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<旅行記>一泊二日、甲府への旅またはセンチメンタルジャーニー

 山梨県は父の実家だったので、子供時代に良く行った。父の実家は山梨市にあり、私が小学校低学年の頃は、近所に農耕馬を飼っている人や、豚を飼育している人もいた。しかし、一番多く見かけたのは葡萄畑と桃畑で、夏休みにはこの二つのフルーツをふんだんに食べられたのが、遊び場所がない田舎での由一の楽しみだった。

 私が高校を卒業した直後、父は病気で早世したのだが、戦前・戦中の頃、地元にあるワイン工場を手伝っていたという話を母から聞いた。父が生きているときに、その思い出を聞いておきたかったと思ったが、今はもうその働く姿を想像するしかない。

 山梨市の実家とは別に、親戚が塩山(父の姉夫婦)と甲府(父の伯父夫婦)にいた。特に塩山の親戚の家には泊りがけで何回も行ったが、甲府の親戚には一度も会った記憶がない(祖母の葬式に来ていたと思うが、記憶に残っていない)。たぶん父とは縁遠かったらしいが、この親戚の伯父さんが、山梨の風土病である日本住血吸虫病で精神錯乱して死んでいったことを、小学生の時に父から聞かされた。たぶん父は、自分の子供時代に亡くなった伯父さんの記憶があるため、甲府とは縁遠くなったのかも知れない、と子供心に私は理解していた。

 その甲府へ、腰痛・血行不良・リューマチの温泉治療も兼ねて、一月中旬に一泊旅行した。子供時代は、父が友人から借りてきた車で、当時大月まで完成した直後だった中央自動車道を通り、また完成直後だった笹子トンネルを通って、ひなびた山里の風景を見ながら山梨市の田舎(祖母と未婚の伯母さんの二人暮らしだった)に度々行った。渋滞を避けて早朝に東京を出てから、山梨市に着くのは昼近くだったと思う。家を出るときはまだ日の出前で暗かったが、八王子を過ぎる辺りから、徐々に日の出になるのを背中で感じたことを今でも覚えている。

 今回は、あれからもう50年経っているから、交通手段は激変している。昔は、新宿から急行電車で行ったこともあったが、今回の行きは電車を使いたかったので、新宿駅11時発の特急「あずさ」に乗った。まばらな乗客ながら、駅弁を食べている人が割合に多かった。私たちは、お茶のペットボトルだけ買って乗った。そして、発車してからしばらくは、都会の高層ビル群が長く続いたが、やっとああ高尾や八王子の緑の多い風景を過ぎたなと思っていたら、すぐに相模湖が見えてきて、あっという間に笹子トンネルを通過していた。50年前の急行とは大違いだ。

特急あずさ

 そして、「ああ、都会から田舎に来たんだなあ」と思って車窓から山並みを眺めているうちに、車内放送は甲府駅到着を告げていた。12時30分頃で、ちょうどランチの時間だ。車内で駅弁とビールと言う楽しみもあったが、乗車時間の短さからこれは諦めて、私たちは甲府駅周辺で地酒とほうとうを味わうことに決めていた。

 甲府駅は南口に立派な市庁舎や県庁舎があり、その周辺に商業施設も密集している。ところが、駅ビルに入っている東京でも良く見かける店のロゴをそこかしこに見ながら、「なんか、どこにいっても東京と変わらないよね」と話しつつ駅の外を出たところ、「ヨドバシカメラ」の大音量の音楽が聞こえたときは、一瞬で旅の情緒は吹っ飛んでしまった。新宿から2時間近くかけて移動しても、そこの一部が「別の新宿」のような街並みになっていることは残念だった。もっとも、2時間程度であれば十分に通勤圏内なのかも知れない。

 まあ、こんなことにいちいちめげていては、せっかくのセンチメンタルジャーニーは成り立たない。(我が家のツアコンである)妻が決めていた「小作」という店に向かう。ちょうどランチライムということもあって店は満席で、入口に順番待ちの名前と人数を記入する紙があった。妻がそこに名前を記入したときは6番目で、少し待つ感じだった。しかたなく店の古めかしいショウウィンドウを見ながら、これから頼む料理や地酒を考える(いちおう、「孤独のグルメ」気分)。そして、ちょっと古びた店の外観を写真に撮る。また、周辺にどんな店があるか、どんな感じの人たちが歩いているか、漠然と眺めていた。もちろん、特に変わったことはない。

