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短編小説「消えないもの」

 静かな教室に、国語の教科書を音読する声が染み渡っていた。
 私は教科書なんて引き出しの奥に仕舞い込み、夢中でノートに絵を描いていた。小さい頃から絵を描くのが好きで、退屈な授業の時はいつも絵を描いてやり過ごした。でも、その日はどうしても自分の納得いく絵が描けなくて、何度も何度も消しゴムを擦り付けては自分の描いた絵を消していた。
 気付けば私の机の両端には消しかすが山の様に積み上がり、すっかり周りの様子が見えなくなっていた。ふと何かの拍子で大量の消しかすが机の下に零れ落ち、「掃除しなきゃなぁ」とうんざりした思いで見つめていると、その中に、光り輝くサファイアに似た小さなものが紛れているのに気が付いた。
 徐に手に取ってみる。それはとても綺麗な青色の消しゴムだった。「いいもの見っけ」と少し嬉しくなった私は、気を取り直して再び絵を描き始めた。しかし、やっぱり思い通りの絵は描けなくて、いらいらした私は拾った青色の消しゴムで自分の描いた絵を消した。
 すると、絵はノートごと消えてしまい、その後にはとても綺麗なキラキラとした光の粒が現れた。不思議に思った私は、試しに引き出しの奥に仕舞っていた国語の教科書に青い消しゴムを擦り当ててみた。教科書はあっと言う間に何処かへと消えていってしまい、綺麗な光の粒がたくさん沸いた。
 「すごい」と感動し、今度は自分の机と椅子を消すことにした。こんなものがあるから、退屈な授業を受けないといけないんだ。やはり机と椅子もきれいさっぱり消えて無くなり、光の粒がもっとたくさん沸いた。
 私は青い消しゴムを片手に、授業が続く教室を見渡してみた。皆、真面目な顔をして教科書を持っている。私以外の誰にも、綺麗な光の粒は見えていない様だった。
 私は教壇の椅子に座っている担任の鈴木先生にそっと近付いて、青い消しゴムを当ててみた。
「ごめんね、先生。私、先生のこと怖くて苦手なんだ」
 すると、眼鏡の奥の怖い目を私に向けることなく、鈴木先生はあっという間に何処かへと消えていってしまい、光の粒が驚くほどたくさん現れた。
 つい嬉しくなった私は一度飛び跳ね、クラスメイト達をぐるりと眺め見た。いつも持ち物を自慢してくる『さゆりちゃん』、急に背中を叩いたり、足を引っ掛けたりして私に意地悪してくる『ゆうとくん』、陰口ばかり言っている『ゆみちゃん』、『かえでちゃん』、『しおりちゃん』、真面目で色々注意してくる口うるさい学級委員長の『やましたさん』、もじもじしてはっきりものを言わない『さとるくん』、勝手に私の文房具を使う『ゆうじくん』、そしてその他の人達。

 みんなのことなんて、大嫌い。

 私は教室中を足早に歩きながら、クラスメイトに一人ずつ青い消しゴムを当てていった。皆、あっという間に消えていき、その後にはとても綺麗なキラキラした光の粒だけがたくさん残った。
 そして最後に、私は彼のところに辿り着いた。今年の夏に転校して来たばかりの『はるとくん』。優しくて、頭が良くて、足が速くて、その上爽やかですごくかっこいい。私ははるとくんが好きだった。皆がいなくなった教室で、やっとはるとくんと二人きりになれた。それもキラキラと輝く光の粒が敷き詰められたとても綺麗な草原の上で。
 だけど、彼はちっとも私の方を見てくれなかった。姿勢正しく教科書を持ったまま、静かに文章を目で追っている。
「ねぇ、はるとくん。私達やっと二人きりになれたね。何かお話ししようよ」
 そう声を掛けても、彼は私なんて目にもくれず、ジッと教科書を見続けている。すんと澄ました顔をしているはるとくんに、私は段々と腹が立ってきた。
「ねぇ、どうして私を見てくれないの? どうして私に気付いてくれないの?」
 そう訊ねても、彼は何も答えてはくれなかった。とうとう私は怒りに任せ、はるとくんにも青い消しゴムを強く押し当てた。すると、はるとくんはあっという間に消えていき、今までで一番綺麗な光の粒になるのだった。

 私はいつしか、たくさんの光の粒が集まった雲の上に一人で佇んでいた。皆、私が消してしまった。大好きなはるとくんさえもういない。けれども、
「これでいいの、皆、私が嫌がる様なことをするからいけないの。それにここはとても綺麗だし、自由でいられるから私は一人が好き」
 そう言って、光の粒が集まった雲の上でダンスした。しかしその時、突然強い風が吹き、一斉に光の粒が空高く舞い上がった。その中にはもちろん、はるとくんの光の粒も混じっている。
「ダメ! 待って!」
 と私が叫んだ時にはもう遅く、光の粒は大空の向こうの遥か彼方まで飛んで行って、あっという間に見えなくなってしまった。
 一人ぼっちになった私は、押し殺していたはずの惨めな気持ちが段々と胸の中に沸き上がって来るのを感じた。そしてとうとう大声を出して泣き始めた。
「ごめんなさい、違うの、本当は私……」
 もう私の周りには何もなかった。私の周りには誰も居なかった。
 真っ暗闇の中で、いつまでも一人で泣き続けていた。

—— § ——

 肩をとんとんと叩かれ、私はゆっくりと目を覚ました。顔を上げると、覗き込んでいたゆうとくんが、「うわっ、涎垂らしてる」と言って、愉快気にこちらを指差しながらはしゃいだ。口元に垂れていた涎を慌てて拭き、私はゆっくりと辺りを見渡した。
 そこは休み時間の教室で、消えた筈の皆がいて、まだぼんやりとしている私のことを静かに見ていた。教壇の椅子に座る鈴木先生は呆れた様な苦笑いを浮かべている。
「おはよう」
 そんな声が聞こえ、後ろを振り返って見ると、その席にははるとくんが座っていた。途端に私は色んな気持ちで胸の中が散らかってしまい、瞳が涙でいっぱいになるのを止められなかった。
「なんだよ、からかっただけじゃんかぁ」
 と申し訳なさそうに言うゆうとくんの声が聞こえたが、私は構わずボロボロと泣いた。はるとくんが貸してくれたハンカチもびっしょりと濡らした後、私は自分の拳が何かを握っていることに気が付いた。ゆっくり手を開いてみると、そこには綺麗な青色をした真新しい消しゴムがあった。
 試しに教科書の隅に描いていた落書きに押し当て、擦ってみると、下手くそな落書きだけが静かに消えていった。
「それ、はるとくんからの誕生日プレゼントらしいよ」
 そう教えてくれたさゆりちゃんの頬が、少し赤くなっている。私が驚いてはるとくんの顔を見ると、
「いつも絵を描いていたから、綺麗な消しゴムがあったら使ってくれるかなって思って」
 彼は照れながらそう言っていた。同時に教室の皆が誕生日の歌を歌い出し、拍手をしながら「おめでとう」と言ってくれた。私は鼻を啜りつつ青い消しゴムを胸に抱き締め、「ありがとう」と皆に聞こえる様に言った。

 青い消しゴムはサファイアの様に輝いてはいなかったけれど、キラキラした光の粒なんて現れなかったけれど、私にとって、とても愛おしい小さな宝物になった。
 大切にするね。消えて欲しくないものが、私にはまだあるのだから。


〈 終わり 〉

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