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漆17:漆器の歴史(ヨーロッパ編)

おはようございます。
今日は昨日から一点理想的な快晴、ベランダで植物たちに水やりするだけでも気持ちの良い朝。

昨日まで2日に分けて漆の日本での歴史を見てきたけれど、今日はその日本の漆がヨーロッパに向けて与えたインパクトを見ていきたい。

漆の木は、日本の他、中国、カンボジア、タイ、インドなどの東アジアの国々に分布しているが(各地の気候風土が異なり漆の性質も異なる)、その北限は日本。そのため、ヨーロッパには漆の木がなかったことから、日本で漆器を見た西洋人の目には漆の深い色は神秘的に写ったと言われている。詳しく見ていこう。

ヨーロッパを魅了した漆

15世紀から17世紀にかけて、ポルトガルやスペインをはじめとするヨーロッパの国々は、新しい土地や資源、貿易先を求めて七つの海を渡った。そうした大航海時代に訪日したヨーロッパ人に深い感銘を与えたもののひとつが漆器だ。漆の黒は漆の偏光性からなる屈折率が大きく、見る角度で光り方が変化するユニークな色。その漆黒の深みで、ヨーロッパの人々を魅了し、その人気は“漆黒であれば売れる”漆器ブームが起きる程で、漆器は西洋への貴重な輸出品となった。

ヨーロッパへと運ばれた漆器は、時代によって呼び名が異なる。
16世紀のポルトガル人渡来から鎖国までのものは「南蛮漆器」、鎖国時代のものは「紅毛漆器」と呼ばれる。南蛮漆器は、黒うるしの地に蒔絵と螺鈿を組み合わせ、隙間なく文様が描かれているのが特徴で、一方の紅毛漆器は、レリーフ状の蒔絵が多用され、漆黒を背景に金の文様が際立っている。
蒔絵は、漆器の表面に漆で文様を描き、漆が乾かないうちに金銀粉を蒔きつける、日本独自の漆芸の技法である。こうして作られた漆器は、黄金の国ジパングと呼ばれた日本を象徴するものの一つだった。

南蛮漆器

イエズス会の宣教師たちは、ヨーロッパ以外の国々においても、キリスト教の布教活動を熱心に行っていた。彼らの要望に応えて蒔絵によるさまざまな教会の道具類が作られ、スペインの教会や修道院には16世紀に渡った「洋櫃」(「唐櫃」とも呼ばれる)、すなわち南蛮漆器が残されている。フランシスコ・ザビエルの出身地で、イエズス会が結成された場所でもあるナバーラにも、多くの南蛮漆器が保存されている。スペイン全土23カ所で、70点以上が発見されているとする資料もある。いずれも布教の道具として使われたもののようだが、高い芸術性と美しさを兼ね備えた漆塗りの道具、聖なる場所にふさわしいものとして珍重されたのだろう。

紅毛漆器

16世紀後半、宣教師によって日本からヨーロッパに輸出された漆器は、17世紀から18世紀になるとヨーロッパの王侯貴族にも魅了して広がっていった。鎖国により、漆器の価格は1万円から10万円に跳ね上がり、貴族しか購入できなくなると彼らは富と権力の象徴として競って買い集めた。紅毛漆器の時代である。

当時ヨーロッパでの東洋観

日本の漆芸である蒔絵がヨーロッパの王侯貴族にもてはやされた背景には、遠く離れた国々の美意識を求める「東洋趣味」の流行があったから。とはいえ、当時のヨーロッパでは、日本も中国もインドも区別なく、ひとまとめで東洋だった。イタリア・フィレンツェにあるピッティ宮殿の「中国の間」と呼ばれる部屋に南蛮漆器の箱があるのもこういう理由からと思われる。陶磁器が英語で「china」と呼ばれたように漆器が「japan」と呼ばれたが、「china」と「japan」の違いが広くきちんと理解されていたかも怪しい。
しかし、翻って当時日本国内のことを考えれば、ポルトガルとスペインからの輸入品で国の見分けがついていた日本人がどれだかいたかを思えばお互い様だろう。

