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自意識に関して

常々思うことがあるのです
ささいな出来事なのでした。

その人は何かとあるハイブランドが好きで、誇らしげに靴などの自慢をする人でした。

彼はそのハイブランドの服を2日連続着ていて、「自分はいつもこのブランドばかり着てる人って思われないかな?」と杞憂していたのですが(僕には往々にしてのそのブランドによる自尊心への渇望の雰囲気も感じ取れましたが)。

まさにリースマンの言うところの
他人指向型そのままだなと心の中で思いつつ
僕はこう言いました

「他人は予想以上に自分のことなんか見てないものだ、だから何着ていようが何も思わない」

すなわち、限りなく彼の自尊心を満たす言葉を発さずに、真実を伝えたのです。

真実とは言い過ぎでしょうか。

しかし、自分自身はこんな経験があります。
学生時代のことでした、ある出来事があり
学校で変な噂がたって、明日行ったら居辛いのだろうなと思っていました。
前日の夜に気が滅入り、明日の学校に行きたくないが、渋々行ったとき。
なんということでしょう。
いつも通りの朝礼。
いつも通りの友達との過ごし方。
何もかもがいつも通りに進んでました。

結局のところ、人を叩くにも労力がいるのです。
そして、大体のことは流され。基本気にしないのです。

ところで、マザーテレサはこう言いました
「愛の反対は憎しみではなく無関心です」
まさに至言です。
社会なんて、蟻の巣のようなものです。
隣の蟻が人に踏まれて死んでいても働き蟻は気にせずせっせと働き続けます。
人間社会においても、せわしない世の中は生きるのに必死で、他人に愛を注ぐことなど出来ないため、基本無関心です。

どうして、最近の多くの人はそんなに自意識過剰になれるのでしょうか。

自分が愛されているという驕りでしょうか?

それとも、自意識・承認欲求が高いというのは精神が充実してない反動でしょうか?

ぼくは、両方だと思います。

「みんなに嫌われたらどうしよう」
このようなセリフは良く聞きますが
その【みんな】って誰ですか?不特定多数のモヤモヤとした集団を意識していたらそれは前者です。
ほとんどの人があなたの事を気にもかけてません。
驕りというのは言い過ぎでしょうが…
驕りと考えるほうが気は楽になります。

後者に関しては
世の中の人は自分に無関心であることを受け容れるのは非常に最初は酷なことです。
皆は少なくとも精神的に未熟な子供のときは、自己中心的に世界が回ってると考えたいものです。
しかし、どうでしょうか、もし自分が居なくなっても世界は同じような日常を繰り返すでしょう。
この事実を認める事が、まさに精神の子供からの逸脱です。

では、居なくなって悲しむ人は誰?
まさに、無関心の反対の存在、愛してくれた人です。

だからこそ、私たちが意識して生きていくべきなのは、自分の愛する人に対してだけで良いじゃないのでしょうか。

また、他人の注目を浴びるために無茶な浪費をしたり、美しい服装をしたりするのではなく、自分の好きなものを着て、自分だけが満足すれば十分です。

愛しているから、些細なことにも気がついて褒めたり
愛しているから、好意を伝えたり
愛しているから、憎んだり
愛しているから、怒ったり

ぼくは、それで十分だと思います。

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