本記事は、一般社団法人Integral Vision & Practice代表理事である、鈴木規夫さんの最新刊『人が成長するとは、どういうことか 発達志向型能力開発のためのインテグラル・アプローチ』を扱った前回・前々回の読書記録記事の続きです。
ひとつの記事にまとめようとする場合、あまりにも長くなりすぎてしまったため、記事を一旦分割して公開しています。
また、前・中・後編を一気読みしてみたいという方は、完全版の記事も用意しています。
それでは、後編の続きを見ていきましょう。
高次の段階へ発達することによる社会的危機
ここまで、高次の発達段階に足を踏み入れることによって、「実存的危機」が惹起されることを見てきました。
時に、不意の「事故(アクシデント)」によって自分がこれまで描いていた人生設計や成功、幸福が脅かされたり、何より、自分が信じていたその成功や幸福というものが、実はある限定的な状況(特定の文化的・社会的文脈)のもとに成立する「虚構(フィクション)」であることが意識されてしまうことがあります。
しかし、それでもこの有限の生を生きていかなければなりません。そこから、個人としての実存的変容が始まっていきます。
と、ここまでは個人の内面における、いわば精神的な危機とも呼べるものですが、高次の段階に発達していくことは、同時に社会的危機、社会適応上の困難を生み出すことがあることを、本書では指摘しています。まず、能力の発揮については以下のような説明がなされてます。
発達を遂げることで、より高次の課題や問題に対処するために能力が最適化され、それ以前の能力は構成要素として簡素化されて継承される。その結果、既存の課題や問題に対処する能力が低下することもある。
これは、なかなか今まで目にしたことがない発想です。
上記の記述に続けて、著者の記述は後慣習段階に到達した人々の「社会適応」についてのテーマに移っていきます。
各発達段階には、それぞれを特徴づける「尊厳」(dignity)と「悲劇」(disaster)、つまり、過去の発達段階を超えて創発した新たな能力と、それゆえに過去において存在しなかったより深い苦悩や病理が存在すると言います。後慣習的段階の発想が時に「逸脱的」「無法者」("trans-law")と受け止められることがあるのも、そうしたものなのでしょう。そんな後慣習的段階の人々と社会のあり方について、鈴木氏はこんな風に述べています。
ここまで、後慣習的段階に限らず、私たちの一人ひとりの「自己」を規定する社会的・文化的文脈というものと発達の関係、各段階における「尊厳」と「悲劇」について見てきましたが、それでは、今日の社会とはどのような性質を持っており、それが各個人の発達にどのように影響を与えているのでしょうか?
以降、見ていきたいと思います。
健全な発達を阻害するフラットランド≒現代社会
いよいよ、本書の読書記録も終わりに近づいてきました。
先の章で立てた問い、すなわち、今日の社会とはどのような性質を持っており、それが各個人の発達にどのように影響を与えているのか?について、本書においてはどのように捉えているのでしょうか?
まず、社会の在り方と発達の関連、発達理論の果たす役割について、鈴木氏は以下のようにまとめてくれています。
続いて、私たちがどの発達段階に生きているのであれ、最も警戒すべき社会的な病理「フラットランド」について見ていきましょう。
どこかで聞き覚えのある言説も、もしかしたら見られるかもしれません。では、具体的にフラットランドの進行とはどのような状況を指すのでしょうか?
このように見ていくと、現在、私たちが当たり前のようにように享受している「豊かさ」の概念もまた、ある特定の文化的・社会的背景の条件のもとで成り立つ相対的なものなのかもしれませんね。
最後、このフラットランドという病理が進行する世界で、私たちはどのように世界に向き合って生きていけば良いのか?についての探求を深めていきたいと思います。
発達理論の視座を得て、いかに社会と向き合うか?
あらゆる価値が量的な価値・経済的な価値に基づいて判断されるフラットランドという、現在も進行している社会の病理について先の章では見てきました。
では、これまで見てきた発達理論の提供してくれる視座、私たちが警戒すべきフラットランドという病理という現象を見てきた私たちは、これを以てどのように社会に向き合っていくことができるのでしょうか?