 15分ほどたった頃だろうか、店の人から順番が来たことを告げられて、中に案内された。テーブル席のつもりでいたが、そこは満席だったこともあり、一番奥まったところにある座敷席に座った。そこには、古い額装や色紙があり、使い込まれた黒漆塗りのテーブルなどなかなか風情のある座敷だった。また、テーブルが4つほどある仕切りがある部屋だったので、宴会などに使う場所なのだろうか。

額と色紙

 改めてメニューと相談して、まず地酒とつまみを頼んだ。私は漬物を注文し、自家製を期待したのだが、市販されているものと半々だった。でも、ニンジンときゅうりはまあまあだった。酒は七賢と春鶯囀を頼んだ。どちらもすっきりとした良い飲み口だった。他のつまみは、舞茸の天ぷらとワイン漬けした牛肉の串を妻が頼んでいた。メインには、豚肉ほうとうを分け合って食べた。太く少し柔らかいほうとうの麺は懐かしい味がした。そして、大きなかぼちゃが良い味を出している。

地酒七賢
ほうとう(食べかけですいません)

 ランチの後、宿のチェックインまで時間があるので、駅前の武田信玄公の銅像で写真を撮った。そこにあることは小学生の頃から知っていたが、なぜか父はここに来ることをしなかったので、今の今まで写真を撮ることがなかったのは不思議だ。でも、それが50年後にできたのはちょっと嬉しい。駅周辺の大通りから見える南アルプスの白い山容が美しい。地元の人には見慣れた風景だろうが、私たちにはけっこう新鮮に見えた。信玄公の銅像近くのベンチでたむろしつつ、とりとめのない会話を続けている人たちの集団がいた。服装から見ると、旅行者ではない地元の人たちだと思う。仕事をしているのだろうか?

武田信玄像

 宿は北口なので、信玄公像のある南口から移動する途中、宿の夕食までに飲むビールを数缶買い、さらにサラミやチーズのつまみを購入した。そして北口を出てすぐの右手の広場に、明治期に作られた古い建物があるのが見えた。「藤村」という建築家が建てた小学校を再現したものということで、無料の案内につられつつ見学した。「藤村」ということから「島崎藤村」かと私は勝手に勘違いしていたが、歴史に出てこない沢山の偉人がいることを、改めて勉強させてもらった(ちなみに読み方は「ふじむら」)。

藤村氏建築記念館

 北口からタクシーに乗る。駅前の通りを少し走り、学校の間にある狭い道を曲がった後、宿に着いた。十分歩ける距離だったが、老人なのでタクシーを使ってしまう。中途半端に古い宿だ。たぶん1970年代に建てたと思われるコンクリートの建物だった。さっきの「藤村」のような風情はないが、意外と高度経済成長期の姿が浮かんでくる。季節外れの平日ということもあって、私たち以外の宿泊客は二組しかいないようだった。そのため、人の気配がまったくしない閑散とした館内を通って、部屋に入った。本当に静かだ。

 部屋には既に布団が敷いてあった。夕食は、混雑時は大広間(宴会場)を使用するようだが、今は閑散時なので、空いている別の部屋に用意される。布団の上げ下ろしや食事の提供を考えたのだと思う。さっそく荷物をほどいて、浴衣に着替える。大浴場が開くまで少し時間があるので、窓の外を見てみた。すると、ちょうど良く晴れてくれた空の下、富士山の勇壮な姿が見えた。山梨に来た甲斐があった(甲斐の国でもあるし)、と嬉しくなり、写真を撮る。雪景色の富士山に大きな雲と小さな雲が動いていくのが、美しい。

富士山

 やがて時間が来て、大浴場に行った。露天風呂のあるような温泉を期待していたのだが、ここは温泉気分が出ない展望風呂(しかし、からんは4人分だけ)というものだった。幸いに誰もいない(妻に聞いたら、女湯も貸し切り状態だったそうだ)。シャワーを浴びてから、大きな湯船に向かう。足を入れた、「熱い!」。さらに足から腰までそっと湯船に入った、「もの凄く熱い!」。でも、我慢して肩まで入ろうとする。しかし、「熱すぎて、我慢できない!」と湯船から出る。

