<書評>『歴史の意味』
『歴史の意味―人間運命の哲学の試み― Der Sinn Der Geschichte, Versuch einer Philosophie des Menschengeschickes』ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ベルジャーエフ Nicolai Alexandrowitsch Berdjajew著 氷上英廣訳 白水社 1960年 『ベルジャーエフ著作集』の第一巻として発行された。原著は1923年にロシアで出版され、1925年にベルリンでロシア語からドイツ語に翻訳・出版されたもの。なお、日本語の書名は、ドイツ語の書名を忠実に訳している。
私が1979年に買い求めた『現代思想 臨時増刊総特集 現代思想の109人』には、このニコライ・ベルジャーエフの名前は載っていない。ちなみに、ウィキペディアで検索すると、以下のように書かれている。
「ウクライナ生まれのロシアの哲学者。もとはマルキストであったが、流刑を経てキリスト教に回心、ロシア革命を経て反共産主義者となる。もともと宗教を反対して無神論の共産主義を深く信じていたが、実際にソ連共産党支配下の生活を体験した後、思考を大きく変わって、共産主義の不条理さや弱点において強烈的な批判をした。彼は共産主義に対して深刻な考察力を持ち、「共産主義は20世紀の邪教」という理論を提唱していた。」
ということで、日本の左翼知識人には非常に煙たい、なるべく避けたい存在であったことがわかる(その関係からか、前述の『現代思想の109人』にはマルクスを筆頭に、レーニン、スターリン、トロツキー、ルクセンブルク、マルクーゼ、アルチュセール、フロムなど多くのマルクス主義思想家、共産主義思想家は網羅されている一方、ベルジャーエフのような反共産主義思想家は排除されたのかもしれない)。また、それだけ左翼知識人から避けられているということは、それだけベルジャーエフの反共産主義思想が的確かつ力を持っているということの証明になるわけで、1989年にベルリンの壁が崩壊してから30年余経た現在、ロシア・中国・北朝鮮・キューバなどの共産主義国家が勢力を巻き返している状況からも、参考になる本ではないだろうか。
また、ウィキペディアにあるように、ベルジャーエフは共産主義と宗教とを同種の思想として考察しているが、これは現在の共産主義国家の独裁政治体制が、近代以前のキリスト教を利用して民衆を抑圧した独裁国家体制に近似していることの、有効な見方であると思う。
なお、私の基本方針として、なるべく現実の魑魅魍魎な政治世界には関わらないことにしているが、本書は現在進行形で騒いでいる政治についてのものではなく、純粋な思想及び歴史に関する考察をまとめた著作に対する、個人の感想として記述しているので、この方針を最低限遵守できているものと認識している。
本書には簡潔かつ明快に、ベルジャーエフの思想と様々な歴史や思潮に対する認識がまとめられているところ、私が触発された箇所を抜粋して紹介したい。
P.20(注:マルクス批判)
マルクスは経済的唯物論の理論を打ち出すことによって、経済関係の受動的繁栄を超出する理性の所有者であることを主張している。しかし経済的唯物論がイデオロギー的構造としてたんにある種の生産関係の反映、すなわち十九世紀におけるブルジョアとプロレタリアートの闘争を踏まえて形成された関係の反映にすぎないということになれば、どうしてこうした理論の主張者たちは、その他いっさいの真理――それらもこの反映が呼び出した自己欺瞞にすぎない――にまさった絶大な真理の把握者で自分たちはあると、主張することができるのか、不可能である。かれらの真理にしても、やはり同じような経済的現実の生み出した幻想の一つでなかろうか?
