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三浦春馬の遺作映画は、説得力に満ちた演技で、私を納得させてくれた。

昨年末に観た『天外者(てんがらもん)』。我らが三浦春馬の遺作映画です。

「東の渋沢栄一、西の五代友厚」と評される、商都大阪の礎を築いた実業家・五代友厚の生涯を描いた伝記作品なのだけれど、恥ずかしながら、私は五代友厚という人物を認知していなかった。これはきっと、私が東の人間だから、ハマっ子だから、ということでご勘弁頂きたい。もしかしたら授業で教わったのかもしれないが、歴史の授業って前半部分にやたらと時間を割きますよね?だから皆、卑弥呼やペリーのことはきちんと覚えているのに、信長秀吉家康のホトトギスの句は記憶しているのに、近代のことになると、とんと分からない。戦前戦中戦後のことこそ、私達はきちんと理解せねばならないというのに。なので、私の意見は全国民の総意として、文部科学省か教育委員会に「歴史科の最善なる年間授業計画」でも提出したら良いのだ(しないけど)。

しかし、私は安心した。『天外者 五代友厚-ドキュメント-』という、本作の製作過程を追ったドキュメント番組に目を通したところ、やはり五代友厚は全国的には認知度が低いらしい。故に、映画化を望んだ「五代友厚委員会」は『五代友厚』というタイトルでの公開を希望した(彼らは五代フリークなので、五代友厚を知らないヤツなんておるん?アホちゃうか。と強調(関西人への偏見))が、それではやはりインパクトが薄いからという理由で『天外者』と命名されたそうな。このタイトルの変遷については随分と揉めた模様で、作品の冒頭で「映画『五代友厚』製作委員会」のテロップがどどーんと表示されることからも窺える。

以下、本作のあらすじ。

江戸末期、ペリー来航に震撼した日本の片隅で、新しい時代の到来を敏感に察知した若き二人の青年武士が全速力で駆け抜ける―。五代才助(後の友厚)と坂本龍馬。二人はなぜか、大勢の侍に命を狙われている。日本の未来を遠くまで見据える二人の人生が、この瞬間、重なり始める。攘夷か、開国かー。五代は激しい内輪揉めには目もくれず、世界に目を向けていた。
そんな折、遊女のはると出会い「自由な夢を見たい」という想いに駆られ、誰もが夢見ることのできる国をつくるため坂本龍馬、岩崎弥太郎、伊藤博文らと志を共にするのであった―。

日本を変える男は、もっともーーーっと遠くの世界と未来とを見ていた。

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さて、私の様な凡人には哀しいことだが、哀しい現実にも目を向けなければならない。この世には「特別な人間」という人種が確実に存在する、ということに。もちろん、私達の生命の重さは皆平等であるし、どんな人間にも生まれて来た意味があるし、頑張って咲いた花はどれも綺麗だから仕方ないね、である。それは前提として置いておきながら申し上げる訳であり、語弊のない様に言うならば、「世界を変えることを使命として授かった、神に選ばれし、特別な人間」という人種が居る、と思うのだ。

そしてその一人が、五代友厚(三浦春馬)、なのである。

五代は、先見の明と人間を見抜く力を持ち、常に情熱を滾らせ、枠に嵌まらない自由な発想を発揮し、不可能さえも可能にしてしまう。彼は、確実に日本を変えた人物と言えるが、彼の様な、国を変える様な人間は、私達が目の前の問題に頭を抱えている最中にも、海のずっと向こうの異国に、それより更にもっともっと遠くの世界に、遥か彼方の未来に、いつだって目を向けていた。

井の中の蛙だろうが自惚れだろうが周囲に何と言われようが、「自分が世界を変える」と信じて疑わない、五代の澄んだ瞳が、潔くて、圧倒的で、強烈で、眩い。

五代ら、選ばれし人間達がこの国を形作って来たことを、私達は突き付けられるのである。

俺達には「何もない」がある ~青春群像劇としての一面~

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何もない時代、そこには未来への期待が溢れていた。ないからこそ、全てがあった、のかもしれない。死はすぐ近くにあり、生命の値段は格段に低い時代であったろうが、人々は、平和な現代日本よりも、よっぽど生き生きとして映るのだ。

