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小説「アウスリーベの調べ」

 赤い夕陽が差し込む廊下は、どこまでも永遠に続いていた。誰もいない教室、誰もいない校舎、誰もいないグラウンド。仄暗い赤に染められた世界は、全ての事物の営みやそれらが立てる物音の一切を奪い去ってしまった様に静まり返っていた。
 そんな世界を唯一人、あてどなく彷徨い続ける少女がいた。彼女は時折立ち止まり、背後に伸びる長い廊下を振り返った。しかしその瞳に映るのは、永劫回帰する赤い景色ばかりで、別の世界へと繋がる窓枠は一つも浮かび上がらない。
 溜息を漏らし、すぐ傍にある教室の立て札を仰ぎ見た。そこには『二年七組』と記してある。彼女はこの立て札の前を一体何度行き過ぎてきたことだろう。室内では主人の居ない机と椅子が雑多に放置され、端に落書きのされた黒板が能面を被った様に沈黙の底へと沈んでいた。何度同じ教室に入り、何度同じ景色をぼんやりと眺めたことか。もはやその数を思い出すことすらできない程に、少女は同じ場所を延々と彷徨い続けていた。
 ぐるりと教室内を一回りし、息をつこうと教壇の椅子に腰を下ろした時。彼女の安息を待ち構えていた様にあの忌々しいメロディーが再び聞こえ始めた。どこか遠くから、空気の隙間を蛇みたく這ってくるフルートの音色。少女は両手で耳を覆い、震える体を小さく縮めた。それでもロベルト・シューマン:子供の情景第七曲『トロイメライ』の調べを奏でるフルートの音色は、容易く彼女の白い両手を擦り抜け、耳孔の奥深くまで入り込んで来る。強く目蓋を閉じ、何度も首を横に振った。

「……お願い。もうやめて」

   *

 残暑も萎え、肌寒さが募り始めた十月の或る日。昼休みの喧騒から逃げ出す様に教室を後にした沙耶さやは、校内の隅にひっそりと佇む古い図書館へと向かった。いやに寂れたその建物は、各学年の教室がある校舎からやや西側へ逸れた暗い場所にあるので、普段から利用する生徒は殆どいなかった。昼休みに足を運んでも、受付に座した図書委員が密かなスマホいじりに興じているだけで、他の者に遭遇することは滅多に無い。借りていた本の返却日が明日に迫っていたのもあり、とにかく一人になりたかった沙耶は、そんな静謐で人気のない図書館へと憩いの場を求めたのだった。
 受付に本を返却し、気の向くままに館内を歩き回った。並んでいる本の背表紙を指でなぞりつつ、これまでに読んだ作品の内容を思い返す。一度読んでそれきりのものもあるが、何度読み返しても飽きのこないものもある。最近読んで好きになり、再読しているのは、ネヴィル・シュートの「On the Beach」だ。沙耶はモイラに酷く共感し、タワーズ中佐を素敵な男性だと思った。本当の世界の終わりとはかようにも静かで淡々としたものであり、それ故に不気味な美しさを孕んでいるのかもしれない、と読了した時の感動を思い出し、彼女は一人で身を震わせているのだった。
 しばらく館内を巡回し、気になった本があればその場で立ち読みをしたりした。そうして哲学・宗教学のコーナーに差し掛かった折、沙耶はあることにふと気が付いた。
 館内北側の隅に位置する壁に、一つだけ関係者以外立ち入り禁止の扉がある。いつもなら固く施錠されている筈の扉が、その時ばかりは少しだけ開かれたままになっていた。
 借りようと手にしていた本を胸に抱き竦め、恐る恐る扉へと近付く。隙間から奥を覗いてみたが、扉の向こうには底知れない闇が広がるばかりで、中の様子を窺い知ることは殆どできなかった。ただそよそよと冷たい風が吹いてきている。
 沙耶は淡い恐怖に駆られながらも肩に乗る好奇心を手懐けられず、そっとドアノブに手を掛け重い扉を開いてみることにした。錆びた継ぎ目が「ぎい」と音を立て、少しだけ背筋が凍った。やがて扉は人一人を飲み込む程度にゆっくり開き、館内の照明が上へと昇る階段の始まりをぼんやりと二、三段照らし出した。顔だけ中へ突っ込んで、階段の続く先を確かめる。奥は余りにも暗く、この場所からでは何も見えなかった。沙耶は制服の内ポケットに忍ばせていたスマホを取り出し、ライトを点けてかざしてみた。しかし光が届くのは二、三メートル先までで、その奥はやはり窺い知れない。
 一度身を引き、ドキドキとした痛みを抑えるよう胸の上で本を抱き締めた。呼吸が浅くなっている。辺りをきょろきょろ窺い見たが、図書館内は相変らず静かで、立ち並ぶ書棚の影になっているこの場所からは受付に座る図書委員の姿も見えない。沙耶は一つだけ生唾を飲み、しばらく暗い階段を眺めた後、意を決してゆっくりとその一段目へと右足から掛けていった。
 急な階段を十三段ほど上って行くと、やや開けた場所に出た。スマホのライトが照らし出したのは古紙と埃のにおいに満ちた一室で、そこには幾つかの古い書棚が立ち並んでいた。空気の肌触りはシルクに似た滑らかさだが、ひんやりとしていて思わず身が震える。人の流れや時の流れ、そういったものから遥かに取り残されてしまっている様な気配がした。
 沙耶は埃を被った書棚の間を静かに歩きつつ、そこに並べられている書籍の背表紙を観察した。ほとんどが古い洋書や専門書で、もう何年も人の手に触れられていない様子だ。肩を小さく窄め、スマホのライトを頼りに少しずつ奥へと進む。
 とその時、突然どこかで紙の捲られる音がした。沙耶はびくりと小さく飛び上がり、すぐさま音のした方へと明かりを向けた。しかしそこには壊れ掛けた古いデスクと椅子が無造作に置かれているだけで、誰の姿も見受けられなかった。そっと歩み寄り、埃を被った机上を眺める。その足元には真ん中からへし折られた古い絵筆が一本だけ転がっていた。
 なんでこんな所に? そっと手を伸ばそうとした時、再びさらりと紙を捲る音が聞こえた。どうやら音は、部屋の更に奥から反響してくるらしい。沙耶は脇に挟んでいた単行本を宙に掲げ、もしもの時に備えつつ先へと進んだ。耳元で鼓動が騒ぎ立てる。
 やがて部屋の一角に、ぼんやりと橙色の明かりが灯っているのを見付けた。

「……あの、どなたかいらっしゃるんですか?」

 恐怖を紛らわすため、明かりに向かって声を掛けてみた。しかし何の反応もない。目を凝らしてみると、小さな明かりの下で一冊の本が広げられ、見開きのページには何者かの手が添えられていた。問い掛けに対して余りにも反応を欠いていたので、彼女はもしや死体でなかろうか、といぶかしみながらも、スマホのライトをゆっくりと橙色の明かりの方へ向けてみた。
 不意に、こちらをじっと見詰める青白い顔が闇の中に浮かび上がった。「ひゃっ」と悲鳴を上げた沙耶は、驚いた拍子に背後の書棚で体を強く打ち、手にしていたスマホを床に落としてしまった。ぐらりと揺れる書棚から、一斉に埃が舞い上がる。
 背中の痛みに耐えつつ、急いでスマホを拾い、再び青白い顔の方へライトを向けた。小刻みに震えるライトが照らし出したのは、古びたデスクの椅子に座す一人の男子生徒だった。

「……あなたは誰?」

 声の震えを必死に抑えながら沙耶がそう訊ねると、

「ここには来ない方がいい」と彼は静かに答えた。

 沙耶は書棚にぴったりと背中を預けたまま、白く浮き上がる男子生徒の顔を見詰め続けた。彼もまた口を噤んだままこちらを見ていたが、やがて何事もなかった様に視線を手元へ戻し、再び本の続きを読み始めた。見開きのページを細長い指がなぞる。男子生徒の手元を照らす橙色の明かりは、気付けば仄かに揺らめく蝋燭の炎だった。
 沙耶はこくりと生唾を飲み込み、「あの、あなたは……」と訊ねようとしたが、不意に「誰かいるんですか?」と言う声が遠く背後から聞こえた。

「ここに入っては駄目ですよ」

 咎める様な声は、恐らく受付に座っていた図書委員のものだ。彼女は沙耶の立てた物音に気付いたらしい。「ごめんなさい。今出ます」と慌てて返事をし、沙耶が再び男子生徒の方を見やると、彼の姿は既になく、蝋燭の灯もすっかり消えてしまっていた。

 部活が終わり、窓辺に寄って夕闇の空を覗くと、小さな星がちらほらと輝きを放っているのが見えた。窓外まで明かりの漏れ出る音楽室はやけに眩しく、楽器を片付ける部員達の会話も忙しなく辺りに響き渡っている。沙耶は夕暮れの空から視線を落とし、再び床を掃く作業へと意識を戻した。物思いから一人になりたい、という衝動に駆られてはいたが、与えられた役割は何であれきちんとこなしたいという拘りもあったので、彼女は黙々と目の前の作業を片付けていった。
 室内の四隅を掃き終える頃、突然同じクラスの美咲みさきに背後から強く抱きすくめられた。「ひゃっ」と沙耶が驚くのを、美咲は普段から面白がるところがあった。

「相変わらず真面目ね。早く帰ろうよ」

 彼女は最近、伸ばしていた髪を随分と短く切っている。

「もうすぐ終わるから待って」

 沙耶がそう返すと、手を放した美咲が背中を軽く叩いた。

「いいって、そんなの適当で」

 途端に「あなたはもう少し見習いなさい!」という声が教壇の方から飛んで来た。腰に手を当てた吹奏楽部顧問の高橋先生が目を細めてこちらを見ていた。美咲は高橋に向かってぺろりと舌を出して見せ、へらへらしながら沙耶を帰り支度の方へと引っ張って行った。

 音楽室を後にした二人は、校門を出ると同じ方角の帰路へと就いた。二人きりになると決まって止めどないお喋りを始めるのが美咲の習慣で、沙耶はいつも聞き役に回っていた。
 情報通な美咲はいつも多くの話題をストックしており、校内での恋愛事情や教師の危うい噂、テスト情報や他の部活動の大会成績など、沙耶が知りもしないことを実に事細かく知っていた。今日の帰り道も相変わらず止めどないお喋りに興じている美咲であったが、沙耶はそんな彼女の話など殆ど聞き流し、まるで上の空な様子でぼんやりと中空を眺めていた。

「……ねぇ、何かあったの?」

 突然そう訊ねられ、沙耶は思わずはっとした。隣を歩く美咲の顔を見やると、彼女はいつになく真面目な顔をしてこちらをじっと見詰めていた。

「ううん、別に何も。どうして?」

「なんだかぼんやりしているから。いつもの沙耶と違う気がする」

「いつもと違う?」

「うん。どこか遠い場所に行っているみたい」

 沙耶は足元へ視線を落とし、アスファルトに転がる小さな石ころを蹴った。昼休みに図書館の二階で遭遇した奇妙な男子生徒のことが頭から離れずにいた。どうして彼はあの部屋にいたのだろう。彼は一体何を読んでいたのだろう。彼は一体何者なのだろう。あれから姿を見失い、慌てて一階へ降りてしまった沙耶は、図書委員の生徒に「二階に人がいた」と報告する余裕もなかった。

「ちょっと、疲れてるのかも」

 沙耶が微笑みながらそう返すと、美咲は不満そうに口を「へ」の字に曲げたが、それ以上しつこく訊ねる様なこともなかった。
 近くで踏切音が鳴り始め、二人のすぐ傍を八両の快速電車が通り過ぎて行った。やがて静けさを取り戻した線路脇の夜道に、革靴の立てる二組の足音がかつかつとよく響いた。

「そう言えばさ、沙耶ってよく学校の図書館に行くよね」

 何を思ってか美咲が突然そう訊ねてきた。沙耶は驚いたが、気を取り直し、

「うん。落ち着くから」と答えた。

「静かな所が好きなの?」

「騒がしい所が苦手なの。昼休みの教室って、なんだかざわざわしているし」

 遠い夕闇の彼方から、旅客機の放つ飛行音が聞こえてきた。航空灯を点滅させながら二人の上空を行き過ぎ、旅客機はあっという間に夜の向こうへと去っていく。
 美咲はしばらくその様子をじっと見上げていたが、ふと息を漏らす様に、

「沙耶はさ、図書館の二階に部屋があること知ってる?」と訊ねた。

 沙耶はどきりとした。しかし嘘をつくのも嫌だったので、「知ってる」と答えた。

「あそこには行っちゃ駄目だよ」とすぐに美咲が言った。

「昔、あの場所で亡くなった生徒がいるらしいから」

 夜風がふわりとやって来て、沙耶の長い髪を揺らした。鈴虫の声音に寄り添う風は確かに彼女の頬を冷たく撫でたが、明らかに気配の異なる寒さも、ひっそりとその肌の上に残していった。

 翌日の昼休み、沙耶は再び図書館へと足を運んだ。入口から館内の様子を窺い見ると、昨日とは違う図書委員の生徒が一人で受付に座っていた。沙耶はほっと胸を撫で下ろし、下手に意識しないよう受付の横を通り過ぎた後、二階へと続く階段扉の前へと向かった。そこにはこれまで同様、関係者以外立ち入り禁止の古めかしい扉が佇んでいたが、昨日とは違い、扉はぴったりと閉じられていた。ドアノブに手を掛け引っ張ってみたものの、寸分たりとも動かず、どうやら鍵を閉められてしまったらしいということに沙耶は気が付いた。

「あそこには行っちゃ駄目だよ。昔、あの場所で亡くなった生徒がいるらしいから」

 不意に美咲の言葉を思い出し、沙耶は足元からひんやりとした恐怖感が這い上がって来るのを感じた。美咲が知っているのは過去にあった出来事というだけで、それが二階で遭遇した男子生徒と関係があるのかどうか分からない。しかし、もし彼がこの世のものでないとしたら、必要以上に関わるのは止めておいた方が良いのではないだろうか。
 沙耶はドアノブに掛けていた手を胸元まで引き戻し、ゆっくりと扉から後退った。何の変哲もない唯の扉が、今では妙な不気味さを放つ魔物の口の様に見え始めた。大きく歪んでは伸び縮み、すぐにでもがぶりと食らい付いて彼女を飲み込んでしまいそうだ。
 とその時、突然誰かがぐいと沙耶の肩を掴んだ。彼女は驚いた勢いで「ひゃあ」と大きな悲鳴を上げたが、振り返る間も無く何者かに口を塞がれた。「むぐっ」と声を漏らした沙耶の目には、唇の前で人差し指を立てて「しーっ」と言う美咲の姿が映った。彼女もまた、沙耶の上げた大きな悲鳴に驚いている様子だった。

「私よ、沙耶。やっぱりここに来ていたのね。ここは駄目だって言ったのに」

 口を塞いでいた手を離し、小さな溜息を零した美咲は沙耶の頬を軽く抓った。
 やがて悲鳴を聞きつけてやって来た図書委員の男子生徒が、「大丈夫ですか?」とあたふた訊ねたが、二人は誤魔化す様に変な笑いを浮かべ、彼をやんわりとなした。
 図書委員が去った後、沙耶は抓られた頬を擦りながら、

「ここの二階で起こったこと、美咲は何か詳しく知っているの?」と訊ねた。

「え?」と零した彼女であったが、しばらく考え込んだ後、

「六年前に、女子生徒が一人亡くなったっていう話しか知らないよ?」と答えた。

 沙耶は奇妙な違和感を覚えた。

「男子生徒じゃなくて?」

「……うん」と不思議そうに頷く美咲。錆び付いた扉へと再び視線を戻した沙耶は、昨日遭遇した二階の彼が、スマホの明かりの中でこの高校の制服を着ている姿を思い出していた。

「ねぇ、沙耶。大丈夫?」

 不意にそう訊ねられ、物思いに耽っていた沙耶ははっと我に返った。美咲が顔を覗き込んでいた。沙耶は未だにぼんやりとしていたが、小さく頷きながら「大丈夫」と答えた。

「何か本でも借りて、もう教室に帰ろうよ」

 そう言う美咲に促され、沙耶は後ろ髪を引かれる思いのまま二階へと続く階段扉の前を後にするのだった。

 その日の放課後。沙耶は高橋先生に或る頼み事をされ、美術室へと足を運んでいた。美術室は北校舎の一階に位置し、いつも薄暗く寂しげなので、選択科目の授業があるか美術部員が部活動で利用する以外、余程の事情がない限り一般の生徒が近付くことはなかった。
 秋が深まるにつれ、高校では少しずつ文化祭の催しものに向けての準備が始まる。沙耶が高橋先生から頼まれたのは、美術教師の崎村先生に預けていた音楽家の肖像画を受け取りに行くことだった。長い間音楽室の壁に立て掛けられていたり、雑に倉庫内で保管されたりしていたため、音楽家の肖像画はすっかり傷んでしまっていた。高橋先生は今年の文化祭を機に、崎村先生の伝手を頼って業者へと修繕を依頼したのだ。
 沙耶が美術室に顔を覗かせると、いやに薄暗いひんやりとした空気が室内中を満たしていた。人の姿はなく、今日は美術部の活動もない様子だ。
 中へそろりと足を踏み入れ、奥にある別室の扉の前に立つ。『美術準備室』と記載されている立て札を確認し、静かにその扉をノックした。すると、擦り硝子の向こうから「はぁい」とやや間延びした返事が返って来た。ゆっくり扉を開けて準備室の中を覗き込む。画材道具が山の様に積み上げられている部屋には、絵の具や古紙の匂いがたっぷりと満ちていた。

「二年二組の木村沙耶です。肖像画を受け取りに来ました」

 沙耶がそう告げると、準備室の奥から物を動かしつつ熊の様に体の大きい男が姿を現した。彼が崎村先生だ。先生はやや癖のある髪を肩まで伸ばし、頬から下顎に掛けて豊かな髭を蓄えているので、沙耶にはオフシーズンの茶色いサンタクロースの様に見えた。

「吹奏楽部の部員さんだね。肖像画はもう届いているよ」

 そう言って優しく笑んだ崎村先生は、傍で山積みになっている画材道具の中を漁り始めた。癖のある長髪と髭を蓄えた大きい体。それに薄暗い美術室の雰囲気も相まって、彼を好む生徒はほとんどいなかった。しかし沙耶は、内面が穏やかで物腰の柔らかい崎村を密かに気に入っていた。普段、関わりなどほとんどないが、時折職員室の近くをのそのそ歩いている姿を見掛けると、珍しいものを見た様な気持ちになって少しだけ彼女は嬉しくなるのだった。

「あれ? どこに置いたかな」

 一人呟く崎村を横目に、沙耶は普段入ることのない美術準備室をゆっくりと見渡してみた。美術の教科書やデザイン書、見たこともない画材道具がそこら中に転がっている。
 先生はまだごそごそしている様子だったので、沙耶はこっそり入室して手近なものを拾い、物珍しそうにそれらを観察した。そんな折、ふと準備室の端で裏返しに立て掛けられている一枚のキャンバスが目に入った。沙耶はゆっくり近付き、そのキャンバスを手に取ってひっくり返してみた。表側を目にし、はっと息を飲む。そこには目を奪われる様な鮮やかな赤に塗られた夕暮れ時の風景が描かれていた。まじまじと見詰めていると、描かれている絵の世界に引きずり込まれてしまいそうになる。

「その絵、引き込まれるでしょう?」

 突然、崎村の声が傍で聞こえた。はっとした沙耶は「すみません」と言って何事もなかった様に元の位置へ戻そうとしたが、崎村はすかさず彼女の手から絵を取り上げ、同じように見惚れ始めた。

「これは、もう十年以上も前にここの生徒が描いたものらしいんだよ」

「そうなんですか?」

「うん。詳しくは知らないけれど、とても絵の上手い男子生徒がいたらしくてね」

 沙耶は何故か鼓動が速くなっていくのを感じた。

「その方は、卒業した時にこの絵を置いていかれたのですか?」

「いや、彼は在学中、突然行方不明になったらしいんだ」

「……行方不明」

 おどろおどろしい言葉に、思わずこくりと喉が鳴る。

「それで前任の美術教師の意向で、男子生徒がいつかまた戻って来て続きを描けるよう今でもここに保管しているんだよ。処分するのはなんだか気が引けるし、この絵自体も凄く引き込まれる様な魔力があるから、僕もなかなか手を出せなくてね」

 そう言って崎村は苦笑いを浮かべた。沙耶はもう一度だけ絵を覗き込み、滲み出す様な赤にじっと見入った。そこには夕日が差し込む校舎内の一角から、どこまでも延々と伸びる赤い廊下の景色が描かれていた。

 数枚の肖像画を手に、沙耶は美術準備室を後にした。気付けば遠くから管楽器の奏でるメロディーが聞こえ始めている。吹奏楽部の練習が始まったようだ。沙耶は小走りに廊下を駆け抜け、音楽室へと急いだ。音楽室は南校舎三階に位置しているため、北校舎にある美術室から向かうには一度屋外の渡り廊下を通り、急な階段を三階まで登る必要がある。吹奏楽の大会がある時はその急な階段を何度も上り下りして重い楽器を運び出さなくてはならないため、部員の皆からは心底憎まれている場所でもあった。
 段を登って行く途中、小さな窓からちらりと敷地内の西にある図書館の姿が見えた。先を急ぎつつも立ち止まり、窓から図書館を眺め見ると、その二階の窓が開いていることに気が付いた。普段は固く閉ざされている筈なのに、今はぽっかりと口を開けている。沙耶は少しずつ鼓動が速くなるのを感じ、開いたままの図書館二階の窓をじっと見詰めた。

……もしかして、彼が。

 するとその時、突然窓辺に人影が現れた。驚いた沙耶は慌てて身を屈め、必要以上にひっそりと物影に息を潜めた。そろそろと向こうを盗み見ると、そこに姿を見て取れたのは現代文教師の駒沢先生だった。彼は文芸部顧問と図書委員の担当教諭でもあった。腰に手を当て、細長い指先で銀縁眼鏡を押し上げる。しばらく窓外の様子を眺めた後、先生は再び部屋の中へと姿を消した。沙耶は途端に強い緊張から解放され、その後酷い脱力感に襲われた。少しの間、窓辺に背中を預けたままぼんやりと床を眺めた。

「二階に行ったこと、知られちゃったかな」

 無意識な呟きが零れ落ちる。潔癖な上、神経質であることで有名な駒沢先生が何者かが侵入した形跡を見落とす筈がない。特定され、叱責されるのも時間の問題だろう。しかしそれ以上に沙耶の胸を締め付けたのは、もう二度と図書館の二階へは行けないかもしれない、という侘しさだった。もう二度と、彼に会うことはできないかもしれない。一つだけ大きな溜息を零し、ゆっくり立ち上がった沙耶は、肩を落としたまま音楽室へと続く階段をとぼとぼと上って行った。
 翌日、沙耶の足は図書館から遠のいていた。結局駒沢先生に呼び出されることもなかったので、二階に上がっていたのを見付けた図書委員の生徒は告げ口せずに黙っておいてくれたのだろう。机に頬杖を突いてぼんやりとペンを回していると、午後一の授業で早速注意を受けてしまった。

 十月一週目の末に突入し、高校では文化祭が開催されていた。沙耶が所属する吹奏楽部は前祭と後祭に執り行われる開会式、閉会式での演奏を任されている。本祭を含め三日間に掛けて開催される文化祭は、一般人の立ち入りも許可されており、普段では考えられない程の数に膨れ上がった人波が校内を往き来していた。
 本祭の日、自由行動が許された吹奏楽部の部員達は、皆気の合う者同士で寄り合い、各クラスの教室で実施されているイベントに参加するため校内中に散り散りとなっていた。
 沙耶は美咲と、一年後輩の宮下という男子と共に校内を散策していた。