P.34(注:ユングの集合的無意識との非常に強い共通性がある。)
人間はみな、その内的本性に従って、一個の宇宙(コスモス)、その中で現実の世界全体とすべての偉大な歴史的時代とが反映し、内在する一個のミクロコスモス(小宇宙)である。・・・あの内的照明と内的深化の結果、人間はそうした諸層をつらぬいてその最内奥のものに、すなわち時代の深処にいたりつく。時代の深処にいたりつくことは、つまりかれ自身の深処においてのみ、人間は真の仕方で時代の深処を見いだすことができる。なぜなら時代の深処は、なにか外的な、人間にとって疎遠なもの、からに外部から与えられたもの、外から課せられたものではないからである。時代の深処そのものが、人間自身の内部における最深の秘密の層である。ただ意識の狭さによってこうした層を無視しているのである。
P.41(注:ヘブライ思想の歴史への貢献)
《歴史的なもの》の観念は、ヘブライ人によって世界史の中にみちびきいれられた。そしてユダヤ民族の根本的使命こそ、ギリシア的意識に映じたあの循環的運行とは異なって、人間精神の歴史の中にあの歴史的経過の意識を導入することであった、と私は信じている。古代ヘブライの意識ではかの過程はつねにメシヤニズム(救世主主義)と結びつき、メシヤ的観念と結びついていた。
P.83(注:歴史における時間の種類)
われわれはいわば二つの時間が存在することを認めなければならない。悪しき時間と善の時間、真の時間と虚偽の時間である。ひとつは堕ちた時間であり、他は永遠そのものが参与し、堕落をまぬかれている深い時間である。・・・時間は閉ざされた円環ではなくて、通路をもった円環と考えられる。そしてまた、時間そのものが永遠の深処の内奥に根ざしていると考えられる。こうしてわれわれがわれわれの世界史的過程において、歴史的過程をなす現世的実在において、時間と呼んでいるところのものは、永遠そのものの一種の内的時期、一種の内的期間と考えられる。
P.112(注:ユダヤ人であるマルクスの共産主義は、ユダヤ思想の焼き直しに過ぎないという正論。)
地上的幸福に対するユダヤ的要求が、カール・マルクスの社会主義の中で、新しい形式において、まったく異なった歴史的状況のもとで、声を発している。マルクスの学説は外面的にはユダヤ民族の宗教的伝承と断絶し、あらゆる神聖なものに反抗する。しかし神の選民を中心とするメシヤ思想は、マルクスによって階級に、プロレタリアートに持ちこまれた。そしてイスラエルが選民であったごとく、いまや新しきイスラエルとして労働階級が出現し、それは選民であり、世界を解放し、救済すべく神によって召された民とされる。
P.140(注:紀元元年の頃の「牧神パーンの死」という流言の意味)
(デュオニソスの密議は)自然的生命そのものの循環にもとづいて行われた。自然的な死と自然的な誕生、自然的な冬と自然的な春にもとづいて行われた。それらは人間を元素的自然から超出せしめることなく、そのための真の救済をすこしも与えなかった。これらの秘儀を知っていた古代世界は、救済をしきりに渇望し、その末期にはいよいよ自然的精霊(デモン)に対する恐怖に支配されるにいたった。・・・ただキリスト教だけが人間をこの元素的自然の循環から連れだし、独立させ、その精神に自由を再び与え、人間運命に新しい時代をひらいた。この時期にいたって人間運命は、自由に行動する主体によって決然と生きることを開始し、ここに人間は自由の意識をもつようになった。
元素的自然からのこの解放の過程にはまたその裏面があって、ひとびとはこれを悲しみの念をもって「大いなる牧神(パーン)の死」と呼ぶ。古代世界の終焉とキリスト教のはじまりは、まさしく人間の内的な自然的生命がどこか未知の隠れ家にのがれてゆく時期でもある。古代世界にあらわれて、古代の自然的人間に親しかった大いなる牧神は、自然の深処に追いやられ、人間から姿を消すにいたった。
P.152(注:「暗黒の中世」のポジティヴな部分)
