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長瀬智也という俳優に手向けられた花道:ドラマ『俺の家の話』

寒さのために膝が痛いものだと思い込んでいた私ですが、どうやらこの痛みの原因は寒さではないらしい。
どうにも、じんじんじんじんと、じんじんを通り越して、むしろ、みしみしみしみしと、骨の髄から響く様な、鈍い、でも時折刺すかの如き鋭い痛み。

うーん、なんだろう。

28歳、身体のあちこちにガタが来つつある私ですが、来週に控えた友人の結婚式には、あのラ・ラ・ランドをも凌ぐ、真っ黄色のパフスリーブワンピースで出席予定。我ながら年甲斐もないなあと思いつつ、これに袖を通してしまえる自分、万歳。

ただ、ただ、シワが取れない。私の肌の話じゃない。プチプラの通販品だからか、ドレスがしわくちゃなのです。
ああ、アイロンかけなくちゃ。ああ、でも、膝いてえよお。ああ、でも、ハンガーに掛かったドレスが、こっちを見てるよお。アイロンかけろと言ってるよお。
来週までに膝の痛みが治って欲しいと思っているけれど、今度はものもらいになってしまった。自分を落ち着かせようと、麦茶を飲んでみるも、なんだか奥歯も染みて来たぞ。ワアーイ ジャパニーズ ピーポー(脈絡なく厚切りジェイソン)。

ふん、でも、膝痛にもものもらいにも歯周病にも抗ってやる。
28歳、年甲斐もなく生きてやろう。アラサー万歳。

さて、人間たるもの、老いという課題からは逃れられませんが、そんな家族の話を描いたのが、TBS金曜22時放送の『俺の家の話』

※この記事から読んで下さる方、私があんまりにものんびりしているがために、こちらの放送は既に終了しております。どうか悪しからず(見たい方はParaviでどうぞ)。今は『リコカツ』放映中だね。

ブリザード寿というリングネームで活躍する現役プロレスラーの観山寿一(みやま・じゅいち)。かつては大規模プロレス団体に所属する人気レスラーで、プエルトリコチャンピオンまでなったが、ケガや年齢もあり今は小規模な団体で細々と試合に出ている状態。ある日、寿一は父親が危篤だと知らされる。父親の観山寿三郎(みやま・じゅさぶろう)は、全国に一万人以上の門弟を持つ二十七世観山流宗家にして重要無形文化財「能楽」保持者。いわゆる人間国宝である。その跡を継ぐと期待されていた寿一だが、寿三郎に反発し家出をしたのが20年以上前。以来、音信不通だった寿一が突然、帰ってきたことに家族たちは驚く。一方、奇跡的に一命を取り留めた寿三郎だが、傍らに立つ介護ヘルパーの志田さくら(しだ・さくら)を家族に紹介し、彼女と婚約して遺産もすべてさくらに譲ると宣言。実力と人気に限界を感じていた寿一はプロレスラーを引退し、実家に戻り寿三郎の介護を手伝うことに。家族とさくらを巻き込んで、介護と遺産相続を巡る激しいバトルのゴングが鳴り響く‼

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あらすじを紹介しましたが、再度「私の家の話」を。

28歳の私の両親は、現在59歳。間もなく還暦を迎え、父は定年退職を1週間後に控える身。

以前は、家族旅行なんて年に1回行くか行かないかだったのに、私が大学4年となり、姉が結婚した2014年前後から、しょっちゅう旅行に出掛ける様になった(年に3~4回ペース)。そうして、すっかり旅好き人間の仲間入り。

どうして旅行に熱を入れる様になったかと言えば、「元気でお金のある内に行っておきたい」という、老いに対する焦りからとのこと。

そうなのです。

子どもも親もどちらもが、元気に健康に闊達に行動できる期間って、本当に限られたごく一瞬なのです。

もちろん、子どもは生まれた時から元気いっぱいでエネルギーに満ちているけれど、それは決して親と同等の立場ではなく、親子関係は保護者-被保護者の関係性であり、同じ心持ちで旅を楽しめているわけではない。
親と子が同じ様に、ある風景を見て心を動かしたり、過去の思い出を懐かしんだり、そういった、同じ方向を向く者として一緒に肩を並べられる期間は、実はものすごく短い。びっくりする程にあっという間。

だから、やっと親孝行できると思った時には、親はとっくに衰えていて、孝行のあれこれを差し出すことさえ憚られる状態になっていたりする。もしかしたら、もうこの世にいないことだって、ある。

