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短編小説「猫ふたつ」

 庭先に根を下ろした梅が満開に花を綻ばせ、香しい梅の花の香りが家中を満たしていた3月初旬のことである。夫と共に暮らしていた一軒家に、ある一匹の野良猫が迷い込んで来た。真っ白な毛並みのその猫は、庭先でガーデニングの手入れをしていた私の足元にやって来て、何の遠慮もなくそのしなやかな体を摺り寄せて来たのだ。

「・・・あなた、どこから来たの?」

 そう言って柔らかい毛並みを撫でてやると、白猫は「なう」と一声だけ鳴いて喉を鳴らし始めたのだった。私はそんな白猫のある特徴に気が付いた。

「どうした?」

 近くで車を洗っていた主人が身をジッと屈めていた私に気付いて声を掛けて来た。私は顔を上げて、

「猫」

 と返事をした。

「猫?」

 不思議そうな顔をして屈んだ私の足元に視線を落とした主人。白猫はその視線に気付いたのか今度は主人の方を向いて「なう」と鳴いた。

「真っ白な猫だな。どこから来たんだろ?」

「さぁ」

「首輪はしていないのかい?」

「ううん、してない。野良猫なのかな」

 水道を止め、肩に掛けていたタオルで手を拭きながら主人が近付いてくると、白猫はするりと主人の足元に擦り寄り、その顔を見上げては「なう」と猫撫で声を披露したのだった。

「この子・・・・」

 猫を優しく撫でる主人がそう呟いたので、彼も「そのこと」に気付いたことを私は悟った。

「うん、お腹が大きいみたい」


 庭先で少し遊んだ後、私達はその白猫を飼うことに決めた。主人とは今年で結婚6年目になるが一度も動物を飼ったことはなかった。別段動物が好きという訳ではなかった私とは裏腹に、主人は無類の猫好きだった様である。今思えば家の中のインテリアにも、愛車の中にある細々としたグッズにも、自分のスマホケースにも、あらゆる所に猫のイラストやシルエットを模したデザインを見受けることが出来た。主人は一言も「猫が好きだ」などと言ったことはないし「猫を飼いたい」とお願いしてきたこともない。少しお喋りな私と違って、無口な主人はいつもひっそりと自分の趣味を楽しむ人だった。

 白猫を家に招き入れると、主人は早速土に汚れた白猫の足と体を丁寧に拭きあげ、カップに注いだ水を与えた。

「本当に良かったのかい?」

 そう主人が訊ねて来たので、

「これも何かの縁かもね」

 と私が苦笑して見せると、主人はどこか安心した様に笑っているのだった。その時、2階からドタドタと階段を駆け下りてくる音が聞こえた。

「起きたかな?」

 苦笑しながらそう呟いた私が階段の方を振り向くと、そこには目を輝かせた三つ編み姿の愛娘がいた。

「どうしたの? その猫!」

 娘の優奈(ゆな)は今年で5歳になる。

「見ての通り、今日から私達の家族になりました」

 私がそう言って両手を広げると、

「ええっ、ほんと?」

 と、優奈も目を丸くして同じように両手を広げた。

「本当だよ」

 隣の主人が嬉しそうにそう答えた。

「やった、やった!」

 と飛び跳ねてはしゃいだ後に、優奈はフローリングに四つん這いになりながら水を舐める白猫の元までやって来た。ジッと見つめる大きな瞳に気付いた白猫はぺろりと優奈の額を舐めた。

