難な課題や問題に直面し、大きな危機を経験したことを契機として創発するものである。そこでは、そうした「新しい」課題や問題に対処するために、既存の能力が再編成されることになるが、その過程においては、それまでに扱っていたより単純(シンプル)な課題や問題に対処するための機能や資源は簡素化されることになる。すなわち、脳がより高次の課題や問題に対処するために最適化されることで、既存の課題や問題に対処するための能力は逆に低下することになるのである。p328

発達のプロセスは、しばしば「超越と包含」(transcend and include)のダイナミクスを通して展開するものとして説明される。これまでの発達段階において獲得された能力を継承しながら、新しい発達段階が確立されていくのである。しかし、ここでわれわれが留意すべきことは、これまでの発達段階の能力の全てがそのまま継承されるということではなく、基本的には高次の発達段階の構成要素として簡素化されて継承されるということである。そして、その結果として、失われることも少なからず出てくるのである。p329-330

発達を遂げることで、より高次の課題や問題に対処するために能力が最適化され、それ以前の能力は構成要素として簡素化されて継承される。その結果、既存の課題や問題に対処する能力が低下することもある。

これは、なかなか今まで目にしたことがない発想です。

上記の記述に続けて、著者の記述は後慣習段階に到達した人々の「社会適応」についてのテーマに移っていきます。

ただし、このように本格的に発達のプロセスを歩み始めた人々も、現実にはそれまでと同じようにこの時代の中で暮らし続け、そして、そこに存在する慣習的な課題や問題に対処することを求められ続けることになる。たとえ非常に高次の発達段階に到達したとしても、慣習的な課題や問題から完全に解放されるわけではないのである。p330

われわれはある特定の時代と場所に生まれ、そこで提供される諸々の社会的・文化的な支援を享受しながら人格形成をすることになる。(中略)その意味では、たとえ発達のプロセスが後慣習的段階に到達したとしても、われわれはある特定の時代と場所に生まれたことを自らの宿命として背負いながら生きていくことになる。p181

しかし、彼らの心理そのものは質的にことなる課題や問題に対応するために深い変容を遂げている。そのために、時として、彼らは社会的な不適応を起こしたり、あるいは、監修的な課題や問題の解決に対処しようとする意志や意欲を喚起できなくなったりすることで、慣習的段階の人々と比べて、むしろパフォーマンスが見劣りするという状況も生まれ得るのである。このために、支援者は、この発達段階のクライアントを支援する際には、非常に慎重になる必要があると言えるだろう。そこでは「社会適応」という課題がそれまでとは異なる新しい重要性を伴って浮上してくるからである。p330

また、ケン・ウィルバーは、時代や社会の集合意識の重心を超えた思考や発想をする人は、しばしば「無法者」("trans-law")という烙印を押され社会的な制裁を加えられる可能性(リスク)を背負うことを指摘している。p197

「後慣習的」(post-conventional)というその名称が示すように、それは本質的に時代や社会の集合的な文脈の中では「逸脱的」なものにならざるを得ない。そのために、それを開発・発揮することに対しては、しばしば周囲からの抑圧的な圧力がかかることになるのである。p58

あらゆるシステムがそうであるように、われわれが生きる社会は、その構成要素(例:個人)の絶え間ない新陳代謝を続けながら、そのシステムとしての同一性を維持し続けている。そのシステムを規定する規範や規則の影響下においては、基本的にそれを逸脱する個の行動はただちに矯正されることになるのである(あるいは、排除されることになる)。p203

こうした現実(リアリティ)を深く認識しているために、後慣習的段階においては、無邪気(ナイーヴ)に改革や変革を掲げて、その実現に邁進することに対しては慎重になる傾向がある。長大な歴史の流れの中で重層的に形成されてきた複雑な社会の文脈においては、流行の価値観や世界観に基づいた構想が単なる刹那的な花火のようなものでしかあり得ないことを深く認識しているからである。p203

各発達段階には、それぞれを特徴づける「尊厳」(dignity)「悲劇」(disaster)、つまり、過去の発達段階を超えて創発した新たな能力と、それゆえに過去において存在しなかったより深い苦悩や病理が存在すると言います。後慣習的段階の発想が時に「逸脱的」「無法者」("trans-law")と受け止められることがあるのも、そうしたものなのでしょう。そんな後慣習的段階の人々と社会のあり方について、鈴木氏はこんな風に述べています。

もし将来的にこうした意識や思考に対する社会的な寛容性が高まり、また、それを体得することが肯定的なこととしてひろくみなされる社会的な条件が整うとすれば(たとえば、今日において、合理的に思考したり、戦略的に思考することが肯定的に捉えられているように)、そこには自然と文化的・制度的な支援が準備されることになるだろう。p59

ここまで、後慣習的段階に限らず、私たちの一人ひとりの「自己」を規定する社会的・文化的文脈というものと発達の関係、各段階における「尊厳」と「悲劇」について見てきましたが、それでは、今日の社会とはどのような性質を持っており、それが各個人の発達にどのように影響を与えているのでしょうか?

