様々な考え方があり、取り組み方がありますが、私見を述べれば、いかにエモを写真に入れず、物語性を排除し、固有名詞を無くし、言葉の音の響きを環境音と同価値にし、鳥の歩み、囀り、嘴の動きを目に映る森羅万象にフィードバックして、認識記号の先にある詩情の情を感じ入りつつ、情を捨てた俗世の世界に写る水面のもう一つの世界を捉えることが出来るか、ここで言うエモとは、肉体性を伴う叙情性のことで、一度自身の肉体性を排除することで、逆説的に肉体性は意味を持ち始めます
目が冴えて眠れない夜。今夜。
頭がゴチャゴチャして、目が冴える時は、気ままに文章を書いて、言葉を吐き出してスッキリすると、眠れることが多いです。
今日、散歩で撮影した写真。Instagramで、こいつ分かっていらっしゃる、という方が居て、この方からのライク、だいたいドンピシャの目利き。とりあえず今日撮影した46枚をInstagramにアップして、ほとんど見返していなかったのですが、この木の枝に引っ掛かった凧の写真、水色のヒモが素晴らしいことに気付きました。
創作で自己満足する為には「私」を思想しないといけない、と言うのが私の考えですが、これは一昼夜で出来ることではなく、時に目が冴えて寝れなくなります。特に写真は考えることが膨大で、果てのない旅です。
今回は、ザックリと、私の写真論、及びに、散歩写真の撮り方を書いていきます。
様々な考え方があり、取り組み方がありますが、私見を述べれば、いかにエモを写真に入れず、物語性を排除し、固有名詞を無くし、言葉の音の響きを環境音と同価値にし、鳥の歩み、囀り、嘴の動きを目に映る森羅万象にフィードバックして、認識記号の先にある詩情の情を感じ入りつつ、情を捨てた俗世の世界に写る水面のもう一つの世界を捉えることが出来るか、ここで言うエモとは、肉体性を伴う叙情性のことで、一度自身の肉体性を排除することで、逆説的に肉体性は意味を持ち始めます。
私は、iPhoneでスナップフォトを撮る時に、あまり画面を見なくなり、今日に至っては、一発撮りにしました。細部が分からないからです。
私の目が見えている。それを写真で再現すればいい。そして、私の目はカメラレンズを再現しているので、そのまま撮れば、だいたい撮れているでしょう、私は撮影の時に、まず構図を悩みませんし、アングルは即決です。
パッと目に入ってくる、この鮮やかさ、新鮮さは、手を凝らそうとするほどに劣化していきます。私は既にまな板の上の魚なのです。この魚は、すぐに捌くに限る。もしくは捌かずに泳がせておくのが良いです(未撮影)。
私が自身の撮影を意識的に言語化するとこんな感じになります。多くの人にとってはチンプンカンプンでしょう。ちなみに、あの凧と木の枝と空の写真を撮る直前、私はシャガールの絵を想起していました。シャガールの青。
例えば、カメラを斜めに構えてスナップショットを撮るとします。そうすると、撮影者の肉体性が露骨に写真に顕れます。私は、そういうのを意図的に出さないように意識しています。
ここで言う肉体性とは、写真内の映像動きであり、速度です。もう一つは主観性ですが、写真で主観性を意図的に出したい人は、人間を含めて、自分がお好きなのでしょう。
私からすれば、写真に意図的な動きを入れないと絵面が保たないのであれば、それは写真自体が弱いのです。つまり、撮らなくてもいい写真を何とかして見れる写真にしようという足掻きであり、そんなことをしなくても、近所の公園を散歩するだけで、いい写真は撮れます。
まぁ、何をいい写真とするか、という話になるのですが、もののあわれを語ろうとするならば、否定で埋め尽くさなければ語れません。いい写真とはこういう写真だ、と言えるようになるまでには、膨大な批判をする必要があって、その批判には当然、自身も含まれます。
自己を思想する、とは、自己批判を伴い、自己否定の果てに、それらしい何かが残るようなものです。だから、心を拗らせてしまうのです。
私が写真についてあまり書かなくなったのは、批判が噴き出すからです。人様の写真について、あれこれと批判をしても益はないな、と思って、言わぬが花、プラモデルを始めてからは、面倒臭いことをあまり考える必要がなかったので、まぁいいや、ぐらいの感覚だったのですが、私の中でプラモデルがクリエイティブアートの仲間入りをしたようで、意図せずに自己批判が始まって、拗らせてきたので、ならば考えるしかないじゃない、と腰を上げたのはいいのですが、これは、写真とプラモデル作りのフィードバックを繰り返すことから、私にとってプラモデル作りとは何かを探っていく行為であり、逆説的には、私の模型作りを写真撮影にフィードバックさせる行為でもあります。
実際、プラモデル作りを始めてから、私の物を見る目が変化してきた感覚があって、写真に現れて来ました。
先日撮影した千羽鶴。古戦場跡にて。
この写真には、意識化では3つ程度の意味を持たせていますが、色鮮やかな折り紙達が織り成す造形の美しさ。
