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飼えない猫を飼う夢を見る。

「そんなに好きなら飼えばいいじゃん、猫」

知人は笑った。

「たしかに、一人暮らしでも飼うことはできるよね」

私は大きく頷いた。

ずぼらな人間ではあるが、「ニャー!(メシ!)」と鳴かれたら、棚からキャットフードを持ってきて、サーッとお皿に出してあげるくらいはできるだろう。「ニャー!(トイレにウンチが残ってる!)」と鳴かれたら、スコップとビニール袋を持って駆けつけるだろう。「この部屋は呼吸ができんな!笑」と父を3分で出て行かせた狭い部屋でも耐えてくれるならお世話くらい任せてくれ。私は猫を飼う夢を見る。

それでも踏み切れずにいる理由はたった1つだ。いつかやってくるだろう愛猫の死。私はどうしても一人で受け止め、乗り越えることができそうにない――。この世に生まれ落ちた日から40年独身。一人でできないことは何もない。一人カフェ、一人映画、一人焼肉、一人遊園地、一人アイススケート、一人旅……なんだってやってきたが、愛猫の死を一人で受け入れることだけはどうしても難しそうだ。

「昨年、20年飼っていた愛猫が亡くなったんだよね」

知人はゆっくりと話し始めた――。

愛猫が息を引き取ったその日、知人は大事なアポを抱えていた。お世話になっている方が知人のために紹介してくれたアポだった。ドタキャンすれば紹介者の信用にも関わる。知人は哀しみを胸にアポ先へと向かった。亡くなったのが人間の親や子なら先方に伝え、日時の再設定を相談できたに違いない。20年も一緒に暮らした愛猫だって知人にとっては家族も同然ではあるが、その死を世間はドタキャンの理由として認めてくれないのではないか。そう懸念したのだという。

「ペットは家族」は認められる時代だ。それでも「日時の再設定を相談しなかったのは自分自身が認めてあげられなかった過去があったから」と知人は続ける。今となっては何年も前のことだが、重要な会合のキーパーソンが愛猫の死を理由に当日の朝キャンセルの連絡を入れてきた。自分もペットを飼っている身でありながら「突然のキャンセルは困る……」と一瞬でも感じてしまったことを以来悔やみ続けた、と明かした。

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朝の4時から「ニャー!(とりあえずメシをくれ!)」と起こしに来て。呼んでもしっぽすら振らないくせにツナ缶を開けたらビュンと駆け寄ってきて。いざ仕事だ! と思ったらキーボードの上に乗ってきて。奮発したおもちゃより入っていた段ボール箱にむしろ喜んで。そして、そろそろ就寝とベッドに向かったら中央を陣取り寝ている。……ささやかだけれど愛おしい日常が明日からは訪れない。それほどつらいことはないだろう。

しかし、そのときまず向き合わないといけないのは、哀しみを負う心に寄り添うこともできない社会の未成熟なのであるーー。

私は一度だけ大きなため息をついてから目を閉じた。

そしてまた、猫を飼う夢を見るのだろう。

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