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<映画評>シャイニング

 スタンリー・キューブリックの映画手法による面白さが、よく表現された作品である。キューブリックの最高作品は、なんといっても『2001年宇宙の旅』だが、『2001年・・・』の素晴らしさは、何よりもセリフをなるべく少なくして、映画本来の表現力である映像で語りかけていることに集約される。そして、『シャイニング』も、映像による表現力に同様の素晴らしさを見つけることができる。

 冒頭の、主人公一家が山道をドライブする光景を俯瞰で撮影したシーンは、ベルリオーズからの適切な選曲(幻想交響曲からの「ワルプルギスの夜の夢」。敢えて注釈するが、「ワルプルギス」という言葉には、キリスト教文化の文脈では重層的な意味を帯びており、この有名な曲を聴いただけで、キリスト教文化にいる者は、たんなる恐怖感ではなく、宗教的・終末論的・祝祭的なイメージを喚起される。)からして、非日常の神話世界にスムーズに移動することができる、優れた映画の導入部だ。

 そして、またとない絶好のロケーションにある(事前のロケハンの見事な成功例)、一方の主役ともいえるホテル(オーバールック・ホテル。また敢えて注釈するが、この「オーバールック」という言葉には、展望という自然を楽しむ意味の他に、過去・現在・未来を一気に展望するという時間軸上の重層的な意味を含んでいる)は、この映画のためにそこに建てられたような存在感がある。これだけで、もうこの作品は、半分以上成功を収めている。

 ところで、映画『シャイニング』の世界は、神話の世界である。この神話世界と現実の観客とは「距離」があるため、両者をつなぐ役割が必要であり、それはホテル従業員のハロランが担っている。一方、主人公のジャック・トランス(『カッコーの巣の上で』に続く、またしても、ジャック・ニコルソンの怪演)は、神話的な怪物であり、英雄ではない。英雄は、ジャックの妻ウェンディと息子ダニーの役割だ。

 観客は、狂言回し(ナレーター)役であるハロランとダニーとの会話を通じて、トランスを普通の人間から神話的怪物に変貌(ギリシア神話的に言えば、転身)させるホテルという強力な「恐怖神」の存在を理解していく。この「恐怖神」の概要(多くの奇怪な事件など)が判明した後で、狂言回し(ピエロ)としてのハロランの役割は終わり、舞台から降りるべくトランスに殺害されてしまう。まるで、神へ捧げる生贄のようにして。

 そして狂言回しのハロランが死んだ後、物語はクレタ島のクノッソス宮殿のような迷宮に入っていく。ここで、ギリシア神話の英雄譚同様に、物語は佳境を迎える。この「恐怖神」によって造形された迷宮は、特別な歩き方(神話的には舞踏)が必要になる。トランスは、怪我した足をひきずることによって舞踏を再現して迷宮に入り込み、トランスに追われるダニーは、子供らしいよろけた走り方(舞踏)によって、迷宮に入り込むのだ。

 また重要なことは、クノッソス宮殿のミノタウロス同様に、神話的怪物は迷宮の中でのみ倒すことができることだ。この作品では、実際に英雄ダニーが怪物トランスを倒すわけではないが、「舞踏」の効果を失くした結果、迷宮から脱出できなかったトランスが、普通の人間として、自然の寒さ(最強神としての自然の力)によって凍死することで、物語は結末を迎える。

 こうして迷宮で怪物を殺し、脱出したダニーは、この生還によって真の英雄となり、これから後の物語の語り部として現実世界に生き続けていくことになる。一方のトランスは、英雄ダニーを追いかけている姿のまま凍り付くことによって、自らの生きている時間も凍り付かせる(歴史的時間を停止する)ことに成功し、いわば永遠の命を獲得する。そして、この「恐怖神」であるホテルの神話的広大な時空間に仲間入りする。仲間入りしたトランスの喜びは、ラストシーンの古いパーティの写真によって、観客に的確に伝えられるだろう。

 巨匠キューブリックは、20世紀の映像における神話作家としての自らの存在証明を、この作品で確かなものにしたと言えよう。


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