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エッセイとは

昔、エッセイに関する小さな文学賞に応募したことがある。

わたしがそこに応募した理由は、エッセイに対してのフィードバックを返してくれるという他にはあまり無い公募だったからだ。
自分の作品を読んでもらい、10名ほどの審査員が評論を書いて返送してくれる。わたしの世界が他人の世界にどう投影されるのかにとても興味があったので、その好奇心からわたしは偶然見つけた小さな文学賞に応募することにしたのである。

もう何年も前のことなので詳細は覚えておらず、
エッセイに関するテーマが設定されていたのかすら記憶が定かでは無い。
わたしは本当にただわたしの世界を書いた。
テーマもメッセージ性も重要視せず、わたしが見て感じているこの世界をただただ凝縮させて文字にした。

賞を取りたいと強く願っていたわけではなく、
わたしはきっとこの自分の片割れを誰かに渡したかったのだろう。
漠然と、自分の世界をシェアする義務があると思っている。
「年配者は若者に、生きてきた知恵と智徳、人生をシェアしていく義務がある」というようなことをある小説家が仰っていて、わたしも概ね同意している。経験は引き継がれ、世界も引き継がれるのだ。

何週間後に、わたしの世界に対する簡単な評論が返送されてきた。
10名ほどの審査員なのでもちろんその感想はさまざま、
大いに評価してくれたかたも居れば辛辣なものもあったが、
わたしが気になったのは「なにを書きたいのかが伝わりませんでした」ということを書いている審査員が多かったことだ。

わたしからすると、不思議な感覚だった。
メッセージ性のあるものをエッセイと規定していいのか?
エッセイにテーマを求められるものなのか?
自分を責めたりはしなかったが、わたしとしてはその言葉に割と文学の失墜を感じ取ってしまったのである。

これはクリエイティブなもの全般に通じる話だと考える。
最近ある音楽動画で「日本人って英語の歌詞は分からないけれど洋楽も好きでしょう。感情にそのままアクセスするっていうのは音楽にとって大きな意味を占めていると思うんですよね」ということを聞いた。
その通りだと思う。
メロディーだけにメッセージ性があるから人は評価するのか?
そうではない。もっと世界のやりとりを、私たちは続けて繋がってきたのだと思う。

そんなわけでわたしはエッセイを書くということに尻込みをしてしまっている。
しかしわたしのポリシー上、やはり世界をシェアし続けなければと感じるのである。
だからきっと書くのだと思う。
今日の安寧や昨日の喪失、夕焼けの真実やあまい絶望について。

きっとわたしはわたしの世界を書き続けるのだろう。




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