 そこで、私は考えた。「どうせ独占状態で他人に気兼ねする必要がないのだから、水で温度を下げよう」と。しかし蛇口は湯船のどこにもない。「では、窓を開けてみるか」と考えたら、「浴室の湿度維持のため窓を開けないでください」という注意書きが目に入った。うーん、それではこうしようということで、頑張って両足を入れ、熱さを逃れる意味も併せてぐるぐる動かし、湯水を攪拌した。「こうすれば、いくらか温度が下がる」と思ったのだ。実際、身体が徐々に湯水の熱さに慣れてきたこともあって、肩まで浸かることができた。

 しかし、熱いものはやっぱり熱い。子供のように100まで数えてみるかとも思ったが、こんなところで火傷や熱中症になっても困るから、早々に湯船を出てその縁に坐った。もう気分は一種のサウナ状態だが、これで温泉の効能はあるのだろうか?と少し心配になった。それで、気合を入れてまた湯船に浸かった。腰を動かし、リューマチの指を運動させた。温泉が効くというよりも、熱で治療しているような気分になった。

 「もう限界!」とやっぱり思って、やっぱり湯船からすぐに上がってしまった。そして、仕方なく富士山が見えるかなと思って、改めて窓の外を眺めてみたら、既に大きな雲に隠れていた。展望風呂を独占する優雅な時間を終えて、部屋に戻って相撲中継を見ながらビールでも飲むことにした。

夕焼け

 2023年の初場所は大変なことになっていたが、一方夕飯の18時まで時間をつぶす私たちは、荒れる相撲結果をTVで見ながら、缶ビールを次から次と開け(大半は私が一人で飲んだのだが・・・)、そのうちビールが無くなってしまったので、妻が館内の自動販売機へ買いに行ってくれた。そうして相撲の取り組みとビールの空き缶が淡々と進んで(増えて)いき、ちょうど結びの一番が始まる前にフロントから「夕食のご準備が出来ました」という電話が来た。それで少し心残りではあったが(貴景勝が負けた)結びの相撲を見ずに、夕食の部屋へ移動した。

 夕食には、宿のサービスで、赤と白の山梨ワインの小瓶が付いていた。酒飲みの私たちとしては、ちょっと期待していたサービスだった。さっそく妻が白を開けたので、私も飲んでみた。甘い、コクがない、ジュースのような軽い味わいがする、アルコールが感じられない。もう開けてしまったので、残りの白ワインは私が飲み干したが、赤ワインを開けようという気持ちは起きなかったし、持ち帰りもしなかった。それで、フロントに電話して瓶ビールと地酒を頼んだ。こちらは期待通りで大丈夫だった。

夕食(手前中央は牛肉)

 翌日に、「サドヤ」というワインセラーを見学・試飲する予定が入っていたのだが、今回の旅行の目的のひとつでもあった山梨ワインへの期待は、この夕食のサービスでかなり落ち込んでしまった。しかし、瓶ビールと地酒で私はけっこう酔っぱらい(なにせ昼から飲み続けだから)、ワインのことはすぐに忘れてしまった。そして、部屋に戻った後、酔い覚ましを兼ねて熱湯にざぶんと浸かり(まるで東南アジアの屋台で売っている麺のようだ)、すぐに寝てしまった。ところが、エアコンの暖房をつけていたので、夜中に暑くてなんども目が覚めてしまった。この宿では、風呂も布団も、私には熱帯地方の記憶を思いださせる熱さと暑さだったようだ。

コタキナバルのチャーシューワンタンメン(かまぼこ入り)

 翌日の朝食は同じ別の部屋で7:30からだった。展望浴場は6時から開くので、懲りずに朝風呂を浸かりにいった。またもや独占状態だったが、もちろん温度は変わらないから、東南アジアの屋台の麺みたいな「湯通し」式入浴だった。窓の景色を見たら、早朝のせいか雲が多かった。