作中では、五代友厚・坂本龍馬(三浦翔平)・岩崎弥太郎(西川貴教)・伊藤博文(森永悠希)という錚々たる4人が、すき焼き鍋を囲みながら、日本の行く末について議論を交わし、夢を膨らませ合うのだが、もしもそんな瞬間があったのだとしたら、神の巡り合わせに感謝したい。実際に彼らが一堂に会していたのかは不明らしく、脚色込みでの描写ではあるが、夢を持たせてくれるのがエンターテインメントというもの。実際、本作は伝記作品でありながらも実に分かりやすく描き切った映画なので、私の様な無学の人間でも、筋を理解し、心から楽しむことが出来た(しかし、五代友厚委員会からは「史実に忠実に」というお達しがあった模様)。

4人の功績は皆が知るところであるが、若かりし日の偉人達は若者らしく道に迷う。龍馬を失くし、悲しみに打ちひしがれてばかりの岩崎弥太郎。五代から彼に向けられた「お前にしか出来ないことがある。よーく思い出せ」の台詞が、私は忘れられない。

目の前の相手を励ましたい時、前に進んで欲しい時、私は何と声を掛けるだろう。「やりたいことがきっと見付かるよ」とか「出来ることをゆっくり探せば良いんじゃない?」とか、せいぜいそんなところだろう(何と陳腐な)。今の相手は何も持っていないかもしれないけれど、これから自己分析でもして、興味関心を探し当て、will can mustを擦り合わせて、着地点を見付けて行けば?という思考になると思うのね。

でも、五代のこの台詞は根本から違う。

新たに能力を身に付けろ、ゼロベースから探し出せ、ではなく、「お前は既に持っているだろう?」という点がミソなのだ。そう。五代友厚という人間に「世界を変える」使命が課せられていた様に、私達はそれぞれにその人だけのギフトが与えられているはずで。それを私達は生まれながらにして持っているはずで。つまり、私達は生まれながらにスペシャルなはずで。レディー・ガガの『Born this way』でもSMAPの『世界に一つだけの花』でも歌われていることを、五代は明治時代から心得ていたというわけ。さすが、時代の先を行く男。

それに、五代に言われたら、確かに何でも出来てしまいそうな気がするのだ、不思議なことに。彼の言葉には、行動には、才能には、眼差しには、とんでもなく強い力が宿り、仲間と民衆と国とを導いた。良い方向へと。

肉をつつき酒を酌み交わしながら、航海へと乗り出す帆船で陽の光を浴びながら、目をきらきらと輝かせ、がははと笑い、夢を語らう、彼らの奇跡的な邂逅が、その若さが、沁みる。

たった一人を笑顔にするために、国を変える ~ラブロマンスとしての一面~

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作品タイトルについて五代友厚委員会とひと悶着あったことは冒頭で述べたが、「天外者」という言葉について、ここで触れておきたい。

「天外者」と書いて「てんがらもん」と読む。鹿児島県の方言で 「凄まじい才能の持ち主」という意味だそう。

一緒に映画を観に行った母に「天外者って結局どういう意味なの?」と尋ねたところ、「部外者っことでしょ」と極めて適当なことをさも正解の様に答えていた我が母だが、案外これでも意味が通る気がしないでもない。

というのも、五代自身が、正に「部外者」の様な扱いを受けていたからだ。五代は、その類まれなカリスマ性と先進的な考え、そして、潔癖なまでの誠実さと生真面目さから、他者を遠ざけ、疎まれ蔑まれてしまう(これまた凡人の哀しいことに、到底敵わない人間を前にしてもなお、嫉妬心を抱いてしまうのが人間の性)。地元に帰れば、実の父や兄から「何で帰って来た!二度と帰って来るな!(怒)」と言われ、市民に協力を求めれば集会は紛糾・炎上。

そんな中で、人一倍、十倍、百倍の努力を続け、前を向き、地道に道を切り拓いて来た五代。そんな生い立ちだからこそ、弱い人間の立場に立ち、全ての者にとっての幸福な世界を求めたのではないだろうか。片隅でひっそりと暮らす外れ者の様な人間だって、誰もが自分の人生の主人公であるじゃない?と(今度はさだまさしの歌になった)。200年近く前からダイバーシティの概念を先取りしていた五代。さすが。

いつだって広い世界を見据えた五代だが、常に世界平和を目指す心や人類愛だけに従った訳でもなく、たった一人に対する愛情を支えともした。遊女はる(森川葵)への恋心、だ。