人間の精神的諸力を内部に集中し、騎士と修道士の風格を範として人格を鍛え、人間的自由を強化したあの中世の人間形成の意義はあまりにも忘れられている。だいたいキリスト教的禁欲主義はそのような人間の精神的諸力の集中とその浪費をおさえる意味であった。人間の精神的な諸力は内面に蓄積され、集中された。創造的な力が自由に発揮され開花するような可能性があっても、それは貯蔵され保存された。ここに中世紀の最大の、驚嘆すべき成果の一つがあった。ルネサンスの外面的な創造的開花は、それが中世を通じて内面的に準備されたがゆえにこそ可能であった。
P.161(注:古代への志向とは)
自然へのあこがれ、古代へのあこがれの本質はいったい何であったか?この動向は、人間的創造のあらゆる領域において完全な形式(フォルム)を求めるものであった。・・・思想と芸術的創造と政治的生活と法律生活を形式化しようとするあらゆる試みは、古代への志向である。
P.166(注:ルネサンスの終焉)
ボッティチェルリの芸術は、最もすばらしい芸術であって、しかもルネサンスが内的な破綻を招かざるをえないことを教えている芸術であると思われる。おそらくルネサンスの本質を偉大さは、まさしくルネサンスが成功にいたらず、また成功することができなかったことにあるであろう。なぜなら、古代の再現、異教的ルネサンス、完全な地上的形式のルネサンス、そうしたものはキリスト教世界においては不可能であったからである。・・・ルネサンスが到達した最高峰であるラファエルの芸術が、ルネサンスの堕落の開始でもあった。構図の完全さに到達したラファエルの創作においてすでに、内的な霊魂の欠如がはじまっている。そこには十五世紀の芸術に感じられるようなあの内的な脈動が欠けている。十五世紀の芸術ののちボロニア派やバロック派になると、そこにはルネサンスの退廃が明白に示された。
P.171(注:ルネサンスのマイナス面)
・・・人間の精神的基礎は二つである。すなわち古代的・ギリシア的基礎と、中世的・キリスト教的、あるいはカソリック的基礎である。この一見逆説的に見える主張は、人間の弁証法を最もはっきりと表現しているのである。その弁証法はこうである。人間の自己肯定は人間の自己破壊にいたる。高次の目標に結びついていない人間の自由な活動は、創造的能力の枯渇にいたる。形式の美と完全を創造しようとしてルネサンスが開始した情熱的な努力は、かえってその破壊と弱化を招くにいたった。このことは人間的文化のあらゆる領域において認められるであろう。
P.185(注:人間不在の機械文明への警告)
機械の勝ち誇った登場こそ、人間的運命における最大の革命の一つであると、私は信じる。われわれはまだこの事実を十分に評価していない。あらゆる生の領域における変革が機械の出現とともにはじまった。それは人間をいわば自然の体内からひきずりだし、すべての生のリズムを一変させた。以前には人間は自然と有機的に結ばれていた。そしてかれの社会生活は、自然的生命との相互関係によって秩序づけられていた。機械は人間をあらゆる意味で解放しただけではなく、むしろ人間をあらたに奴隷にした。かつては人間は自然に依存し、そのための生活は貧弱なものであったとすれば、機械の発明とそれに伴う生活の機械化は、一面において人間を大いに富ました。
しかし他面では、それはあたらしい依存と隷属の形式をつくりだし、これは自然への直接的依存のときに感じられたものよりもはるかに強大なものであった。いわば人間にも、また自然にも未知であったなにか秘密な力が、人間の生の中にはいってきた。何か第三の要素、自然的でも人間的でもないようなものが、人間に対しても、自然に対してもおそるべき力を獲得した。このあたらしいおそるべき力は、自然的な人間の諸形式をこわしてしまう。それは人間を分裂と解体の過程にひきわたし、それによって人間は従来からの自然的被造物たることをやめる。この力が、他のなにものにもまさってルネサンスを終焉にみちびいたのであった。
P.189(注:ニーチェとマルクスの意味)