 朝食には、さすがに酒は注文しなかった。ワインは頼みたくないし、地酒も十分味わって満足していた。そして、固めに炊いた(好みでない)ご飯を食べた。多種類の小鉢に盛られたおかずは、みなそれぞれに美味しかった。最初に飲んだ冷たい牛乳が、意外と嬉しかった。二日酔いには良い薬だ。その後妻はまた展望浴場に行ったが、私は寝不足を改善するべく、部屋で寝た。静かな朝の時間が過ぎていった。そのうち、チェックアウトの時間が来た。仮眠を取ったので、ちょっと二日酔い兼寝不足の私の体調は一気に改善した。もういつでも酒がたくさん飲める状態に戻っていた。私の身体は意外と対応方法がわかりやすい。

朝食

 宿からタクシーでワインセラー「サドヤ」に向かった。車内で妻に「山梨は昔から水晶が取れる」という話をしていたら、運転手が「いや、もう水晶はなくなってしまって、今は中国から輸入しているんですよ」と教えてくれた。とはいえ、山梨の宝飾関係の工作技術は優れているので、海外から学びに来る人達が多いということだった。ミラノで高級ブランド品の革製品や服飾品が作られているが、そこの工場で働いているのは皆中国からの労働者たちというのと、少し似たようなものだなと思った。

 間もなく「サドヤ」に着く。タクシーから降りると、前方に美しいチャペルと青い空、白い雲、のどかな山並みが見える。とても良い風景だ。自然と足はチャペルに向かっていき、ワインセラーの受付がわからなくなった。チャペル横のバンケット会場にいるお姉さんに聞いたら、タクシーで入ってきた場所のすぐ横に受付はあった。そこで受付を済ます。ワインの瓶が沢山並んでいる。ツアー開始まで20分ほどあったので、敷地内をぶらぶら歩く。妻も適当にぶらぶらしていたのだが、ちょうどその時チャペルから、カメラとビデオを持った人たちがあわただしく出てきたのが見えた。

サドヤのチャペル

 「これは結婚式だ」と気づいて、遠くで邪魔しないように見ていたら、チャペルから大勢の親族が出てきて、女性スタッフから花びらを配られていた。しばらくして、「新郎新婦の登場です!」という定番のアナウンスが流れて、若いカップルがチャペルから出てきた。親族たちがあらかじめ配られていた花びらを振りかける。遠巻きに見ながら、私たちも拍手する。なぜか、犬のキャンキャン鳴く声がうるさい。そのうち、花嫁が足元にまとわりつくミニチュアダックスを抱き上げた。抱かれても興奮し続けているこの犬が鳴いたのは、嬉しかったからか、または嫉妬だろうか、とふと私は考えた。そういえば、2年前の夏、ルーマニアのコンスタンツァに行ったときも、ちょうど教会から出てくる新郎新婦を見た。そして今年は甲府でタイミング良く見られた。妻は「縁起が良い」ととても喜んでいた。日向に佇むとかなり暖かい。良い天気だ。

 やがてツアーの時間が来た。私たちを含めて6人のツアー参加者だった。そして、皆中年から老年の夫婦だった。つまり、私たちと似たり寄ったりの境遇ということだ。ワイン熟成用の樽を使った扉を開けて、薄暗いセラーの中に入る。懐中電灯で足元を照らしつつ、お姉さんが慣れた口調で説明する。創立者は、戦前に苦労して葡萄畑を開墾し、フランスから取り寄せた葡萄を育成した。さらにまたフランスからより寄せた専用機械を使って、ワインを作っていた歴史が手際よく展示されていた。古い機械と道具が、ちょっと現代美術作品のように見えた。

ワインセラー入口

 また、現在の上皇様や高松宮様が訪問した時の古いパネルもあった。甲府は、地理的な縁なのかも知れないが、どこかそうした為政者とつながりがあるように思う。また、空襲にあって大事なワインが流出してしまったため、今ある一番古いものは1955年のものとなっているが、しばらく売る予定はないと言っていた。昔、誰かに聞いたことがあったが、古すぎるワインは酸化しすぎで飲めないらしいから、これは記念品扱いだろうと思う。

 ツアーの最後に試飲した。提供されたのは受付近くに沢山ならんでいる手頃な赤ワインだったが、どうも私の口には合わなかったので、敢えて買おうという気持ちは出なかった。妻は、「あなたは海外で美味しいワインを飲みすぎたからよ」と言うが、自分としてはそんな舌が麻痺するような高級ワインを飲むなんてことはしたくてもできないから、普通にスーパーで売っているテーブルワインとかハウスワインを飲んできただけだと思っている。それでも美味しかった記憶があるのは、そうした邦貨500円程度のワインでも、気候・歴史・料理とのマリアージュなどが美味く混交して、良い味わいになっていたのだと思う。ビールもそうだった。どの国でも、海外からの輸入品よりも地元で製造している方がずっと美味かった。