「宮下くん、何か食べたいものある?」

 美咲がそう訊ねると、宮下は「奢ってくれるんですか?」と瞳を輝かせる。「どうしようかな?」と言って苦笑している美咲が、実は宮下に気があるということに沙耶は初めから気付いていた。美咲は他人の事情や情報をよく把握しているが、自分の話を進んで誰かにする様なことはなかった。親しくしている沙耶にさえ滅多に話さない。しかし案外分かり易いところもあるので、鈍い沙耶にも彼女の感情の動きはある程度窺い知れた。
 二年六組が開催しているクレープ屋に行こう、という二人の会話を聞きながら、沙耶は周囲をきょろきょろと見渡していた。なんとなく誰かに見られている気配がする。「沙耶、行くよ」という美咲の声に引っ張られ、先行く二人の後を彼女はそろそろと付いて行った。
 二年六組の教室の前に辿り着くと、そこには長蛇の列が出来ていた。この学校の生徒はもちろん、一般の人達も長い列に並び、気付けば数学の長田おさだ先生や物理の川崎先生も列に加わっている。余りにも多い人波に、沙耶は思わず怯んでしまった。

「私が並んで三人分買ってくるから、二人はどこかで待っていて」

 気を遣った美咲が、そう言い残してさっさと長い列の最後尾へと並びに行った。沙耶は仕方なく宮下と共に二学年のフロアにある廊下の隅のベンチに腰掛け、美咲の帰りを待つことにした。凡そ一人分のスペースを空け、ベンチに腰を下ろした沙耶と宮下の間には長い沈黙が横たわっていた。同じ部活の後輩とは言え、話したことなど数える程しかない。沙耶は先輩の立場から何か話題を振らなければならないという義務感の様なものに襲われ始めていたが、全くと言っていいほど宮下と話すことは思い付かなかったので、気まずさを秘めたまま無言を貫くことにした。すると、

「……木村先輩」

 突然、宮下が沙耶の名を呼んだ。特に返事もせず、彼の方を見やると、何故か宮下は少しだけ顔を赤くしてこちらをじっと見ていた。

「先輩って、付き合っている人とかいるんですか?」

「……いないけど」

 沙耶がそう答えると、宮下が喉をこくりと鳴らすのが聞こえた。

「じゃあ、気になっている人とかは?」

 彼の言葉に、ふと図書館の二階で遭遇した男子生徒の姿が思い浮かんだ。しかし沙耶は頭を振る。私は『彼』の事をどう思っているのだろう。あの人は結局、何者なのだろう。
 図書館から足が遠のいているのもあり、しばらく二階にいた彼のことも考えない様にしていたが、不意を突かれたような宮下の言葉に、あの男子生徒への思いが再燃してしまった。

「木村先輩?」

 あまりにも深く考え込んでいたためか、そんな宮下の問いに沙耶は思わず「わっ」と声を上げてしまった。近くにいた人達の視線が一斉に集まる。酷く恥ずかしくなった沙耶は顔が熱くなるのを感じて下を俯いた。しばらく視線はざわざわとしていたが、やがて何事もなかった様に散っていき、二人は再び長い沈黙に沈んだ。じっとりとした気まずさが漂い始め、「……特に、気になる人もいないかなぁ」とだけ沙耶は答えておいた。
 その後、三つのクレープを手にした美咲がいそいそと戻って来た。沙耶は彼女の笑顔に一安心し、宮下と自分の間に開けたスペースに美咲を座らせた。それから楽しそうな会話に耽る二人を邪魔しないよう、沙耶は彼らから少しだけ距離を置いて残りの時間をぼんやりと過ごしたのだった。

 午後七時を過ぎる頃。陽が落ちたのを皮切りに辺りはすっかり暗くなっていた。校内の照明が未だにほとんどの教室で灯っていて、いつもなら暗い校舎が今日は見知らぬ場所の様に幻想的な輝きを放っていた。音楽室で明日の閉会式に備え楽器を整えていると、昼間に感じていた何者かの視線が再び沙耶を捉えているのに気が付いた。室内を見渡し、居残りしている数人の部員を眺め見る。しかし彼らは仲間内で取り留めのないお喋りに興じているだけで、こちらを注視している者は一人もいなかった。美咲は既に宮下と共に下校してしまい、沙耶を後ろから突然抱き竦めて驚かそうとする者もいない。何だろう? と思いつつも、特に急いで帰宅する必要もなかったので、沙耶はいつもより入念に自分の楽器を整備した。
 ぴかぴかになった銀色のフルートをケースの中に仕舞う頃、音楽準備室から姿を現した高橋先生が大きく手を叩いた。

「明日も演奏があるのよ。あんた達、さっさと帰りなさい」

 学生の頃に演劇部だったという高橋先生の声は実に明瞭でよく通る。そんな先生の注意に仕方なく返事をした部員達は、何か物足りなさをぶら下げつつも渋々と帰り支度を始めた。沙耶も自分のバッグに荷物を詰めていると、「木村さん」と高橋先生から名を呼ばれた。

「ちょっと、準備室に来てちょうだい」

 彼女はそれだけ言い残し、さっさと音楽準備室に入って行ってしまった。沙耶はぎゅっと胸が締め付けられた後、少しだけ血の気が引いていくのを感じた。他の部員達は不思議そうな顔をしてこちらを見ている。確かな根拠がある訳ではないが、先生の声音に少しだけ棘があるよう様な気がした。部員の誰かを説教する前に漂わせるぴりぴりとした雰囲気だ。
 沙耶はその場に荷物を置いたまま、恐る恐る準備室の方へ近付き、「失礼します」と言って開かれている扉を潜った。「閉めてちょうだい」と言われ、沙耶は静かに扉を閉めた。
 振り返ると、奥のデスクに腰掛けた高橋先生が腕組をしてこちらをじっと見ていた。思わずこくりと生唾を飲む。

「単刀直入に訊くわね?」

「……はい」

「木村さん、図書館の二階へ行った?」

 沙耶はがつんと額を突き飛ばされる様な衝撃を感じ、それが全身を駆け巡るのが分かった。視線を離さずこちらをじっと見詰める高橋先生の迫力に、沙耶はすぐ観念して「行きました」と小さく返事をした。「どうしてそんなことをしたの?」と厳しく叱責されることを覚悟した沙耶であったが、先生の口から漏れ出たのは意外にも小さな安堵の溜息だった。

「……そう、よかった」

 沙耶は思わず「え?」と言った。全身を繋ぐ糸が切れ様にデスクへと突っ伏した高橋先生は、草臥れた笑みを浮かべて見せた。

「いや、実はね。先日図書館の二階に保管してあった音楽家の肖像画を私が持ち出した後、階段の扉を施錠するのをすっかり忘れていたの。そしたら、その後に私以外の誰かが入り込んだ形跡があるって駒沢先生が職員会議で報告して、ちょっとした騒ぎになったのよ」

 体を起こして関を切った様に話し出す高橋先生に、沙耶は不安と安堵の両方を覚えた。

「それで、図書委員の一年生の子が駒沢先生に問い詰められて、一人の生徒が二階に上がっていたと白状したらしいの。その日の昼休み、図書館を利用していたのは貸し出し記録からあなただけだったから、二階に上がったのが木村さんだってすぐに分かったらしいわ」

 少しずつ足元に視線を落とし、いつの間にか沙耶はスカートの裾を軽く握っていた。

「図書館の二階には貴重な物が置かれていたりするから、強盗が入ったんじゃないかっていう話にまでなったみたい。でも何かが盗まれていた形跡もなかったし、入ったのが木村さんだと分かって安心したわ」

 高橋先生はもう一度深い溜息を零し、「駄目よ。安易に立ち入り禁止の場所に入っちゃ」と静かに言った。

「……すみませんでした」

 沙耶が項垂れながら謝罪すると、先生は優しく微笑んで見せた。

「私のミスでもあるわ。お互い、反省しましょうね」

 それから準備室を後にした沙耶は、草臥れた思いのまま音楽室に戻った。照明は教壇の上にのみ灯っていて、他の部員達は皆とっくに下校してしまった後だった。バッグを手に取り、残りの照明も落として音楽室を退出する。
 別の校舎から仄かに届く光が薄暗い廊下をぼんやりと照らし出していた。沙耶はゆっくりとフローリングを踏みしめつつ、少しだけ物悲しい思いに駆られた。高校全体が賑やかに色めき立つ文化祭もいよいよ明日が最終日で、それが過ぎれば再び授業ばかりが繰り返される平凡な毎日が待っている。ふと廊下の窓硝子に目をやると、沙耶の白い顔がひとつだけぼんやりと浮かび上がっていた。図書館の二階にいた『彼』にもう一度会ってみたい。突然そんな想いが沸き起こった。その理由は彼女自身にも分からなかったが、ここ最近のぼんやりや妙な焦り、身の置き所の無い侘しさなんかは全て彼の所為である様な気がしてきた。今ではもう図書館の二階に入ることは出来ない。教師達にも沙耶の行動は既に知られてしまっている。立ち止まったついで、彼女は深々と溜息を零し、しばらくその場に項垂れ続けているのだった。
 すると不意に、何処からか寒気を催す視線を感じた。さっと顔を上げ、前方に待ち受ける階段フロアへ目を凝らす。その影に、何者かが立っている気配がした。こちらをじっと見詰める静かな眼光。それはどこか恐ろしげで、沙耶は肩に掛けていたバッグを胸元に抱き締め少しずつ後退った。

「誰?」

 そんな問い掛けに答えるよう影から姿を現したのは、背の高い一人の男子生徒だった。彼はこの学校の制服を身に纏い、すらりとした両手を脇にぶら下げていた。太陽に一度も晒されたことのない様な白い肌、くっきりとした二重で僅かばかり鋭さも孕む瞳。沙耶はその男子生徒が、図書館の二階で遭遇した『彼』であることにすぐ気が付いた。

「あなたは、あの時の」

 高鳴る鼓動を抑えつつ、恐る恐るそう語り掛けると、男子生徒はじっと沙耶の瞳を見詰めたまま、「追い出されてしまったよ」と言った。静かな声音にやや落胆の色が窺える。
 自分の所為で彼が図書館の二階に居座っていたことが知られ、駒沢先生に追い出されてしまったのだと早合点した沙耶は、「……ごめんなさい」と小さく言った。しかし、

「何のこと?」と返した彼は小さく首を傾げて見せた。

「だって、私の所為であそこに居られなくなったんでしょう?」

 すると彼は小さく微笑み、

「僕の居場所は何処にでもあるよ」と言った。

 沙耶はこくりと生唾を飲み込み、「あなたは誰なの?」と訊ねてみた。

「二年七組の相澤あいざわ優也《ゆうや》」

 聞いたことのない名前だった。沙耶が通う高校は普通科と特進理数科に別れており、一組から五組は普通科、六組と七組が特進理数科という構成になっている。一学年三〇〇人近い生徒の皆と関わることなど不可能な上、沙耶は普通科の二組に所属しているため、七組の生徒との関わりは殆ど無い。強いて言えば、この文化祭や体育祭の時期に偶然役割が被って交流するくらいだろう。そのため聞いたことのない名前があっても、それほど不思議なことではない。しかし……。

「私は二組の木村沙耶です」

「知っているよ」

 沙耶は驚いて息が止まった。「どうして?」と訊ねようとしたが声が出なかった。相澤はそれを知ってか知らずか沙耶の方へ徐に歩み寄り、まじまじとその顔を眺め始めた。予想以上に近い距離まで接近され、沙耶は思わず身を固めた。俯いて、頬が熱くなるのを感じる。

「綺麗な顔をしているね」

 そんな言葉が聞こえた。「えっ?」と言って顔を上げると、間近に迫っていた相澤と目が合った。彼の瞳は底の見えない深海へと沈んでいく様な不気味な色をしていたが、何故か沙耶はその底知れない雰囲気にぐいぐいと心を奪われていった。

「そんなことないよ。私、自分の顔が嫌い」

「僕にはとても綺麗に見えるけどね」

 あまり言われたことのない言葉にどぎまぎした。更に熱くなる頬。両手を当ててみると、自分の手の冷たさに驚いてしまうほど火照っていた。指の間からちらりと覗き見る相澤の顔は非常に整っていて、それが更に沙耶の体を熱くする。目を反らしては見る、また目を反らしてはもう一度見る、ということを繰り返した。これ以上、彼に近い距離に居られると心臓が参ってしまいそうだったので、沙耶は少しだけ後退って相澤から距離を取った。彼はそんな沙耶を見て小さく笑みを浮かべていた。

「あの日、どうして君は図書館の二階へ来たんだ?」

 そんな問い掛けに「好奇心に負けて」と答えるのはとても恥ずかしかったので、

「階段の扉が開いていたから」と小さく答えた。

「怖くなかった?」

 沙耶は「少しだけ」と答えた。すると相澤は「ははっ」と笑い、腕組をした後に暗い窓外の方へと目をやった。時折顎を擦りながら、何やら考え事をしている様子である。
 そんな彼の横顔にしばらく見惚れていると、突然ぱちりと音がして廊下の明かりが全て落ち、非常灯だけになった。まだ音楽準備室に残っていた高橋先生が帰宅するため消灯したのだろう。一瞬視界が眩み、次第に目が慣れ始める。準備室の方からは、高橋先生が扉の鍵を閉めてすたすたとこちらへやって来る足音が聞こえた。慌てた沙耶は咄嗟に「相澤くん、高橋先生が来ちゃう」と小声で言い、ここから早く離れてと伝えようとした。何故か彼を他の人に会わせない方が良い様な気がした。しかし、声を掛けた暗がりに相澤の姿は無かった。辺りをきょろきょろと見渡しても、その気配すらすっかり消え失せてしまっている。
 呆然としたまま佇んでいると、間近で足音がぱたりと止んだ。

「誰?」

 スマホの明かりを向けられ、眩しさにさっと手で顔を覆った。「木村さん?」と言う高橋先生の声が聞こえ、沙耶は「はい」と小さく返事をした。先生はスマホのライトを足元に落とし、「びっくりした。まだ帰ってなかったの? 何か忘れ物?」と問うた。
 沙耶は咄嗟に、「閉会式で演奏する曲の楽譜を持ち帰って、もう一度見直してみようと思いまして」と返した。高橋先生は「そうなの」と小さく溜息を零し、自分のバッグから楽譜のコピーを一部取り出すと沙耶へ差し出した。

「私のを貸すわ。明日には返してちょうだいね」

 沙耶は楽譜を受け取り、「ありがとうございます」と礼を言った。
 先生は去り際、彼女を指差しながら「もう悪いことしちゃ駄目よ?」と意地悪そうな顔をして言った。沙耶も苦笑しながら、「もうしません」と返した。手を振りながら去る高橋に、小さくお辞儀をしてその日は別れた。

 翌日。沙耶は朝早く登校して音楽室の掃き掃除を済ませた後、二年七組の教室前に足を運んでみた。早めに登校していた数人の生徒が室内でお喋りをしていたが、別段沙耶が廊下をうろついていたことに首を傾げるような者はなかった。もちろん、相澤優也の姿もない。
 各教室横の廊下には正方形の個人ロッカーが設置されており、各棚の上部には生徒の名前が記載されたテープが貼られている。沙耶はそれを指でなぞりつつ、相澤の名前がないか探してみた。しかし、五十音順に並ぶ生徒の名前の中に彼の名を見付けることは出来なかった。小さな落胆と共に零れ出る溜息。昨日、相澤と話しながらなんとなく気付いていたが、やはり彼が二年七組の生徒であるというのは嘘のようだ。
 肩を落として音楽室に戻ろうとしていると、「沙耶」と背後から名前を呼ばれた。ぱたぱたと駆けてやって来る美咲が、いつにも増して明るい表情を浮かべている。

「沙耶、どうしよう。昨日凄く嬉しいことがあった」

「どうしたの?」

「あのね」

 そっと身を寄せてきた美咲は、沙耶の耳元で宮下への告白が成功したことを告げた。沙耶は彼女が宮下と付き合うのは時間の問題だろうと踏んでいたが、それを自分に話してくれるとは思ってもいなかった。余程嬉しかったのかもしれない。

「おめでとう」

 沙耶が微笑んでそう言うと、美咲は恥じらう様な笑顔を見せた。

 後祭も閉会式を迎え、吹奏楽部による最後の演奏が行われた。沙耶はフルートを演奏しながら会場中を見渡してみたが、何処にも相澤の姿を見付けることは出来なかった。沙耶の前席で演奏する美咲の後ろ姿をぼんやりと見つつ、ふと昨日のことを思い出す。相澤が発するバリトンの声音、穏やかで物静かな口調、どこか惹きつけられる底知れない瞳。沙耶はいつしか、彼のことをもっと深く知りたいという思いで胸がいっぱいになっていた。

 閉会式も無事に終了し、会場に運んでいた楽器を吹奏楽部の皆で再び音楽室へと戻す作業に取り掛かった。大きな楽器は男子に任せ、沙耶は軽い楽器や細々とした小道具をてきぱきと音楽室へ運んだ。
 何度目かの往復で誰もいない体育館の舞台裏に赴いた時、物陰からじっとこちらを伺う『黒い影』の存在に沙耶は気が付いた。その影の持つ眼は青白い光を帯び、その姿は人間の様でありながら、よく見ると酷くかけ離れた異形の様相を呈していた。沙耶は思わず悲鳴を上げようとしたが、目にも止まらぬ速さで掴みかかって来た黒い影は、彼女をあっという間に物陰へと引きずり込み、冷たく大きな手でその口を完全に塞いでしまった。あまりの恐怖に涙を流しながらも沙耶は必死に身を捻じって抵抗した。獣の様な体毛がびっしりと生えた体を拳で叩いたり、足で蹴ったりして暴れてもみたが、全く意にも介さぬ様子でそいつは彼女のことをじっと見下ろしていた。閉ざされた口で沙耶がうんうんと唸っていると、異形の化物は自分の口元に長い人差し指を当て、「しーっ」と言った。

「静かにしろ。何もお前を取って食おうとは思わん」

 獰猛な獣が唸り上げる様な声だった。沙耶は心臓が張り裂けそうになるのを我慢しつつ、ぼろぼろと涙を零しながら抵抗するのを止めた。

「いい子だ」

 そう言うと、彼女の口を塞いでいた大きな手は力を緩め、そのままするりと首元へ下りていった。

「俺はお前を見に来ただけだ。何もしない。分かったな?」

 沙耶は小さく頷いて見せた。化物は彼女にのしかかったまま、上からその顔をまじまじと眺め始めた。

「なるほど、確かに美しい娘だ。これは欲しい」

 そう呟きつつ、化物は耳元まで裂けていそうな大きな口でにんまりと笑って見せた。
 とその時、「沙耶?」と名前を呼ぶ美咲の声が舞台裏の入口付近から聞こえた。彼女の声に気付いた化物は、さっと沙耶の首から手を放すと、あっという間にどこかへと姿を消した。
 絞められていた喉元が一気に開き、勢いよく吸い込んだ空気で酷く咳込む。慌てた様子の美咲が傍まで駆け寄って来て、「どうしたの? 大丈夫?」と訊ねた。差し出された手を借り、ゆっくり起き上がる。美咲は沙耶の背中を擦りつつ、スカートが捲れて露になっている大腿に気付き、すぐに整えてやった。

「何があったの?」

 心配そうな声に、沙耶は小さく首を振って見せた。

「暗くて足元が見えなかったの。何かに躓いて転んじゃって、埃を吸っちゃったのかも」

「本当? 泣いてるじゃない」

 訝しげに顔を覗き込む美咲。沙耶は目元に残っていた涙を拭き、彼女から視線を反らした。

「もしかして沙耶、誰かに襲われたんじゃないの?」

 勘の良い言葉に思わずびくりと身を固めた。あまりにも不自然な沙耶の緊張に何かを察した美咲は、近くの壁に立て掛けられていたモップハンドルを手にした。

「まだここにいる? 沙耶を襲ったやつ」

 声を震わせながら部屋中を見渡す。しかし、まだあの化物が近くでうろついているとは考えられない。

「本当に転んだだけだよ、美咲」

 沙耶がそう言うと、振り向いた美咲は少しだけ影が差した様な顔をして、「本当?」と訊ねた。沙耶は「うん、本当」と言って小さく頷いた。モップハンドルを構えていた肩の力が抜け、美咲は沙耶の隣にぺたんと尻を落とした。彼女の手がゆっくり伸びて来て、涙に濡れた沙耶の手を優しく握る。

「沙耶を見ているとなんだか危なっかしくて怖いの。お願いだから、気を付けて」

 そう言う美咲が沙耶の嘘に気付いていたのかどうか分からない。しかし沙耶はひとまず安堵した。この暗がりに一人でないことが今は途轍もなく心強い。それが親しい美咲であるのだから尚更だ。しかし、先程襲われた化物の様相をふと思い出し、彼女は言い知れない不安が腹の底に沸き起こるのをじわじわと感じ始めていた。

 文化祭が幕を下ろして二日後。学校は再び授業尽くめの毎日となっていた。三年生の大学受験もいよいよ三ヶ月後に迫り、否が応でも教師陣からの張り詰めた緊張感を感じる。しかし、沙耶は一向に学業へ集中できずにいた。あの恐ろしい化物に襲われてからと言うもの、彼女は極度に暗闇を怖がるようになった。再び青白い眼で射竦められ、誰も助けに来ない暗闇の中に引きずり込まれて今度こそ身の毛のよだつ様な恐ろしい目に合わされるのではないだろうか、という不安に常に苛まれていた。あんな化物がこの世に存在しているとは誰も信じてくれないだろうし、誰かにその存在を語ること自体、更なる恐怖を引き連れて来る元凶になるかもしれない。もし唯一、話せる相手がいるとするのならば、それは相澤優也しかいない気がした。沙耶は首元を手で擦りつつ、密かに彼の姿を思い浮かべた。しかし音楽室の廊下で見失って以降、相澤は沙耶の前に姿を現していない。学校中を探し回ってはみたものの、一向にその姿を見付けるは出来なかった。相澤に初めて会った図書館二階の部屋へと続く階段扉も今では固く施錠されており、再侵入するのはもはや不可能である。
 神出鬼没でいつも暗い所から現れる。もしかしたら彼も、自分を襲撃した化物と同じ類の存在なのではないだろか、と沙耶は空恐ろしい考えに囚われた。

「相澤くんも、化物?」

 しかし頭を振ってそんな考えなど頭の中から追い払い、沙耶は毎日の生活の中へと静かに埋没していくよう努めるのだった。

 翌日の昼休み。沙耶は美術準備室へ来るよう崎村から呼び出された。教室を出る折、他の女子達に囲まれた美咲が心配そうな顔でこちらを見ていたが、「大丈夫」と笑みながら口だけ動かし言ってやると、彼女も小さく頷きながら笑い返してくれた。
 美術室は相変らず異様な程の静けさに満ちていた。かつては好ましい場所であったが、今の沙耶にとってはすっかり不安と恐怖を助長させる不気味な空間に様変わりしていた。
 足早に美術室を通り抜け、奥の準備室前に赴く。扉をノックすると、「はい」という静かな返事が聞こえた。沙耶はそっと扉を開け、「二年二組の木村です」と告げて室内を覗き込んだ。物が散乱した部屋の奥から、深刻そうな顔をぶら下げた崎村先生がのそのそと姿を現す。いつもの柔らかい雰囲気は消えていて、沙耶は少しだけ彼に恐怖を感じた。しかし、

「木村さん、来てくれてありがとう。昼休みに呼び出してすまないね」

 そう言う崎村の声は勝手知ったる穏やかさを保っていたので、沙耶はそっと胸を撫で下ろした。

「どうかされたんですか?」と彼女が訊ねると、崎村先生はしばらく物思いに耽った後、「絵が無くなったんだよ」と言った。

「絵ですか?」

「うん。先日、肖像画を受け取りに来た時、君に見せた赤い絵だよ」

 そう言って先生は物に溢れた準備室の端を指差して見せた。沙耶ははっとして、あのつい引き込まれてしまいそうになる夕暮れの絵を思い出した。かつてキャンバスが裏返しに立て掛けられていた場所には何も置かれていなかった。
 一つだけ小さな溜息を零した崎村は気まずそうに頭を掻きながら、

「校内であの絵のことを知っているのは僕と数人の教師以外、木村さんしかいないんだ。決して君を疑っている訳ではないんだけれど、何か知っていることはないかなと思って」

 と言った。沙耶は半分開いていた口を閉じ、ゆっくりと首を横に振った。

「すみません。私は何も」

「そっかぁ」と零した崎村は肩を落としつつ、たっぷり蓄えられた顎髭を忙しく触り始めた。準備室の壁に設置された置時計の秒針がしくしくと足音を立てている。沙耶に背を向け、室内を歩き回る崎村は「参ったなぁ」と何度も呟きながら頻繁に溜息を零していた。