以降、見ていきたいと思います。

健全な発達を阻害するフラットランド≒現代社会

いよいよ、本書の読書記録も終わりに近づいてきました。

先の章で立てた問い、すなわち、今日の社会とはどのような性質を持っており、それが各個人の発達にどのように影響を与えているのか?について、本書においてはどのように捉えているのでしょうか?

まず、社会の在り方と発達の関連、発達理論の果たす役割について、鈴木氏は以下のようにまとめてくれています。

これまでに見てきたように、発達理論とは、人間がその一生を通じて体験することができる多様な在り方を認識・尊重するための視座を提供してくれるものである。p468

究極的には、それぞれの個人には自らが「選択」した発達段階で人生を生きる権利がある。そして、そのことを他者が批判したり、あるいは、高次の発達段階に向けて強制したりすることはできないのである。(中略)そうした発想は、最悪の場合には、たとえばIQが歴史的にそのように悪用されたように、発達理論の優生学的な利用に道を開き、結果として、人間を傷つけることになるだろう。p469

他方、発達理論を理解することを通して、われわれは、この時代に生きる同胞たちが実に多様な視座を通してこの世界を体験していることを理解し、それを受容することができるようになる。すなわち、社会に存在する垂直な多様性に気づき、それを尊重することができるようになるのである。p469

人間の社会は、国内・国外を問わず、基本的には同調圧力をその構成法則として成立している。そして、こうした力学は人間の発達にも作用していて、社会には、たとえば「この発達段階に到達するように」、そして、「この発達段階から逸脱しないように」といった無言の「圧力」が確実に働いている。p469-470

換言すれば、社会とは、そのアイデンティティを維持しようとする限り、構造的にそうした逸脱者を排斥しようとする特性を有しているのである。発達理論とは、そうした人間社会のを踏まえて、それを少しでも克服するための概念的な道具を提供してくれるのである。p470

続いて、私たちがどの発達段階に生きているのであれ、最も警戒すべき社会的な病理「フラットランド」について見ていきましょう。

今日われわれが最も警戒すべきは、ウィルバーが「フラットランド」(flatland)と形容する集合的な病理である。ひと言で言えば、これは「垂直性」(verticality)を拒絶して、肉眼(the eye of flesh)で把握することができる量的な領域のみを現実(リアル)なものとして位置づける態度と言える。ウィルバーによれば、そうした価値観に今日の人類社会は半ば完全に支配されてしまっているという。端的に言えば、「真に重要なことは、量的に示せるものであり-あるいは、量的に示されたことであり-そのように示せないものには価値はないのである」という発想と形容することができるだろう。p471

すなわち、現代のおいて、われわれは往々にして、「規模」や「収益」のように数値的に測定できることだけを現実(リアル)であると信じ込んでしまい、「美」や「善」といった言葉に象徴される質的なことは、単なる主観的なものとして排除してしまうか、あるいは、たとえそうしたものに一定の重要性があると認めたとしても、結局のところ、それらは量的な価値に従属すべきであるとみなすように条件づけされているのである。p276

たとえば、われわれが何らかの課題や問題を前にして深く悩むとき、そうした葛藤は最終的には経済的な論理に基づいて「解決」されることになる。確かに思考の過程においては、われわれは自らの美意識や倫理観や宗教観に照らしてあれこれと悩むことだろう。しかし、最終的にものを言うのは往々にして経済的な論理なのである。(例:「確かにそうした高尚なことも大切に違いないが、結局のところ、最も重要なことは、それで収益は確保できるのかということだ」)。p276

(たとえば、芸術作品の価値は、そこで示されている芸術性の高さや深さを把握するための鑑識眼がなければ全く理解できないが、一億円の値がついた絵よりも10億円の値がついた絵のほうが「ありがたい」ものであることは誰でも理解できる。その意味では、数値的な価値判断は、感性や知性の訓練や鍛錬を必要としない、最も原始的(プリミティヴ)なものと言えるのである)。p277

