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「この世の全部は主観」-ヨルシカとデカルトと、独我論-

今回は、ヨルシカの「レプリカント」という曲について少し考察してみようと思います。

1.レプリカント

記事のタイトル通りですが、『この曲デカルトっぽいなぁ...』と思ったのが執筆のきっかけです。
(レプリ「カント」なのにデカルトかよ!というありそうでギリギリなさそうなツッコミは受け付けておりません 笑)

はじめに、タイトルの「レプリカント」の意味

レプリカント(Replicant)とは、様々な能力を持った合成人間である。人工的に生成された有機体である。

まあ、人工的な様式の人間といったところでしょうか
この後紹介する歌詞からもわかる通り、本物ではなく、「ニセモノ」というニュアンスがありそうです。

2.歌詞から垣間見えるデカルト的独我論

さて、早速ですが私が特に注目する歌詞はサビ部分の


「僕らの心以外は偽物だ
言葉以外は偽物だ
この世の全部は主観なんだから
君もみんなレプリカだ」


という箇所です。

この箇所、ルネ・デカルトのかの有名なフレーズ「我思う、故に我あり。(cogito, ergo sum) 」と同じことを言っています。
ここから、この言葉の意味を簡単に説明します。(デカルトを知っている方は読み飛ばして頂いて結構です。)

結論から言うとこれは「自分以外の他の存在すべてを虚偽だと考えることはできても、そう考えている自己の存在だけは確かである。」という意味です。

この結論が出るに至った流れを説明します。
元々、デカルトは「絶対的に確実なものに辿り着きたい」という動機から、まず客体の全てを疑おうとしました。そして一応、世のあらゆるものを疑うことは出来ましたが、『私が何かを疑っている』という「私の意識」だけは確実に存在している。という結論に至りました。

そして、このような言説を「独我論」と言います。

独我論(Solipsism、ソリプシズム)とは自分の心だけが確実に存在するものだとする哲学的立場のこと。

主体が、自らの心(主観的認識)のみを頼りとするということです。
一見、行き過ぎた屁理屈のようにも聞こえますが、歌詞の「僕らの心以外は偽物だ」「この世の全部は主観なんだから」と前述の独我論がピッタリ合致します。
(まあ、人間の認識は原理的に主観的にしか認識することができないので、当たり前と言えば当たり前のことを言っているのですが..)

他曲でもニーチェやフロイトなどの人物名が綴られていることからも、ヨルシカは哲学・思想からなんらかの影響を受けている(もしくは表現手段として使っている)のかなと思っていましたが、この「レプリカント」という曲でもデカルト的思想を彷彿とさせるフレーズが出できたので考察するにあたりました。

3.何が「ニセモノ」なのか

さて、ヨルシカはこの曲で、何を「レプリカ(ニセモノ)」だと言いたかったのかが明確になってきました。
歌詞で偽物だと言われているものを列挙してみます↓
「心以外/言葉以外/神様/僕ら/あんたの価値観/思い出/愛/君」ですね。(ニセモノまみれじゃないか!笑)
独我論的な視点から見ると、↑は「客体(自分の中で、内的に発生するもの以外全て)」になります。
例えば一般に「神様」は祈る対象なので、もちろん自分の「外側」にあるので客体です。

そのため、↑の「思い出=ニセモノ」としてしまうと、自分の思い出(主観)まで否定することになるので、恐らくここで「あなたの思い出」という、修飾語を付けたほうが筋が通りそうです。(また、愛も同じことが言えます。)

また、「心は脳の信号なんだから」などはわかりやすく唯物論の立場と言えますが、これはまたの機会にでも話せたらと思います...

4.この曲で表現したかったこと


恐らくですが、独我論的にギラついていた過去を思い返して、「あんな頃もあったな、尖ってたな..」と、この「レプリカント」という創作に落とし込んでいるのではないでしょうか(個人的な見解)

「自分が、自分の主観で見ている世界しか信じられない。自分の外側にあるものなんて不確実なものだし、信じられるのは結局自分の内的な心のみ。」という価値観を歌詞に投影しているのではないかと、個人的には思いました。

生きたデカルトと言ってもいいでしょう。

(n-bunaさんが実際にそういう思想を持っているという意味ではありません。)

ヨルシカさんは他の曲も考えさせられるものが多いので、また考察してみたいなと思います。

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