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【ショートショート】お兄さん

 都内の喫茶店で1人の若い保険外交員の男、久地馬(くちま)が顧客である80代の女性資産家の玉去(たまさり)に新しい特別口座について話していた。
久地馬はこの特別口座と言う実際には存在しない保険コースを使い、多数の顧客から大金をだまし取っていた。
玉去は久地馬が言う事を半分も理解していなかったが、夫が亡くなり淋しい一人暮らしの中で度々訪れる久地馬を「お兄さん」と呼んで家族の様に接しながら会話するのが唯一の楽しみになっていた。

「と言う訳でこちらに移していただければ幾分かは多く…」

その時であった。ものすごい轟音と共に世界は闇に包まれた。

 2人が目を覚ましたのは板張りの床の上で何者か大勢が倒れていた2人を見下ろしていた。

「おい、生きてるぞ。どうする?」

そんな声が聞こえた。
久地馬は声のする方へ

「ここはどこでしょうか?」

と訪ねた。

「舟の上だよ」

ぼやけた彼の視界が段々はっきりしてきたが、まず怯えた様子の玉去が映った。
そして2人を取り囲んでいた者たちに気づいて彼は驚いた。
それは幾多の動物たちであった。
そして彼の問いかけに答えていたのは馬だった。

「うわぁ!馬が喋った!」

「そんなに大きな声を出すな。密集した場所でしばらく皆で暮らすんだから、ちょっと騒いだだけで弱い動物はストレスでまいっちまう。ほら、あんたが騒ぐから小さな鳥が騒ぎ出した」

奥の方から鳥の騒ぐ声が聞こえた。

「なぜ私達はここへ?」

「知らないよ。大きな波と一緒にこの舟に入ってきた。大波でも大丈夫な様に作ってあるんだが。まいったねぇ、人間は呼んでないんだが」

「人間はいないんですか?」

「今回は呼ばれていないよ。一からやり直すんだから。色々な動物のつがいがいるだけで」

「なぜ、人間はいないんですか?」

「いらないでしょ?神様もそういうつもりだし」

「そんな、酷い」

「酷いのはどっちだよ。本当ならドードーもニッポニアニッポンもここにいただろうに」

「人間は必要ないから乗せなかったんですか?」

「そもそも人間を滅ぼす為に洪水が起きたんだから。さっき言った様に一からやり直すんだからさぁ。だからあんたらを海に戻さないと」

「何とかなりませんか?私、名前に馬が入ってるんですよ!ほら!濡れてにじんでるけど名刺の、ほら!あなとの名前と同じ馬って入ってるでしょ!?」

「そんな事言われてもなぁ」

馬が久地馬と話していると動物たちの奥から鹿が出てきて馬と話をしだした。

「このまま乗せておくか?神様が間違うなんて事無いだろ?必要だから入れたんだよ」

「いや、たまたま波に乗ったんだろ?また大変な事になるぞ」

「この舟に入ってくるほどの高い波なんておかしいし、それにつがいだろ?この2人。きっと予定が変わったんだよ。猿があそこにいるから似た種類って事で一緒にしておけば」

「いや、違うだろ?つがいじゃないだろ?つがいならそうなのかも知れないが」

久地馬はその話を聞き、横でまだ驚きを抑えきれない表情の玉去を指指して言った。

「つがいです!この人と私はつがいです!」

玉去は驚いた。日頃、子供や孫に会う時の様に楽しみにしていた久地馬との時間は夫がこの世を去ってからの第2の恋で、それを神様が用意してくれた事だったとは。そしてこれから2人で新しい人間の世界を作っていくのだと。
そして玉去は久地馬へ対する自分の恋心に気づいたのだった。

そこへ再び別な動物が前へ出てきた。
猫であった。
玉去は猫を見て驚いて言った。

「トラちゃん!トラちゃんでしょ?無事だったの?良かったぁ!」

「はい、トラです。おばあちゃん、僕、結婚します。相手もこの舟に乗ってます」

そして猫は馬にこう言った。

「このメスの方の人間は私の飼い主でした。この舟に私のペットとして乗せていただいてよろしいでしょうか?」

「まぁ、この猫の所持品なら仕方ない。私もこの蹄鉄を取れと言われたら困るからなぁ。こっちの人間はペットじゃないのか?」

「そっちは違いますから私の所持品としては扱えないと思います。お兄さんに聞いてみますよ」

猫はそう言って奥へ行った。そしてしばらくすると戻ってきて馬に話した。

「お兄さんが所持品にしたいそうです」

「じゃあ決まりだ。地上へ降りるまでちゃんと管理してくれ」

久地馬は大喜びで飛び上がった。

「やったぁ!」

馬は再び注意した。

「静かにしてくれ。早く彼のお兄さんの所へ」

久地馬はお兄さんを探して動物たちをかき分けて奥へ進んだ

「お兄さん、お兄さんはどこですか?私、貴方の所持品です」

猫は玉去を婚約者に紹介する為に久地馬の向かった方向と反対側へ連れて行った。

久地馬が河馬から「あそこにいるよ」と教えてもらった先にお兄さんはいた。
お兄さんは久地馬を見ると嬉しそうに言った。

「ガルルゥ。食料があれっぽっちじゃお腹が空くからなぁ。助かるよ。ガルルゥ」



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