「うわっ、ザラっとしてる」

 ころんと仰向けになり、足をバタバタとしてはしゃいでいる優奈の様子を微笑んで見ていた主人が何やらゴソゴソと準備を始めた。

「どうしたの?」

 と私が問うと、

「ペットショップに行って来ようと思って」

 と答える主人。

「キャットフード?」

「うん、何でも食べさせるわけにはいかないからね」

 なるほど、それでミルクじゃなくて水を飲ませたのね、と私は納得するのだった。

「優奈、父さんとペットショップに行くかい?」

 水を飲み終わった白猫の頭を小さな手で撫で続けていた優奈に主人はそう訊ねた。

「え~、あたし、猫ちゃんと一緒にいたい」

「これからずっと一緒にいれるよ、色々買わなきゃいけないから優奈に手伝って欲しいな」

「お母さんと行って来なよ~」

 優奈は口先を尖らせてその場を動こうともしなかった。私はそんな優奈の前から白猫を抱き上げ、

「じゃあ、お父さんとお母さんとこの子で行って来ようかな」

 と意地悪っぽく言ってみると、

「いやっ、あたしも行く!」

 とあっさり連れ出すことが出来たのだった。

 結局、私達は3人で今日出会ったばかりの白猫を連れてペットショップへと向かった。不思議なことに白猫は車の中に乗っても大人しくしており、助手席に座る私の膝の上で丸くなって眠っているのだった。ペットショップでキャットフードや猫用のトイレなど、必要な物を色々買い揃えて家路に着こうと車を走らせ始めた時、

「病院にも連れて行った方がいい気がする」

 と主人が言った。私は白猫の大きなお腹をそっと擦り、

「そうね、ワクチンとかもあるんでしょ?」

「うん、この子は妊娠中でもあるし・・・ワクチンのことは獣医の先生に訊いてみよう」

 そんな主人の言葉に私は頷いた。現実的なことを言うと冷たい様に聞こえるかもしれないが、この白猫はさっきまで野良猫であった訳であるし、感染症や病原菌を有している可能性は拭い去れない。ましてや幼い5歳の娘が居るとなると、やはり不安は強くなる。戯れている内に引っ掻かれたり噛みつかれたりする可能性だってあるのだ。
 そんなことをぼんやりと考えていると、

「心配かい?」

と主人に訊ねられた。主人は心配症で不安家な私のことを良く分かってくれている。

「うん、でもきちんとすれば大丈夫だから、そこは手を抜きたくないな。飼ってもいいって言ったのは私だし」

 そんなことを答えながら、ふと、私はあることに気が付いた。主人がなぜ「猫を飼いたい」と今まで私に言ったことがないのか。 
 私は運転する主人の横顔を見つめて、

「ありがと」

 と言った。彼は「何が?」ととぼけていたが、実は私の気持ちに十分気付いているくせに、と苦笑する私だった。

 動物病院を受診した結果、白猫の健康状態は良好で感染症にも罹患していなかった。どうやら彼女は妊娠43日目程らしい。エコー検査の結果、胎児は5匹確認された。念のために白猫のワクチン接種は出産後の哺乳期を過ぎた直後がよい、とのことだった。安心した私と主人は、はしゃぎ疲れて後部座席でまた眠ってしまった優奈と、大人しくその隣に座っている白猫の様子を見つめながら、

「名前はどうしようか」

 なんて話をしていた。

「シロは?」

 と私が言うと、主人は苦笑した。

「そのまんまだな」

「いいじゃない、この子の一番のチャーミンングポイントなんだから」

 結局、白猫の名前は『シロ』になった。家に帰り着いて目覚めた娘に「つまんない!」と頬を膨らまされたが、私は譲らなかった。『さとう』とか『こむぎ』とか『たまご』とか『ミルク』とか、パンケーキでも作りたいのだろうかと思える優奈のネーミングセンスに溜息を溢してしまったのを否むつもりもないし、何より決め手になったのは、私が「シロ」と呼ぶと、必ずシロが「なう」と返事をすることだった。まさに命名ではなかろうか。

 こうして、私達3人家族に、シロという名のもう1匹が加わった。
 シロは甘えん坊で大人しい猫だった。いつも誰かの膝の上にやって来て、グルグルと喉を鳴らす。優奈はいつもの2倍はしゃぐ様になり、主人の口数も心なしか増えた気がする。私は子をお腹に宿したことのある同士の様な存在としても、シロとの生活に充実感を覚えるのだった。
 そして、私達の家にやって来て約2週間後、シロは無事に5匹の小さな子猫達を生んだ。