こうした時代的・社会的文脈の中では、半ば不可避的に発達理論が志向する垂直性という価値観は-それはより高次の質的価値を実現していくことを本質的な衝動とする価値観である-は蔑ろにされてしまうことになる(あるいは、単なる人間の資質や能力を順序づけ(ランキング)するための道具に貶められてしまうことになる)。p471

たとえば、人間の能力開発や成長支援においては、フラットランドの影響は、往々にして、人間の成長や発達をそれがもたらす経済的価値に還元して評価しようとする発想に結実することになる。(中略)つまり、人間の成長や発達とは、あくまでもその生産性や経済力を高めるためのものと認識されてしまうのである(そして、それにつながらない類の成長や発達は実質的に無意味なものとして位置付けられてしまうのである)p485-486

どこかで聞き覚えのある言説も、もしかしたら見られるかもしれません。では、具体的にフラットランドの進行とはどのような状況を指すのでしょうか?

現代社会において、経済的格差が極端に広がり、富が富裕層に一極集中していく中で-また、新自由主義の影響の下、社会保障制度が解体されていく中で-数多くの人々が実質的に引退を先送りして、高齢期を迎えても労働に従事することが強いられる状況が生まれつつある。p146

ロバート・キーガンが指摘するように、人類の寿命が伸びたことは、高次の発達段階の発現を集合規模で後押しする大きな要因になっていると考えられる。しかし、こうした社会状況の悪化は、人々を生活の糧を得るための日々の活動にますます駆り立てることを通して、内向の段階における発達を実現するために必要とされる深い内省に取り組むのを困難にすることになる。p146

また、こうした社会空間においては、人間の「成長」や「発達」とは、労働者としての機能的能力を高めることを意味する概念として矮小化され、後慣習的段階の可能性は、半ば無意味なものとみなされるか、あるいは、そうしたことについて思い悩むことができる裕福な人々の遊戯的な探求の対象とみなされることになるだろう。p146

発達とは、常に時代や社会という文脈の中で展開するものである。そして、現在われわれが生きている時代とは-確かに、表面的には「成人発達」という概念がひろく知られ始めた希望の時代のように見えるかもしれないが-これまでの時代と同じように、高次の発達段階の可能性の実現という点においては、過酷な条件を人々に突きつける時代と言えるのである。p147

このように見ていくと、現在、私たちが当たり前のようにように享受している「豊かさ」の概念もまた、ある特定の文化的・社会的背景の条件のもとで成り立つ相対的なものなのかもしれませんね。

最後、このフラットランドという病理が進行する世界で、私たちはどのように世界に向き合って生きていけば良いのか?についての探求を深めていきたいと思います。

発達理論の視座を得て、いかに社会と向き合うか?

あらゆる価値が量的な価値・経済的な価値に基づいて判断されるフラットランドという、現在も進行している社会の病理について先の章では見てきました。

では、これまで見てきた発達理論の提供してくれる視座、私たちが警戒すべきフラットランドという病理という現象を見てきた私たちは、これを以てどのように社会に向き合っていくことができるのでしょうか?

単純に時代や社会の適応という観点から見れば、こうした意識の深化は決して「得」になることではないだろう。極端な言い方をすれば、むしろ、それまでのように、同時代に生きる大多数の人々が信奉しているのと同じ物語を信奉し、その枠組の中で自らの将来を構想し、その実現に向けて邁進していくほうが、幸福であると言うことができるかもしれない。p472

しかし、そうした後期の発達段階に足を踏み入れていく人たちは、そうした危険(リスク)を理解しながらも、高次の可能性からの呼びかけに応じて、自らの探求に取り組んでいくことになる。それがもしかしたら、一般的な意味の幸福には直結しないかもしれないことを承諾しつつも、そうした旅に出発していくのである。p472

また、ウィルバーが指摘するように、もし誰もが量的な価値に基づいて価値判断をして生きることになれば-たとえば、それは全ての人が「経済的価値」に立脚して、自身に得になることを求めて利己的な生き方をするようになるということである-そこに出現する社会はまさに狂気と暴力に支配されたものだと言えるだろう。p472

すなわち、個人においても、組織においても、社会においても、すべての重要な判断が量的な判断軸に基づいて下されることになれば(例:「それは特になるのか?」「それは儲かるのか?」「それは拡大や成長につながるのか?」-そして、そこに暮らす全ての人々がそうした価値観を至上の価値観として信奉することになれば-そこには、人間が尊重すべき他のあらゆる価値を放棄した最も貧困な社会が成立することになるのである。p472

それは、得にはならないかもしれない。役に立たないかもしれない。「勝利」や「成功」や「成長」にはつながらないかもしれない。しかし、それは美しいことであり、正しいことであり、高潔なことであり、公正なことである……。p473

