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【運転免許返納】無事故で50余年、親父の運転卒業

70を過ぎた父が運転免許を返納したという報せを受けました。 
ということをfacebook、twitterに投稿すると驚くほど大きな反響を頂いたのも嬉しくて。

 ですが、返納ということは、今後は父と交替で運転をしながら出かけるということがなくなるので、 父と僕と車の思い出を書き遺しておこうと思った次第です。

 父の免許返納は、池袋で起きた、もはや殺人事件と言ってもいいほどの痛ましい事故を受けてのものではなく、 以前から考えていたそうです。

件の事故の犯人よりもまだまだ若く、車も大好きなので免許を返納に対する葛藤は幾許かあったと思います。

 それでも 「事故を起こしてからでは意味がない」 と自ら返納に出かけました。

 と同時に、冒頭の通り父と交替で運転しながらはもう二度とないのだという寂しさはありました。

 なので、形に残るように書き起こそうと思ったのです。
 一個人のなんてことない父と車の思い出ですが、もしよろしければお読み下さい。

 僕の中の最古の車の記憶。
 それは僕が3歳の誕生日を迎えた時。
 共働きだった僕は母の会社の託児所に預けられていました。

その朝、仕事で徹夜をして帰ってきた父は疲労困憊。
でも、 「少し寝たら迎えに行くから」と。

この日、誕生日のプレゼントを買いに行くという約束をしていました。 しかし、幼いながらに朝に帰ってきた父が、仮眠をして車で迎えに来てくれる可能性は低いと感じていました。

託児所でいつものように遊び、砂場でカップを使って砂のプリンを作って遊んでいると、 保育士さんがやってきて言うのです。
 「お父さんが迎えに来たよ」 と。

僕は砂で汚れた手も洗わず、信じられないような気持ちで園の入り口へ駆けて行ったのを憶えています。

数時間仮眠をして、車で迎えに来てくれた父がそこにいました。
 平日のお昼前、車に乗って行った、人もまばらなダイエーで大きなショベルカーのおもちゃを買ってもらった記憶。 これが、僕の中の最も古い車の記憶です。

 未だにその日の時系列は鮮明に憶えていて、はしゃいだ後、ショベルカーと父と昼寝をしたところで終わっています。

このダイエーは今イオンになっていますが、自分が父になり、同じく子供が3歳になる頃、 車で行く偶然がありました。

 フロアは変わっていますが、あの日、おもちゃ売り場に上がるエスカレーターを、今度は僕が子供の手を引いて再び踏みしめた時、息が詰まるような気持ちでした。

 車とフェリーで出かけた夏休み。
小学校1年の時、夏休みに車ごとフェリーに乗って両親の故郷九州へ出かけました。

フェリーの上で初めて外国人の方と話したのも懐かしい記憶。
オーストラリア人の家族で、英語を教えてもらいました。

九州に降り立ち父の実家へ向かう途中、近隣で殺人事件があったらしく、 警察の検問に遭ったこともよく憶えています。 こんなのどかな場所で殺人があったのかと怖かったのでしょう。

 祖母は、僕らが帰省すると、いつも酒屋さんに頼んで瓶の三ツ矢サイダーを冷やして待ってくれていました。

そのサイダーをのみながらテレビをつけると、逃走していた犯人が捕まったことを観て安心したことも憶えています。

三ツ矢サイダーは祖母の思い出。なので、今も三ツ矢サイダーには特別な思いがあります。

 淡路島、和歌山、福井、鳥取・・・。
海水浴や魚釣りにも何度も出かけました。 今のようにナビや地図アプリもない時代でしたから、 出発前日に地図帳を広げ、行程をメモしながら復唱して、楽しそうに計画を立てていた 父の姿もよく憶えています。

昔の人はナビもなく、地図だけで目的地にたどり着いてたんですから、本当に凄いです。

 旅のBGMは歌謡曲か演歌、夏は高校野球。おかげで昭和歌謡や演歌も数多く歌えますし、 魚釣りや野球観戦もいまだに好きです。

祖父の死に際し「ゆっくり行こう」
 高校1年の春、祖父が亡くなりました。
 最期の地、葬儀が行われる福岡へ大きなワゴンに親戚一同で乗り込み出発する際の
「急いで行っても死んだ人が生き返るわけじゃない。みんなで旅するチャンスをくれたと思って、ゆっくり行こう。俺たちが事故っては意味がない。じいちゃんが最後にくれたプレゼントと思って、みんなが集まれた旅行を楽しもう」

 意気消沈する一同を気遣い、精一杯気丈に振る舞ったのでしょう。
既に亡くなった報せを受けた後、一分一秒を争うような場面じゃないから、慌てず安全第一に。

場面に応じた判断や周囲に気を配ることも父は教えてくれました。

回り道と下道を選んでいた理由。初めて知る父の思い。
やがて僕も運転免許を取得、初めて助手席に乗ってもらったのは父でした。 往復2時間ぐらいかけて、昔山菜採りに行った山へ出かけたのを思い出します。

その後、仕事に就き、中々同じ車で出かける機会はありませんでしたが、 孫ができてからは、また一緒に出かけることも増えてきました。 そんな時、僕はあるときに気づきます。

1時間近くかけて出かけていた親戚の家、高速道路を使うと30分で行けることを。

なぜ回り道していたのかと、そのことを母に話すと、ぐうの音も出ない答えが返ってきました。
 「アホやなぁ、あんたら(僕と兄)が車好きやから、わざと下道で景色を楽しませてくれたんやんか。なるべくスピードを出さずに済む車通りの少ない道も選んでたんやろう」

父は、運転に時間をかけても僕らと安全を優先していたのかと思うと言葉を失いました。

ナビやAT車の便利さに感けている自分たちを見つめ直させられるようなやり取りでした。

昨年の夏、親戚の子が結婚式を挙げるというので、祖母の葬儀依頼、21年ぶりに両親と帰省することができました。 自分の子供も連れて帰省できるのはもしかしたら最後のチャンスかもしれない。

レンタカーを借り、小さい頃に何度も父が行き来してくれた道を今度は自分が。 父には運転させず、行く先々で好きなときにお酒も楽しんでもらえるように。 この旅ではほんの少しだけ恩返しができたと思います。

そして運転免許を返納した父。
僕が  「運転はしなくても、別に免許持ってるだけでもいいのに」と言うと、

 「免許を取ってから50年以上、物も壊さんと人も怪我させることなく運転卒業できたわ。 これから誰かを車で傷つけることもない。加害者になりうる人が減る。幼い子の命を奪うようなこともない」

 「よかった。これでいい」
と。

運転できなくなる寂しさよりも、交通事故を未然に防ぐ判断ができたことを噛みしめるように。

そんな言葉には、長い時間無事故で通してきた父の運転手としての重みのようなものを感じました。

昔は家族で運転手は父だけ。
車で出かけたらお酒我慢しなくちゃいけなかったけど、 これからはそれも気にせず飲めるように。

お酒も大好きな父、運転に際しての飲酒をよく控えられていたなと思います。これからは出かけた先の地酒やクラフトビールも我慢すること無く楽しんで欲しいと思います。

長い間、無事故であちこち連れて行ってくれた幾分かでも、今度は兄や僕で、と。

 自損も対物も対人も・・・事故を一度も起こさないままの運転卒業に心からおめでとう。              

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