 生まれて来た子猫達を見た私と主人は、あることに驚いた。最初に生まれて来た3匹の子猫は体毛の白い小さな子猫達だったが、最後に生まれて来た2匹の子猫達は、なんとその尻尾が繋がっていたのだ。

「こんなことってあるの?」

 尾の繋がった2匹を抱き上げた私がそう訊ねても、主人は「さぁ」と首を傾げるばかりだった。優奈は「すごいね!もっと見せて」と相変らずはしゃいでいたが、私が一抹の不安を抱えていることを感じ取ったのであろうシロは、じっと私と尾の繋がった子猫達を見つめているのだった。

「形態異常かもしれないな」

 そう呟いた主人と共に、私は次の日の午後、尾の繋がった子猫達を動物病院へと連れて行った。そして案の定、獣医師もそんな2匹を診て首を傾げつつ、

「形態異常でしょうね」

 と言った。しかし尾が繋がっていること以外、極めて健康的な状態の2匹は、出産後もシロに身体を舐められた後、しっかりとその乳房に吸い付いて母乳を摂取していた。2匹は十分な体力を持った子猫達だと私は思った。しかし、

「手術はできません」

 と獣医師が言った。

「どうしてですか?」

 そう訊ねる私と主人に、獣医師は2匹の連結した尻尾のレントゲン写真を見せてくれた。

「2匹の尾骨神経が完全に結合していて、安易に切断してしまうと2匹共に後遺症が発生する可能性が高いのです」

「後遺症、ですか?」

「猫の尾骨神経は、骨盤神経、下腹神経、陰部神経等と部分的に連結しているので、強い外力を加えると神経を圧迫、あるいは損傷して排尿障害や歩行障害を引き起こす危険性があります。この子達の場合は、どうやら尾骨を介して強固な神経結合がなされている様なので、神経支配がどこまで及ぶのか見当が付かない。そんな状態での手術はかなり危険だと思われます」

「・・・どうすればいいのでしょう?」

 やや狼狽した私の問いに、しばし思案した獣医師であったが、

「もう少し成長を見てみましょうか。成長するにしたがって、連結しているお互いの尾骨が独立していく可能性もありますから・・・」

 そうして私達は、そのままの姿で2匹を育てることにした。


 子猫達が生まれて1週間後、私達は子猫達に名前を付けた。体毛が白い3匹の子猫達は、それぞれ『パン』、『チーズ』、『ハム』と命名された。全部、娘の優奈による命名だ。何かと食べ物の名前に関連付けようとするのは、優奈が「花より団子」の精神を持つ私の遺伝子を受け継いでいるからなのだろうな、と笑わずにいられなかったのをよく覚えている。
 そんな白毛の子猫達とは対照的に、尾の繋がった2匹の子猫達は共に斑模様の三毛猫だった。そして当然、2匹とも雌だ。
 1匹は、全身茶色を基調として背中に大きな黒い斑点が点々とあり、腹部は真っ白。私はこの子に『ミケ』と名付けた。もう1匹は、茶色の顔の右目側に大きな黒い斑点があり、体幹は白を基調に四肢が茶色だった。この子には『ドラ』と名付けた。

「そのまんまだな」

 とまたもや主人に笑われたが、これでいいのである。優奈よりマシである。こうして、新たに5匹の家族が加わった私達の家庭は、より一層賑やかになるのだった。

 2匹の猫を繋ぐ尻尾はおおよそ猫1匹分程の長さであり、腰を下ろしたり、食事を摂ったり、睡眠を摂るのに不都合は無さそうであった。お互いに身を寄せ合い、仲良く毛繕いなどをしている姿をよく見掛けた。ただ進行方向が違うと、尻尾を引っ張り合いながら2匹して横に進んでいる姿もよく見掛けた。しかし命を繋ぐ尻尾であることを子供ながら本能でしっかり理解しているのであろう2匹が、片方の猫をぞんざいに扱うことは無かった。
 生まれて来た子猫達は皆、食欲旺盛ですくすくと成長していった。そんな様子を母親のシロはいつも穏やかな目で見守っていた様な気がする。