ヒューマニズムがその反対に移ってゆくこの過程を痛切に感得するために、十九世紀から二十世紀にかけて時代の思想を支配した二人の天才を考察してみよう。かれらは人間文化の両方の極に属し、たがいになんの共通点もなく、まったく別の、敵対的な精神的秩序の代表者であったが、しかし人類の運命にその刻印を同様に強力におしつけたのであった。一方は精神的文化の個人的頂点に、他方は人間的大衆、社会的世界にその深い影響をおよぼした。それはフリードリヒ・ニーチェとカール・マルクスである。この二人はいかなる点にも共通するところがなく、ただ相反発するものしかないが、しかも同じようにヒューマニズムを終結し、反ヒューマニズムへの移りゆきを開始したのであった。
P.192(注:マルクス主義は非人間的かつ奴隷を作り出す思想との指摘)
この人間的自己肯定、人間的秩序、そして孤立した人間的意志の承認の道において、人間の内的破滅が生ずる。ニーチェの場合と同様、マルクスにおいても超人――その名において人間は否定される――の未来の出現のおぼろげな輪郭が浮かんでいる。マルクスにおいても非人間的な集団主義――その名において人間は否定される――の茫漠とした、しかも恐るべき輪郭が浮かんでいる。人間は非人間的な集団形式――そこでは人間の相貌は消えなければならない――が出現するための手段として、道具としてのみ承認される。人間像は新しい集合体に隷属せしめられなければならず、この集合体はいっさいの事物としてのみ承認される。人間像は新しい集合体に隷属しなければならず、この集合体はいっさいの事物と人間の上にそのおそるべき触角をのばし、純粋に人間的なものの固有価値いっさいはここに否定される。
P.212-213(注:前衛芸術と神智学への批判)
(未来派芸術の作家)アンドレイ・ベールイの作品、たとえばかれの注目すべき小説『ぺテレスブルク』においては、人間は宇宙的無限の中に没入する。人間を対象的世界から区別するその諸形態は崩壊し、混淆する過程がはじまる。古代的・ルネサンス的意味における形式の完全はこの芸術では完全に崩壊する。・・・かれの創作過程の最近の成果は、近代人が自己自身の像の否定に到達したことをしめす。個人としての存在たる人間は芸術の主題であることをやめた。人間は社会的また宇宙的全体性の中に沈み、落ちてゆく。
・・・神智学的潮流は反ルネサンス的かつ反ヒューマニズム的な性格を持っている。・・・それらにおいては人間的個性は宇宙的な霊的存在の階層性(ヒエラルキー)に従属せしめられてしまう。人間は、かれがルネサンス時代・ヒューマニズム的歴史時代に演じたあの中心的な特別な役割を演ずることをやめる。・・・結局のところ、この潮流にとって人間はたんに宇宙的進化の道具であり、人間はさまざまな宇宙的諸力の活動の所産にすぎず、さまざまな遊星的進化の交点であってそこにさまざまの世界の断片が堆積しているようなものでしかない、――人間は世界進化の中で無常な存在である。
P.230-231(注:進歩という誤謬)
進歩の理論は、人間の世界歴史の諸課題が未来において解決されるであろうということ、人類の歴史において、人類の運命において、高次の完全な状態が到達されるような瞬間が到来するであろうということ、そしてこの高次の完全な状態において、人類の歴史の運命をみたしているあらゆる矛盾が解消され、あらゆる問題が解決されるであろうということを、前提とする。
・・・進歩はあらゆる人間的世代、あらゆる人間的人格、あらゆる歴史的時期を、終局の目標に対する一個の手段、一個の道具に変えてしまう。来るべき陣理の完全と力と幸福というこの目標の実現状態には、しかし、われわれの中の何びとも参加することがないであろう。
P.236(注:未来への悲観的見方)