だから、親が親でいられる、子どもが子どもでいられる時間は、かくも尊いのです。

私達子どもが一番にわかり合いたいのは、紛れもなく親だ。父と、あるいは母と、どうして私は同年代じゃないのだろう。それが、この世で一番残酷なことに思えて来る。

私個人の話を挟んでしまったが、長瀬智也演じる寿一も、恐らく同じことを感じていただろう。

自分が一人立ちした頃には、哀しいことに、親は「老い」の真っ最中。認知症を患い、子どもに戻って行く父を見る子どもの心情とは、どんなに辛く切ないものがあるだろう。

でも、それは、親子が近づくきっかけを与えてもくれる。

そう。介護とは、親と子が、もう一度同じ時間をわかち合うために、それぞれにもたらされる期間なのではなかろうか。

もちろん、綺麗ごとばかりで行かないのが現実だということは、重々承知している。

親と子の立場の逆転は、切ないことであるが、同時に、喜ばしいことでもあるはず。介護ができるのもまた、一つの幸せなのかもしれない(要は、何でも捉え方次第だったりする)。

子育てには未来があるが、介護には終わりしかないこと、親離れ・子離れを経た親子が、一度ヨリを戻したかと思いきや、間もなく再びの親離れ・子離れを余儀なくされること、なんかは、どうしようもなく虚しいけれど。

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介護を通して、もう一度、家族の時間を授けられた寿一と寿三郎(西田敏行)は、20年の空白の時を埋める様に、互いに歩み寄って行く。

まあ、20年の空白という程のものでもなくて、「ただいま」と言って帰ってみれば、そんなにも長い時間が過ぎていたとは信じられない、あんたが家を出て行ったのって昨日のことじゃなかったっけ?と思ってしまえるのが家族なのだけれど。
寿一は、放蕩息子の看板を背負って立つ様なろくでもない兄貴なのだが、そんな彼をも自然と受け容れてしまう家族の愛が半端なくて、何だかじんわりと沁みるんだなあ。

寿一が家を出て再び戻って来た様に、それぞれに旅立ちや出戻りや、勘当や和解がある様に、家族とは、何度だって出逢えるもの。わだかまりがあろうが気まずさが残ろうが、それでも共に食卓を囲むことを許してしまえる。

だって、家族だから。

そうした、前時代的な価値観が通用しない程、現代は家族の多様化が進んでいるかもしれないけど、大家族でちゃぶ台を囲むことに、どんな家族も幸せを感じるはずだし、そんな光景に焦がれているはずだ。

『俺の家の話』は、紛れもなく、そうした家族の話であり、毎話必ず食卓での一家団欒、というか、おふくろの味的な食事に彩られた食卓のシーンがある(母は他界しているが)。昔のホームドラマさながらだ。

昔のホームドラマといえば、もっと若い、例えば、10代以下の学生やら20代の独立前の青年やらがメインキャストであったが、本作は子どもが既に40代・30代、親が70代。

ホームドラマにしては、貫禄があり過ぎる年齢だ。
超高齢化が進む現代日本ならではの設定だが、いい歳した大人達によって温かなホームドラマを繰り広げられるなんて、それはハチャメチャに幸せなことかもしれない。

単細胞バカタイプの寿一は、無駄に情に厚くて、無駄に暑苦しくて、「家族の面倒は家族が見るべき」という古い考えの持ち主。自らの後ろめたさには見向きもせずに、親の一大事とあれば病院へ直行・実家へ直帰したわけなのだが、そんな、正直で愚直で熱過ぎる彼だから、愛を軸に持っている彼だから、理想的なホームドラマが展開できたのよね、と。

日本中の、世界中の家族が、みーーーんな、こんな家族だったら良いのに、と願って止まない。

こんなにも多くの家族に囲まれて死ぬことができる人間なんて、果たしてどれだけいるのだろう。それが叶ったら、一体どんなに幸せだろう。

もちろん、そこに横たわる課題は山積しているかもしれないが、決して深刻にはならず、笑いも涙もごちゃ混ぜに共存していて、どこかお気楽で、なんというか、ばかみたい。まさに、「なんとかなる」を体現しているかの様な家族の在り方だ。

でも、寿一は、齢40を超えているにも関わらず、未だに「親に褒められたい」という気持ちを捨て切れない。人間国宝として、親である前に師であった父からは一度も褒められたことが無く、それに対するモヤモヤを抱えたままの寿一。

わかる、わかるよ、じゅいっちゃん。

いくら他人に褒めちぎられようが、誉れ高い称賛を受けようが、たった一人の親から認められなければ、私も自分自身を受け容れられない。ただ一言、「がんばったね」、その一言を浴びたくて、私は未だに親の顔色を窺っている節さえある。

でも、私と親とは別個の人格を持っている。そう思えば、「わたしはわたし」軸を貫けば、親がどう在ろうと関係ない。

と、理屈ではわかっているのだけどね。

嫌いになれれば、放っておければ楽なのかもしれない。でも、なんだかんだ、どうしたって、子どもは親を嫌いになれないし、いつだって親は我が子を愛しているし。そこには、めっちゃくっちゃ、愛があるんだ。いくつになろうが、愛が通っていて良いんだ。本当は、心の底から愛したいんだ。