 子猫達が生まれて3ヶ月が過ぎる頃、主人の同僚らに猫を飼いたいという家族が現れ、私と主人と優奈とで話し合った結果、『パン』、『チーズ』、『ハム』の3匹は、それぞれ違う家庭に貰われていくこととなった。最初は「嫌だ!」と駄々を捏ねていた優奈であったが、しっかりと話し合いには参加してくれたし、最後には貰われて行った子猫達を涙ながらに見送っていた。今年の春から小学生になった優奈を

「お姉ちゃんになったね」

 と褒めると、

「あたしもいつか、子供達を見送るお母さんになるからね」

と言っていた。子供の成長は早いものである。

 そして誕生から6ヶ月が過ぎる頃、ミケとドラ、そして母親のシロは私と主人と共に動物病院に居た。ワクチン接種及び、避妊手術の為だ。しかしそこでも私達は不思議な、と言うより哀しい話を獣医師から聴かされた。

「この子達には子宮がありません」

 私と主人はお互いの目を見合わせ、暫く絶句していた。

「先天的に、ということですか?」

 恐る恐る私がそう訊ねると、

「・・・はい」

 と獣医師は静かに答えた。そんな獣医師の前で、「なう、なう」と元気に鳴いて動き回ろうとする2匹。私はそんな2匹の体を撫でながら、ポロリと小さな涙を溢したのだった。

 結局、2匹の尻尾は6ヶ月を過ぎても独立する気配がなかった。私と主人は2匹の生活を目の当たりにしており、不都合もなく成長している様子なので、保証のない手術で負担を負わせるより、ありのままの姿で2匹には生きていてもらおう、と決意したのだった。

 それから、お転婆の盛りを迎えたミケとドラは、2匹で一緒に家中を走りまわっては障子を破ったり、花瓶を倒したりと悪戯ばかりをするようになっていた。しかし、私も主人も優奈も、そしてシロもそんな2匹の様子を咎(とが)めることは無かった。

「あたしが掃除するよ」

と、いつも優奈が率先して2匹の世話をしていた様に思う。

 ミケとドラが1歳を迎える頃、私はあることに気が付いた。ドラの背中に、薄っすらと黒い斑点が現れ始めたのだ。どことなくその斑点は、ミケの背中の斑点によく似ている様な気がした。

「ねぇ、見て」

「本当だ、不思議だね」

 私と主人はそんなことを言い合いながら、2匹をお互いに抱き合ったものだ。

「姉妹だからね、似てくるんじゃない?」

 と宿題をしながら言う優奈は、最近三つ編みをしなくなった。クラスの女子の間では、ストレートヘアが流行っているらしい。

 それからというもの、ドラの背中の斑点は日に日に濃くなっていき、その変化に気付いて1年が経つ頃には、ドラの背中にはミケと同じ斑点がくっきりと仕上がっていた。そして、そんな変化と共に、もう一つ別な変化も見られた。ミケが日に日に痩せていき、見るからに衰弱し始めたのだ。美しかった毛並みはすっかり艶が無くなり、少し触れただけで体毛が多く抜けた。ぐったりと眠ることが多くなったミケを、隣で心配そうに舐めるドラ。そんな2匹の姿をよく見掛けるようになったのだった。
 あまりにも突然のミケの体調の変化に、私が動物病院へ連れていくと、