鈴木氏は、フラットランドにおいて優先される量的価値・数的価値だけではなく質的な価値が存在することを見ていくこと、フラットランドを乗り越えていく存在が社会の豊かさにとって必要であること、現在維持されている社会、集団、人間関係、自己がどのようなシステムのもとに成り立っており、また、そのシステムはどのような意図のもとに形作られ、維持されているのか?を見ることによる「尊厳」と「悲劇」等について、私たち読者に語りかけてきました。
この記事にまとめ、本文中から抽出した文章は、私の現時点の興味関心や理解をもとに書籍から一部を切り出したものであり、著者の伝えんとするメッセージをどれだけ受け止められているか、わかりません。
また、著者の鈴木氏もまた対象化した場合に、もっと社会や人の発達に関して違った意見・見方も出てくるのかもしれません。
ただ、ここまで読み終えて自分なりに確からしいと感じることは、
『人がある対象を眺めるときに偏りのないレンズは無い』ということ、
『発達は人為的に起こせるものではなく、起こるものである』ということ、
『現在の社会的・文化的条件をつくるに至った歴史的背景は、その時々の必然性により選ばれ、維持され、遺されてきたものである』ということ、
『自分の価値観は、自分が得られる文化的・社会的・時代的な要素に多分に影響され、構成されてきており、そのうえで「今」この瞬間に生じる自分の意志がこの先の未来を選択していく』ということです。
以上の気づきを大事にしながら、私は今後も自然、組織、社会と関わり、自分の子どもや孫世代を見据えた選択や行動をしていきたいと思います。
自分にとって本当に身近な一歩だと、このような取り組みからでしょうか。
私は現在、兼業米農家として「食」の安全や生態系の維持、自然と人間の共存について学び始め、そして誰からでも始められる小さな一歩・選択肢を増やすべく歩み始めました。
持続可能な形の農の模索と実践、自然と共に生きる生活づくり、このような感覚を共有しあい、共同していけるコミュニティづくり……。
こうした取り組みを少しずつ着実に広げていくための、最も身近で、小さな一歩が、上記の『自然農法×バケツ稲』、『山と海の繋がりを学ぶ屋久島の旅』に関する記事にまとめた内容です。
これまで探求してきた、『ティール組織』という組織論を土台とし、さらに地域社会や地域経済、持続可能な集落・共同体というものを担う当事者(兼業米農家を継いだことで体感された意識)となった時、このようなことを考え始めました。
これまでも、本を読むのは好きでしたし、その知識や知恵を活用することで時に誰かのお役に立てることもあったかと思います。
そして、これからは自分自身の人生を、これまでのプロセスも引き継ぎながら新しくつくっていくためには、『持続可能な形の農の模索と実践、自然と共に生きる生活づくり、このような感覚を共有しあい、共同していけるコミュニティづくり』といったものが主要なテーマとなり、道標となって進んでいくこととなりそうです。
このようなタイミングで、この本に出会えて本当に良かったなと思います。
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さて、以上までこの『人が成長するとは、どういうことか 発達志向型能力開発のためのインテグラル・アプローチ』の長大な読書記録を最後まで読み進めてくださり、ありがとうございました。
ここまで読んでくださった皆さんは、この記事から何を感じ取られましたか?
もし、本を既に手に取り、読み進め始めていた方は、どこか心惹かれた部分が共通していたり、あるいは違っていた箇所はあったでしょうか?
何か心を、魂を揺さぶるような感覚をどこかで感じられたのなら、ぜひその箇所について、それに至った背景について、お話できると嬉しいです。
そして、より良い未来を今この瞬間からつくっていくために、何から一緒に始めていけるか、ぜひ対話させてください。
最後に
もう既に本書を持っている方で、白い帯を外された方は、この西洋画の存在に気づかれたでしょうか?
拳を振りかぶって人に殴りかかり、下方へ叩き落とそうとしている人や、まるで赦しを乞うように身体を縮めている人もいるようです。
調べてみると、どうやらこの西洋画は、ミケランジェロの『最後の審判』の一部のようです。
『最後の審判』とはキリスト教において、イエスが天国へ行く者、地獄へ墜ちる者の審判を下す場面の描写です。
本書のカバーにデザインされた箇所は、『最後の審判』の右側。地獄へ堕ちる者たちと、縋ろうとする者たちを振り解こうとする天使を描いた部分です。
『なぜ、最後の審判の一部なのだろうか?』
『最後の審判は、どのような比喩(メタファ)なのだろうか?』
『本書において、天使とは何者か?罪人とは何者を指すのだろうか?』
『私たちの世界において、「審判を下すイエス」にあたる存在とは何か?』
疑問が溢れて仕方ありませんが、芸術の観賞ということについて、本書中でもこのように触れています。
現時点、私自身の『最後の審判』に対する解釈はありますが、もしかしたら今後もさらに見え方が変わる、ということもあるかもしれません。
そして、このモノの見え方というのは『最後の審判』にしろ、組織の問題の見方にしろ、社会のあり方にしろ、人によって異なるものでもあるようです。
自分にはどのような世界が見えていて、同じものを見ているはずのあなたにはどのように見えているのでしょうか?
もし、それぞれの見方によって考えや価値観が対立するようなことがあったとしても、共有し合える点は何でしょうか?
あるいは、対立することなくそれぞれは違う考えの持ち主として、互いに全体の一部として尊重しあっていくことはできるでしょうか?
この『最後の審判』の解釈・評価に限らず、自分の世界を広げてくれるかもしれない誰かと出会った時、こんな問いを持ちながら話し合っていくのも面白そうだな、と思います。
さらなる探求のための関連書籍
加藤 洋平『成人発達理論による能力の成長 ダイナミックスキル理論の実践的活用法』
今回の『人が成長するとはどういうことか』を読んだ時、真っ先に読み返してみたいと感じた本です。
ケン・ウィルバー『インテグラル心理学 ―心の複雑さと可能性を読み解く意識発達モデル』
この記事の本文中にあった世界中の発達心理学者、研究者たちによる発達モデルについても触れており、こちらもまた読み直してみたいと感じた一冊。
Ken Wilber『The Integral Vision: A Very Short Introduction to the Revolutionary Integral Approach to Life, God, the Universe, and Everything』
現在、未邦訳であり、個人的に翻訳しながら読んだ一冊。英語版の発行時期が近かったことから『インテグラル・スピリチュアリティ』と共通する記述も多いが、サブタイトルの通り、ケン・ウィルバーの本でありながらとても簡潔で読みやすく、今回『人が成長するとはどういうことか』を読む上でも役立ってくれた。