いくたの社会学説、いくたの歴史哲学の特徴となっているこの地上楽園のユートピアは、哲学的思考と宗教的意識の側から、もはや再び立つことのできないほどの痛撃を受けた。・・・歴史においては、一筋の直線をなして実現する善の進歩、完全性の進歩――それによって未来の世代が過去の世代よりも高いところに位置すると言うような進歩は存在しない。歴史においては、人間的幸福の進歩も存在しない。――あるのはただ存在の内的諸原理、たがいに相反する諸原理、光明と暗黒と、神と悪魔と、善と悪との諸原理の悲劇的な、いよいよ深いところに達する開示のみである。
P.238-239(注:文化を称賛する。)
文化の中には不滅の原理が宿っている。しかし文化を支える民衆それ自身は、歴史の枠の中にある生ける有機体として、死をまぬがれることができない。その最盛期を過ぎると、それは没落し、滅亡しはじめる。すべての偉大な文化は、没落の時期を体験した。・・・われわれが時間を現在と過去と未来に分割するとき、未来が過去よりも実在的であると主張するなんの理由もない。未来は、現在の視点からするとき、過去よりも実在的ということはない。またわれわれの創造的努力は未来の名においてなさるべきではなく、未来も過去も一となる永遠の現在においてなさるべきである。過去はもはやないものであり、それはわれわれの記憶の中にはしか存在しない。未来はいまだないものであり、それが存在するかどうかも不確かである。
P.244(注:フランス革命のマイナス面と社会主義に未来がないという予言)
フランス革命が露呈した矛盾は、全十九世紀の経過のうちにあきらかになり、ついにはフランス革命の全イデオロギーが虚偽であることを証示した。平等・友愛・自由のかわりに不平等と人間相互の憎悪の新しい形式があらわれた。同様にして、現代を動かしている理想と課題も成功しないであろうと、われわれは確実に言うことができる。その実現が求められ、またひとびとの努力が重ねられ、おそらく将来の歴史的時期においても大きな役割を演ずるであろうところの社会主義は成功しないであろう。
P.277-278(注:終末論の無意味さ)
歴史の流れにはたらきかける力は非合理的で爆発的である。昼の時期に、夜の時期がつづく。そして合理的で「啓蒙的な」時代ののちに、カイザーリングのいわゆる「地の原理」が支配する時代、衝動が知性をしのぐ時代がやってくる。・・・かくのごとく夜の力が昼の力よりも優勢になるときに、歴史上、終末論的、黙示録的思想を受け入れられる傾向が見られる。・・・ひとびとは偽キリストの到来と世界の終末があるきまった年に起こると預言さえした。ユング・シュティリングによれば、それは一八三三年に起こるはずであった。
P.285(実存的時間に生きることの意味)
三つの時間があるということを忘れてはならない。すなわち宇宙的時間、歴史的時間、実存的時間である。宇宙的時間は循環的で、数学的に測定可能であり、暦と時刻を伴っている。それはわれわれの太陽系と、その規則的運行の時間である。歴史的時間は未来に向いており、新らしさの母体である。それは何世紀とか何千年(ミレニアム)という数字を付されてあらわされる。歴史的時間においては、未来は現在を食いつくして、これを過去に変形させる。宇宙的時間と歴史的時間は堕ちた時間である。この両者には完全さが欠けている。
残されたのは実存的時間であるが、これは深処の時間である。いかなる数学的計算にも順応することがない。それは永遠の現在、超時間的時間である。実存的時間の一瞬間は他の二つの時間の長年月が有する以上の意義、充実、持続を有する。それは体験された歓喜と苦悩の強さによって測定される。人間がこの実存的時間の中にひたりうるのは、創造の恍惚(エクスタシー)の瞬間と、死の瞬間においてである。キエルケゴールは、そうした瞬間の一つ一つのことを、「永遠の原子(アトム)」と呼んだ。
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本書を読んでから頭に浮かんできた、私の思考を以下に紹介して終わりにしたい。
(社会主義思想について)