「大事な絵だったんですよね?」

 厚手のカーディガンを羽織っている大きな背中に沙耶がそう問い掛けると、崎村はゆっくり振り向いて、

「そう言えば木村さん。確か君、図書館の二階へ行ったと聞いたんだけれど本当かい?」

 と訊ねた。沙耶はずきりと胸が痛んだ。私の行為はもはや全教師に把握され、目を付けられてしまっているのではないだろうか。お気に入りの崎村にまで『変な生徒』という烙印を押されてしまうのは彼女の望むところではなかった。しかし、この教師に『嘘つき』認定されるよりはマシだという思いもあり、沙耶は意を決して「はい、行きました」と答えた。
 すると崎村は一つだけ小さく頷いて、

「実はあの絵、前にも一度無くなったことがあるんだよ」と言った。

「え、そうなんですか?」

「うん。そしてその見付かった場所というのが図書館の二階にある『古書室』だったんだ」

 沙耶はざわざわと胸騒ぎが起こるのを感じた。

「……崎村先生」

「何だい?」

「確かあの絵を描いたのは、十年以上も前にこの学校に通っていた男子生徒だって仰いましたよね?」

 崎村は身の動きを止め、じっと沙耶の瞳を窺い見た。

「うん。そう聞いているよ」

「ちなみにその男子生徒のお名前は、何という方だったのですか?」

 何処からか準備室に入り込んだ隙間風がそっと制服のスカートを揺らした。崎村は一度沙耶から視線を反らし、近くにあったスツールの元へ向かうと、どっかり腰を下ろして彼女と向き合った。

「確か相澤優也くん、と言ったかな」

 その後、沙耶は崎村と共に美術準備室を後にしていた。まずは急ぎ足で職員室へと向かう。「図書館二階の古書室を、もう一度確かめてみませんか?」という沙耶の提案に、崎村は二つ返事で了承してくれた。現在、固く閉ざされている古書室へと続く階段扉の鍵を管理しているのは現代文教師の駒沢先生であるため、沙耶はまず彼を攻略する必要があった。
 辿り着いた職員室は、昼休みだというのに落ち着かない喧騒に満ちていた。英単語の再テストで教師のデスク前に列を成す生徒達、仕舞われたコートのネットを取り出すために体育倉庫の鍵を取りに来たバレー部員、頻繁に呼び出し音が鳴るにも関わらず誰にも相手にされていないデスク上の電話機。沙耶は職員室の西入口から顔を覗かせ、室内の様子を窺った。駒沢先生は窓際にある自分のデスクに腰掛け、険しい表情で何かの事務作業をしていた。焦燥に駆られて躊躇いもなく職員室に入ろうとしたところ、崎村がそっと沙耶を制した。

「まずは僕が駒沢先生と話してくるよ」

 そう言って彼は沙耶を廊下に取り残したまま職員室の中へと入って行った。
 しばらく廊下にあるベンチに腰掛け、手持ち無沙汰に待っていると、崎村に連れ立って駒沢先生が職員室から出て来た。眉間には深い皺が寄り、手には数本の鍵をまとめたホルダーが握られていた。銀縁の眼鏡をくいと押し上げる。

「事情は聞きました。後は我々で調べます。木村さんは教室に戻っていなさい」

 駒沢が一方的にそう言ったので、「私も行きます」と沙耶は強く返した。銀縁の眼鏡の下で眉間の皺が更に深まる。

「あの場所に生徒が立ち入ることはできません。君は高橋先生の注意と好意を無下にするつもりですか?」

 低く、冷たい口調で放たれたその言葉に沙耶は少し傷付いた。しかし、もしかしたら相澤にまた会えるかもしれない、という思いが背中を後押しし、引き下がろうとする足をぐいと食い止めた。

「私もあの絵を一度見ています。知る人が多い分、探し易いのではないでしょうか?」

 淡々と言い返す沙耶の態度に駒沢はやや驚いた顔を見せ、隣にいた崎村もまさか彼女がそれほどはっきり意見を述べる生徒とは思っていなかったらしく、感心する様な目で沙耶の顔を見ていた。しばらく黙り込んでいた駒沢であったが、ちらりと崎村に顔を向け、

「以前にも似た様なことがありました。あの部屋にはやはり何かが?」と小さく問うた。

 崎村は「うん」と言って腕組をし、顎髭を撫でながら、

「今回限り、僕から木村さんにも協力をお願いしようと思う。それでどうですか?」

 と言った。駒沢は気難しげな口元から小さい溜息を零し、

「分かりました。しかし木村さん、もう二度とあの部屋に一人で入っては駄目ですよ」

 と念を押した。沙耶は顔を綻ばせ、「はい」とはっきり返事をした。

 その後、三人で図書館の二階へと上がり、全ての窓を開け放って陽光が差し込む明るさの中、絵を捜索した。しかし、例の『赤い絵』を見付け出すことはできなかった。沙耶が期待していた相澤との再会も実現しなかった。そうこうしている内に昼休みの終わり十分前を告げるチャイムが鳴り、やむなく三人はその場を引き上げることにした。
 古書室を後にした沙耶は、再び固く施錠される扉をじっと見詰めたまま、先程駒沢が口にした言葉を頭の中で何度も反芻していた。

『以前にも似た様なことがありました。あの部屋にはやはり何かが?』

 十数年前に行方不明になった男子生徒は相澤優也で間違いないだろう。そして舞台裏の暗闇で襲って来た世にも恐ろしい化物、突然姿を消した『赤い絵』、かつて女子生徒が亡くなったという古書室。これらの事柄の間に一体どんな関係性があるのか見当もつかないが、沙耶は何度も何度も頭の中で反芻する内、ある仮定の輪郭がぼんやりと浮かび上がってくるのを感じた。相澤優也という人はやはり自分と同じ人間ではなく、何かしらの異常性を持った存在であるのかもしれない。その異常性は彼以外にも根を張り、知らず知らずの内に途轍もなく恐ろしい事態になりつつあるのかもしれない。
 沙耶はぶるりと身を震わせた。「顔色が悪いけれど大丈夫かい?」と崎村に訊ねられたが、彼女は「大丈夫です」と返して二人の教師に礼を言った後、覚束ない足取りのまま教室へと戻っていった。

 それからというもの、沙耶は事あるごとに視界に入る物陰や暗闇をじっと見詰める様になった。あの化物がまた襲いに来るかもしれない、という恐怖感は拭い去れずにいたが、同時に相澤も必ず何処からか自分のことを見ていて、接触する機会を窺っているのかもしれない、という確信にも似た想いがあった。
 彼にはきっと、私に近付いて来る目的がある筈……。

 崎村達と図書館二階の古書室で絵を探した日から四日後の夕暮れ。
 生徒が皆各々に散っていった放課後の静かな教室で、沙耶はぽつんと一人、自分の席に座って待っていた。瞳を閉じ、すぐ傍まで迫る微かな物音にも耳を澄ます。グラウンドでは野球部の金属バットが白球を打つ音が響き渡り、体育館からはバレー部の練習に勤しむテンポの良い掛け声が聞こえている。南校舎横のテニスコートでは小気味良く硬式ボールが跳ね返り、音楽室の方からはクラリネットの奏でるメロディーがやってきた。
 沙耶は今更ながらふと思った。「私が一番好きだと思う旋律は『静寂』だ」。楽器を演奏する者でありながら、静寂を好むのはいかがなものかと思う自分もかつてはいたが、静寂の中にこそ全ての音があり、全ての広がりがあると最近は思う様になってきた。吸い込まれる様に満たされて、破裂する様に吹き出される。沈黙は恐怖、しかし静寂はそれすら飲み込み咀嚼する。万物を表現し、万物を破壊するのだ。
 演奏前に息を整えるようゆっくり呼吸を続けていると、ふと自分の胸が高鳴るのに気付いた。目の前の机に誰かがそっと腰掛けるのを感じた。静かに目蓋を開けると、そこには相澤優也の姿があった。彼は大きな瞳でじっと沙耶の顔を見詰めている。

「やっぱり君は綺麗だ」

 微笑みながらそう言った。しかし沙耶はもうそんな甘い言葉に心を揺さぶられることはなかった。

「あなたは何者なの?」

 静かにそう問い掛けると、相澤はそっと夕暮れの窓辺に視線を向けた。

「何も嘘などついていないよ。僕はかつてこの高校に通っていた生徒だ」

「……でも、今は違う」

 今度こそ見失ってなるものかと沙耶は彼を見詰め続けた。相澤もゆっくりとこちらを見、二人の視線が重なる。

「奴に乱暴なことをされたみたいだね。本当にすまない」

「奴って、あの真っ黒い化物のこと?」

「そう。奴はとても恐ろしい『怪物』なんだ。ずる賢くて、欲深くて、利己的で」

 沙耶は静かに語る彼の手元にそっと視線を落とした。その手は青白く、見るからに冷たげな色合いをしていた。

「あなたとその怪物は、一体どういう関係なの?」

 沙耶の目線に気付いて自分の手を見た相澤は、どことなく寂し気に微笑んで見せた。

「後戻りできない『取引』をしてしまったんだ」

 突然、沙耶の背後でかたんと物音がした。驚いて振り返ると、後ろの席の机上に行方不明となっていたあの『赤い絵』が置かれていた。夕暮れの廊下が描かれたPサイズ10号のキャンバス。

「これは……」

 沙耶がそう零すと、相澤は静かな口調で、

「『Abenddämmerungアーベントディンメルング』。その絵の題名だよ」と言った。

「あなたが描いた絵」

「そう。それが僕と奴とを繋ぐ『取引』の鎖なんだ」

 二人が話す夕暮れの教室は、一切の雑音を取り除いた静寂の真ん中に浮遊していた。


―— § ——


 僕が奴と初めて関係を持ったのは、今から十三年前の秋のことだ。僕はこの高校に通う二年七組の生徒で、当時から部員の少ない美術部に所属していた。放課後は静かな美術室で絵画制作に取り組み、各種コンクールへの応募に向けていつも油絵ばかりを描いて過ごした。
 取り分け絵が上手かったわけではない。幼い頃から絵を描くのが好きで、暇さえあればクレヨンや色鉛筆を使い、好き勝手な絵を無作法に描き続けた。だから描かない人に比べ、沢山の時間を絵に費やしてきた僕は自然と『絵を描く』ということに慣れ親しみ過ぎていたのかもしれない。成長していくに従って、本格的なデッサン画や油絵の手法、デザイン研究なんかにも手を出したが、なかなかものにある絵を描くことは出来ずにいた。僕より遥かにハイレベルな絵を描く人は沢山いたし、卒業していった先輩達の中にも明らかに天才的な画力を持つ人が数人いた。今でも美術室に保管されている彼らの受賞作品を観たり、プロの画家として活動している先輩の展示会に招待されて作品を目の当たりにしたりすると、僕の心は酷く劣等感に苛まれ、ボロボロと音を立てて崩れ落ちそうになるのが常だった。

 そんな高校生活を送っていた或る日の放課後。僕は近々開催されるコンクールに向け、応募する作品の製作に取り掛かっていた。しかし、一向に納得のいく絵を描くことが出来ず、何枚も何枚もキャンパスを取り換えては新しい絵の構想を練るのに頭を抱え続けた。
 気付けば陽も落ち、薄暗い美術室には僕一人だけが取り残されていた。壁掛け時計の針は既に十九時を回っていたが、どうしても絵の走りだけは描いておきたかったので、もう少し居残りを続けようとイーゼル前のスツールから立ち上がって照明のスイッチに手を伸ばした、その時だった。

「美しい絵を描きたいか?」

 まるで、獰猛な肉食獣が唸り上げる様な声が何処からか聞こえた。戦慄した僕は固く身構えて周囲を見渡したが、何の姿もそこに見出すことは出来なかった。

「誰だ!」

 喚く様にそう訊ねると、唸り上げる様な声は高笑いを始めた。

「怯える必要はない。こっちだ、こっちを見ろ」

 僕は声のする方を突き止め、じっくりとその暗がりに目を凝らしてみた。そこには、世にも恐ろしい異様な姿をした化物が佇んでいた。ゆらゆらと揺れる闇の輪郭に、二つの青白い眼が浮かび上がっている。

「……お前は何だ?」

 息を呑んでそう訊ねると、化物はゆっくりと僕に近付いて来た。

「お前に、いい話がある」

 後退りして重い机に腰をぶつけた。

「いい話?」

「そうだ。お前に美しい絵を描ける才能をやろう」

「……どういうことだ?」

「お前が望む、美しい絵を描けるようになるのさ。だがタダでくれてやる訳にはいかない。条件がある」

 目の前にゆっくりと翳された化物の手は、簡単に僕の頭を捻り潰せそうなほど大きかった。奴の手が、静かに指を折り始める。

「一つ。今日から十三日以内に一枚の絵を描くこと」

 次の指が折れる。

「二つ。画材にはキャンバスと油絵具を用いること」

 次の指が折れる。

「三つ。絵の対象は、お前が命を捧げても構わないものであること」

 僕はごくりと生唾を飲み込んだ。

「四つ。絵の質は、誰が観ても目を離せなくなるほど美しいものであること」

 眼を青白く光らせる化物は最後の指を折った後、耳元まで裂けていそうな大きな口でにんまりと笑って見せた。
 僕は足元が震えるのを感じながら、「もし、条件を満たせなかったら?」と訊ねた。

「その時は、お前の肉体をもらう」

 化物の低い声で静かにそう言った。僕はしばらく自分の震える手を見詰めた後、ゆっくりと頭を振って見せた。

「無理だ。今の僕にその条件を満たせる様な絵は描けない。唯でさえ美しい絵を描ける才能なんて無いのだから」

 化物は高笑いした。

「当然だ。お前に美しい絵を描ける才能が無いから、俺はお前に美しい絵を描ける才能をやろうと言っているのさ」

「分からない。どういうことなんだ?」

「融資だ。一つ目の条件にある十三日の間、お前に美しい絵を描ける才能を貸そう。しかしその才能は確固たる質を保証されたものではない。他の条件やお前の器量、感受性、努力値、経験値、環境レベル、感情の変動と共に相対的に力を発するものだ。つまりはお前次第ということさ。そして全ての条件を満たした時、お前に貸した絵の才能は紛れもなくお前自身のものとなる」

 僕らの間に沈黙が舞い降り、どれほどの時間が経過しただろう。壁掛け時計の盤上を走る秒針の音が、すっかり暗闇と化した美術室中にかちこちと響いていた。
 僕は、そっと化物に向かって手を差し出した。

「……その話、乗った」

 薄笑いを浮かべた化物は、差し出された僕の手をゆっくり掴み、「承知した」と言った。闇を纏う奴の手はまるで氷の様に冷たかった。途端にげらげらと高笑う声がそこら中に響き渡り、化物は何処かへと姿を消した。僕は奴が姿を消した後も、しばらくその場に佇んだままどくどくと痛む心臓の音を聞き続けていた。
 突然、美術室の照明が一斉に灯った。ぱちりとスイッチの音が鳴った方を見やると、美術室の後方で美術部顧問の蔵満先生が壁のスイッチに手を触れたまま驚いた顔をしてこちらを見ていた。

「相澤くん、まだいたのか」

 僕はしばらくぼんやりとしていたが、やがてはっとして先生に頷いて見せた。彼は僕が描いていた絵の所までやって来て、破り捨てる予定のキャンバスを覗き見た。

「うん。相澤くんはやっぱり絵の基礎がしっかりと出来上がっている」

 僕は「ありがとうございます」と小さく頭を下げた。誰の誉め言葉も見せ掛けの虚しいものに過ぎないと思っていたが、蔵満先生に評価されるのは正直嬉しかった。先生はにっこり破顔して、「ただ、何か足りていないものがあるようだけれど」と言った。

「足りていないもの、ですか?」

「恋でもしてみるといいよ」

 顎を擦りつつ、確かに先生はそう言っていた。

 時計の針はいつの間にか午後八時を過ぎ、蔵満先生がもう帰宅すると言うので、その日は仕方なく画材道具を片付けて僕も家路へと就いた。自宅に帰り着くと、不思議と創作意欲が湧き起こり、駆り立てられるまま夜通しでデッサンに打ち込んだ。今まで何度やっても納得のいかなかったデッサン画がすらすらと滑る様に下書きの紙上に描かれていく。目に入る物や開けた窓から見える街、頭の中に描いた空想の建物や生物を描いてみたりしたが、その全てが自分の納得のいくデッサン画として描き上げられていった。
 カーテンを開け放ったままの窓外が明るくなる頃、夜を徹した僕は凡そ四、五十枚を超えるデッサンの中に埋もれていた。黒鉛で真っ黒になった手掌から、音もなく鉛筆が転がり落ちる。描ける! 僕は震え上がる様な興奮に満ちた体を必死に抑えながら、言い知れぬ喜びにいつまでも浸り続けた。

 それからというもの、僕は授業そっちのけで美術室に籠って絵を描き続けた。いくつものデッサン画を描き、それらを並べてより納得のいくものを選ぶ。さらにデッサンを加えてまた納得のいくものを選ぶ、ということを三日程繰り返した。途中、連続で授業に出席していないことを知られて職員室に呼び出されたり、担任教師から連絡を受けた両親に酷く叱責されたりもしたが、僕は殆ど意にも介さず絵画制作にのめり込んでいった。納得のいく絵が描けるという喜びと、化物との取引の期日が迫っているという焦りが混合し、ひたすら絵を描くことだけに神経を集中させていた。
 化物との取引から一週間後。僕は選出したデッサン画に色を加えようとしてあることに気が付いた。それは、現在選出しているデッサン画が、化物の提示した第三の条件に当て嵌まらない可能性がある、ということだった。

『絵の対象は、お前が命を捧げても構わないものであること』

 他にも描いたデッサン画を掘り返し、選出した物と見比べてみたが、その全ては僕の生活に馴染み深い風景や無機物を対象としたものであり、自分の命を捧げられると言える様な代物ではなかった。絵を描くことばかりに没頭してきた僕に、自分の命を捧げられる具体的な対象物が何であるか判断をするのは酷く難しい問題だった。
 命を捧げられる友人?
 そんなドラマチックな友情を育んでいる友達なんていない。
 命を捧げられる両親?
 しかし両親に命を捧げるなんて変な話だ。彼らは僕に命を与えてくれたのだ。それを投げ返すなんて間違っている。
 命を捧げられる恩師?
 思い当たるのは蔵満先生だが、彼は僕にとって超えるべきライバルでもある。僕が死んでしまっては元も子もない。
 緻密な風景画を描いたデッサンの前で、僕は再び頭を抱える事態となってしまっていた。

 そして、とうとう化物が第一の条件に示していた取引から十三日後にあたる日を迎えた。その日、僕は朝から美術室に籠ってキャンバスの上に油絵具を乗せ、黙々と色の仕上げに取り掛かっていた。キャンバスには夕日に染まる二年七組の教室前の景色が描かれ、赤い廊下が夕闇の彼方へどこまでも続いている。
 陽も落ち掛けた薄暗い美術室でイーゼルに乗せたキャンバスと向き合っていると、背後から射抜く様な視線を感じた。振り返り見た室内の後方、その一角で、輪郭のぼやけた闇がゆらゆらと揺れている。闇にはこちらをじっと見据える青白い眼が浮かんでいた。

「やぁ、待たせたね。描けたよ」

 僕は奴に向かってそう声を掛けた。化物は闇の中から身の丈二メートルにも及ぶ巨体を現わしながらのそのそと傍までやって来た。獣が唸り上げる様な声を出す。

「……なんだ、これは?」

 僕は一瞬、心臓を握り潰される様な恐怖に駆られたが、大仰に肩を竦めて見せ、

「約束の絵さ。条件は満たしている筈だよ」と言った。

「今日が締め切りの日で、これは間違いなくキャンバス上に描いた油絵。絵の美しさは僕が今まで描いた中で一番納得のいくクオリティに仕上がっている」

「第三の条件はどうした?」

 静かにそう訊ねられ、僕は思わず息が止まった。

「第三の条件で、『絵の対象はお前が命を捧げても構わないもの』と提示した筈だ」

 何処か遠くで、救急車のサイレンが鳴り響いていた。

「『黄昏れ』だ」僕は慌ててそう言った。

「僕は子供の頃から赤い色が好きだった。それは夕焼けや黄昏が好きだったからだ」

 化物はあたふたと説明する僕の目を黙って見ていた。

「一色に見えるが決して一色ではない。太陽が地上からゆっくりと遠くへ離れて行き、光の波長が伸びていく。それがこれ程までに多様な赤の美しさを描き出すんだ。僕はその美しさを馴染み深い教室や校舎、廊下と共にキャンパス上で共演させてみた。この共演の為なら、僕は命など……」

 ぬるりと音もなく手が伸びて来て、喋ろうとする口をあっという間に塞いだ。黒く大きな手は氷の様に冷たかった。

「言い訳はもう十分だ。お前は嘘を付いている。才能を求めるあまり、その才能に見合わない自分の惨めさから目を背けている」

 待ってくれ! 「ううっ」と唸って首を横に振ろうとしたが、化物の手は恐ろしい力で僕の口元と首を絞め付けた。

「残念だよ。約束通り、お前の肉体はもらっていく」

 僕は化物の言葉に身の毛がよだつのを感じ、思い切り奴の足を蹴飛ばして緩んだ手元から逃れた。一挙に絞められていた喉が開き、激しく咳込む。

「どうしてだ! この絵はお前にとって美しい絵ではないのか? それとも僕が『黄昏れ』を絵の対象に選んだことに納得いかないのか? 僕は『黄昏れ』を愛しているんだよ!」

「『黄昏れ』を愛す? 馬鹿馬鹿しい」

 再び目にも止まらぬ速さで伸びて来た手が、僕の首元を強く絞め付けた。

「センチメンタルな芸術家気取りは止してくれないか。これはシビアな取引。要はビジネスなんだよ。この絵に何が欠けているか分からない者に、美味しい報酬も次なる案件も与えられる筈がなかろう」

 いつしか僕の体は化物の手によって宙に浮かんでいた。息が詰まり、意識がぼんやりと薄れ始める。

「約束通り肉体はもらっていく。そして、貸し付けておいた画才も没収する」

 バリバリ! 突然、キャンバスを手で引き裂く様な音が辺りに響き渡り、僕は一瞬にして底知れない暗闇へと落ちていった。

 それからというもの、一体どれ程の間ぼんやりとした世界の中を彷徨い続けただろう。僕は自分の身に何が起きたのか知る由もないまま、ふわりふわりと月面を歩く宇宙飛行士の様に漆黒の世界と戯れていた。ある時ふと体が転倒し、水底へ沈む枯葉さながら意識がゆっくりと沈没していくのを感じた。徐に目蓋を開く。
 気付けば僕は美術室の固い床の上で仰向けに倒れ込んでいた。重だるい体をなんとか起こし上げ、その瞬間に眩しい光で顔を射られる。もたつく目元を両手で覆うと、閉め切られている筈の美術室の窓外から歌う様な小鳥たちの囀りが聞こえてきた。どうやら外は朝を迎えている様だ。

「……寝ていたのか」

 そう呟きながら立ち上がり、大きく背伸びをした。ふと僕の描いた絵がイーゼルの上に乗せられたまま朝日を浴びているのに気が付いた。まだ新しく白い陽光とは対照的な、終わりへと向かいつつある夕暮れの赤い光がよく映えている。絵の出来栄えには満足だった。しかし、奴は一体何が気に食わなかったというのだろう。第三の条件は個人の主観を超えた領域にあるものでなければならない、というのならば、奴の提示した条件全てを満たす絵など画才を得たところでえがくことは不可能なのではないだろうか。個人が命を賭すものが、客観的な基準に据え置かれるものであっていいのだろうか。それが罷り通ると言うのなら、そもそもこの取引とは……。
 僕は突然、凍てつく様な恐怖に襲われた。既に取引は破綻したのだ。今更内省を始めたところでもう取り返しのつかない事態となっている筈。僕はキャンバスから自分の身体へと視線を移し、全身を隈なく観察していった。一見、何の変化も起きてない様に思われる。肌は青褪めているが、これはきっと寒さにやられているからに違いない。化物は『肉体をもらっていく』と言っていたが、現にこうして僕の身体は存在しているではないか。なんだ、唯の脅し文句だったのか。ふうと溜息を零した、その時。誰かが廊下をこちらへやって来る足音が聞こえた。僕はびくりとして美術室の後方口を見た。少しずつ近付いて来る足音。立ち竦んだままじっと見詰めていると、後方口に姿を現したのは蔵満先生だった。
 僕は安堵して、「おはようございます」と彼に言った。しかし蔵満先生はじっとこちらを見詰めたまま美術室の後方口で立ち止まっていた。その顔に少しずつ驚きの表情が浮かび始める。やがて彼はゆっくりとした歩調で僕の傍へ歩み寄り、イーゼルの上に乗ったキャンバスに釘付けとなった。