われわれが必要としているのは、このようにひとつの価値観にこだわるのではなく、異なる価値観に対して注意と関心を向ける態度である。そして、社会がこうしたバランスを維持するためには、その時代を支配する価値観や世界観に呪縛されない「逸脱者」の存在が決定的に重要になるのである。すなわち、慣習的な価値観や世界観を対象化して-その限定的価値に一定の理解を示しつつも-それに対して批判的な眼差しを向けることができる後慣習的段階(グリーン以後)の人たちの存在が必要となるのである。p473

もちろん、今日の人類社会は、「多様性尊重」という価値観がひろく共有され、少なくとも表面的には非常に多様な思想や価値が擁護されているように見えるかもしれない。しかし、発達理論の視点を通して少し冷静に状況を眺めると、実際には、そこで許容されている思想や価値の大半は、フラットランドという大きな時代精神の枠組の中に収まるものに過ぎない。端的に言えば、フラットランドを受容し、また、それを支持する多様なものが称賛されているだけなのである(たとえば、「多様性を尊重することこそが生産の向上に貢献する」という発想はその典型的なものだろう)。p473

発達理論は、こうした今日の状況に垂直的な視座を導入することを通して、そうした表層的な多様性の呪縛を克服して、垂直な多様性を育もうとするのである。p473

鈴木氏は、フラットランドにおいて優先される量的価値・数的価値だけではなく質的な価値が存在することを見ていくこと、フラットランドを乗り越えていく存在が社会の豊かさにとって必要であること、現在維持されている社会、集団、人間関係、自己がどのようなシステムのもとに成り立っており、また、そのシステムはどのような意図のもとに形作られ、維持されているのか?を見ることによる「尊厳」と「悲劇」等について、私たち読者に語りかけてきました。

この記事にまとめ、本文中から抽出した文章は、私の現時点の興味関心や理解をもとに書籍から一部を切り出したものであり、著者の伝えんとするメッセージをどれだけ受け止められているか、わかりません。

また、著者の鈴木氏もまた対象化した場合に、もっと社会や人の発達に関して違った意見・見方も出てくるのかもしれません。

ただ、ここまで読み終えて自分なりに確からしいと感じることは、

人がある対象を眺めるときに偏りのないレンズは無い』ということ、

発達は人為的に起こせるものではなく、起こるものである』ということ、

現在の社会的・文化的条件をつくるに至った歴史的背景は、その時々の必然性により選ばれ、維持され、遺されてきたものである』ということ、

自分の価値観は、自分が得られる文化的・社会的・時代的な要素に多分に影響され、構成されてきており、そのうえで「今」この瞬間に生じる自分の意志がこの先の未来を選択していく』ということです。

以上の気づきを大事にしながら、私は今後も自然、組織、社会と関わり、自分の子どもや孫世代を見据えた選択や行動をしていきたいと思います。

自分にとって本当に身近な一歩だと、このような取り組みからでしょうか。

私は現在、兼業米農家として「食」の安全や生態系の維持、自然と人間の共存について学び始め、そして誰からでも始められる小さな一歩・選択肢を増やすべく歩み始めました。

持続可能な形の農の模索と実践、自然と共に生きる生活づくり、このような感覚を共有しあい、共同していけるコミュニティづくり……。

こうした取り組みを少しずつ着実に広げていくための、最も身近で、小さな一歩が、上記の『自然農法×バケツ稲』、『山と海の繋がりを学ぶ屋久島の旅』に関する記事にまとめた内容です。

これまで探求してきた、『ティール組織』という組織論を土台とし、さらに地域社会や地域経済、持続可能な集落・共同体というものを担う当事者(兼業米農家を継いだことで体感された意識)となった時、このようなことを考え始めました。

これまでも、本を読むのは好きでしたし、その知識や知恵を活用することで時に誰かのお役に立てることもあったかと思います。

そして、これからは自分自身の人生を、これまでのプロセスも引き継ぎながら新しくつくっていくためには、『持続可能な形の農の模索と実践、自然と共に生きる生活づくり、このような感覚を共有しあい、共同していけるコミュニティづくり』といったものが主要なテーマとなり、道標となって進んでいくこととなりそうです。

このようなタイミングで、この本に出会えて本当に良かったなと思います。

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さて、以上までこの『人が成長するとは、どういうことか 発達志向型能力開発のためのインテグラル・アプローチ』の長大な読書記録を最後まで読み進めてくださり、ありがとうございました。

ここまで読んでくださった皆さんは、この記事から何を感じ取られましたか?