ベルジャーエフが目標とした、キリスト教的世界の実現はまったく同意できないが、彼の社会主義や近代文明への批判は、的を射て痛快だ。そして、ベルジャーエフの予言通りに、社会主義は崩壊し、また最悪の状況に進んでいることが、二十世紀後半から二十一世紀にかけての歴史的事実が証明している。そして歴史的観点から考えれば、それらは早晩消滅していくことだろう。
(前衛芸術について)
私は前衛芸術が好きだ。マルセル・デュシャン、パウル・クレー、ルネ・マグリットらは、私の最も好む芸術家たちだ。しかし、ジョットーやカラバッジョも大好きだし、日本でも大人気のフェルメールや印象派も好きだ。だから、文明論や文化論という観点から、前衛芸術を「堕落した芸術」と批判することは論外だ。なによりも前衛芸術を「退廃芸術」と見下して弾圧したのは、三流画家だったアドルフ・ヒットラーだったことを想起して欲しい(また彼が崇拝したのはフェルメールだった)。
(神智学について)
また私はルドルフ・シュタイナーの神智学を支持している。特にシュタイナーの教育論は、私が未熟な学校教師によって疎外された経験があるため、より一層親近感を持っている。従って、前衛芸術同様に神智学を否定することには同意できない。しかし、神智学を宇宙原理と一体化した思考という理解は、ベルジャーエフ自身はネガティヴな意味で使ったのだろうが、私にはポジティヴな意味に理解できた。人と宇宙が一体化すること、人が宇宙の一部になることは、人類にとって理想的な姿だと思う。
(ユング心理学の影響について)
ベルジャーエフが、「人の深処には、人類全ての歴史が含まれている」という概念は、そのままユングの集合的無意識の概念に当てはまると思う。ベルジャーエフとユングとの接点は確認されていないが、同時代の人間であり、また同じユダヤ人としてフロイトの精神分析の影響も受けているはずだから、ユング的な思考(つまり、フロイト理論を進化させた当然の結果)と共通するのは、まったく不思議なことではなくむしろ当然ではないかと思う。
(時間の概念について)
時間とは何か。それについての愚考を述べたい。
現在はある。過去も確かにある。しかし、未来はイメージの中でしか存在していない。そして、現在は瞬間毎に過去になっていくのは自然だが、未来が瞬間毎に現在になっていると考えられても、それはイメージの中にあった未来がそのまま現在になっている(変化している)わけでは必ずしもないので、やはり未来の存在には疑問符が付く。未来とは、イメージでだけ存在できるものであり、現実に存在している時間ではない。
アインシュタインの相対性理論によって、第四番目の次元として時間が措定されたが、もしも宇宙が無限かつ複層した多次元の構造(マルチユニバースあるいはパラレルワールド)であり、さらに次元の異なる宇宙同士が部分的につながっている状態であれば、各宇宙の次元内にある「時間」は各宇宙の次元毎に異なっていることになる。
そしてもしそうであれば、各宇宙の持つ多次元空間の多次元時間が相互につながっている部分が、我々の認識している範囲の宇宙のどこかにあることになる(つまり、理論的には多次元宇宙相互の過去・現在・未来の時間が部分的につながっている、あるいは同居している場所がどこかにあることとなる)。その場合、ニュートン理論による時間は直線的であるという硬直した概念が消滅するばかりではなく、アインシュタイン理論による円環的な時間の概念(つまり、始まりと終わりが接触している循環的な時間であり、宇宙はビックバンに始まり、最後にブラックホールで収縮し、またビックバンを繰り返すという輪廻転生のような宇宙の時間)さえも消滅することになる。つまりこれは、「時間」という概念の否定である。我々が「時間」と称し、また感覚しているものは、宇宙の摂理の極小な部分、つまり小さなブロックの一つなのだろう。
<私がアマゾンで販売している、noteに投稿した書評や論考などをまとめたものです。キンドル及び紙バージョンで読めますので、宜しくお願いします。>
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