「なんて美しい絵だ」

 僕は照れ臭くなって頭を掻いた。

「……相澤くんがこれを描いたのか」

 そう訊ねられたので、「はい」と返事をした。
 先生はしばらく顎を擦りつつ絵を鑑賞していたが、やがて「しかし相澤くん」と言った。

「しかし相澤くん、これを置いたまま帰ってしまったのかな」

 僕は途端に頭の中が真っ白になるのを感じた。全身を例え様の無い絶望感が襲う。化物との取引はやはり破綻していたのだ。肉体を奪われ、画才を没収されている。僕は震える声で、「蔵満先生?」と彼の横顔に呼び掛けてみた。しかし先生は顎を擦りながら、いつまでも僕の描いた絵を眺め続けていた。

 僕はその後、約七年間に渡り学校中を彷徨い続けた。肉体を奪われ、誰にもその存在を認識されることなく、空腹や暑さ寒さも感じずに、まるで亡霊さながらの時間を過ごした。
 肉体を奪われる以前には足を踏みいれることさえ出来なかった場所に侵入してみたり(望めば壁は容易に擦り抜けられた)、昼休みには多くの生徒が座り込んでお喋りに興じる中庭の真ん中で寝そべってみたり、試験中には三角関数の問題に難儀している生徒の耳元で答えを囁いてやったり、集会の時には話の長い校長の隣で腕組をして全校生徒を見下ろしてやったりした。しかし、誰も僕の存在に気付く者は居らず、淡々と季節は巡って生徒達や教師らの顔は移り変わっていった。僕は次第に虚しさを感じる様になり、やがて肉体を持つ人間を目にするのが嫌になった。何者も近寄らない薄暗い所に引き篭もって一人で過ごす方が心穏やかに居られた。
 そんな折、殆どの生徒や教師が近寄らない図書館二階の『古書室』なる場所を見付けた。そこには誰の手にも取られなくなった洋書や専門書が保管されている他、湿度や温度がほぼ年中一定に保たれているため学校の様々な貴重品がどっさりと保管されていた。古い時代に忘れ去られた蔵の様な雰囲気もあり、その場所は僕にとって大変自分好みと言えた。僕はその古書室を見付けてからというもの、唯ひたすらに本を読み続ける日々を過ごした。化物との取引が破綻して以降、絵を描きたいという意欲もすっかり消え失せ、専ら古い本の中で展開される空想世界に浸り込むことで僕は自分の眼前に取り残されている現実から目を背け続けた。

 そんなある日。古書室から一階へ下りる階段を、何者かがゆっくりと上って来る足音が聞こえた。書見台の傍に灯していた蝋燭の火を消し、じっと階段の降り口に目を凝らす。
 やがて一人の女子生徒が古書室へ踏み入って来るのが見えた。僕は彼女を見て思わず息を飲んだ。暗い室内であるとは言え、闇にすっかり慣れてしまっていた僕は一瞬で彼女のその美しさに目を奪われた。女子生徒は点灯した小さなペンライトを片手に薄暗い室内を静かに歩き回り始めた。僕は書見台を置いた机のスツールに腰掛けたまま彼女の姿を目で追い、何のためにここへやって来たのかしばらく様子を観察することにした。
 すると突然、「あの娘を美しいと思うか?」と唸り上げる様な声が耳元で聞こえた。僕は驚いてスツールから立ち上がり、咄嗟に背後を振り返った。そこには身の丈二メートルを超える大きな闇が揺らめいていた。僕はその闇に浮かぶ二つの青白い眼を見て、すぐに奴だと気付いた。じりじりと後退りし、化物の眼を睨み付ける。

「今頃になって現れたか。次は何を奪いに来た?」

 腹を抱える様に高笑いし始めた化物は、揺らめく闇の中からのっそりとその姿を現した。

「お前は傲慢だな。価値のあるものなどもはや何も持たないだろうに」

「うるさい。何をしに来たんだ!」

 奴はにんまりと不気味な笑みを浮かべた。

「お前にいい話がある」

 僕は両手に拳を作り、震えながらも奴と正面から対峙した。

「以前もそう言われてお前の話に乗ったばっかりに僕は肉体を奪われてしまった。信じるものか!」

 化物は愉快気に肩を竦めて見せた。

「すっかり疑心暗鬼だな。お前みたいな奴がチャンスを逃す」

「……黙れ!」

 化物は先程まで僕が腰を下ろしていたスツールに座り、ゆっくりと足を組んだ。

「俺はお前に、もう一度チャンスをやろうと言っているんだ」

「……チャンスだと?」

「そうだ。これから俺が提示する条件を満たすことができたなら、お前の肉体を返そう」

「……本当か?」

 化物はゆっくりと両腕を広げた。

「もちろんだとも」

「その条件とは何だ?」

 目の前に大きな手が翳された。緩慢な動きで指を折り始める。

「一つ。今日から十三日以内に一枚の絵を描くこと」

 次の指が折れる。

「二つ。画材にはキャンバスと油絵具を用いること」

 次の指が折れる。

「三つ。絵の対象は、お前が命を捧げても構わないものであること」

 僕は眉間に深く皺を寄せた。

「四つ。絵の質は、誰が観ても目を離せなくなるほど美しいものであること」

 最後の指を折った化物は、大きな口を歪ませてにんまりと笑った。僕は奴の挑発する様な眼を睨み付け、「前回と同じじゃないか」と言った。

「そうだとも。何か不満でもあるのか?」

「結果は前回と同じになるに決まっている」

 化物はゆっくりと立ち上がり、「やれやれ」と言って首を振って見せた。

「外罰的な奴に見込みはないな。俺はお前を買い被り過ぎていたようだ」

 やがて僕に背を向けた化物は、再び何処かへ消え去ろうと闇の輪郭を揺らし始めた。

「……待て」

 僕の喉から漸くその言葉が絞り出された時、奴はこの上ない程の喜悦を顔に浮かべてゆらりとこちらを振り向いた。

「完璧に条件を満たせば、必ず元の肉体を返してくれるんだろうな?」

 訊ねる僕に、化物は再び恭しく両手を広げて見せた。

「もちろんだ」

 一度だけ足元に目を落とし、こくりと生唾を飲み込む。成功すれば今度こそ全て自分のものになる。僕はゆっくりと奴に向かって手を差し出した。

「その話、乗った」

 途端に化物の黒い手がぬるりと伸びて来て、僕の手をじんわり掴んだ。

「……承知した」

 その瞬間、落雷に打たれた様な衝撃が全身を襲い、僕はあっという間に意識を失った。

 ゆらゆらと揺れる濃紺の暗闇。透き通る様な光芒がその僅かな間隙を貫き、ぼんやりとした視界の前で閃く。僕は全身を覆う冷気に身を委ねたまま、ゆっくりと何処かへ流されつつあった。仰向けに漂いながら少しずつ近付いて来る透明の膜を見詰め、あの向こうはさぞかし美しい空が広がっているのだろうな、と考える。
 茫漠とした希望に再び意識が遠のこうとし始めた、その時。「起きて」という声が突然聞こえた。はっと目を見開く。気付けば僕は暗い水中で無数の泡を吐き出しながら藻掻き苦しんでいた。後から後から水を飲み込み、肺が焼け付く様な痛みに襲われる。手足の感覚は次第に失われ、これで終わりだ、と諦めようとした時、もう一度「起きて」と願う声が聞こえた。僕は最後の力を振り絞り、頭上へ向けて手を伸ばした。今では幾筋もの光が煌めく水面の向こうから、美しい誰かが見下ろしている。

「……ねぇ、起きて」

 僕は水面を突き破った。

 がばりと身を起こし、激しく鳴る鼓動を耳元で聞いた。ここしばらく感じたことのない強い痛みが胸の中で脈打っている。

「……大丈夫?」

 鈴の音に似た声がすぐ傍で聞こえた。僕は声の主を一目見て、慌てて床に腰を付けたまま後退りした。埃を被った本棚に背中を強くぶつける。

「ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったの」

 彼女はそう言って怯える僕の傍へ静かにやって来た。そっと手に触れる。

「冷たい手。どうしてあなたはここで眠っていたの?」

 僕は酷く困惑しながら、そう問い掛ける女子生徒の目を見詰めた。

「……見えるのか?」

「え?」

「僕が見えるのか?」

 一瞬きょとんとした彼女であったが、やがてその美しい顔に静かな笑みを浮かべた。

「ええ、もちろん。見えているわ」

 僕は自分の手を見詰め、それから頭や頬、肩や胸、腹や腰、足や尻に触れてゆっくりと状況を理解していった。寒い。寒さを感じることのできる肉体が戻ってきている。喜びが腹の底から沸き起こったのも束の間、僕はふと強烈な不安と恐怖に襲われた。あのおぞましい化物と僕は再び取引をしてしまったのだ。奴の言っていたことから察するに、前回同様、画才を貸し付けられた上での『一枚の絵を描け』という案件なのだろう。するとこの肉体は戻ってきた、というより奴のものになった僕の肉体を僕自身に貸し付けている、と解釈した方が良いかもしれない。一度手にしたものをそう易々と手放す程、奴の気前がいいとは思えない。

「あなたは誰なの?」

 思案に没頭する余り、すぐ傍でじっとこちらを見詰める美しい瞳を忘れていた。僕は彼女を見て、「相澤優也」と答えた。

「この学校の人? クラスはどこ?」

「二年七組」

 静かにそう言うと、彼女が小さく息を飲むのが聞こえた。

「私も、二年七組」

 僕は「しまった」と思った。肉体を奪われてから七年もの月日が経過していることを忘れていた。訝しげに目を細めた女子生徒はもう一度、「……あなたは誰なの?」と訊ねた。
 返す言葉を見つけられなかった僕はすっかり俯いて黙り込んでしまった。耳が痛む程の静寂が僕らを包む。しばらくすると、彼女からそっと口を開いた。

「私は、芳松よしまつ夕莉ゆり

 容姿端麗な人だった。夕莉は僕がゆっくり顔を上げると、柔らかい笑みを浮かべて見せた。
 それから僕は彼女と言葉少なに語り始めた。物腰が柔らかく、好奇心を秘めながらも適度にコントロールし、自分の価値観だけで端から相手を否定する様な愚かさに走らない、実に聡明な人であることがすぐに分かった。話を聞くのが上手い夕莉に、僕はいつしか自分の身に起きた全てのことを語っていた。絵画のこと、化物のこと、画才と取引のこと、そして肉体を奪われてしまっていたこと。夕莉は僕の話すことに一度も眉をひそめることなく、唯々静かに、唯々誠実に耳を傾けてくれていた。

「じゃあ、あなたが肉体を完全に取り戻すには、条件を満たした絵を描く他にないってことね?」

 僕は小さく頷いて見せた。隣に腰掛けていた夕莉がゆっくり立ち上がり、揺れるスカートの裾に付いた埃を払った。

「美術室に行こう」

 僕は口を半端に開けて、彼女の顔を見上げた。

「あなたの絵、確かまだ美術室にあったと思うよ」

 心なしか夕莉の表情は楽しげに綻んでいた。

 昼休みの喧騒を避け、僕は夕莉と共に美術室へと向かった。彼女の話によれば美術教師の蔵満先生は昨年他校へと異動になってしまい、今は新しい教師が美術部顧問も兼ねて赴任しているとのことだった。ここ一、二年は古書室に籠っていたため、蔵満先生が他校へ異動してしまっていたことを僕は知らなかった。
 久方ぶりに美術室へ足を踏み入れてみると、どこか懐かしい絵具のにおいに胸が高まるのを感じた。そうやって僕が過去の記憶に浸っている合間、夕莉は颯爽と美術準備室の前へ赴き静かに扉をノックした。
「はぁい」というやや間延びした返事が聞こえたが、その声は確かに蔵満先生のものではなかった。ゆっくりと扉を開けて姿を現したのは、熊の様に大きな体をした髭の多い男だった。
「やぁ、芳松さん」とその男が言うと、夕莉はにっこりと親しげに笑い、
「こんにちは、崎村先生」と挨拶した。

「どうしたんだい?」

「先生が以前、私に見せて下さったあの『赤い絵』をもう一度鑑賞することは出来ますか?」

 夕莉がそう訊ねると、崎村先生は嬉しそうな笑みを浮かべた。

「もちろん。やっぱり芳松さんも気に入っていたんだね」

 彼女はこくりと頷いた。準備室の中へ招き入れようとする崎村先生に、夕莉は一つだけ小さな咳払いをした。

「あの、先生」

「ん?」

「こちらの方なんですが、実はその絵を描かれた生徒さんらしいんです」

 夕莉が僕に手を翳してそう紹介してくれた。崎村先生がこちらを見たので、僕は小さく頭を下げた。しかし彼は、きょとんとした表情を浮かべたまま首を傾げて見せた。

「芳松さん、何を言っているんだい?」

 僕ははっとして夕莉を見た。彼女もまた驚いた表情で僕を見た。どうやら僕の姿は夕莉にしか見えていないようだった。

「あの……いえ、何でもないです」

 すっかり血の気が引いてしまった僕とは裏腹に、夕莉は冷静にその場を誤魔化してくれた。
 彼女のすぐ後に付いて美術準備室へ足を踏み入れると、早速、崎村先生が僕の絵を部屋の隅から持ち出して来てそっと夕莉に手渡した。

「……綺麗」

 絵を観てそう呟く夕莉の横顔に、胸が強く痛んだ気がした。彼女の隣から自分の絵を覗き込む。やはりその出来栄えには満足だったが、久しぶりに目にして僕は思わずゾッとした。化物に貸し付けられていた画才が本来備わっている僕の器量と混ざり合い、生み出された相乗効果は酷く恐ろしげな引力を放っていた。なんて悪魔的なんだ。唯の人間が成せる領域を遥かに超えてしまっている。言い表しようもない不気味さに慄いた僕は、すっかり言葉を失い閉口してしまっていた。するとキャンバスを大事そうに手にしていた夕莉が、

「結局、この絵を描いた男子生徒の行方は未だに分からないままなのですか?」

 と崎村先生に訊ねた。彼はゆっくりと頷き、

「前任の蔵満先生が酷く悲しんでいたよ。その絵を描いた男子生徒は繊細な画力と観察眼を持っていた上に、とても努力家だったらしいからね。蔵満先生は彼にとても期待していたのかもしれないなぁ」と言った。

 夕莉の瞳が、ちらりとこちらを一瞥するのを感じた。

「蔵満先生によると、この絵はまだ完成していないらしいんだ。もしかしたらその男子生徒がまたここへ戻って来て続きを描くかもしれないっていうんで、その時の為に当時のまま保管しておこうと蔵満先生から僕に託されたんだよ」

 僕はじんわりと視界がぼやけるのを感じた。当時の自分は劣等感や焦りに苛まれ、周りの様子が少しも見えていなかった。蔵満先生は僕の描いた絵をしばしば褒めてくれたりしていたが、それがお世辞ではなく心からの賞賛であったことに、僕は今更ながら酷く胸を締め付けられるのだった。

「じゃあ、この絵は本人が続きを描いてくれるのをずっと待っている、ということですね」

 夕莉がそう言ってこちらを一瞥したので、僕は鼻を啜りながら彼女から顔を反らした。

「僕も、きっとそうだと思っているよ」

 崎村先生も心なしか嬉しそうにそう言っていた。
 美術準備室を後にし、僕と夕莉は図書館へと繋がる渡り廊下をゆっくりと歩いていた。目前で、夕莉の結ばれた長髪の尾が軽快に揺れる。彼女は頻りに僕を振り返り、目が合う度にくすりと笑った。

「今日が取引の初日で、期日までにはまだ余裕がある。道具は美術室に揃っているし、題材だって『赤い絵』が残されている。となると、問題は第三の条件をいかにクリアするかってことになるわね」

「……その第三の条件が難しんだよ」

 擦れた声で僕がそう言うと、夕莉はくるりとこちらに身を向けた。

「優也くんって、これまで絵ばっかり描いてきたの?」

 僕は頭を掻いた後、小さく首を傾げた。昼下がりの陽光が二人の足元で穏やかに反射し、こちらをじっと見詰める夕莉の瞳を美しく輝かせていた。僕は何故か次第に顔が熱くなるのを感じ、さっと目を反らして腕組をした。

「本も沢山読んださ。映画だって好きだ。音楽も、どちらかというと邦楽は苦手で洋楽ばかり聴いていたけれど、何も絵ばっかりに時間を費やしてきた訳じゃない」

 すると夕莉が笑った。

「違うの。何も優也くんを絵のことばっかり考えている変人だ、なんて言ってる訳じゃなくて。その、なんていうか、誰かを好きになったりしたことはないの?」

「……基本、人があまり好きじゃないからなぁ」

「まあ、そんな気はしてたけど。でも一人ぐらいいるんじゃない? 小学生や中学生の時に仲の良かった子とか」

「……よく分からない」

 夕莉は小さく溜息を零した。

「それじゃあ、また体を奪われてしまうことになるよ?」

 僕は彼女の言葉に口先を尖らせる。

「『絵の対象になるもの』に人を選ぼうとした時もあったさ。でもすぐに却下したんだ。よく考えてみたら、人に対して自分の命を捧げることは間違っている様な気がして」

「間違っている、か」

と呟く様に言った夕莉は、涼風に葉先が揺れる近くの木立へと目をやった。

「でも、私なら……」

 僕は風に包まれた彼女の言葉を一瞬聞き逃した。「何?」と問うたが、
「ううん、何でもない」と言って夕莉は僕の背中を軽く叩いた。

「また明日もお話しよう」

 彼女はそう言って微笑み、手を振りながら教室のある校舎の方へと去って行った。昼休みの終了、その十分前を告げるチャイムが校内にしんしんと響き渡った。

 翌日の昼休み。夕莉は再び図書館へとやって来た。僕は『古書室』が生徒にとって立ち入り禁止の場所であることを知っていたので、一階へ下りて新刊の小説を捲りつつ彼女が来るのを待っていた。夕莉が姿を現し、昨日どうして二階の古書室へ彼女が踏み入ることができたのか理解した。夕莉は鍵のまとまったホルダーを手にしたまま、カウンターの椅子に腰を下ろしたのだ。

「図書委員だったのか」

 半ば呆れた様な顔で僕がそう言うと、柔らかい椅子に深く腰掛けた夕莉は得意げに笑みを浮かべ、「それでも古書室に入るのは駄目なんだけどね」と言った。小さな舌がちらりと出る。

「それで、あれから絵にする対象物は何か思い浮かんだ?」

 そう訊ねる彼女に、僕は肩を竦めて見せた。昨晩、夜を徹して第三の条件を満たすものについて考えを巡らしていたが、やはり相応しい対象を思い付くことは出来なかった。それもあってか、絵を描きたいという創作意欲もぱったりと失せてしまっていた。

「隣においでよ。お話しよう」

 夕莉はそう言って、カウンター前に立ち尽くしている僕をもう一つの空いた席へと手招きした。恐る恐るスタッフ通路を通り、彼女の隣に腰を下ろす。夕莉はにっこりと笑みを浮かべて見せたが、すぐに僕から目を反らした。昨日は一つ結びにしていた髪が、今日は綺麗に編み込まれている。それから彼女と談笑している最中に気付いたのだが、露になった小さな耳が驚くほどに赤く火照っていた。指先で摘まめばきっと火傷するほど熱かったのかもしれない。しかし僕は摘ままなかった。僕の指先だって、正確に彼女の耳を摘まめると言えないほどに緊張で打ち震えていたのだから。
 その後数日、僕らは昼休みの時間を図書館のカウンターで取り留めのない会話に費やした。五十分という短い昼休みは夕莉にとって貴重であったろうが、彼女は他の図書委員と担当シフトを交換してまで僕に会いに来てくれていた。

 金曜日の放課後。夕日が照らす西校舎三階の渡り廊下に設置されたベンチで、隣り合って座る僕と夕莉は静かな会話に耽っていた。

「七年間、ずっと校内にいたの?」

「最初の数年はあの化物を探して学校中を彷徨っていたよ。でも最後の二年間はずっと古書室に籠って本を読んでた」

「何か面白い本でもあった?」

 うんと背伸びをしながらそう訊ねる彼女に、僕は「まぁね」とだけ答えておいた。

「自宅には帰ってみなかったの? 優也くんが失踪してご両親は心配されたんじゃない?」

 僕は小さく首を横に振った。

「帰れなかったんだ。学校の外へ出ようとすると、何故かまた敷地内に戻って来る。全部の門や柵越えを試してみたんだけれど、結果はどこも同じだった」

「……そうなの」

 夕莉は夕暮れの空を仰いで、遥か上空を行く鳥の群れを眺めていた。放課後の南校舎からは楽器の演奏するメロディーが絶えず聞こえてくる。もうすぐ開催される文化祭を前に、吹奏楽部が演奏曲の練習をしているのだろう。

「部活は、何もやっていないの?」

 そんな僕の問い掛けに、夕莉は苦笑しつつ小さく首を横に振った。

「私、集団行動が苦手なの。競い合うのも駄目。だから教室で授業を受けるのも大嫌い」

「マイペースなんだね」

「あなたほどじゃないけれど」

 僕らは互いに含み笑った。肌寒い秋風が二人の間を通り抜け、僕は夕莉が小刻みに体を震わせていることに気付いた。身に着けている厚手のものと言ったら制服の上着しか無かったので、僕はそれを脱いで夕空に視線を注いだままの彼女の肩にそっと掛けてやった。
「ありがとう」と言って夕莉は破顔する。僕はそんな彼女の顔をじっと見詰めた後、

「無理して僕に付き合う必要はないよ」と言った。

「……どうして?」

「僕はまともな存在じゃない。化物と恐ろしい取引もしてしまっている。結局、今回も駄目になって肉体を奪われることになるんじゃないかと思っているんだ」

 自分の手を夕闇の空に翳すと、寒さで血色が悪いのか青白く沈んだ色に見えた。僕はゆっくりと立ち上がり、グラウンドを見下ろせる渡り廊下の手摺にもたれた。

「いくら考えても分からないんだよ。第三の条件に合う『自分の命を捧げられるもの』ってやつが……」

 午後六時を報せる音楽が街の遠くから聞こえてきた。今日はグラウンドでサッカー部が練習をしていて、蹴られたボールの音が「どんっ」と校内で何度も反響する。

「封を切ればいいのかも」

 夕莉の静かな声が背後から聞こえた。

「……封?」

 そう言って後ろを振り返った時、ふわりと甘い香りがやって来て、酷く柔らかいものが僕の頬に触れた。胸元に置かれた小さな手が少しだけ震えながらキュッと固く閉じる。
 僕は不思議だな、と思った。体を奪われる前の自分も、体を奪われていた七年間の自分も、そして今ここにいる自分も、つい先程まで全てが別人の様に感じられていた。しかし特別に色彩豊かな芳香を放つこの一瞬は、記憶が始まる以前から一貫して自分の感受性を成すその底流に横たわり続けていた鮮やかな情動を思い出させてくれた気がした。
 やがて傍を離れた夕莉は、頬を赤く染めた顔でしばらくこちらをじっと見詰めていた。僕はすっかり言葉が喉に詰まってしまい、彼女に何も言うことが出来なかった。夕莉はくすりと小さく笑い、「もう一度、考えてみて」と言った。それから肩に羽織っていた制服の上着を押し返し、颯爽と渡り廊下を走り去って行った。