漆に魅了された歴史人

「JAPAN」が漆器を表すようになり、金、銀、貝の加飾により豪華で黒く光り輝き、時代とともに様式も変化していくミステリアスな東洋の漆工芸品は西洋ヨーロッパの特権階級の人々の心を鷲掴みにした。こうして漆の虜になった一人が、誰あろうフランス国王ルイ16世の王妃マリー・アントワネットその人だ。日本でも馴染みの深い歴史上の人物の一人だが、その王妃が日本の漆器コレクターであったことはあまり知られていない。
これは母親であるオーストリア・ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアの影響だが大きい。なぜならテレジアは「私はダイヤモンドより漆器」とウィーンの宮殿に「漆の間」を設えたほどだったからだ。その母親から50点もの漆器を相続し、その後も自身で買い足したというアントワネットの漆器コレクションは、ヨーロッパでも質量ともに随一と認められ、ヴェルサイユ宮殿を華やかに飾った。美しいものを求める気持ちは、昔も今も同じというわけだ。

漆代替品から生まれた世界の文化

前述の通り、17世紀末頃から鎖国などにより、流通量が激減する。
しかし、その美しさに魅了されたヨーロッパの人々の漆器熱は、冷めることがなかった。しかし、元々高価な輸入品で憧れの品を手に入れたくても思うようにいかない人も当然多く、そこで当然模倣品が生まれることとなり、ヨーロッパ各地で「ジャパニング」という技法による制作物が広まった。これは、ヨーロッパの人々が日本の漆器を真似て作った模造品のことであり、光沢のある黒を出すために生まれた塗装技法のことである。身近にある材料で、漆特有の美しい黒、「漆黒」を表現できないかと苦労を重ね、漆器を模した新たな塗装技法を生み出したのである。漆がないヨーロッパでは、亜麻仁油やコパーオイルなどの樹脂やニス、オイルに黒色の粉末を混ぜたもので代用した。漆の肌合い、色艶、耐久性などにおいて、もちろん本物には及ばなかった。だが、試行錯誤を重ねることで次第に技術が向上し、それはひとつの文化として定着した。

そうして、西洋の漆黒の美が生まれたのが、ピアノである。あの黒い色は漆器がルーツで、ジャパニングの影響を受けたものだとされている。もともとピアノは木目塗装による仕上げが普通だったが、ジャパニングが盛んだったドイツ・ブラウンシュバイク市で黒く塗られるようになった。光沢のある黒い色が優美な音を奏でる楽器とマッチすると多くの人が考えたのだろう。その試みは定着し、時を経た今でも黒いピアノが主流だ。この地には、ドイツを代表するシンメルとグロトリアン・シュタインヴェークという由緒正しきピアノメーカーがブラウンシュバイクに今なお本拠を置いている。美しく輝く黒色は、地域の産業にまで大きな影響を与えた。

ヨーロッパでの漆の課題

日本からヨーロッパへと輸出された漆器類は現在、フランスのルーヴル美術館などでも鑑賞することができる。
こうして世界でも人気が高い漆器だが、こうした漆器には木地が使われていることから、いくら耐久性の高い漆でも世界各地の異なる気候には弱く『経年劣化』してしまう。世界中どこでもその気候にあった木々が育ち、現地の気候にあった木材が作られる中、全く違う環境で育まれた木材はフィットするとは限らないのだ。さらには漆は特に乾燥に弱いが、ヨーロッパはとても乾燥している。逆に日本(はじめアジア)が湿気が多いとも言えるが、このギャップが長く続くことでヒビや割れてしまうことがある。今でこそ素材の特性が理解されて展示される場合もケース内に水がカップで置かれて一定の湿気を維持されるように置かれているが、装飾品としての管理は特に難しいのが現実だろう。


*上記の情報は以下のリンクからまとめています。

日本の気候にあった素材を使って、長い時間をかけて育んだ日本独自の文化が、国外の、全く異なる文化や美意識を持つヨーロッパの人々に嗜好品として愛されたことはとても誇らしい限りだ。
そして、ヨーロッパでの使用を見て思うのは、やはり漆器は日本の気候に合った日本でこそ使われるべきものだとういうこと。
ご先祖様たちが作り上げ、守ってきたこの文化に感謝しつつ、日々の食事で有り難く使っていきたい。


僕は幸せになると決めた。
今日もきっといい日になる。
一歩一歩、着実に歩もう。


皆様も、良い一日を。

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