遊女であることから、はるは自身の職業も結婚相手も決められない。その苛酷な運命は、生まれながらに決していて、覆すことは困難。男に失望し、人生に絶望している。

そんな彼女が笑顔で生きられる世界を実現する為に、「誰もが夢を見られる世界を作る」べく、五代は世界中を駆け回って奔走する。

恋心とはあくまで主観的で自分本位なものかもしれないが、それをエネルギーとして世界を変えてしまうのだ。

何だか、とても、勝手ながら、嬉しく思う。ああ、良いなあ、って。愛おしいなあ、って。この世も捨てたもんじゃないなあ、って。

明日世界がどうなろうと別にどうだって良くなってしまう程、その人が好きで。ただ、ただただ、目の前のたった一人を幸せにしたい。笑顔にしたい。一秒でも長く一緒に居たい。だったら、あの子の為に、社会から変えてしまおう、あの子が心安らかに生きられる世界を用意してしまおう、という。一人が一人を想う心が原動力となって、社会を、日本を、世界を変えてのけてしまう。だからやっぱり、愛以上に大きくて尊いものはないよなあと、思ってしまう。

「夢を見たらよか。わしがそんな世界を作っちゃる」—はるにとって五代は、目の前に現れた実物のヒーローであり、夢であり、希望であり、奇跡であっただろう。そんな彼から発せられる言葉は、光そのものだっただろう。

しかし、はるは病気で息を引き取る。

歳を取って、絶望を知って、人間は変わる。五代もまた、辛い経験を重ねて光を見失ったかと思えたが、その心には灯火を燃やし続けたままだった。

はるの亡き後、妻となった豊子(蓮佛美沙子)。五代が心の穴を埋める為に彼女と一緒になったことを思うと不憫にも感じるが、彼の心に安らぎを与え、夫の進む道を信じ抜いた、妻の鑑の様な女性だ。

私達は、異性のパートナーを求める時、これまでの相手と比べての優劣を付けてしまいがちだが、一人一人に、その人だけの役割があるはずで(またもやSMAP)。はるは五代に猛烈な原動力を与えたが、それを結実させる為の支柱となったのは豊子であろう。二人の女性との縁に恵まれたことで、彼は偉業を成し遂げられたはず。

それにしても、この時代の女性は皆とことんタフだよなあ(女には、受け容れるという大きさがある)。

観客を納得させる、天外者・三浦春馬の凄み

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三浦春馬の好演あってこそ、五代の、人を動かす力・人を納得させる言葉・思わず信じさせる熱量が成立したことは言うまでもない。何というのかな、三浦春馬という肉体を介して発せられる五代の一言一言に、魂が籠っている、というか。ちっとも軽はずみでなく上滑りでもなく、切実さに溢れて、実感を伴って、私達の耳に、心に届く、というか。その本気が、十二分に伝わって来る、というか。

三浦春馬と言えば、爽やかイケメン俳優枠として人気になったタレントだけれど、これまでのキャリアを振り返ってみると、役柄の振り幅も大きく、舞台活動も精力的に行っていて、そのルックスや人気に甘んじることなく、役者として成長して行きたいという意志が強かったのだろうなあと。五代と同じく、三浦も自身のキャリアを長い目で見ていたのだろうなあと。

30代を迎え、役者としても円熟味を増していた彼。「これからこういう方向性で行きたかったんだろうな」ということを、この作品で示したところろだっただけに、本当に惜しい人を失くした。三浦主演のミュージカル『キンキーブーツ』を観に劇場へ足を運ばなかったことを、悔やんでも悔み切れない。

彼の亡き今、贔屓目も込みではあるかもしれないが、五代友厚を演じられるのは三浦春馬の他に一人も考えられない。それ程に、彼の演技は私達を納得させるものであった。そう、納得感だ、一番今回感じたことは。どんなに非現実的なキャラクターであろうと、それを納得させてくれる脚本ないし演出ないし演技であれば、私達は満足出来る。1,900円払って観て良かったと思える。五代友厚という稀代の人物の存在を、その奇跡を、説得力ある佇まいで十分に納得させてくれた三浦春馬に、心からの賛辞を。

この映画を観る時、五代友厚と三浦春馬をどうしても重ねてしまうことは避けられないはず。五代友厚が選ばれし人間であったことと同じく、三浦春馬という人間もまた、特別な人であったことを、改めて知らしめた作品と言えるだろうなあ。

五代友厚が、三浦春馬が、この同じ地球に存在したことを、私はまた勝手ながら誇らしく思う。二人は、自分が生きた時代だけではなく、更にその先の未来をも創り上げたのではなかろうか。だって、五代の築いた礎のお蔭で、私達は笑って今を生きられるし、春馬の作品を見ては、涙を流し胸をときめかせている。

消えてしまう「もの」ではなく、未来を作る仕事って、尊いなあ、と。でも、仕事って全部そうだよね、きっと。

あなた達が作った未来を、私達は生きています。あなた達の志は、今も息づいています。この感動が、天外者の二人に届きます様に。

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