 その日の夜。僕は夕莉のキスを忘れられないまま、古書室の窓辺からぼんやりと月を見上げていた。秋は深まりつつあり、空気の澄み切った夜空で月は酷く美しい白に輝いている。
 化物に肉体を奪われてからというもの、虚しさに任せて校内中を彷徨いながら時折夜空を見上げたりしたが、一度もそこに浮かぶ月の美しさへ心を奪われたことはなかった。久方ぶりに開いた古書室の窓から差し込む月光は、空中を漂う僅かな埃さえもきらきらと輝かせている。僕は古書室の奥に捨て置かれていた古いデスクを窓辺まで引き摺っていき、その上に大小様々な古紙を広げて短い鉛筆でさくさくとデッサンを描き始めた。次から次へと目に浮かぶ夕莉の顔、姿、出で立ち、長い髪、細かい所作。目蓋の裏に現れては消えていくそれらを、僕は全て正確に自分の記憶に留めて置ける程の器量と要領を持ち得なかったので、必死に古紙の上で鉛筆を滑らせながら描き留めていった。
 気付けば僕は夕莉のデッサンを数十枚と描き続けていた。目を奪われるほどに美しく、心を奪われるほどに愛らしい。紙上に現れる彼女と目が合った時、ふと鉛筆を持つ手の動きが止まった。
『自分の命を捧げられるもの』。もしかしたら彼女がそうなのかもしれない。しかし、その判断に僕は完全なる自信を持つことが出来なかった。自分の命を捧げても構わない対象とはつまり、自分がこの世からいなくなったとしても、そのものだけは永遠に在り続けて欲しい、という願いを具現化したものでもある。
 ぽろりと鉛筆が手から転げ落ちた。
 僕は彼女に命を捧げられるのだろうか。それは決して夕莉が自分の命を投げ打つに値しない人であるということではない。僕は彼女ともっと話をしたいと思った。もっと彼女と一緒にいたいと思った。その上で、この命を捧げる事なんて出来るのだろうか。出来たとしても、それは彼女と共に居たいという意思を打ち消すものであり、そんな意思を打ち消すことができる時点で彼女は僕にとって命を捧げられる存在ではない、というのを認めてしまうことになりはしないだろうか。矛盾する二つの意思を重ね合うことなど果たして出来るのだろうか。
 一頻り頭を抱えた後、窓からそよぎ込む夜風に僕ははっと我へ返った。化物から言い渡されている期日までにはまだ九日ある。夕莉と話したり、共に過したりする時間はまだ十分あるのだ。その間に僕の心もやがてはっきりと輪郭を成してくるのではないだろうか。
 机上に転がり落ちていた鉛筆を拾い上げ、僕は再びデッサンの続きを描き始めた。

 しかし週が明けて以降、夕莉はぱったりと僕の前に姿を現さなくなった。会いたいという思いだけが徐々に膨張を続け、同時に焦りや不安も目を覚ます。自分の内側に沸き起こる雑多な感情を無視しようとデッサンに注力したが、次第にそれは手に付かなくなっていった。
 僕はとうとう気持ちを抑え切れなくなり、鉛筆を一本折ってしまったタイミングで夕莉のいる二年七組の教室へ足を運ぶことにした。教室に辿り着くと、夕莉は後方の席で静かに授業を受けていた。気付いた彼女がこちらを見たので小さく手を翳してみたが、夕莉は何事もなかった様に再び授業を聞き始めた。僕は頭上から多量の冷や水を浴びせられた様な落胆を感じた。それはここ数日の内に膨れ上がった夕莉への想いと、自分の内側だけで巻き起こる妄想の規模が大きい程に凄まじい威力を伴うものであった。僕はがっくりと肩を落とし、誰もいない孤独な古書室へととぼとぼ引き換えして行った。
 その後、すっかり気落ちした僕は、古書室に籠ったまま鬱々とした無為な時間を過ごした。五十枚を優に超えるであろう夕莉のデッサンは辺りにばら撒かれ、僕は床の上で仰向けとなって何度も何度も深い溜息を零しながら、だらだらとした不貞寝を繰り返した。

 そうして時間だけが流れ、いつしか化物が条件で示した締め切り日の二日前の朝を迎えてしまっていた。開けっ放しにしていた古書室の窓から朝日が差し込み、その眩しさと鳥の囀りに目を覚ました僕は、胃の辺りに軽い痛みを感じると同時に腹の虫が音を上げるのを聞いた。購買部からこっそり盗んでいたパンや弁当はすっかり食べ尽くしてしまっていたため、今朝食べられるものなど一つも持ち合わせてはいなかった。
 僕は冷たく固い床に寝転んだまま、自分の掌を天井へ掲げた。

「どうせ奴にまた体を奪われるんだろうし、空腹なんて関係ないな」

 重たい溜息が、ふうと零れる。
 とその時、かたんという音がして開いた窓から何かが転がり込んできた。驚いて体を起こすと、サイコロ大の小さな石が床に転がっているのを見付けた。徐に立ち上がり、窓辺に寄って階下を見下ろす。どうやって石がここまで飛んで来たのかすぐに分かった。

「どうしてずっと出て来ないの? 私、その部屋にはもう入れないのに」

 口を「へ」の字に結んだ夕莉が僕を見上げてそう言った。

「……だって、君はもう僕と関わりたくないんだろ?」

「どうしてそう思うの?」

 夕莉が腕組をする。

「君はあれから全く図書館に来ないし、教室でも無視したじゃないか」

 口先を尖らして僕がそう言うと、夕莉は小さく溜息を零した。

「優也くん。あなたはもう何年もそうしているから忘れているのかもしれないけど、学生には試験っていうものがあるのよ」

「試験?」

「中間考査。言ってなかったけど、この一週間はテスト期間だったの。それが昨日漸く終わったところ。放課後には様子を見に来たのに、優也くん何処にもいないし名前を呼んでも何も答えないんだもの」

 僕は「そうだったのか」と小さく呟いた。

「優也くんにもやらなきゃいけないことがあるから気にしないよう黙っていたのに、逆効果だったかしら」

「君がいきなりキスなんかするからだろ」

夕莉はお腹を抱えて笑い始めた。

「あなたって、可愛いのね」目元に滲んだ涙を拭く。

「なんで笑うんだよ」と僕が不貞腐れていると、夕莉は図書館の入口の方を指差し、

「一階に降りて来て内側から開けてよ。まだ事務室が閉まっていて鍵を取りに行けないの」

 と言った。午前七時を告げる音楽が街の向こうから聞こえてきた。
僕は彼女に小さく頷いて見せ、一階へと続く階段を駆け降りる。静かに開錠して図書館のエントランス扉を開けると、にっこり笑みを浮かべた夕莉がそこで待っていた。

「おはよう。優也くん」

 僕はその時、全身を巡る熱いものに気が付いた。きらきらと白む朝日を浴び、後ろ手を組んでこちらを見詰める夕莉は息を飲むほど美しかった。
しばらく図書館の一階で言葉を交わし、僕は夕莉が持って来てくれたサンドウィッチを食べた。その後、彼女は「朝課外があるから」と言って再び教室へと帰り、手を振って別れた僕は図書館のエントランス扉に施錠して古書室へと戻った。
 夕莉を描いた五十枚超のデッサンが床一面に散らばっている。それらをゆっくりと見渡し、ある一枚に自然と目が留まった。そっと拾い上げたその紙上には、後ろ手を組んでこちらへ微笑みを浮かべる夕莉の姿が描かれていた。次第にその背景に夕暮れの赤が滲んでいく。僕は無意識に笑みが零れるのを感じた。美しい絵の完成を予感した。

 その日の放課後。崎村先生の出張を機に美術部が活動休止していることを夕莉から聞いた僕は、橙色の陽光が差し込む美術室の一角で絵を描いていた。キャンバスにはどこまでも伸びる夕暮れの廊下が赤を彩り、映り込む教室の隅には所々小さな影が燻っている。僕はその『赤い絵』の上に、下書きなしで絵具を乗せていった。正直、下書きをしている時間さえ惜しかった。絵を描き始めた僕の目の前には、モデルを務める夕莉が静かに立っていた。

「きつくなったら、我慢せずに声を掛けて」

 キャンパスに絵具を乗せつつそう言うと、「大丈夫」と夕莉が小さく返事をした。
 軽い油彩筆は完全に身を預け、僕はキャンバス上で思いのままに絵を描いていった。見る見る内に夕暮れの世界へ夕莉が姿を現し始める。時折、現実の彼女は美術室の窓外へ視線を向け、静かに微笑んでいる様に見えた。ずっとこの時を待ち侘びていた、とでも言いたげなその姿は、非の打ちどころがない程の美しさに満ちていた。
 化物が指折り示した各条件。その全ての項目がジグソーパズルのピースさながらに組み合わさっていく。やがて吸い込まれる様な静寂が訪れ、僕はそっと絵筆を置いた。

「……できた」

 夕莉が静かに隣へとやって来て、キャンバスに描かれた絵を覗き込んだ。その呼吸は一瞬止まり、喉がこくりと鳴るのが聞こえた。

「優也くん」

 そう呟いた夕莉に顔を向ける。彼女は僕の瞳を見詰めた後、そっと小さな口を開いた。

「……間違ってないよね」

 僕は頷き、「間違ってない」と答えた。
 そうしてしばらく見詰め合っていた折、僕らの背後へゆっくりと近付いてくる何者かの気配を感じた。振り返ると、青白い眼をした化物がじっとこちらを見て佇んでいた。奴は完成したキャンバス上の絵に釘付けとなっている。ぽかんと空いた口元から、獣が吐き出す様な長い溜息が漏れ落ちるのを聞いた。化物は静かにイーゼルから僕の絵を掴み上げ、しばらく間近に見入った後、大きな手をぬるりとこちらへ伸ばしてきた。

「よかろう。約束通り体を返す。そして、この絵の力は紛れもなくお前のものだ」

 僕は笑みを浮かべ、奴の凍える様な冷たい手を力強く掴んだ。
次の瞬間、カッと胸の奥が燃え上がり、全身が一時に熱を帯び始めるのを感じた。血液が抹消まで隈なく巡り、閉じていた血管壁を押し広げ、仮死状態だった肉体の全てを蘇らせる。青白く沈んでいた肌の色は緩やかに赤みを取り戻し、心なしか体が軽くなった様に感じた。

「戻った!」

 両手を天井に掲げて歓喜の声を上げた。途轍もない達成感に全身が震える。傍にいた夕莉が静かに歩み寄り、僕を優しく抱き締めてくれた。細い腕越しに彼女もまた身を震わせていることに気が付いた。

「ありがとう。夕莉」

 耳元で彼女に向かってそう告げると、夕莉は小さく首を横に振った。

「……おかえり」

 化物と僕の描いた絵は、しばらく二人で抱き合っている間にどこかへと姿を消し去っていた。
 ややあってそろりと身を離した時、「なんだか少し、大人っぽくなったね」と夕莉に言われた。僕は美術室の手洗い場に設置されている鏡を覗き込み、首を傾げた。大人っぽくなった? 勝手知ったる自分の顔が、少しだけ以前と違っている様に見えた。化物から肉体を取り戻したついでに流れていた七年という月日が戻って来たのであろうことはすぐに察しが付いたが、それ以外の違和感があった。僕の顔はこんなにも鼻筋が通り、目の形は大きかっただろうか。全体のバランスも整っていて、まるで自分ではない様に見える。亡霊の様に彷徨っていた七年の間、僕は鏡を覗いたことも覗こうと思ったこともなかった。そこにさえ自分の姿が映らないのではないかと怖かったからだ。
 しばらく鏡の前で顎を擦っていると、
「そう言えば優也くんって何歳になるの?」と夕莉に訊ねられた。

「十六から七年だから、二三かな」

 夕莉が口元を手で覆いながらくすりと笑う。

「年齢だけは大人」

 年齢だけはって何だよ、と言い返そうとした時、彼女がそっと僕の頬にキスを寄越した。

 肉体を取り戻した日の夜。どこにも行く宛の無かった僕は、結局図書館二階の古書室にしばらく潜伏して今後どうしていくのかを考えることにした。夕莉は、「自宅に戻ってみるのはどう?」と提案してくれたが、七年も姿を晦ましていた果て、一体どんな顔で両親と会えばいいのかさっぱり分からなかった僕は「やめとくよ」と首を横に振った。もしかしたらそれは唯の言い訳で、今更彼らに会うのが酷く怖かっただけなのかもしれない。帰りたい、という思いは強くあったものの、それを実行に移せる程の覚悟を持つことが出来なかった。
 住み慣れた古書室の床に転がり、開いた窓から今夜の月を見上げた。陽が落ちる前に「今日はもう帰らなきゃ」と言って去って行った夕莉の後姿がぼんやりと思い出される。
 これからどうしようか。窓外から肌寒い夜風が吹き込んで来て、僕は小さく身を縮めた。七年というもの間、亡霊の様に校内を彷徨い続けながら暑さや寒さ、空腹さえも感じずにいられたのは、今思えばとても気安いことだったのかもしれない。僕はもはや生身の肉体を持つ唯の人間。いつまでもここに引き篭もっている訳にはいかない。自ら生きていくことを選んだのだから、外の世界へ出て生きる術を探すほか無いのだろう。
 この世界に、僕の生きるスペースはまだ残されているのだろうか。

 二日後、世間は日曜日を迎えていた。昨日、食べ物と何着かの男物の衣服(兄の古着らしい)を持って遊びに来てくれた夕莉の誘いを受け、今日は隣町に住む画家のアトリエを訪れることにした。日曜日は各部活動も休みで生徒が居らず、在中している警備員も殆ど巡回しないと知っていたので、僕は容易く図書館を抜け出し校外へと外出することが出来た。
 午前十時に南校門で私服の夕莉と待ち合わせをし、その足で電車に乗って隣町へと向かった。

「約束は昼過ぎだから、少し街を歩こうよ」

 夕莉の提案に僕は頷いた。駅前のアーケード街をぶらぶらしながら、七年という月日の流れを感じた。中学生の頃に隣町へはよく遊びに来ていたし、このアーケード街もよく一人で歩き回った。特色の異なる古本屋が数店、のきを連ねているので、休みの日には全てを回って掘り出し物を発掘するのが当時の喜びになっていた。僕はシャッターの閉じられた或る古本屋の前で立ち止まり、しばらく色褪せた看板を眺めた。賑わっている他店とは異なり、そよ吹く風に錆び付いたシャッターがカタカタ物音を立てるのを聞いていると、なんとなく胸の奥から寂しさが沸き起こってくるのを感じた。
すっと夕莉の手が伸びて来て、柔らかく僕の腕に絡む。

「後悔してる?」

 僕はそう訊ねる彼女を見た。すぐ傍にある形の良い瞳が、じっとこちらを見詰めている。

「そんなに強欲じゃないよ」

 夕莉が「ふふっ」と笑った。

「良かった。誰かの後悔を救うなんて、他人にはできないことだから」

 今日は自然に流した彼女の髪から、ふわりと淡いシャンプーの香りがした。
 それから僕らは近くの公園へ寄って、夕莉が作ってきてくれた弁当を一緒に食べた。街にある店でランチをしようにも僕は現金を持たないし、端からそのことを知っていた夕莉が気を遣ってくれたに違いない。子供達が遊ぶ遊具や砂場から遠く離れた木陰のテーブルで、正方形と長方形の宝箱が開く。

「その画家さんね、凄い人らしいんだけど、普段は表に出ることが殆どなくて一日中アトリエで絵を描いているものだから、近所の人達も彼のことを良く知らないし、気難し屋な変人って思われているみたい。でも本当は、とても優しくて親しみやすい人なんだよ」

 私服姿の夕莉の瞳は、正午に迫る鮮やかな陽光の反射を受け、キラキラと美しく光り輝いていた。僕は彼女の作った甘い卵焼きを頬張りながら、もっと色々な背景の中に佇む夕莉の姿を描いてみたいと思った。何かの契約で託された仕事を成すためでもなく、何かの呪縛から解放される手段として利用するためでもなく、唯々純粋な欲求として彼女を描きたいと思った。

「だから気負うこともないし、緊張する必要もないと思う。とにかくその人の絵を優也くんに一度観てもらいたいの。きっと、私には分からないものを感じ取れるかもしれないから」

 さくりとレタスの葉を噛んだ。

「ありがとう。夕莉」

 画家は、街外れの住宅街から更に奥まった区画にある、小さな二階建ての木造家屋にひっそりと暮らしていた。玄関のインターホンを鳴らしてしばらくすると、扉の窓ガラス越しにのそのそ動く人影が見えた。やがて初老の男が顔を覗かせ、「やぁ、夕莉ちゃん」と言った。僕は初めてその画家を目にした時、『クロード・モネ』に似ているな、と思った。

「今日はボーイフレンドと一緒かい?」

 画家が微笑みつつそう訊ねたので、夕莉は少しだけ照れ臭さそうに、
「こんにちは、五十嵐いがらしさん」と挨拶をした。
 目が合った僕も小さく頭を下げ、「相澤と申します」と言った。五十嵐さんは立派な顎髭を擦りながら、「これはまた随分とハンサムな……」と呟き、「紹介したい人がいる、と夕莉ちゃんから聞いているよ。なるほど、これは確かに放って置けないなぁ」と言ってにやりと夕莉の方を見た。僕も何気なく彼女の表情を窺う。夕莉はふいと顔を背け、「それだけじゃないです。五十嵐さんの意地悪」と不貞腐れた様に言った。横顔に垂れた髪の隙間から、真っ赤に染まった小さな耳が見えていた。

 夕莉の話によると、五十嵐さんは『五十嵐来鹿いがらしらいか』という名の画家で、主に『陽光×水』をテーマにした油絵を多く手掛けている人だった。覗かせてもらったアトリエにはこれまで手掛けた作品が数点保管されており、現在制作中の絵も年季の入ったイーゼルの上で静かに鎮座していた。僕は作品一点一点をじっくりと鑑賞させてもらいながら、いくつか画伯に質問を投げ掛けたり、共に書籍を開いて絵画の話に耽ったりした。夕莉はその間、五十嵐さんの使うスツールに腰掛け、僕らの様子を黙って見ていた。時折、アトリエの書棚に並ぶ古いレコードを取り出し、そのジャケットの表紙や裏表紙を一つ一つ入念に眺めてもいた。
 僕らの話が一段落したところで、商店街にある洋菓子店で買った手土産のケーキを三人で食べた。五十嵐さんの淹れたドリップコーヒーが、僕の選んだモンブランケーキとよく合った。

 やがて陽が穹窿の果てに沈み始める頃、僕と夕莉は五十嵐さんの家を後にした。鮮やかだった橙色の空はいつしか深みのある紫色へと変容している。夕暮れの住宅街を抜け、駅の方へ足を向けようとしたところで、夕莉に反対方向へと腕を引かれた。

「もう少し歩こうよ」

 僕は頷いて、彼女に腕を引かれるままにした。
 町を南北に割る川幅の広い河川沿いの道を二人で静かに歩いた。ジョギングをする人や犬の散歩に興じる人、釣り具を抱えて自転車に乗る人、手を繋ぐ親子。僕は彼ら一人一人の表情や仕草に目を留め、声音や会話の内容にぼんやりと耳を傾けた。

「どうだった?」

 不意に隣を歩く夕莉にそう訊ねられた。僕は五十嵐さんのことだと察し、「凄い人だ」と返した。夕莉はくすりと笑って「謙虚ね」と言った。

「謙虚?」

「優也くんの描いた絵、五十嵐さんに見せたらきっと腰を抜かすと思うわ」

「……そうかな」

「無くなってしまったのが残念ね」

 夕莉はぱちんと指を鳴らした。化物はあの絵をどこに持って行ってしまったのだろう。僕は闇の深まっていく空を見上げ、しばらく奴という存在について思いを馳せた。

「それで、これからどうするのか考えてみた?」

 夕莉の問い掛けに笑みを浮かべる。

「分からない。でも、君がヒントをくれた気がするよ」

 ちらほらと星が瞬き始めている遠い空を、一機の旅客機が滑る様に飛んでいた。それは余りにも遠すぎて、暗い輪郭が空気の重層に滲んで見える。

「ねぇ、優也くん」

「何?」

「今日さ、うちに来ない?」

 僕はゆっくりと夕莉に目線を落とした。彼女はこちらを見てもくれない。見ることが出来ないのだと僕には分かった。

「君の家族に迷惑だろう」

 しかし夕莉は首を横に振った。

「いないの。父は先週から出張だし、兄も最近は大学院の研究室に籠り切り」

「お母さんは?」

「……いない」

 僕は察してそれ以上のことは訊ねなかった。ざわざわと腹の底が疼いたが、深い息を吸ってひとまず沈めた。

「帰っても家に一人ってことか」

「これから晩御飯を作るつもり。来てくれたら御馳走するよ」

「海老で釣ろうとしてる?」

「ふふっ、あなたは鯛なの? 謙虚な優也くんは何処へ行ったのかしら」

 ようやく夕莉が僕の目を見て笑ってくれた。しかしすぐに訪れた沈黙に耐え切れず、再び視線をさっと反らす。僕はどことなく足の付かない哀しみに襲われた。夕莉がどんな家に住み、どんな暮らしをしているか想像すら出来ないが、この後家に帰った彼女が一人で夕食を作って一人でテーブルに就き、一人で料理を黙々と口に運んでいる姿を想像すると、僕は堪らなく哀しい気持ちになった。

「お邪魔しようかな」

 その言葉に夕莉の顔が綻ぶ。

「ほんと?」

「でも、その後はまた学校に戻るよ」

 顔から綻びがやや失われたが、すぐに口元を緩めて「うん」と彼女は言った。

「来てくれるだけで嬉しい」

 僕らはやがて橋を渡って川の対岸側へ行き、元来た道とは逆方向に歩いた。そして商店街を抜けて駅で電車に乗り、夕莉の家へと向かった。

 彼女の住まいは駅近くにある高層マンションの中層階で、3ⅬⅮKの広さがあった。僕はダイニングテーブルの下座に腰を下ろし、キッチンで夕食を作る夕莉の様子を黙って見ていた。彼女は時折こちらに視線を向け、「音楽でも聴く?」「TⅤ点けようか?」「部屋に本があるから取ってきてもいいよ?」などと頻繁に訊ねた。僕はそのどれに対しても首を横に振り、頬杖を突いたまま夕莉の家事姿を眺め続けた。

「じっとこっちを見ないで!」

 そう叱られるまで彼女を見ていた。やがてテーブルの上に視線を落とし、その木目を左から順に辿っていく。途中、三つの節を見付けてそれが少しずつ人面の様に見え始めるのが不思議と可笑しかったが、僕は次第に自分の置かれている状況を思い出して目を閉じた。
 住み慣れた『古書室』は今でこそ居心地が良いが、いつまでもあの場所に潜伏している訳にもいかない。いずれ抜け出し、一般の人々同様、社会の中に自分の居場所を見付けなければならない。「相澤優也」という名前はもう使わない方がいいだろう。全くの別人として、一からやり直す術を見付けていかなければ……。
 目蓋を開けて自分の掌を見た。化物との取引を無事に完遂した今、僕には紛れもない絵の才能が宿っている。これを上手く利用しない手は無いだろう。茫漠とした先の見えない現実にただ一つ光を放っているとしたらこの画才だけなのだ。まるでギリシャ神話に出てくる『パンドラの匣』みたいだな、と僕は苦笑を浮かべた。

「一人で笑ったりなんかして、何かいいアイデアでも浮かんだの?」

 澄んだ夕莉の声に僕は顔を上げた。「準備できたよ」と微笑んだ彼女は、目の前のテーブルにカプレーゼとバジルソースのパスタ、トマトスープを並べた。それぞれの皿から香りが立ち、食欲をそそる。

「全部、君が作ったの?」

「うん。でもスープは昨日の残り物だし、カプレーゼは簡単。パスタは昔から得意なの」

 取り皿にフォークとスプーンを乗せて手元へ置き、テーブルを挟んで僕らは座った。「ふふっ」と夕莉が笑ったので「何?」と訊ねると、「なんでもない。さ、食べよ」と言った彼女は手を合わせた後、僕の取り皿へとカプレーゼを乗せた。

 夕食を全て平らげてしまう頃、時計の針は午後十時に迫ろうとしていた。食卓で今日の出来事を一頻り話してしまった僕らは、秒針の音がこつこつと刻まれる静かなダイニングで互いに口を閉ざしたまま座り込んでいた。折り目正しく両手をテーブルの上に置いた僕の顔を、夕莉は時折ちらりと上目で窺う。