「皆目見当も付きません」

 と獣医師に言われた。検査の結果、感染症やその他の疾患への罹患も疑われなかった。

「どうしちゃったの、ミケ?」

 その衰弱した体を撫でても、ミケは目をジッと閉じたまま静かな呼吸を続けているのだった。

 そんな、ある平日の日の昼下がり。私は台所で猫用の経口栄養補助食品の準備をしつつ、やけに家の中が静かであることに気付いた。
 リビングに向かうと、さっきまで同じソファーの上で静かに寝ていたミケとドラの姿が消えていたのだ。

「ミケとドラは何処に行ったの?」

 と寝ていたシロに訊ねても、ただ彼女は「なう」と答えるばかりだった。
 私は家中を探した折に、2階の優奈の部屋の窓が少しだけ開いているのを見付けた。鍵を閉め忘れていたらしい。靴を突っ掛けて近所を探し廻ったが、ミケとドラの姿は見当たらなかった。仕事から帰って来た主人、学校から帰って来た優奈と共に日が暮れた後も探し廻ったが、結局2匹を見付けることは出来なかった。

「どうして・・・」

 私がメソメソと泣いていると、主人もその理由に気付いたためか私の背中をそっと撫でて、

「大丈夫、じきに帰って来るよ」

 と言った。優奈は自分の失態だと思ったのか、私と同じようにメソメソと泣いていた。

「・・・猫は、最後の時が近付くといなくなるんでしょ?」

 そんな優奈の問いに、主人と私は何も答えることが出来ずにいるのだった。

・・・こんなに早い別れがあるの?

 私達は重い足を引き摺りながら、最近年老いて来たシロの待つ自宅へと帰って行ったのだった。


 それから1ヶ月が経つ頃、私は『猫を探しています』と言う文言とミケ、ドラの写真が載った自作の張り紙をリビングで見つめていた。
 その日は土砂降りの一日で、私は眠るシロを膝に乗せたままぼんやりと湿った窓の外を眺めているのだった。その時ふと、「なわう」という低い猫の鳴き声が聞こえた。シロも顔を上げ、耳を尖らせている。すぐに立ち上がり雨の降る窓辺に近付くと、そのベランダに大きな体をした三毛猫が1匹で佇んで私を見上げていた。

・・・ドラだ、ドラが帰って来た

 しかし同時に、私はあることに気が付いた。ドラの尻尾の先にミケの姿が見当たらなかったのだ。窓を開け、びしょ濡れになっているドラを抱き上げると、前よりその体を重く感じた。

「どこ行ってたの? ミケはどうしたの?」

 と私が訊ねても、ドラは唯「なわう」と鳴くばかりであった。ドラの尻尾の先は何事もなかったかの様に真っ直ぐ伸びているだけだった。

 それからというもの、ドラは私達の前から突然姿を消してはある時ふらっと帰ってくる、ということが何度もあった。そしてその度にドラの体は少しずつ大きくなり、立派な雄猫の様な体格になっていくのだった。

 月日が流れ、今度はシロが体調を崩し始めた。シロの体調の変化は病気ではなく老化現象によるものだった。その時も姿を晦ましていたドラであったが、シロの最後が近付くとドラはふらっと帰って来て、シロの静かな鼓動が止まるまでその隣に添い寝していた。
 私と主人と、中学生になった優奈とドラで、静かに息を引き取るシロの最後を見届けたのだった。

 その5年後のある日の夕暮れ。久しぶりに家に帰って来ていたドラが、何やらソワソワと家中を歩き回っていた。時折、「なおん、なおん」と聴き慣れない低い声で鳴き声を上げている。

「どうしたの、ドラ?」

 そう訊ねる私の瞳をジッと見つめた後、ドラは今年高校3年生になった優奈のぬいぐるみを引っ掻き始めたのだった。

「やめなさい、ドラ。優奈に怒られるよ」

 と叱ってみたが、一向に止める気配は無かった。そして再び、私の瞳をじっと見つめる。この頃のドラの瞳には、まるで人間の様な理性が灯っている様に私には思えた。突然、異様な寒気を感じた私は、この時間帯塾に行っている筈の優奈のスマホに連絡を入れてみようと思った。すると、丁度優奈の方から電話が掛かって来たのだった。