親にとって、子どもはいつまでも子どもだし、子にとって、親はいつまでも親で在り続ける。

愛情があるが故に、互いにいくらか縛り付けてしまう、複雑にこんがらがってしまう、というのも、家族の特徴かもしれないですね。

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本作、何と言っても最終回が秀逸だった。

もしかしたら、この結末を予想していた方もいらっしゃるかもしれないが、私はこの展開を全く想像していなかった。まさかの不意打ちのボディブロー。

私達って、ドラマや映画を見る時に、ある程度は展開や結末を予想してしまえるし、実際そこを大きく外して来ないのが作り手の暗黙の了解となってしまっている。

でも、本来は、視聴者の生理に合わせる必要なんて、どこにもこれっぽっちも無いはずで。

幼馴染の2人が、あらゆる困難や障害を乗り越えた先に結婚してハッピーエンド。普通だったら、従来のドラマのお約束に則れば、ここで終わるのがセオリーだが、その直後に隕石が落ちて来て地球滅亡、というドラマだってあって良いはずで。

そんな、不意打ち的に予想外の出来事が脈絡なく訪れる、それが現実だと提示しているのが、藤子・F・不二雄の『ある日……』だ。

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私は、この作品で藤子・F・不二雄が示した、日常はいつ突然に幕切れを迎えるかわからない、というテーマ性も評価しているけど、それ以上に、彼が書き手としてこれを世に送り出した、という点に拍手を贈りたい。

そして、それは本作の宮藤官九郎にも当てはまること。

毎度のドラマのセオリーに乗っかることなく、視聴者を振るい落とす様な仕掛けを最後に用意してくれた。お茶の間で呑気にテレビを見ている視聴者を驚愕させた。

視聴者に媚びる必要はない。世間に迎合する義理はない。作り手本人が、心から納得して、楽しんで、魂を込めた作品こそ、本当に評価されるべきなのだ。

確かに一度は「まさか」の結末に顎が外れかけたが、結果的には、これ以外の結びが考えられなかった様な気もして来るから、人間の順応性を信じて、もっと大胆に挑戦して良いはず。

そして、今回のこの大団円へと向かう道筋は、長瀬智也という一人の俳優へ手向けられた花道でもあったのかもしれない。

本作を以て、表舞台からは引退し、裏方業へ回ることを発表している長瀬。彼の引退を強く意識した作品であり、クドカンから贈られた最後の大舞台的内容であった。

ドラマのお約束通りに現実は運ばない。それでも、それだから、人生とはドラマティックなのではないか。

彼はきっと、そのことを、これからの新たな舞台で、私達に見せてくれるはずだ。

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何だかとっても真面目に綴ってしまったので、本作の魅力が伝わっているか大いに不安だが、小ネタに全力を注ぎ過ぎな、クドカンの真心と良心的サービスは相変わらずなので、大いに笑って見て頂けることは間違いない(こういった、会話の妙で笑いを獲得して行く作品が、私は大好きだ)。

滑稽でしょうもない、でもそれ以上に愛らしい人間達にスポットを当て、ユーモラスに描き切る姿勢には、彼の惜しみない深い愛情が感じられる。

振り返ってみれば、毎回予想の付かない仕掛けと展開だったために、3ヶ月クールとは思えないボリューム感だった。世阿弥の哲学なんかもね、じっくり勉強してみたいなあと思ったり、プロレス観戦したいなあとも思ったり。

来週の結婚式で、黄色のワンピースを着ることは冒頭に書きましたが、その披露宴でダンスの余興と友人代表のスピーチも披露する予定の私。
そのことを母に話すと、「できるの?」と一言。
決して、「がんばってね」とも「がんばったね」とも言わないのが、うちの母である。

だが、彼女の否定的な言葉は、子どもを心配するが故に発せられるものだと、私は知っている。言ってしまえば、愛情の裏返しだ。

どうして褒めてくれないのか、そのことに悩んだ時期もあった。
でも、私もそれなりの大人になり、親の老いを感じる場面も増え、父や母の教えや価値観が間違っていると思うこともある。

それは彼らを否定したいわけではなく、自分という一人の人間を、自分とは違う親という人間を、認めて受け容れられる様になった、ということでもあり。だから、私は、両親からの愛を一身に受けて育った自分に、堂々と胸を張っていれば良いのだ。えっへん。

「私の家の話」をつらつらと綴りたくなる、そんなドラマでした。

来週の結婚式では、やっぱり年甲斐もなく楽しんでやろう。

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