「遅くなっちゃったね」

 小さくそう言うのが聞こえた。僕は「うん」と返事をして立ち上がり、テーブルの上に残されている空いた皿をシンクへと運んだ。

「そのままでいいよ」

 僕は夕莉の言葉に従い、腕まくりを途中でやめてテーブルへと戻った。しかし、腰は下ろさず椅子の背もたれに掛けていた上着を羽織る。

「……学校に戻るの?」

 僕は頷いて見せた。夕莉は立ち上がり、「今夜、泊まっていったら?」と訊ねた。

「お父さんとお兄ちゃんの部屋が空いてるし、何なら私の部屋も使っていい」

 夕莉が「父」「兄」ではなく、「お父さん」「お兄ちゃん」と言ったのが可愛らしかった。

「いや、今日は戻るよ。戻らないといけない」

 僕はそう言って夕莉の瞳を見た。彼女は俯き、自分の履いたルームシューズの先をしばらく見詰めていたが、やがて顔を上げ、「分かった。でも、一つだけ許して」と言った。
 許す? 言葉の意味を理解するより早く、夕莉は僕の首に腕を回して柔らかなキスをした。拒む理由など無かったので、僕も彼女に唇を預けた。
 そっと体が離れ、赤く火照る顔を背けた夕莉は自分の部屋へと駆けていき、厚手の上着を手に戻って来た。

「送る」

 僕は首を横に振り、「玄関先まででいいよ。外は寒い」と言った。

「ううん、学校まで」

 彼女が冗談を言っている様には聞こえなかったので、「冗談だろ?」と僕は敢えて訊ねた。

「……本気」

「玄関先でいい。学校まで来たら、今度は僕が君をここまで送らないといけない」

 なんだか可笑しくなってきて、僕らは二人で含み笑った。諦めた夕莉は上着を椅子に放り投げ、もう一度僕に抱き寄ってキスをした。

「あなたのことが好き。初めて会った瞬間から、ずっと」

 僕は今度こそ彼女を優しく抱き返し、丁寧に唇を重ねた。
 玄関先で別れる時、「夕食ありがとう。美味しかった」と僕は言った。

「また明日、学校で」

 夕莉ははにかみながらそう返した。外に面する通路をエレベーターに向かって歩く間、彼女は玄関の扉を開けたまま僕を見送っていた。下矢印と七階の文字が点滅して箱が到着する。僕は乗り込む前にもう一度だけ夕莉を振り返った。彼女はまだこちらに手を振り続けている。本当に美しいなと溜息をつき、僕は最後に手を振り返してエレベーターへと乗り込んだ。

 その後、しばらく夜の街を放浪し、火照った身体を夜気で冷ました。今夜は夕莉の家に泊まらなくて正解だった。あのまま甘やかされ続けたら歯止めが効かなくなるのは目に見えている。僕らはまだ一つ屋根の下で夜を明かすべきではないのだ。夕莉は自分の危なっかしさに気付いているのだろうか。いやいや、と僕は頭を振った。自分も気を引き締めなくては。ネヴィル・シュートの『On The Beach』に登場するモイラも、タワーズ大佐も、実に崇高な人達だと僕は思う。
 結局、そのまま学校へ戻ることにした。警備員のいる守衛室を迂回し、図書館側に位置する背丈の低い柵を乗り越えて校内へと侵入する。図書館の西側に並ぶ窓の一番端は殆どの場合鍵を閉め忘れられているので、僕は出る時もそこを利用し、入る時もそこを利用した。
 二階の古書室へと続く階段の扉に内側から鍵を掛けた時、僕はなんとなく全身に鈍い怠さが付き纏っているのを感じた。ここ数日、色々なことがあって疲れが溜まっているのかもしれない。階段を上り切る頃には倦怠感は更に酷くなり、次第に目眩が起こり始めた。壁を伝って歩かなければ満足に前へも進めない程だ。

「……何だ?」

 そう呟いた時、視界が一挙にきらきらとした光の粒に覆われ、僕は立っていることすら出来なくなった。机まで這って行って固い椅子に腰を下ろす。いつしか光の粒は視界全域を真っ白に染め上げ、強烈な吐き気と酷い悪寒を連れて来た。僕は堪らず机の上へと突っ伏す。
 二十分程だろうか。そうやってしばらく目を閉じて過ごした後、ふと顔を上げると、いつの間にか光の粒は視界から消え去り、しんとした古書室だけがそこに佇んでいた。

「何だったんだ?」

 呟いてみたが、殆ど医学の知識がない僕の頭から答えが出てくることは無かった。
 喉が渇いた。そう思って立ち上がろうとした時、突然両目の奥に途轍もなく激しい頭痛が起こり始めるのを感じた。僕は机上へ覆い被さる様にうずくまり、目の奥で暴れる頭痛に冷や汗をかいた。それはあまりにも激しく、一向に引いていく気配がない。僕は堪らず古書室の床へ転げ落ちてしばらくそこでごろごろとのた打ち回っていた。
少し痛みが落ち着き、仰向けになって暗い天井を見上げていると、何者かの影が僕を見下ろしていることに気が付いた。

「苦しそうだな」

 獣が唸り上げる様な声。僕ははっとして、あの化物の顔が闇に浮かび上がるのを見た。

「お前か。一体何の用だ」

「用は無いさ。ただ見に来ただけだ」

「見に来た? まさかこれはお前の仕業か」

 化物は高笑いした。

「勘違いしては困る。俺は何もしていない。お前を観察しているだけだ」

「なぜ観察する必要がある?」

 化物がこちらへぐいと顔を近付けた。

「なぜ答える必要がある?」

 奴はそう言って顔を引いた後、僕の周囲をゆっくりと歩き回り始めた。

「お前の描いた絵は実に美しい。大したものだよ。あれから手元に置いて俺はあの絵に見惚れ続けていた。しかし、一つお前に問いたい。あの絵は本当に完成していると言えるのか?」

「……どういうことだ?」

「第三の条件。それを正確に満たしていると言えるのか、と訊ねているのさ」

 僕はしばらく返事に窮し、口を閉ざしていた。

「……何かまだ不満があるのか?」

「俺に不満はない。実にいい絵だ。しかし第三の条件を満たす、ということがどういうことなのかお前は失念しているのではあるまいな?」

 怖気に震えて僕は身を起こそうとした。

「まさか……」

「『命を捧げられるもの』とは何か。お前がその問いにどんな答えを導き出すのか俺は楽しみにしていた。そしてお前が導き出した答えは『愛』だった。愛する者の為になら命を捧げることができる、と考えた訳だ。だがお前の考える『愛』には相互の存在が必要不可欠だ。あの娘と共に居ることを望み、あの娘を一人にしないということが『愛』であるとするならば、お前が命を捧げるということは、あの娘への『愛』を放棄することになる。『愛』が放棄されれば、そもそもあの娘は『命を捧げられるもの』でさえなくなるのでは?」

 刺す様な痛みが眼窩を襲った。

「そんなものは唯の屁理屈だ!」

 高笑いが破裂する。

「屁理屈? よくそんなことが言えたものだ。お前がなぜあの娘を第三の条件に適する対象として選んだのか、その理屈すら自分で分かっていないくせに」

 すぐ傍に身を屈めた化物は大きな手をぬるりと伸ばして来て僕の首を掴んだ。

「教えてやるよ。お前の選択は自己陶酔に陥った果ての自己犠牲だ。つまり単なる『エゴイズム』なんだよ。お前はあの娘を愛しているが故にあの娘のためなら命を捨てて構わない、と考えた。しかし、お前があの娘の為に命を捨てたところで何も残らない。何の利益にもならない。お前が一人で『素晴らしいことをした』と勘違いしたままこの世を去ることになるだけだ」

 頭を起こそうとしたが、凍てつく奴の手に押さえられて少しも動かすことが出来なかった。

「……悪魔め! お前は一体どこまで僕を追い詰めるつもりなんだ?」

「まだあるぞ」

 僕は口内に溜まっていた生唾を飲み込んだ。化物はにやりと口元を歪める。

「第三の条件には『命を捧げられるもの』とある。つまり、この取引はお前の命が捧げられたことが証明されてこそ完成に至る、というものだとは考えなかったのか?」

「馬鹿な!」擦れた声で喚いた。

「それならこの取引はそもそも何の意味があるっていうんだ。お前が画才をくれるからその対価に見合う美しい絵を描く、という条件で交渉してきたんじゃないのか。第三の条件にある『命を捧げられるもの』というのは飽くまでも仮定の話で、それを現実にしてしまったらこの取引自体、本末転倒じゃないか!」

 化物はくっくっと堪え、やがて腹を抱えながら高笑いを始めた。

「お前は暢気だな。参ったよ、まったく」

 僕は冷や汗を浮かべつつ奴を見て、「まさか、最初から……」と震える声で言った。激しい頭痛は止むことを知らず、思う様に体へ力が入らない。

「やめろ。これ以上僕に関わるな。これ以上、僕に何かを求めるな!」

 訴える声は尚も震え、化物は更にげらげらと高笑いした。

「もう遅い。美味い話には必ず裏がある。そしてお前は最初から重要なことを忘れている」

「……何を忘れているって言うんだ?」

 訊ねる僕に顔を近付けた化物は、耳元まで避けんばかりの口でにんまりと憎らしい笑みを浮かべて見せた。

「お前が取引した相手は、恐ろしい『怪物』だっていうことさ」

 突然、極寒の海に叩き落された様な衝撃が僕の全身を覆った。瞬間冷凍さながらに凍り付いていく感覚。僕は酷い恐怖に襲われ大声を出そうとしたが、意識はあっという間に遠ざかり、底の見えない真っ暗闇な深海へと成す術もなく沈んでいった。

 歌が聞こえた。誰かが遠くで歌っている。しかし言葉ではない。メロディーとしてしか僕には聞き取ることが出来ない。ハミングしているのだろうか、ともう一度耳を澄ませたが、次第にそれは誰かが口にする歌ではなく、何かの楽器で奏でられる曲であることに気が付いた。これは確か、ロベルト・シューマンの『トロイメライ』。演奏している楽器はピアノではなく、フルートだ。僕はピアノでの演奏しか聴いたことがなかったのでその新鮮さに頬が緩むのを感じた。誰が演奏しているのだろう。浮力を使ってゆっくりと体を起こす。目を見開いてみたが、辺りは重々しい暗闇に包まれているばかりで何も見えなかった。空間を支配している物質が分からない。気体か、あるいは液体か。とろりとした冷たい感覚だけが全身を覆っている。
 フルートの演奏はいつしか止み、耳の痛むような静寂が訪れた。時折視界の端に明滅を繰り返す光の断片が現れ、それを掴もうと手を伸ばしたが、あっという間に何処かへと消え去ってしまった。「ふふっ」と誰かの笑う声がして背後を振り向く。しかしそこには果てしなく闇が広がっているばかりで、誰の姿も認められない。僕は「夕莉」と名前を呼んだ。返事をするものは何もなかった。
 突然暴風が吹き始め、僕はゆっくりと底へ倒れた。もしかしたらそれは暴風ではなく、潮流の変化だったのかもしれない。ごろごろと底を転がりながら、点在する重い物に絶えず体をぶつけ続けた。それが岩だと気付いたのは随分傷め付けられた後だ。やがて体は舞い上がり、底のないだだっ広い空間へと投げ出された。相変わらず視界は真っ暗なまま、ゆらゆらと漂いつつ赤い夕焼けを思い出した。夕莉の面影が揺れている。だが彼女の顔をはっきりと思い出すことができない。また会う約束をしているというのに。彼女はまた僕の元へ会いに来てくれるというのに。抱き締められた温もりを思い出し、僕は小さく体を縮めた。止まることを知らない潮の流れに身を任せ、何処へなりとも連れて行け、と僕は無力に呟き続けた。

 目が覚めると、そこは薄暗い古書室だった。
 僕はゆっくり体を起こし、周囲をぐるりと見渡す。古本と埃の匂いに満ちた室内の様子は、以前と少しも変化が無い様に思えた。晩秋の色をした風が窓をかたかたと鳴らしている。

「眠っていたのか」

 そう呟いて自分の手を見ると、窓辺に落ちた月光に照らされて青白い肌をしているのが分かった。そろそろ秋も過ぎ去り、冬が間近に迫って来ている。寒さにやられているのだな、と思ったが、僕はふとあることに気が付いた。寒くない。

「……まさか」

 急いで図書館一階のトイレへと駆け込み、手洗い場の鏡を覗き見た。思わず絶句する。僕の相貌は十六歳に戻り、その肌は血色をことごとく失っていた。また体を奪われたのか? 訳が分からなくなり、トイレの手洗い場で立ち尽くした。奴は、『怪物』は、僕の描いた絵を確かに一度受領した筈だ。しかし今頃になって「条件に合わない」と難癖を付けて来た。なぜ怪物は最初からそうしなかったのか。初めから僕を騙すつもりなら、絵を受領する前に「残念だ。今回の取引も失敗に終わった」と言って僕の肉体をさっさと奪っていけばよかったのではないのか。それに奴は美味い話には裏がある、と言っていた。奴の言う美味い話の裏とは何だ……。
 しばらく鏡の向こうにいる十六歳の自分と睨み合った後、我に返った僕はふらふらと図書館二階へと続く階段を上り古書室へと戻った。冷静になってもう一度よく考えてみよう。もしかしたら僕が何かを見落としているだけのかもしれない。見落としさえ見付けて修正すれば、まだ取返しはつくのかもしれない。
 自分にそう言い聞かせて落ち着こうとした。しかし、ふと足が止まった。古書室の窓辺から降り注ぐ月光の奥に、何かが転がっているのが見えた。目を凝らし、次の一歩、次の一歩と恐る恐る近付いていく。月光の奥に燻る影で、誰かが仰向けになって倒れていた。僕はゆっくりと傍へ歩み寄り、その姿を目にして膝から崩れ落ちた。
 暗い古書室の奥で仰向けになって倒れていたのは、固く目を閉ざした夕莉だった。震える手で石膏の様に白くなっている彼女の頬に触れようとしたが、指先は何の抵抗もなく擦り抜けていった。夕莉の呼吸は完全に止まっており、彼女の命の灯火は僕の手の届かない遠い所へと去ってしまっていた。
 静かに眠る夕莉の体を抱き締めることもできないまま、僕は喉が裂けんばかりに声を上げて泣いた。誰にも聞こえない悲しみと、誰にも聞こえない怒りは、恐ろしい獣が出す咆哮の様に月夜の晩に響き渡っていった。


—— § ——


 静かに語り終えた相澤を見詰めたまま、沙耶はいつしか言葉を失っていた。姿を現す際、常に微笑みを浮かべていた彼の表情が今では冷たく能面の様に凍り付いている。
 沙耶は彼の話になんとも言い難い恐怖と憐れみを感じ、同時にある疑問を抱いた。

「最初から、全ては怪物の掌の上だったんだ」

 そう言葉を紡ぐための呼吸すら相澤から感じ取ることができなかった。沙耶は彼の暗い瞳をじっと見詰め、「でも、なんだか変」と言った。

「怪物の言い分だと、取引は破綻したということになるのよね? だって、取引が成立したなら第三の条件で相澤くんの命は奪われて、あなたは今ここに居ないはず」

「……そうだ。僕がまだここにいるということは、単純に取引は破綻したということになる。つまり第三の条件をそもそもクリアしていなかったということだ。だからまた画才も肉体も奴に奪われた」

「それなら何故、あなたが目覚めた時に夕莉さんが……」

 沙耶は急ぐ自分を落ち着けるよう呼吸を一度整えた。

「もしかして、夕莉さんは怪物に命を奪われたの?」

相澤は小さく首を横に振った。

「そうだとも言えるし、違うとも言える。夕莉は自ら死を選んだんだ」

 そうであって欲しくないと思える真実が突然目の前に現れた時、沙耶は自分がどんな表情をするのだろうと常日頃から考えることがあった。それが今ようやく分かった。ただ呆然と口を開け、目の前に現れた真実を見ていることしか出来ないのだ。
 机に腰掛けている相澤が少しだけ身じろぎし、制服の衣擦れ音が静かな教室に散っていった。

「目を覚ました時、僕は一時間余り眠っていただけなのだと思った。だが僕が目を覚ましたのは夕莉と別れた日から凡そ一年後のことだった」

「……一年?」

 沙耶はこくりと生唾を飲み込んだ。そして、「まさか」と呟いて勢いよく立ち上がり、

「相澤くんが眠っている間、夕莉さんは一人であなたを探し続けていたんじゃないの?」

 と訊ねる。相澤は揺れる様な眼差しで沙耶を黙って見ていた。

「どうなの?」訊ねる声音に怒りがこもる。

「……僕が古書室で眠りに就いている間、その姿は夕莉にも見えなかったようだ。肉体を取り戻して二日後、再び現れた怪物は何故かそういう風に僕の肉体を奪っていった」

 語りながら相澤の眉間に深い皺が寄る。

「恐らくそれは、奴が本当に達成させたい目的のためだったのかもしれない」

 沙耶は相澤の手が小さく震えていることに気付いた。軽く開かれていた掌はいつしか固く閉じられている。

「奴は奪い方をよく知っている。本当は何も与えてはくれないんだ。僕らから何かを奪うために甘い誘惑を持ち掛け、その罠に嵌ると、最後には全てを奪い去って行く」

「……怪物が本当に達成させたい目的って何だったの?」

 沙耶が相澤の肩に触れると、彼はびくりとして身を引いた。しばらく互いに見詰め合った後、相澤が静かに口を開いた。

「……夕莉だ」

「え?」

「奴は僕の肉体を手に入れた後、今度は夕莉の肉体をも欲したんだ」

 怖気が沙耶の全身を襲った。怪物は彼らの肉体を奪って一体何をしているというのか。

「恐らく奴は、夕莉に何らかの『選択』を迫ったに違いない。彼女が自分から命を絶つなんて考えられない。怪物は僕への見せしめにしばらく現実世界で夕莉の亡骸を放置した後、それを何処かへと持ち去っていった」

 語りながら俯き、苦々しい表情をする相澤を沙耶はじっと見詰め続けた。
やがて『赤い絵』へと視線を移し、徐にそれを手に取った。

「怪物が夕莉さんに迫った『選択』って何?」

「……分からない」

「あなたはこの絵に夕莉さんの姿を描いたと話した。でも夕莉さんがこの絵にいないのは何故?」

「……彼女は今でもその絵の中にいるんだ」

「え?」

「自ら命を絶って肉体は奪われてしまったものの、何故か夕莉の意識だけはその絵の中に繋ぎ止められた。いや、閉じ込められた、と言った方が正しいかもしれない。彼女はこうしている今も、その絵に描かれた世界の何処かを彷徨い続けている」

 沙耶は静かに目を閉じ、何度も首を横に振った。

「酷い。どうして夕莉さんがそんな目に合わなきゃならないの?」

 しばらく閉口していた相澤は、漸くざらつく様な吐息を零した。

「後悔したところで何の意味もないことは分かっている。だけど、後から後から悔やみきれない思いが襲って来て仕様がない。僕が絵の才能さえ求めなければ、僕が夕莉への思慕さえ抱かなければ、こんなことには……」

 沙耶はその言葉に強い怒りを覚えたが、それ以上に不気味な疑問が心に湧き起こるのを感じた。

「相澤くん。あなたに訊ねたいことがあるの」

 彼は顔を上げた。

「どうして私に近付いてきたの?」

 その瞬間、相澤の目が僅かに見開かれたのを沙耶は見逃さなかった。

「怪物は何故私を暗がりに引きずり込んで物色したの? 相澤くんは何故私に夕莉さんとのことを話したの? あなた一体、何を企んでいるの?」

 しばらく黙り込んだ相澤であったが、やがて「すまない」と小さく零した。

「僕はまた、奴と取引をしてしまった」

「……どんな取引?」

「この取引はこれまでと違い、僕から奴に交渉を申し出た。画才はいらない、その代わりに僕の肉体と夕莉を返せ、と」

 沙耶は全身が震え出すのを堪えながら、「どんな条件なの?」と訊ねた。相澤は青白い手を顔の前に翳し、ゆっくりと指折り始めた。

「一つ、今日から十三日以内に一枚の絵を描く。
 二つ、画材にはキャンバスと油絵具を用いる。
 三つ、絵の対象となるものは、怪物が欲しくて堪らないもの。
 四つ、絵の質は誰が観ても目を離せなくなるほど美しいもの」

 言い終えると、相澤は静かに手を降ろした。彼の瞳は沙耶の目を見詰めたまま離さない。
 沙耶は目を見開き、後退りした勢いで机に腰をぶつけた。

「……嘘」

「本当にすまない」

 瞬間、破裂する様な乾いた音が沈黙していた室内に響き渡った。沙耶の振り上げた手が相澤の頬を強烈に打っていた。言い表しようのない怒りに肩が震える。

「冗談じゃない! 今度は私ってこと? 私を怪物にやって、夕莉さんを取り返そうとしているってこと?」

 彼の暗い瞳が揺れたのを認め、沙耶は次なる怒りが沸き起こるのを感じたが、それが外へと噴出するのを必死に抑え込んだ。

「……取引をしてから今日で何日目になるの?」

 相澤は「十二日だ」と答えた。暗く沈んだ瞳がこちらを向くことはなく、あさっての方を見たままひたすら心を閉ざしていた。なんて恐ろしい人。これじゃあ、まるで……。
 沙耶は頭を振り、手に持っていた『赤い絵』を机上に放り投げた。傍に置いていた自分のバッグを勢いよく掴み上げ、立ち竦んだままの相澤を置き去りにして教室から出て行く。
 ふと足が止まり、薄暗い教室に佇む彼を一度だけ振り返った。

「あなたはそれでいいの? それが本当に夕莉さんへの『愛』を証明したことになるの?」

 そう訊ねる沙耶に、相澤はやはり何も答えなかった。ただ頑なに口を噤み、沈んだ夕陽のプルキニエに染められた青白い瞳でじっとこちらを見詰め続けていた。

 その日の夜。帰宅した沙耶は自室に籠ってベッドへと潜り込み、声も出さずに泣き続けた。一体何処からこんなにも激しい哀しみが沸き起こって来るのか見当も付かない。心配した母親が何度か部屋の扉をノックしたが、沙耶は何も答えず布団にじっと身を包んでいた。
 いつしか彼女の中に募っていた相澤への想いは粉々に砕け、それに追い打ちをかける様に彼の口から語られた過去の出来事が沙耶の心を襲った。鋭く太く、冷たい釘の様にぐいぐいと胸へ刺し込まれる。何もかもが恐ろしく感じた。怪物の事も、取引の事も、夕莉の事も、相澤のことも。相澤と三度目の取引を交わしているであろう怪物は既に沙耶のことを認識し、確実に彼女を奪いに来る。今回の取引が破綻した場合、私は一体どうなってしまうのだろう、と沙耶は恐怖に打ち震えた。止めどない哀しみと恐怖はやがて、不安と困惑、そして怒りに転じ、遂には憐憫へと染まっていった。相澤の頬を打った掌が、今頃になってじんじんと疼き始める。

「私は一体、どうしたらいいっていうの?」

 固く瞳を閉じると、極度の疲弊は一瞬にして沙耶を深い眠りの中へと引きずり込んでいった。

 ゆっくり目蓋を開ける。そこは赤い夕陽が差し込む学校の廊下だった。
見覚えのある風景。長い廊下は何処までも永遠に続いていて先が見えない。ふと視線を上げると、沙耶が立つすぐ傍の教室の立て札には『二年七組』と記してあった。

「……ここは」

 彼女がそう呟いた時、影になっている廊下のベンチで何者かの身じろぎする気配を感じた。誰かが腰掛けてこちらを見ている。沙耶は恐る恐る近付いていき、その姿を認めて足が止まった。ベンチには沙耶と同じ制服を身に纏った美しい女子生徒が座っていた。夕陽の紅に染まってはいるが、その肌は透ける様に白く、端正な顔は見ている側が思わず上気してしまう程に美しい。にこりと微笑んで見せた彼女は柔らかく立ち上がり、ゆっくりと沙耶の傍へ歩み寄って来た。