「・・・もしもし? 優奈?」

 すると、

『優奈さんの、お母さんですか?』

 向こうから返って来た問い掛けは、若い男性の声だった。

「・・・あなたは?」

『警察のものです。お母さん、落ち着いて聴いて下さい・・・・』

 警察の彼の話によると、優奈が交通事故に合い、意識不明の重体で病院に搬送されたということだった。頭が真っ白になった私は腰が抜け、床に頽(くずお)れていた。受話器の向こうで呼ばれる声も聞こえずにぼんやりしていると、私の腕をドラが軽く引っ掻いた。ドラは相変らず穏やかな瞳で、ジッと私を見上げていた。

「そうね・・・・行かなきゃ・・・」

 それから私は、どのようにして病院まで向かったのか覚えていない。主人に電話したことも、車のレバーをドライブに入れたことも覚えていなかった。唯、ドラの心の声が聞こえた様な気がしたのは今でもよく覚えている。

 それから、緊急手術を無事に乗り越えた優奈は、しばらく生死の境を彷徨い続けた。病院のベッドに眠る娘の姿に何度も心が折れそうになったが、私は毎日病院に通い続け、優奈が目を覚ましてくれることを祈った。
 そんなある日、病院に通い詰める私の耳に、看護師達が話す妙な噂話が届いた。それは、夜勤中、午前2時を回る頃、1匹の体の大きな猫が優奈の病室に迷い込んでくる、というものだった。毎回夜勤スタッフで追い払うのだが、やはり優奈の病室に現れるのだという。その猫の特徴を詳しく訊いてみると、ドラであることがすぐに分かった。噂話を聴いた次の日の夜、優奈の病室に泊ってみると、1匹の猫が静かにやって来て、眠る優奈の布団の上にその大きな体を横たえたのだった。

・・・間違いない、ドラだ

 私はカーテンの陰に隠れてその姿を盗み見ていたが、きっとドラは気付いていたのだろう。私の方をちらりと一瞥して、後は知らんぷりをしているのだった。

 その数日後、奇跡が起こった。優奈が目を覚ましたのである。

「良かった・・・・本当に良かった・・・」

 そう言って、優奈を抱き締めながら私は大声で泣いた。主人も涙を流し、すっかり腰を抜かして座り込んでしまっているのだった。
 すると、

「・・・ドラは?」

 と泣きじゃくる私達を他所に優奈はそんなことを訊ねて来た。ティッシュで鼻をかみながら、

「今は家にいると思うけど、どうして?」

 と私が訊ねると、優奈はにっこりと笑って見せた。

「ドラが助けてくれたの」

 私と主人はきょとんとした顔でもしていたのだろう。優奈はくすくすと笑いだし、病室の窓から見える街の景色を眺めながら言った。

「真っ暗な夢の中でね、ドラが道案内してくれたの。こっちだよって」

 その後、再び私達の前から姿を消したドラは二度と戻ることはなかった。

 ◇◇◇◇◇◇§◇◇◇◇◇◇

 あれから四十年の月日が経ち、娘の優奈は結婚して双子を授かった。長い年月を共にした主人は眠るように逝った。すっかり年老いた私が自宅の縁側に腰を下ろしてぼんやりと庭先を眺めていると、一匹のこれまた年老いた大きな三毛猫が草陰から現れた。
 その猫の顔の右側には大きな黒い斑点があった。
 驚いた私が、

「・・・ドラ?」

 と問い掛けると、その三毛猫は「なわう」と一度だけ低い声で鳴いて長い尻尾を振って見せた。
 老いた私の目に映ったその尻尾の先は、夢か現か、二つに分かれて見えたのだった。


< 終わり >


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