近日撮影したボール。これは単純に、ボールの造形に惹かれて撮りました。ボールの造形に惹かれるというのが、模型作りの影響でしょう。わざわざこのボールを撮ってどうするんだ、と思うのですが、「いいじゃない、素敵じゃない」そうモデラーの私が囁くのです。
私のゴーストが囁くのならば仕方がありませんので、撮りました。
世間には、自分、及びに自己表現、或いは、自分を思考することを、良いことだと捉えている人もいるようで、私は、それほど良いものだとは思っていません。だって、自己批判だらけだもの。ずっと考えていて、辛くても寝れないし、果てがないのだもの。
鬱になりますよ。私の場合、自分の中にある鬱気質のカウンターとしての機能があるようで、逆に鎮静化させてくれているかも知れませんが、夜眠れずに、こんなどうでもいい文章をYouTubeでアニソンやVtuberのカバーソングを流しながら、垂れ流し、noteにおける関係性がモデラーから変化し、フォトグラファーとタッグを組むでもなく、変な思想界隈に足を突っ込む類の行為をしているわけです。
まぁ、多分、考え続けるのは至難だろう、と思います。考え続けて、挙句、チンプンカンプンなヘーゲルの「精神現象学」を遅々と読んで、これぐらいが今の私にはちょうどいいな、と思っているのですから。
どうして写真について考えていて、ヘーゲルの「精神現象学」なんて読まないといけないのか。だって、写真は精神現象だからで、この世界が自身の認識によって出来ているのならば、この世界こそ精神現象だからでしょう。
これぐらいには、私と世界(主観と客観)、私と写真表現というのは入り組んでいます。
どうやらnoteにはモデラーよりもフォトグラファーが多いようで、オススメに出てくる記事、プラモデル関連よりも写真やカメラ関連が多いです。
それで、ついつい写真関連のオススメ記事を読んで、的外れだな、とか、時にイラッとして、余計なことを考えてしまいます。
先日、つい批判的な記事を書いてアップしてしまって、翌朝、削除したのですが、あれは、その方達の写真作品が表層的で、「自己」に到達出来ていないのだろうな、の一言で済ませることが出来ます。表層的、というのは、言ってしまえば、この世に留まっている、この世とは、人間世界的環境であり、日本の浮世です。
辛辣に言えば、無意識のうちに写真が媚びているのが原因なのだろう、と私は捉えています。媚びるのが悪いとは思いませんが、見る人が見たら、受け手に媚びている写真だと分かります。媚びているとは「他者からの理解や評価を求めている」です。今風に言えば、承認欲求であり「何者かになりたい自分」でしょう。
そして、この承認欲求や「何者かになりたい自分」と私は関係がないのです。
写真以外でもそうですが、自分の思考性には自分と他者、ここで言う自分と他者には様々な層があります。この層に関しては、吉本隆明の共同幻想論が詳しいと思われますが、縦軸があり、そして、横軸もあります。縦軸は上から国家、家族、友人や恋人、自己になり、横軸は例えばSNSでの関係性(付き合いやライクなどの反応)だとして、ペルソナがあり、これらが深層心理で入り組んでいます。
従って、写真にも、撮り手の様々な自己や他者が意識的に介在し、反映されています。写真はどうしても被写体が一面的に写りがちです。それが見るということで、写真を豊かにしているのは、主に見る側である撮影者の精神です。ロマンチックに言い直せば、撮影者と被写体との共同(共鳴)時間が写真を豊かにします。
分かりやすく言えば、写真を撮る時、或いは、写真に取り組む姿勢に、他者、この場合の他者は受け手の評価、つまり、SNSにおけるライク数が頭を過ぎるかどうか、詳しく書けば、世間体を気にして撮っているか、という姿勢が写真に写ります。
ここで、もう一度、「いい写真とは何か」という問いに撮り手の思考が戻ります。「SNSのライクが多い写真がいい写真なのか」と。必ずしもそうではない、ではどうするか、他人を納得させて(ライク数)、自分も納得する写真(自己表現・自己満足)を撮ればいいじゃないのか、という折衷案で撮られた写真の何と多いことでしょうか。
私の場合、音楽、アンビエントミュージックとダンスミュージックの両軸で制作をしていた時期が長くありました。ウケの悪い、しかし自分にしっくりくるアンビエントミュージックだけではなく、少しはウケが良いであろうダンスミュージックも並行して制作し、時に折衷させて1曲にしていました。こういう時期を経て、現在の私は、ウケが悪くても自分が聴きたいアンビエントミュージックを主に制作をするようになりました。
これはあくまで私の場合なので、正誤を述べる気はなく、私は創作においてそのように選択をした、つまり、創作において他者との関係性を絶っているのです。従って、私の創作は、人間社会、及びに、この世をそのまま表現しないようにしています。
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