「あなた、木村沙耶ちゃんね」

 静かでいて凛とした声音。沙耶は思わず緊張する。

「もしかして、夕莉さん?」

 夕莉は小さく頷いて見せた。途端に沙耶は恐怖に襲われ、彼女から後退りした。

「どうして逃げるの?」

 首を傾げてそう訊ねる夕莉に、沙耶はこくりと生唾を飲んだ。

「あなたのことを、相澤くんから聞きました」

「ふふっ。私も沙耶ちゃんのことを彼から聞いたわ。優也くんは今でも私が絵の中にいると思って、時々語り掛けてくれるもの」

 そうなんだ、という複雑な気持ちを沙耶は自分の中だけで呟いた。
 足元に目線を落としていると、夕莉がそっと沙耶の頬に手を伸ばしてきた。やがてその細い指は顎へと下りて行き、優しくくいと顔を持ち上げる。ほんのりと甘い香りがした。

「彼の事、嫌いになった?」

 すぐ傍にある美しい顔にそう問われ、沙耶は思わず目を反らしながら「はい」と答えた。

「どうして?」

「自分の都合で夕莉さんを巻き込んでおいて、そのくせまだ『僕が全部悪いんだ』みたいな顔をしています。嫌いですよ、あんな人」
すると夕莉はころころとした鈴の音の様な声で笑い、「どうかしら」と言った。

「あなたは今、彼を不憫に思い始めているんじゃない? その憐れむ気持ちって、何?」

 沙耶はぎくりとしたが、慌てて首を横に振った。

「そんなことないです。だってあの人は……」と言ったところで、その先の言葉は飲み込んでしまった。夕莉はそんな沙耶に微笑み掛けると、彼女の顎から手を離して延々と続く廊下をゆっくり歩き始めた。少しだけ距離を置き、沙耶もその後に付いて行く。

「優也くんと別れた次の日、学校の図書館へ行っても彼の姿は何処にも無かった。古書室にさえいなかったの。代わりに沢山のデッサンが床に散らばっていたわ。下書きには全て私の姿が描かれていた」

 前を行く夕莉の背中を、沙耶はじっと見詰めていた。

「私は必死で彼を探し回ったわ。学校中、街中、隣町に行って商店街中を探し回った。でもやっぱり彼を見付けることは出来なかった。名前を呼んだけれど、優也くんからの返事は一切なかったの。何が起こっているのか全く分からなかったわ。彼は突然姿を消して私は一人ぼっちになった。隣町の五十嵐さんを訪ねてみたけれど、そこにも優也くんは居ないばかりか、五十嵐さんは彼のことをすっかり忘れてしまっていたの。他に優也くんのことを知る人は誰もいないから、まるで最初から相澤優也くんなんて人はこの世界に存在していなかったみたいに思えて来た。でも確かに私は彼のことを覚えていたし、彼のことがずっと好きなままだった。存在していなかった人を好きでいられる筈が無い。だから諦めないで探し続けたわ。でも一年近く探し回って、もう彼には会えないのかもしれないと思い始めた時、自分の中で優也くんの記憶が薄れ始めていることに気付いたの」

 立ち止まった夕莉は、窓外の紅を遠く眺めた。

「堪らなく哀しくなって、それでも彼への恋しさだけは募っていって、絶望感が見る見るうちに膨らんでいったわ。そんな時、あの怪物が私の前に姿を現したの」

 沙耶は「えっ」と言ったが、それは声になることなく彼女の喉の奥だけでふいっと鳴った。

「『あいつとの取引はやはり失敗に終わった。再び肉体を失い、亡霊の様な存在になってしまっている。もしお前がまたあいつと会いたいというのなら、これを飲むといいだろう。苦しまずに安らかな眠りに就き、同じ存在となって望み通りあいつと再会できる。そうすればいくらでもやり直しは効くというものだ』と言って、怪物は私に或る薬包を渡して来たの」

「それは罠です!」

 沙耶は夕莉の前に回り込んでそう訴えた。しかし美麗な顔はただ哀しげに微笑んだ。

「気付いていたわ。でも、心のどこかで信じてしまってもいた。また彼に会えるかもしれない、彼と二人ならまたやり直せるかもしれない、という希望に、私は深く考えもせず手を伸ばしてしまったの」

 沙耶はぐっと奥歯を噛み締め、足元に揺らぐ目線を落とした。その場にいたとして、私に何が出来ただろうか。もし夕莉さんと同じ立場なら、私もその薬包を手に取ったのだろうか。第三者として現場にいたなら、薬包を受け取る夕莉さんの手を振り払っただろうか。いや、と沙耶は思った。何もできない。私は臆病で意気地なしだから、相澤くんとの再会を諦めるし、怪物が夕莉さんに薬包を渡すのを黙って見ているかもしれない。自分勝手と相澤くんを心の中で罵っていたが、それと同じくらい私も自分本位な人間なんだ。沙耶は震えるほど固い握り拳を作ってすっかり黙り込んでいた。
 夕莉はそんな沙耶の様子を眺めた後、そっと彼女の頬に手の甲で触れた。

「渡された薬を飲んで長い眠りに落ち、目が覚めた時にはここで一人きりになっていたわ。結局、優也くんと再会することも出来ず、私はまんまと怪物に騙されてしまったのね」

 夕莉がふと顔を上げた先には、『二年七組』の立て札があった。

「どこまで行っても同じ廊下、何度通り過ぎても同じ教室、いつまで経っても同じ夕焼け。私は気付いたの。ここに未来永劫閉じ込められてしまったんだって。もうどれほどの間、ここで彷徨い続けているのか見当も付かない」

 沙耶は頬に当てられていた夕莉の手を取り、

「ここから出られる方法を一緒に探しましょう」と言った。

 しかし夕莉は首を横に振った。

「どうしようもないわ。今の私は描かれた対象物として絵の中の存在になってしまっているの。絵の世界と現実の世界を隔てた強固な壁を、どちらかに属する存在が破壊して飛び超えるなんてことは出来ない。小説や漫画の中にいる人達と現実で会うことが出来ないのと同じ様に」

「それでは永遠にここにいることになってしまいます」

 狼狽える沙耶に、夕莉は薄っすらと微笑んで見せた。

「沙耶ちゃんは綺麗。きっと優也くんもあなたの綺麗さに気付いているはず」

 沙耶は彼女が何を言いたいのか悟り、ぱっと手を離した。

「夕莉さんも、相澤くんと同じ考えなんですか?」

「……どういうこと?」小首を傾げる

「相澤くんは自分から怪物と三回目の取引をして、私と引き換えにあなたを取り返そうとしています。夕莉さんもそれを望んでいるのですか?」

 沙耶の声には怒りと恐怖が乗っていた。夕莉は疾うにそのことに気付いており、鈴が転がる様な声音で笑い始めた。

「まったく、彼って悪い人よね。亡霊の様に長い間彷徨い続けて、とうとう怪物になってしまったのかしら」

 夕暮れを背にころころと笑う夕莉を不気味に思った沙耶であったが、「違うの」という言葉を聞いて逆立っていた気持ちが凪ぐのを感じた。

「私が言いたいのは、あなたはとても彼好みの女の子ねっていうこと」

「……相澤くん好み?」

 夕莉はその問いには何も答えず、ただ静かな笑みを浮かべていた。

「優也くんが自分から怪物に交渉して新たな取引をしたのは知っているわ。沙耶ちゃんの言う様に、彼はあなたを犠牲にして私を取り返そうとしている。でもそれは決して私の望むところではない。そもそもこの一連の出来事に関係の無いあなたを巻き込んでしまうこと自体、間違っているもの」

 夕莉の言葉に、沙耶はふっと肩の力が抜けるのを感じた。安堵が全身を覆う。

「何か怪物を出し抜く様な、いい方法があればいいのに……」

 呟くようにそう言った沙耶の頬を、夕莉が人差し指で軽く突いた。

「どうしようもないと言ったけれど、実はいい方法が一つだけあるの」

そっと顔を近付け、密やかな耳打ちをする。沙耶は思わず頬が上気するのを感じたが、心なしか楽しげに笑う夕莉の瞳を間近に見て彼女も顔が綻んだ。

「……あぁ、なるほど」

「うん、そういうこと」

 ころころと鈴の音が転がる。しかし途端に沙耶の表情が曇った。

「でも、それじゃあ、もし……」

「しっ」形の良い唇の上に人差し指が乗る。

「いいの。もうそれ以上は何も勘ぐらないで」

 沙耶は眉を下げたが、しばらく夕莉の瞳を見詰めた後にこくりと頷いて見せた。
 夕莉はにっこりと破顔し、「一つだけ、彼に伝えて欲しいことがあるの」と言った。

「伝えて欲しいこと、ですか?」

「ええ」

 赤い廊下に夕莉の言葉が零れ落ち、その一滴はやがて静かな湖面に波紋を描くよう辺りへ広がっていった。沙耶は自分の制服のスカートを無意識の内にぎゅっと強く掴んでいた。

 それからしばらく、二人は『二年七組』の教室で取り留めのない会話に耽った。室内の中央に当たる隣同士の席に腰を下ろし、頬杖を突いて話をする夕莉の顔を、沙耶は折り目正ししい姿勢でじっと見詰め続けた。時折相槌を打ち、話を振られたらシンプルに返す。穏やかでいて柔らかく、しかし凛とした夕莉の声音は沙耶の耳に深い安らぎを与えた。
「ふふっ」と夕莉がある時笑い、沙耶は首を傾げた。

「何ですか?」

「どうして?」

「え?」

「どうしてそんなに私のことをじっと見ているの?」

 沙耶は頬が熱くなり、思わず赤い窓辺へと顔を背けた。同時に相澤への憎らしさが心に浮かぶ。「君が美しいからだよ」と彼なら簡単に言ってのけるのだろうな、どうせ。
 沙耶は「夕莉さんとの話が楽しいからですよ」と答えておいた。席を立った夕莉は思い切り背伸びをした後、教室の窓辺に寄って夕暮れの窓外を眺めた。そこからは誰も居ない校庭を見下ろすことができる筈だ。

「わたしも久しぶりに誰かと話ができて楽しい。その相手があなたであることが、わたしはとても嬉しい」

 そう言ってこちらを振り向いた夕莉の顔は酷く美しかったが、その目元には少しだけ青い影が差していた。しかし、もしかしたら気の早いプルキニエの微光なのかもしれないな、と沙耶はあまり深く気に留めることはなかった。

「あの、夕莉さん」

 沙耶が訊ね事をしようと口を開きかけた時、突然どこか遠くからフルートの奏でるメロディーが聞こえ始めた。耳を澄ましてみると、ロベルト・シューマンの『トロイメライ』であることが分かった。まるで空気の隙間を蛇の様に這ってくる音律。一体誰がこんなにも不気味な演奏をしているのだろう、と沙耶は立ち上がって教室の外へ出てみた。しかし、そこには真っ直ぐな廊下が果てしなく伸びているばかりで、何者の姿も認めることは出来なかった。沙耶は教室を振り返り、「夕莉さん、これは?」と訊ねた。夕莉は苦笑して、

「時々、前触れもなく聞こえてくるの。誰が、何処で、何のために演奏しているのかわたしにもさっぱり分からない」と言った。

 沙耶は瞳を閉じてもう一度よく耳を澄まし、その演奏に込められた奏者の意図を読み取ろうとした。なぜそのタイミングで強調し、なぜその音節でざらつくの? どうしてあなたは、そんなにも震えているの?
 はっと我に返った時、すぐ傍に夕莉がいた。彼女は沙耶に向かって何かを差し出している。夕暮れの光をきらりと弾く銀色の細長いもの。見覚えのあるその物体をしばらく眺め、沙耶は徐に夕莉の瞳を見上げた。目が合った彼女はにっこりと笑って見せた。

「あの曲、もう何度も聞いていて飽きてしまったの。何か別の曲を弾いてくれないかしら」

 夕莉が差し出していたのは、音楽室に保管している筈の沙耶のフルートだった。
 沙耶はそっと自分の楽器を受け取り、不具合はないかチェックした後、夕莉の瞳を見て一度だけ小さく頷いた。静かに呼吸を整え、目蓋を閉じて『ある調べ』を奏で始める。
 夕莉も瞳を閉じて沙耶の演奏に耳を澄ました。いつしか『トロイメライ』の演奏は消え去り、沙耶の奏でるメロディーだけが教室中に響き渡っていた。それは哀しげでいて酷く切ない音律ではあるが、決して孤独を嘆く様な愚かさは携えていない筈だ。
 薄く目蓋を開き、紅の光に照らされている夕莉の顔を盗み見た。彼女は美しいまま眼を閉じ、そっとメロディーに耳を澄ましている。沙耶はその様子を相澤に見せてやりたい、と思った。そうすればきっと、何もかも上手くいくだろうから。

「この曲、知らないわ。沙耶ちゃんが作曲したの?」

 静かに訊ねる夕莉に沙耶は首を横に振って見せた。譲り受けたものです。あなたのために。

「……曲名は?」

 Aus Liebeアウスリーベ

 粉々に砕けて混沌としていた沙耶の胸の内は少しずつであるが形を成し、多彩な絵具で見事に色分けされつつあった。
 相澤くん。あなたがこの曲を奏でているのね。私はこんな曲知らないもの。不思議と指が動いて、フルートへ送る息のタイミングも無意識。まったくもどかしい人。私はあなたの様に絵を描くことは出来ない。だから私の中に刻まれた情景を描く仕事はあなたが請け負い、あなたの中にあるメロディーを紡ぎ出す仕事はこうして私に譲ってくれているんだ。あなたは現実で楽器を奏でることは出来ないから。それなら私は身を任せる。あなたの想いが、今目の前にいる美しい人の元へ届く様に……。

 けたたましい目覚まし音が鳴り、沙耶は勢いよく飛び起きた。うつ伏せの寝相から一気に身を起こしたため、背中の筋が少しだけぴきりと痛んだ。カーテンを閉め忘れていた窓辺には朝日が零れ落ち、窓外からは鳥の囀りが聞こえている。しばらくぼんやりとした頭で枕を見下ろしていると、「ふふっ」という微かな笑い声が何処からか聞こえた気がした。

「……夢?」

 ベッド脇のデスクに置いていたスマホを確認する。午前六時五十二分と表示されていた。急いでベッドから降りて姿見を覗き込むと、後頭部に酷い寝癖がついていた。昨晩、穴を掘る様に布団の中へと潜り込み、そのまま眠ってしまったツケだ。

「嘘でしょ」

 絶望的な思いのまま慌てて髪に櫛を通していると、不意に手が止まるのを感じた。窓辺できらきらと光っている朝日を見詰めながら、今日が自分と相澤、そして夕莉に残された最後の日であることに気が付いた。もう一度だけ姿見に映った自分を眺め、沙耶は口を「へ」の字に結んで一息に髪を後ろで束ねた。しつこい寝癖なんかに構っていられるか。ぱちんと髪ゴムを弾かせ、皺くちゃな制服のまま中身の変わらないバッグを手に取り、一階へと続く階段を慌ただしく駆け下りていった。

 高校へと続く通学路には朝の早い学生達の姿がちらほらと散見された。誰も急ぐ者はなく、手にしたスマホや単語帳を覗きながらゆるゆると道を歩いている。沙耶はそんな彼らの間を縫う様に走り抜けていった。後ろで一つに束ねた髪が酷く暴れ回っているのを感じたが、呼吸のリズムを崩したくなかったので構わずに先を急いだ。
 学校の正門を潜ると、バックを肩に背負い直して図書館へと向かった。もちろん一階の鍵は施錠されており、この時間帯に中へ入ることは出来ない。古書室の窓を見上げることができる東側の通路に行けばなんとかなるかもしれない、と思った沙耶は、図書館のエントランス前を通り過ぎ、その横にある狭い通路へと足を踏み入れた。そこは通路と言っても殆どの人が立ち入らず、電気メーターを読む検針員が入る程度の草地スペースだ。沙耶は脹脛ふくらはぎあたりまで背丈のある下草を踏みしめながら前へと進み、辿り着いた場所から古書室の窓を見上げてみた。窓はぴったり閉じられ、全てのものからの干渉を頑なに拒んでいる様に見えた。足元へと視線を落として周囲を見渡す。まだ息の整わない沙耶の耳には、草の根から立ち昇る涼やかな虫の音が鮮明に聞こえていた。
 手頃な小石を見付け、ガラスを割ってしまわないよう窓に向かってそれを投げた。上手く障子さっしに当たった石は甲高い音を立てたが、室内から何かの反応が返ってくる様子はない。沙耶はもう一度手頃な小石を拾い上げ、今度は窓ガラスに向けて思い切り放り投げた。石は見事に古びたガラスを突き破り、先程よりも更に鋭い音を立てた。自分でやっておきながらびくりと体を縮めた沙耶は辺りを見渡して誰にも見られていないか確認したが、目撃者は一人もいない様子だった。ほっと小さく胸を撫で下ろし、上を仰ぎ見た時、窓がゆっくり開いて中から相澤が顔を覗かせた。
「君だったのか」彼は驚いた顔をしてそう言った。

「石を投げて窓ガラスを割るとは、なんて荒々しい呼び出し方なんだ」

 他人事の様な言葉にむっとした沙耶は、腰に手を当てて相澤を見上げた。

「絵はどうするの? 今日が取引の条件にある最終日なんでしょう?」

 相澤は力なく笑みを浮かべ、ガラスの割れた窓辺へと身をもたれた。

「あれから下絵を描いてみようと色々試したんだけど、上手くいかなかったよ」

「笑ってる場合? 今度の取引が失敗したら夕莉さんは戻って来ないばかりか、今貸し付けられているあなたの体も画才も全て没収されてしまうんでしょ?」

 相澤は口を噤んだままじっと沙耶の顔を見下ろしていた。やがて気まずそうに、

「君からしたらその方がいいんじゃないのか? 取引が成功したら、君が怪物に連れ去られることになってしまうんだから」と言った。

 囀っていた小鳥は飛び去り、虫の音が止んだ。気付けば騒がしかった辺り一面が妙に静まり返っている。

「馬鹿なこと言わないで。私はもう相澤くんのことも、夕莉さんのことも、取引のことも、怪物のことも全部知ってしまっているの。あなたと夕莉さんを犠牲にしてまで、自分だけ助かろうなんて思わない」

 沙耶がそう告げると、相澤はしばらく黙り込んだ後に微笑を浮かべた。それがなんとなく子供じみた無邪気さを含んでいたため、沙耶は憐憫を乗せた溜息と共に苦笑を零した。

「いい方法があるの。あなたと話したいから、一階に降りて来て鍵を開けて」

 午前七時半を報せる学校のチャイムが鳴った。まもなく多くの生徒が校内へと雪崩込み、また騒がしい一日が始まる。

 一階の内側から鍵を開けてもらい、沙耶は相澤と共に二階の古書室へ向かった。もうすぐ朝課外の時間になるが今はそれどころではない。
古書室に踏み込むと、未完成の『Abenddämmerungアーベントディンメルング』が古いデスクの上に置かれていた。沙耶はその絵を手に取り、滲み出る様な赤をじっと見詰めた。見れば見る程に目を離せなくなる。取り込まれる前に絵を机上へと戻し、「これを完成させよう」と相澤に向かって言った。

「どうやって?」

 沙耶は夕莉から教えてもらった方法を彼に伝えた。相澤は最初、「なるほど」と納得した様に頷いていたが、やがて落ち着きなく古書室中を歩き回り始めた。ぶつぶつと独り言を呟いては時折頭を抱え込んだりしている。彼が一体何に悩まされているか少し分かる気がしたが、沙耶は敢えて声も掛けず見守ることにした。夕莉の提案に答えるのは飽くまで相澤であることを彼女は重々承知しているのだ。
 しばらくして、すっと憑き物が落ちた様に顔を上げた相澤が「画材がない」と言った。

「絵の続きを描くには美術室にある画材が必要だよ。イーゼルもそこにある」

「……まったくもう」

 溜息を付いた沙耶は軽く腕組をした。朝課外の時間が終了して朝礼が済み、その二十分後には一時限目の授業が始まる。そうすればこっそりと美術室に忍び込んで画材を取ってくることができる筈だ。薄暗い室内に浮遊する埃を見詰めながら、沙耶は今日がどの学年も美術の選択授業がない日であることをなんとも幸運に思った。準備室には崎村がいるかもしれないが、授業以外、滅多に美術室の方に姿を現すことはないので、派手な物音さえ立てなければ問題ないだろう。

「そう言えば、相澤くんの姿が見えているのは私だけ?」

 壁に寄り掛かっている彼にそう訊ねた。

「恐らくね。でも確信は持てない」

「どうして?」

「君が所属している吹奏楽部の顧問は、確か高橋先生と言ったかな?」

「うん」

「一度だけその人と校内で擦れ違った時、僕を見て首を傾げていたんだよ。彼女に僕がどう見えていたのか見当も付かないけれど」

「……あの先生、時々勘が鋭いから」

 手近な古い椅子に腰を下ろし、沙耶は相澤一人に画材を取りに行かせる案を却下した。いくら高橋の勘が特別鋭いと言っても、他の人間に相澤の姿が見えないとは限らない。今の時間帯、まだ遅刻してくる生徒がいたり、朝の巡回をする警備員や校内を掃き掃除している清掃員がいたりするので、彼らと出くわす可能性は十分にある。校内をふらふらほっつき歩いていたら呼び止められるのがオチだ。沙耶はしばらく古書室に潜伏し、やはり一時限目の授業が始まったタイミングで美術室に向かうことにした。
 手持ち無沙汰に古書室を見渡していると、初めてここへ踏み込んだ時のことが思い出された。真っ暗で酷く不気味な場所に、整った相貌の相澤が居たのだ。あの時は外側から雨戸が閉ざされており差し込む光は一切なかった。
ふと、体が重くなるのを感じた沙耶は深い溜息を零した。ここで、夕莉さんが……。
 昨晩見た夢をぼんやりと思い出す。以前、美咲からこの部屋で亡くなった女子生徒がいる、という話を聞いた時にはやや肝を冷やしたが、今ではなぜかちくりとした胸の痛みと共に腹の底がじんわり熱くなる。

「ここで一人ぼっちは寂し過ぎるよ」

 彼女の呟きに相澤が顔を上げた。

「夕莉が命を落とした日、無くなった筈の絵もこの部屋に落ちていたんだ」

「……確か完成した絵は、怪物と一緒に何処かへ消えた筈よね?」

「戻ってきたんだよ。でも、その時にはもうキャンバス上に夕莉の姿は描かれていなかった」

「絵の中の、画角とは違う場所を彷徨っているから?」

「そうかもしれない」

「……そして、夕莉さんの姿が描かれていない絵を崎村先生が見付けたのね」

 相澤は頷いた。

「夕莉の遺体が発見されて警察の現場検証が済んだ後、彼が美術準備室にあの絵を保管してくれていたんだ」

 二人の間に長い沈黙が舞い降りた。沙耶は崎村の胸中に想像を巡らす。度々、自分の所へ遊びに来ていた生徒がある日突然亡くなり、その傍に落ちていた絵を受け取って毎日通う仕事場に保管しておく、というのはどういう心境なのだろう。前任の美術教師から託されたとは言え、作者が失踪し、関与した生徒が亡くなるという絵を前に崎村は何を思っていたのだろう。「以前にも似た様なことがありました。あの部屋にはやはり何かが?」そう言っていた駒沢の訝しげな表情も思い浮かばれる。沙耶は悶々とする胸の内にいつしかやるせない気持ちとなり、再び一人で重い溜息を零すのだった。

「やっぱり、描くしかないな」

 不意に相澤がそう言った。沙耶は顔を上げ、彼の瞳を見詰める。

「描くしかない。それが今のあなたにできる唯一のこと」

 相澤もじっと沙耶の目を見詰め返していたが、彼が今何を考えているのか沙耶にはちっとも分からなかった。哀しんでいるのか、喜んでいるのか、諦めているのか、希望を抱いているのか。もしかしたら後悔しているのかもしれない、と思ったが、相澤が自分に胸の内を語ってくれることはこの先もきっとないのだろうな、と彼女は小さな苦笑を浮かべた。
 朝課外の終了と共に朝礼を報せるチャイムが鳴り、数分後には一時限目の開始を告げるチャイムが鳴った。沙耶はゆっくり立ち上がり、床に置いていた自分のバックを古本の並ぶ棚に突っ込んだ。