試飲用テーブル

 そう思ったら、やっぱり日本で良いのはワインよりも地酒なんだな、という当たり前のことに行きついた。そうだ、ワインセラー見学の後は、甲府のちょっと高級な蕎麦屋に行くから、そこで美味い地酒を飲めるのを期待して、この遊園地のような建物が並ぶワインセラーを後にした。

 ランチに使う蕎麦屋へ行く途中、夢小路という小さな商店街でソフトクリームを食べる。山梨は畜産も盛んなのだ。さらに歩いていくと、甲府城の門が再現されているのに気づいたので、そこを見学する。たぶんボランティアだと思う暇そうなおじさんがいて、甲府城の歴史を説明してくれた。そういえば、甲府は徳川時代は天領だったし、六大将軍家宣も甲府から出ている。また、甲府城は綱吉の側用人として権勢をふるった柳沢吉保の居城だったそうだ。歴史を知るのはとても面白い。

甲州夢小路入口付近
甲府城の門

 甲府駅の北側から南側に行くため、線路を渡る大きな鉄橋を歩く。橋の上からは中央線の複数の線路が良く見える。特急から普通列車、そして貨物まで多種類の鉄道車両が通りすぎる。鉄道ファンなら、ここの鉄橋は絶好の撮影スポットではないかと思う。

 南側に降りたあと、右手に市庁舎や県庁舎を見ながらさらに歩いていく。腰痛の身には、ちょっと辛い距離になってきた。大通りから外れて3分ほど行ったところに、瀟洒な蕎麦屋があった。昔からある蕎麦屋という風情ではなく、モダンな作りで蕎麦以外の創作料理も出しますという感じだった。13時近くだったせいもあり、客はいなかった。清潔で明るく、センス良くデザインされた店内に入り、妻はかなり喜んでいる。オジサン的には、長年煙が浸み込んで黒光りする壁やテーブルの方が、より好ましく落ち着くのだが、これは仕方ない。

 ビールと地酒、山梨名物の鳥もつ煮込みのつまみと、ランチセットの蕎麦を頼んだ。丁寧に手打ちされた蕎麦は、コシ・風味ともに良い素材から作られた高級感あるものだった。ランチセットに入っている小鉢の野菜の天ぷらやナスの煮浸しも味付けが良かった。ちょっと東京の都心で評判になるような、そんな良い店だった。

鳥もつ煮とビール


高級地酒


高級ランチセット

 旅の目的は全て終わった。帰りは電車ではなく、高速バスにした。南口ロータリー内に立派なバスステーションがあり、頻繁に新宿や羽田・成田空港へ向かうバスが出ていた。そしてなによりも特急の約半額の料金で済むのが嬉しい。これはかなり経済的だ。私たちのバスを待っていると、外国人(南アジア系)の青年が大きなスーツケース二つを持ってやってきた。これから東京に戻るのだろうか。または、新宿に着いた後に少し東京観光をして、それから成田空港に向かうのかも知れない。沢山の日本土産とともに。

バスステーションのダルマ

 そういえば、私たちが海外で旅をしたときは、どこかの駅やバス停でこんな感じだったのだなと思い出した。そして、今は立場が逆になっているのがちょっと不思議な気分になる。もしわからないことがあれば、なんでも教えてあげるのだが(一応英語可)、と思ったが、余計なことをしてもなんだから、おとなしくバスに揺られて新宿に向かった。通路の反対側に坐った青年は、乗車してすぐに熟睡してしまい、大きないびきがときおり聞こえてきた。日本は平和だ。実に平和だ。たぶん、朝まで騒いで(仕事して?)いたのだろう。

高速バス車内

 新宿に着いたのは17時頃。ほとんど渋滞せず、また乗客も少なかったため、電車に負けないくらいの快適なバスの旅だった。新宿南口周辺の、大勢の人が様々な方向に歩いている中をかき分けて、私たち老夫婦は家路に着いた。日本は平和だ。実に平和だ。


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