ゼロから始める伊賀の米づくり14:春が来る前に石拾い
2021年、2月某日。今回は、田んぼの石拾いをすることにしました。
昨年の収穫が終わったあと、トラクターに乗って「秋起こし」をしたわけですが、
トラクターに乗って田んぼの中を走っていると、土の中にある石が顔をのぞかせている様子がよく見えます。
田んぼの中に石があるとどうなるか?
トラクターに乗れば、耕している際にその爪が傷つきやすくなり、
田植えをするために田植え機に乗れば、苗が石に引っ掛かり、根を張りにくくなります。
基本的に良いことがありません。
そのため、田んぼに水が張っておらず、時間があるときには「石拾い」をして、圃場から石を取り除くことにしました。
長靴を履き、ゴム手袋を嵌め、いざ圃場に足を踏み入れます。
直接、足で圃場を歩いてみると、様々なものが目に着きます。
大小様々な石はもちろん、どこからか投げ捨てられていたペットボトルやそのキャップ、空き缶等のゴミ、田植えの際に使っていた肥料袋の切れ端、果ては錆びついた熊手の金具まで。
こうして歩いていると、農業はポイ捨ての問題や、景観・環境保全に向き合う活動でもあるのだなぁと実感できます。
また、圃場を歩き回っていると、圃場には多種多様な生物が棲んでいる様子も伺えます。
これは田螺(タニシ)の殻でしょうか。用水路から流れ込む巻貝の一種で、水を張っている時の田んぼに棲息していたりします。
こちらはカタツムリの殻ですね。
他にもおたまじゃくしやカエル、ゲンゴロウや蛇等も田んぼに棲む生き物たちですが、冬の時期は冬眠していたりと姿を見ることはほとんどありません。
そして、私の住むこの地域には、それらよりも大きな獣も近くに棲んでいるようです。
写真にある、田んぼを横切る溝のようなものは、恐らくたぬきかキツネのような小動物の獣道です。規則正しくこのコースを走っていくようで、くっきりと筋になっています。
この獣道は、トラクターで土を耕す際に「ガガガガッ!!!」と爪が引っかかり、「あ〜、また動物たちの仕業か」と教えてくれます。
農は自然との共存であり、戦い。
生き物たちも人間も、それぞれの都合でこの土地に関わっています。
人間の立場からは、作物を育てるために。
生き物たちは、ただ生きていくために。
農業においては、人間の都合が先行しすぎると強すぎる農薬が土壌を汚染し、土の中に棲む生き物、微生物を殺してしまい、さらには農薬に耐性を持った雑草が現れ、さらに多くの農薬が必要になり……田んぼという生態系がどんどん貧しくなっていく悪循環になってしまうこともあります。
人間も自然の一部と考えるなら、自分たちだけの都合で他の生物を排除するあり方は、健全とは言えません。
共存の道が、未来の豊かさにとって不可欠になる。
そんなことを、石拾いをしながら考えます。
さて、今回の石拾いの成果はどのようになったでしょうか。
プラスチックのケースにびっしりと石ころが入っています。
総重量で言うと50kgほど。
石ころの一つひとつの大きさでいうと、拳大のものから直径30cmを超える大きなものまで(!?)
自分一人が石拾いをやらなかった場合、これだけの量の石が田んぼに残っていたことになります。
そう考えると、達成感がじわじわこみ上げてきました。
と、後片付けをしていると祖母がやってきました。
『その石、どうしたんや?』
「田んぼで拾ってきたんや」
『そうか、昔は私もおじいさん(祖母の父)に言われて腰も痛いのに拾ったりしてたわ。おじいさん(私の祖父)に言われて拾ったりもしてたけど、もうなぁ……。』
「そりゃ、お父さんの時にはもうやってなかったんやろ、石拾い」
『まあなぁ』
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・・・・・・
・・・
父が亡くなり、すっかり自分に代替わりしてしまった訳ですが、自分の家のことながら代ごとの方針の違いや、それに伴うやることの断絶等を感じてしまいます。
職人気質な祖父や父だったため、互いによくコミュニケーションをしていた、と言うわけでもなかったようです。
そういった慣習・慣行が、こと米づくりに関して、自分に代替わりしてからは『仕事の属人化』や『暗黙知の跋扈』という形で降りかかってきました。
あくまで個人的な感覚ですが、こうした『仕事の属人化』や『暗黙知の跋扈』は、仕事一般で考えると、やりづらくなるものです。
ある人が抜けたり、いなくなってしまった時に、仕事が回らなくなってしまう。
そう考えると、後を継ぐ人が出てきた時にその人がやりやすいように、『暗黙知は共有知化』し、『属人化した仕事を、誰かが交代しやすい状態にする』ことは有益じゃないかと思うのです。
と、そんな実利的なことも思う一方、そうした祖父や父もまた、良かれと考え、それぞれの理屈や理由の元にこの仕組みを意識的であれ、無意識的にであれ、遺してきたのだろう、とも想像します。
今、現在維持されているシステム・仕組み・慣行・習慣と向き合うことは、その枠組みを維持しようとしてきていた誰かの意図や、そうせざるを得なかった当時の周囲の状況とも向き合うことです。
今現在にまで維持され、遺されてきているということは、それに理や利があったということ。ただし、今現在では綻びが見えてきていたり、時代や状況に合わなくなりつつある、というだけ。
何かを自分の願う方向に変えていこうと思う時は、変えたいと思っている対象やその対象を形作ってきた先人たちに敬意を払うことが肝要。
家と土地、生業を継いでみて、意図せず組織変革というもののあり方に思いを馳せることになりました。
このような得難い経験ができることを可能にしてくれた、先人たちに感謝です。
サポート、コメント、リアクションその他様々な形の応援は、次の世代に豊かな生態系とコミュニティを遺す種々の活動に役立てていきたいと思います🌱