「美術室に行こう。時間は限られてる」

 相澤と共に、周囲の様子を窺いながら図書館を後にした。
 一時限目の授業が始まった校内はしんと静まり返っていたが、耳を澄ませば授業を進める教師らの声が何処からかぶつぶつと聞こえていた。沙耶と相澤は物音を立てないよう足早に美術室がある北校舎へと向かった。渡り廊下の端にある視聴覚室の時計を一瞥すると、針は午前八時五十二分を指していた。いつもならこの時間帯、沙耶は自分の席に着いてクラスの皆と共に退屈な授業を受けている筈だ。日常は変わらず営まれながら、誰も自分達の異質な動きに気付いていないということが彼女を不思議とわくわくさせた。この不思議な高揚感とやらがやがて規則破りを犯す快感に変化し、遂には歯止めが効かない事態になってしまうのだろうな、と沙耶は一人でくすくすと笑った。相澤は後を追いつつ、そんな彼女の様子を妙な面持ちで静かに眺めていた。
 薄暗い美術室に辿り着き、二人は恐る恐る室内を覗き込んだ。しかしその場所に人の気配なるものは一切なかった。相変らずしんとしていて、古びた画材や絵具の香りがひんやりとした空気に溶け込んでいる。沙耶はゆっくりと鼻で息を吸い、鼻孔の奥に広がる物静かな空気に心を満たしていった。緊張感が高まり、集中の糸がぴんと張った、その時。

「画材を集めよう」

 突然耳元で相澤の声が聞こえた。沙耶は「ひゃっ」と大きな声を出してしまい、慌てて自分の口を両手で塞いだ。いきなりのことに驚いたのと、元々敏感な耳元で話されたことが原因だった。静まり返った北校舎一階の廊下には確実に彼女の声が響き渡った。
 沙耶は口を押さえつつ扉の影に身を潜め、相澤も身を低くして周囲の様子を窺った。しかし、崎村や他の誰かが声を聞き付けてやって来ることはなかった。

「変な鳥が鳴いたとでも思ったんじゃないかな」

 静かに笑い始める相澤の脇腹を、沙耶は顔を真赤に染めながら人差し指で強く小突いた。
 その後、収納されている場所をよく知る相澤がてきぱきと必要な画材を揃え、荷物を小脇に抱え込んだ二人はいそいそと図書館二階の古書室へと戻っていった。
 
 相澤が絵を描く準備をする間、沙耶はじっとその手元を眺めていた。人の手によって何かが整えられたり、何かが作られたりする様子を見ているのが彼女は好きだった。必要な材料が手に取られ、必要な分だけ切り取られ、必要な加工が施される。他人のリズムが生み出す繊細な音は、決して自分の手で奏でることは出来ない。自分で奏でようとしても、結局自身のリズムに吸い寄せられていって味が無くなったり、それを避けようとしてリズムをずらした結果、聞いていられない程わざとらしくなったりする。やはり、自分に出来ないことはそれができる他人に任せるのが一番いい。

「準備できたよ」

 いつしか瞳を閉じていた沙耶に、相澤はそっと声を掛けた。目蓋を開いて彼の顔をしばらく見詰めた後、沙耶は一つだけ頷いて『赤い絵』の乗ったイーゼルの後ろに立った。イーゼルから彼女が立つ位置までは六歩の距離である。

「リラックスして、自分の好きな姿勢を取ってみて」

 いきなり好きな姿勢と言われてもぴんと来ず、沙耶はしばらくもじもじと思案していた。その間じっとこちらを見詰める相澤の目線も真剣さを増してなかなかに気まずい。

「適当でいいんだよ。真面目だなぁ」

 彼が苦笑したので、頬を燃やして「うるさい」と言った。結局、手を前に組んで正面を向くというありきたりな姿勢を取ると、適当でいい、と言っていたくせに、相澤が「うん、そうか」と腕組をして唸り始めた。

「駄目なの?」

「いや、駄目じゃない」

「じゃあ、何?」

「髪を解いてみてくれない?」

 彼の提案に沙耶はぎくりとした。寝癖が酷いからそれを誤魔化そうと後ろで一つ結びにしてきたのだ。見逃してくれないだろうかと思い、「嫌って言ったら?」と訊ねようとしたが、沙耶は一つだけ嘆息して仕方なく髪を解くことにした。私がしゃしゃり出ている場合ではないのだ。
 ゴムから解き放たれた髪が肩の下まで垂れる。不意に硝子の割れていた窓から風が吹き込み、彼女の髪をふんわりと靡かせた。窓の方へと顔を向ける。

「……それだ」

 相澤がそう呟くのが聞こえた。
「え?」と振り向いた時、彼はもうキャンバスに絵を描き始めていた。沙耶はきょとんとした顔で相澤をしばらく見詰めたが、小さく息を吸って朝日の揺れる窓辺へと視線を戻した。触れてみた後頭部に今朝の爆発はあまり残っていなかった。制服の上着ポケットに両手を突っ込む。夕莉が何処かでこちらを見ている気がした。計り知れないほど遠く、あるいは手を伸ばせばさわれる距離。耳を澄ませば風の向こうに「ふふっ」と笑う彼女の声が聞こえ、瞳を閉じれば暗闇の向こうで静かに佇む彼女と目が合う。

「……後悔していませんか?」

 しかし夕莉は何も答えなかった。顔を綻ばせたまま、じっとこちらを見詰め続けている。
 沙耶はふと、すぐ傍に何者かの気配を感じて目蓋を開いた。相澤が間近に立っていた。身を引くことも、目を反らすことも出来ないまま、彼の瞳をじっと見詰める。手が静かに伸びて来て優しく頬に触れた。互いの鼻先が接する寸前まで距離が縮んだ時、「そこにいるのか」と相澤が訊ねた。
 無意識に涙が零れ落ち、それでも彼から目を離せなかった。

「……いるよ」

 そんな答えに相澤は無邪気な笑みを浮かべた。
 やがて傍を離れた彼はイーゼルの前へ戻って再び絵を描き始めた。沙耶は目元を拭ってぐすりと鼻を啜り、窓際に置かれた古いデスクの下に無数の紙が散らばっているのを見た。遠目にもそれが下絵のデッサンであることが窺える。今朝、古書室に踏み込んだ時にも気付いていたが、それらは相澤が描いたもので間違いない。殆どの紙上に沙耶の姿が描かれていた。ちらりと相澤の表情を窺ったが、彼は既に絵を描く虜となっていた。

 モデルとなって立っている時間はそれほど長くない様に感じたが、気付けば時計の針は午後零時に迫りつつあった。足腰には突っ張った様な痛みが顔を覗かせている。

「ちょっと座っていい?」

 相澤に訊ねたが、初め彼の耳に沙耶の声は届いていなかった。三度目でようやく、「ごめん。気付かなかった」と反応があり、彼女はゆっくりと椅子に腰を下ろすことが出来た。
 窓辺の机上には今朝沙耶が砕いた硝子の破片が散らばっていた。石を投げて窓硝子を割るなどということは生まれてこの方一度もやったことはなかった。いつもの彼女なら後で見付かった時に怒られないよう手に取った石を捨てたことだろう。しかし、今朝はそんなことを気にしている余裕も無かった。気付いたら体が動いていたのだ。夕莉がどうして自ら命を絶ってしまったのかということを考えると、自然に動いてしまっていた。不安もあったし恐怖もあったが、それ以上に羨ましいという気持ちが沙耶を焚き付けた。あの石は、一体何に向かって投げられたものなのだろうか。

「……お昼にしない?」

 腹がぐうとなった沙耶の提案で、二人は昼食を摂ることにした。学校中の人間が動き始める昼休みに古書室から出ることは危険だったので、沙耶は諦めて自分が持って来ていた弁当を相澤と半分ずつに分けて食べることにした。二人は静かな古書室で食事をしながら色々な言葉を交わした。それは世間話の体を成した取り留めのない話だ。

「朝は苦手なの」
「クロノタイプって知ってる?」
「あ、知ってるよ。個人の睡眠パターンでしょ? 私はオオカミだった。あなたは?」
「イルカ」

「コーヒーが飲みたいな」
「何が好きなの?」
「深煎りしたキリマンジャロかな」
「私はモカ」

「数Bの空間ベクトルっていまいちよく分からないわ」
「そう? 僕は数列の方が苦手だな」

「好きな小説のジャンルとかある?」
「SFは結構読むよ。また読みたいなって思うのはネヴィル・シュートの『On The Beach』だね」
「あ、それ私も最近読んだ。タワーズ中佐が素敵だと思う」
「モイラが魅力的だからね。中佐の選択も納得できる」

 沙耶は自分の箸で、相澤は彼女が持っていた予備の割り箸で同じ弁当をつつき合った。ふと油断すると相澤の端正な顔にどきりとしてしまう沙耶であったが、以前の様な急ぐ鼓動の高鳴りはやって来なかった。ただほんのりと胸の底が温かくなるばかりで、その密やかさに彼女は何の焦りも覚えなかった。

 昼食を終えた後、相澤は再び絵の続きを描き始めた。沙耶もイーゼルの前に立って同じ姿勢を保っていたが、彼があまりこちらを見なくなったので、いよいよ絵の完成が近いのだなと思い手足をぶらぶらと自由にさせた。時折絵筆を止めては頭を抱える相澤。夕莉をモデルに描いた時は短時間で仕上がったと話に聞いていたが、今回は随分と時間をかけているようだ。沙耶はいつしか両手を後ろに組み、ぶつぶつと呟きながら絵を描く相澤の真剣な顔をじっと見詰め続けていた。
 気付けば窓外の光が赤みを帯び始め、しんみりとした夕闇がすぐそこまでやって来ていた。すっかり疲弊した沙耶は窓辺のデスクに腰掛けてその時が来るのを待った。じっと見詰める相澤の顔には点々と絵具が付着し、絵筆を持つ手も微かに震えている。だがキャンバス上に落ちるその瞳は、今まで見たこともないほどに美しく光り輝いていた。沙耶は軽く天井を仰ぎ、「いいなぁ」と小さくぼやいた。私もあんな瞳で見詰められてみたい。

「……できた」

 そんな静かな声が古書室に舞った。沙耶はデスクから立ち上がり、相澤の元へ歩み寄る。徐にキャンバスを覗き込むと、そこには夕暮れの校舎内を背景にして何処とも知れない遠くを眺めている美しい夕莉の姿が描かれていた。やや横顔に、ふんわりとした長髪が風で靡いている。沙耶は思わず息を呑んだ。彼女が夢の中で会った夕莉そのものがキャンパス上に姿を現していた。

「……これでいいの。とても綺麗」

 一仕事終えた相澤が「ふう」と言ってスツールに腰を下ろした時、二人の背後に何者かの気配が音もなく忍び寄って来た。気付いた沙耶が振り返ると、そこには青白い眼を持つ闇がぼんやりと浮かんでいた。異変を察した相澤も背後を振り返り、咄嗟に立ち上がる。青白い眼を持つ闇はやがて大きな体躯をした怪物となり、のっそりとした歩みで奴はイーゼルへと近付いてきた。しばし夕莉の姿が描かれた絵を眺め、徐に「ぐるる」と渦巻く様な吐息を漏らす。

「なるほど。してやられたな」

 怪物は顎を擦りつつ、様々な角度から絵を鑑賞した。

「全ての条件は満たしている筈だ。そして第三の条件にある『怪物が欲しくて堪らないもの』という理屈もクリアしている。夕莉を貰っていってこそ『証明』になる、とお前は言いたいところかもしれないが、お前はかつて夕莉を欲しがり、既に彼女を一度手に入れている。これは確たる証明であり、お前にはそれを否定することはできない」

 相澤が強い口調でそう言うと、怪物は厳かな声音で「確かにな」と答えた。

「良いだろう。約束通り肉体を返そう」

 低くおぞましい声がそう言った。それはまるで人を喰う化物が唸り上げる様な声だった。
「夕莉も返してもらう」と相澤が言うと、「それは無理だ」と怪物は言った。

「何だと? それじゃあ約束が違うじゃないか。何故だ?」

 怪物は「ふっ」と小さく笑う。

「死んだ人間は元に戻らない。当然の原理だ。最初から気付いていなかったのか?」

「……そんな」

 スツールへ座り込んだ相澤は力なく項垂れた。怪物は彼を一瞥した後、イーゼル上のキャンバスを黒く大きな手で掴み上げ、何事も無かった様に闇の中へ消え去ろうとした。

「待って」

 去り際の怪物の背中に沙耶が呼び掛けた。

「絵の中にいる夕莉さんはどうなるの?」

 奴は立ち止まり、「解放される」と静かに言った。

「……どこへ?」

「俺も知らない」

 沙耶は怪物の尻を蹴飛ばしてやりたい衝動に駆られたがぐっと堪えた。

「次はどんな罠を張ったの?」

 震える声でそう訊ねると、奴はゆっくりこちらを振り向いて不気味な笑みを浮かべた。

「罠とは失礼な。こちらが欲しいものを相手がわざわざ用意して差し出してくれたのなら、貰っていくのが礼儀というやつだろう。ただ俺の流儀は、それを徹底的に貰い受ける、というものではあるがな」

 高笑いした怪物は霞の様な闇となって何処かへと消えていった。沙耶が奴の残像を追って暗闇を見渡している時、スツールに項垂れていた相澤に異変が起こり始めた。呼吸が速くなり、青白い肌には無数の毛細血管が太く浮き出、見る見るうちに彼の全身はほんのりと赤みを取り戻していった。苦しそうに胸を抑えて時折強く咳込む。沙耶はそんな相澤の傍へ駆け寄ると背中を優しく擦ってやった。
 やがて落ち着きを取り戻した彼は顔を上げ、自分の手を眺めた後に沙耶を見やった。沙耶はその時、相澤の瞳に激しく涙が溢れ出すのに気が付いた。

「絵はどこだ」

 彼は狼狽えながらそう訊ねた。

「絵? 絵は……」という沙耶の返答も待たず、立ち上がった相澤は埃っぽい古書室中の物をひっくり返さんばかりの勢いで、イーゼルから姿を消した絵を探し始めた。

「怪物が持って行ったよ!」

 沙耶が叫ぶようにそう言うと、相澤は我に返ってゆっくりくずおれ、床に座り込んだまま「……何もかも持って行くつもりか」と苦しそうに零した。
 恐る恐る傍に歩み寄った沙耶は相澤の震える肩に手を置き、「一体どうしたの?」と訊ねる。両手で顔を覆い、その隙間からぼたぼたと大粒の涙を零す彼は静かに頭を振った。

「言って。これはもうあなただけのことじゃない」

 ゆっくり両手を外した相澤は、間近でそう言う沙耶の瞳を見詰め、

「夕莉の顔が思い出せない」

 と言った。沙耶は途端に言葉を失い、彼女もまたその場にぺたりと尻を落とした。

「夕莉はどんな目をしていた? どんな口で、どんな鼻で、どんな耳で、どんな頬をしていた? 髪は長かったのか? 似合う服装は何だ? 背丈は? 待てよ、彼女の匂いだ。確かジャスミンの様な……駄目だ、思い出せない」

 ぼろぼろと涙を零しながら言葉にし続ける相澤を、沙耶はただただ見ていることしかできなかった。

「声は分かる。夕莉はよく『ふふっ』って笑っていた。まるで鈴が転がる様な……。駄目だ、聞こえなくなっていく。あぁ、雑音がうるさい。彼女の声が聞こえないじゃないか!」

 喚きながら床を殴る相澤を、沙耶は咄嗟に横から抱き竦めた。酷く熱を帯びていたものの、絶えず震え続ける体は今にも極寒の地で凍え死んでしまいそうだった。離してしまわないよう、むせび泣く彼をいつまでも抱き締め続けた。

「赤い廊下だけだ。赤い夕陽の、赤い教室……」

 相澤の小さな呟きに、沙耶もいつしか涙を零していた。夕莉の微笑んだ顔を思い浮かべる。赤い世界から少しずつ姿を消していく美しい人。

「夕莉さん。本当にこれで良かったのですか?」

 しかし彼女は何も答えなかった。最後に「ふふっ」と笑う声だけが、遠い夕闇の彼方から聞こえた気がした。

 空がすっかり夜に染まる頃、静かになった相澤から沙耶はそっと身を離した。覗き込んだ彼の面立ちは幾分年齢を取り戻して大人っぽくなっていたが、その瞳に宿っているのは彼女のよく知る十六歳の相澤優也であることにすぐ気が付いた。
しばらく見詰め合った後、「大丈夫?」と沙耶が訊ねる。頷いた相澤は徐に立ち上がり、硝子の割れた窓辺に寄って何処とも知れない夜空を遠く眺めた。

「……木村さん」

 突然名を呼ばれ、「何?」と沙耶は訝しげに訊ねた。相澤はデスクの下に散らばっていた下絵のデッサンを数枚取り上げ、それを彼女に掲げて見せた。

「初めて見た時から、ずっと君の絵を描いていたんだ。いつかキャンバスに絵具を乗せて完成させたいと思う。きっといい絵になるよ。君にはきっと、洗い立ての朝日がよく似合うのだろうな」

 無邪気な笑みを浮かべる相澤に、沙耶はぐっと下唇を噛んだ。しかし次第に力は解け、緩んだ口元からは小さな吐息が漏れ出た。

「……馬鹿」

 それは彼女が、夢の中で夕莉から預かった言葉でもある。

 それから二年後、沙耶は大学生になった。肉体を取り戻した相澤は高校の図書館を無事に抜け出し、名前を変えて現在は『五十嵐来鹿』という画家の元に弟子入りしている。沙耶は暇さえあれば彼らの活動するアトリエを訪れ、二人が絵を描いている様子をじっと眺めているのが好きだった。師弟は客である沙耶に珈琲を出してくれるものの、結局彼女そっちのけで絵を描くことに没頭したり、古いクラシック音楽やヨーロッパ建築の話に耽ったりする。アトリエに置いてあるレコーダーから流れているのはいずれも一九〇〇年代のアメリカの楽曲ばかりで、沙耶は頬杖を突きつつ、「ちぐはぐだなぁ」とぼやくのが習慣になっていた。
 肉体と十三年の月日を取り戻し、それから二年が経った相澤は今年で三十一歳になった。沙耶は十八だが、来月で十九になる。彼女は時々、相澤が一人で何処か遠くを眺めている姿を目にすることがあった。何かを思い出そうとしているのか、あるいは正体の分からない喪失感に身を沈めているのか、結局、沙耶がそれを彼に問い質すことはなかった。この世界で自分しか知らないことを誰かに問うことほど馬鹿馬鹿しいものはない。しかし最近、彼女も少しずつあの人のことを思い出せなくなってきている自分に気付いていた。「ふふっ」と涼やかに笑うあの人の顔が思い出せない。時折、胸に針が突き刺さる様な痛みを感じるが、それはまだあの人の記憶を繋ぎ止めている『証明』であると信じて、沙耶は必要以上に哀しむことはしないようにした。

 初夏の暖かい昼下がり。日差しのもとでそよ吹く風が、ショッピングセンターの屋上に開かれたカフェテラスを通り過ぎる。大きなパラソルは幾つかの影を落とし、その一つに涼みを得ているテーブルで、二つのアイスコーヒーが肩を並べていた。

「……沙耶」

 向かいの席に座る男に名を呼ばれ、彼女は遠い青空から目線を落とした。白いキャペリンハットのつばの向こうに、無邪気な笑みを浮かべる相澤の顔が見えた。

「絵が売れたよ」

 沙耶は「おめでとう」と言って自分のアイスコーヒーを手に取り、ストローを口に咥える。やっぱりミルクとシロップを貰えば良かった、と思うほど苦味の強いコーヒーだった。

「次はどんな絵を描くつもり?」

「そうだな、黄昏時の海なんか良いんじゃないかと思ってる。でもやっぱり君には朝日が似合うし、赤より白や青の色を基調とした背景の方がしっくりくるんだよ」

「……そう」

 沙耶は椅子から立ち上がり、日差しの下に出て思い切り背伸びをした。一陣の強風がやって来て、黄色いワンピースの裾をはためかす。危うく白いキャベリンハットを風に持って行かれるところだったが、彼女はすんでの所で捕まえた。
 ははっ、と笑う相澤に一瞥をくれ、静かな笑みを浮かべる。パラソルの遥か上空を音もなく海の方へ飛び去って行く飛行機の姿が見えた。大きく広げた翼が動いた気がしたが、まさかね、と思いつつ沙耶はしばらく見上げていた。
 冬の寒さは既に忘れ去られ、いよいよ夏の暑さが青い空の向こうにやって来ている。
「もっと描いて」瞳を閉じてそう言った。

「もっともっと、沢山描いて。私はあなたの描く絵が好き」

 それはきっと、決して誰にも奪われることのないものなのだろうから。

   *

 ショッピングセンターの屋上にあるカフェテラス。そこに散らばるパラソルの内の一つで、静かに語り合う二人の若い男女がいた。綺麗な長髪を編み込み、淡い黄色のワンピースに身を包んだ娘は、テーブルを挟んで向かいの席に座る男と言葉を交わしながら、時折どこか悲しげな微笑みを浮かべる。それに気付きもしない男は、しばしば顔を上げて何かを探すよう遠くへと視線を投げ掛けた。ショッピングセンターの屋上に彼ら以外の人気はなく、風の通り抜けるカフェテラスは穏やかな昼下がりの陽光に包まれている。
 そんな日和の下、パラソルで語り合う二人の様子を離れた場所からじっと観察する眼があった。しばらく沈黙に沈んでいた眼は、ショッピングセンターの隣に建つ新築マンションの鉄塔からカフェテラスを見下ろしていたが、やがて遥か遠くを展望し、陽光に煌めく青い海を臨んだ。深いため息を零し、風に広がる長髪を手で撫で付ける。

「何を見ている?」

 突然、背後からそう訊ねる声が聞こえた。徐に振り向くと、青白い眼をしたおぞましい『怪物』がこちらをじっと見ていた。
 小さく苦笑して「あなたには関係ないわ」と答える。
 一度高笑いした怪物は商品を仕舞っているという黒い巾着袋を何処からか取り出し、それに手を突っ込んで紺色の縁取りをした手鏡を寄越して来た。

「お前、なかなかいいじゃないか。ユリ」

 怪物が憎らしく笑ってそう言ったので、ユリはその手鏡を受け取って自分の顔を覗き見た。そこには、奴と同じ様な青白い眼をした恐ろしい化物が映り込んでいた。

「私もとうとう、こんな風になっちゃったのね」

 溜息を零す様にそう言うと、彼女の背後に映り込んでいた怪物がにやりと口を歪めた。

「……美しいだろう?」

「まったく。本当にあなたって碌でもないのね」

 再び高笑いした怪物は、今度は黒い巾着袋の中から『赤い絵』の描かれたキャンバスを取り出し、しげしげとそれを眺め始めた。

「俺はお前に惚れ込んでいるんだよ、ユリ。あの若僧の『愛』は所詮エゴイズムだったが、お前の『愛』は身を切る様な痛みを伴う真実だ。あの薬包を渡した時、単に命を奪うことだってできた。しかし俺はお前の覚悟に感銘を受け、せめて魂だけでも残してやろうとこの絵の中に閉じ込めておいたのさ。冥界の奴らは容赦なく死者を連れ去っていくからな」

 ユリは「ふんっ」と言って紺色の縁取りをした手鏡を怪物に投げ返し、背中の肩甲骨辺りから生やした大きな翼を広げた。ばさりと羽ばたくと、軽い体は容易に浮かぶ。

「これから何処へ行くつもりだ?」

 そう訊ねられたので、ユリは微笑みながら唸り上げる様な声で言った。

「燃える様な憎しみと、愛のあるところ」

 力強い翼は二、三度の羽ばたきで一挙に彼女を遥か高みへと舞い上げた。上空を流れる風は止まることなく、軽い体を海の方角へと運んで行く。風が耳元で笛を吹き、ユリは自分の顔が酷く憎らしげな笑みを浮かべていることに気が付いた。

「わたしは何を奪ってやろうかしら」

 青い天辺を歩む太陽は、次第に西へ西へと沈んで行きつつあった。

< 了 >

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