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それでも私は演劇を選ぶ

演劇が好きだ。
でも好きだし、仕事にしているからこそ、マイナス面・ネガティブな面は直視せざるを得ない。

つくづく演劇はコストパフォーマンスが悪い。
本番が1日だけしか上演できないものも、1週間公演が続くものも、ツアーを組んで2ヶ月ほど上演するものも、同じぐらい作るのに時間がかかる。
上演日数を増やしたところで、コストはかさむばかりである。いや、回収できるポイントはあるんだろうけど。

演劇は制約が多い。
劇場で上演するにも、カフェ公演のようなカジュアルなものでも「その場に行かなくてはいけない」しかも時間も決められている。会場を使える時間にも制限がある。
大人になって思った。人間そんなに暇じゃない。

演劇は、高い。
大手の商業演劇だと、劇団四季や宝塚は最安値3000円程度(学割などの併用)で見られるものもあるが、他の娯楽に比べると純粋に高く値段が設定されている。
映画が大人1,800円、レディースデイなどの割引の日でも1,100円程度、自主上映などでも2,000円を切る程度なのに比べれば、匹敵するのは宝塚の立ち見席が2,500円だったり四季の学生チケット見切れ席が3,000円だったり。
映画館はベストポジションでも(個人的にはE/F列あたりの真ん中が好み)2,000円以下だが演劇で同じぐらいの規模だと3,000円は最低ライン(※小劇場の劇団の公演で、規模感的に中規模の劇場でやっていても)5,000〜7,000円程度はかかるし、1万円を超える座席も少なくはない(大手のS席とかね)
3,000円あれば飲み会1回分だし、1万円なんか、大学生の1日のバイトで稼げる限界値なのでは。たとえ社会人でも1万円の洋服を買う時は多少躊躇する。アイスショーの2万円の座席なんか、2回行ったら結婚式の祝儀ぐらいの出費だ。まあ買うんだけどさ、私の場合。

演劇は、儲からない。
公演のチケット代そのものでの回収ではなく、グッズ展開タイアップまで含めた回収を行なっている団体をつくづく尊敬する。
興行として、いかに回収するか、回収しやすいものにするかという観点でビジネスを組むのだって、大事である。
コストがまずかかるんだよなあ、リアルなコンテンツだし。
まずキャッシュポイントになるところも少ないし、会場も入れられる限界があるということは売り上げの天井がもともと見えている。
そりゃ、爆発的には儲からないよね。助成金中毒の団体があるのも、然もありなん。

演劇は、リスクが高い。
チケット代の値段もさることながら、そのせいで作品が合わなかった時の損失感がひどい。倍ぐらい損した気分になる。経費で処理しててもすごく腹たつ。それを見たいと思ったのは自分で選んだのも自分なのに、その自分に腹がたつ。アニメやドラマだったらテレビ放送の場合は視聴をやめればいいし、他のチャンネルだってある。レンタル価格と考えても500円程度の話。映画も好みじゃなかったところで2,000円以下。痛手ではないと言えば嘘にはなるけれど、7,000円払ってハズレだった時に比べれば損失は3分の1である。価格の面で見ればね。気持ち的には超ムカつくよ!

演劇はごまかしがきかない。
結局はどんな主題であっても、人間が生身の身体をもって上演するしかない表現芸術なのである。
アニメは人間の動きを踏襲しながらも人間にはできないことができる。実写映画やドラマのブルーバックやCGは、映像を組み合わせて映像でさらに表現を広げられる。だけど演劇は、いくらプロジェクションマッピングがすごかろうと、結局そこにいる役者の体でコントロールが効く範囲でしか表現ができないのである。もはや表現の前には役者の身体そのものが枷である。
フィクションはリアルを超えられれないのか。

まあだからこそ、正直電源も電波も回線もいらないし、この身一つでできるものだからこそ、紀元前の時代から形は少しずつ変わりつつはあるのだろうけど、残ってきているのだと思う。
100年やそこらの映像の歴史に比べたら、もしかしたら私が生きている間に映像の技術が根本から覆るぐらいの発明があるかもしれないけれど、結局は人間社会で人間が行なってるものなんだから、演劇は残るはず。2000年残ってるんだから、と信じたい。

「なんでこんなにエンターテイメントが溢れてるのに、演劇なの?」

と聞かれたことがある。

もちろん、私が生まれ育った神戸という街、というよりも関西は比較的実演芸術が身近にあり、かつそういう家庭に育ったからというのはあると思う。テレビをつければ土曜の昼間に学校から帰ってきてお昼を食べながら吉本新喜劇の放送、劇団四季の関西公演。関西が誇る日本最大級の劇団・宝塚歌劇団。新神戸オリエンタル劇場はキャラメルボックスの公演で有名。今豊洲でぐるぐる回ってる劇団☆新感線だって、関西の劇団だ。親戚の集まりなどで「私がお年玉貯めて自力で劇団四季とか観に行っている」と言うとびっくりされたものである。

漫画も読むし、アニメも見る。中高生の時はほとんどライトノベルや小説に小遣いが消えて、映画が好きで安く見れる映画館に通いつめたものだ。試写会の抽選ハガキを応募して、見に行った映画もあった。けれど、何よりときめいたのはバレエだったり、ミュージカルだったり。

映画も朗読劇も仕事で作った。
けれど、やっぱり演劇に戻りたくなる。不思議なことに。

それだけ色々経てきているけれど(ミーハーな性分なので一通りは見る、という口なのだけれど)、その上で演劇に私が戻ってきてしまうのは、1回記事にも書いたけれど、生のコンテンツだから、「観る」という行為だけではなく劇場に足を運びその空気感を味わい、観劇するというトータルパッケージの体験がたまらなく好きだからというのが根底にあって、あんなに時間も手間もお金も労力もかけていて、練習通りに本番行えないかもしれない、再現性が人間の手に委ねられているというリスクのある行為がたまらなく燃えるのだ。あと、これは予算組みの構造上なのかもしれないけれど、限られた数のお客様たちがチケットを買ってくださって足を運んでいただいていることによって、私たちの実演芸術を支えていただいているということをより近くに実感することができるので、と言うのもあるかもしれない。これまた面倒なことに、演劇は観客がいないと成立しないという。本当、制約の多い芸術だ。

「なぜ演劇なのか」

それは正直、わからない。いろいろこうなのかも、とこねくり回したところで自分が納得できる答えは出ていない。他人になんとなく説明するには足りているような外向きの回答はあるけれど。

でも確実に言えることは、

制約のあるものは、燃える。

なんでも出来てしまうことという前提でものを作るのももちろんすごい。
だけど、制約があるものの範疇で予想を超えるような、想像をひっくりかえすような創造を行うことの方が、私は好きだ。

制限があるというのは、出来ないことを、出来るに変える可能性のあることだから。





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