もし、本を既に手に取り、読み進め始めていた方は、どこか心惹かれた部分が共通していたり、あるいは違っていた箇所はあったでしょうか?

何か心を、魂を揺さぶるような感覚をどこかで感じられたのなら、ぜひその箇所について、それに至った背景について、お話できると嬉しいです。

そして、より良い未来を今この瞬間からつくっていくために、何から一緒に始めていけるか、ぜひ対話させてください。

最後に

もう既に本書を持っている方で、白い帯を外された方は、この西洋画の存在に気づかれたでしょうか?

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拳を振りかぶって人に殴りかかり、下方へ叩き落とそうとしている人や、まるで赦しを乞うように身体を縮めている人もいるようです。

調べてみると、どうやらこの西洋画は、ミケランジェロの『最後の審判』の一部のようです。

『最後の審判』とはキリスト教において、イエスが天国へ行く者、地獄へ墜ちる者の審判を下す場面の描写です。

本書のカバーにデザインされた箇所は、『最後の審判』の右側。地獄へ堕ちる者たちと、縋ろうとする者たちを振り解こうとする天使を描いた部分です。

『なぜ、最後の審判の一部なのだろうか?』

『最後の審判は、どのような比喩(メタファ)なのだろうか?』

『本書において、天使とは何者か?罪人とは何者を指すのだろうか?』

『私たちの世界において、「審判を下すイエス」にあたる存在とは何か?』

疑問が溢れて仕方ありませんが、芸術の観賞ということについて、本書中でもこのように触れています。

「この作品にはこれまで長年にわたり触れてきて、その意味や価値をそれなりに理解していたつもりだったのだが……。今日はじめてその真価を認識できた気がする」p78

読者もこんな感慨をもたらす深い洞察や経験をしたことがあるだろう。もちろん、こうした体験は、芸術作品の鑑賞においてのみならず、あらゆる対象を体験するときにもあてはまる。読者も日々の生活において、あるいは、仕事において、それまでに全く認識できてなかった他者の愛情や配慮に気づいたり、個人や集団の発想や行動を規定する隠然とした構造や仕組みの存在に気づいたりする瞬間を経験したことがあるはずである。p79

それまで長年にわたり全く同じ対象を眺めていたのに、ある時に、その見え方が質的に変化するのである。それは、しばしば、世界がより「鮮明に」「正確に」見えるようになる体験と形容されたり、あるいは、世界がより「構造的」「包括的」「統合的」に見えるようになる体験と形容されたりする。それまでに見えなかったものが見えるようになるという体験-これこそが、構造主義的発達理論を支える発想を理解するときの要となるのである。p79

現時点、私自身の『最後の審判』に対する解釈はありますが、もしかしたら今後もさらに見え方が変わる、ということもあるかもしれません。

そして、このモノの見え方というのは『最後の審判』にしろ、組織の問題の見方にしろ、社会のあり方にしろ、人によって異なるものでもあるようです。

自分にはどのような世界が見えていて、同じものを見ているはずのあなたにはどのように見えているのでしょうか?

もし、それぞれの見方によって考えや価値観が対立するようなことがあったとしても、共有し合える点は何でしょうか?

あるいは、対立することなくそれぞれは違う考えの持ち主として、互いに全体の一部として尊重しあっていくことはできるでしょうか?

この『最後の審判』の解釈・評価に限らず、自分の世界を広げてくれるかもしれない誰かと出会った時、こんな問いを持ちながら話し合っていくのも面白そうだな、と思います。

さらなる探求のための関連書籍

加藤 洋平『成人発達理論による能力の成長 ダイナミックスキル理論の実践的活用法』


今回の『人が成長するとはどういうことか』を読んだ時、真っ先に読み返してみたいと感じた本です。


ケン・ウィルバー『インテグラル心理学 ―心の複雑さと可能性を読み解く意識発達モデル』

この記事の本文中にあった世界中の発達心理学者、研究者たちによる発達モデルについても触れており、こちらもまた読み直してみたいと感じた一冊。


Ken Wilber『The Integral Vision: A Very Short Introduction to the Revolutionary Integral Approach to Life, God, the Universe, and Everything』

現在、未邦訳であり、個人的に翻訳しながら読んだ一冊。英語版の発行時期が近かったことから『インテグラル・スピリチュアリティ』と共通する記述も多いが、サブタイトルの通り、ケン・ウィルバーの本でありながらとても簡潔で読みやすく、今回『人が成長するとはどういうことか』を読む上でも役立ってくれた。


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