私は昔、いじめられていました。
そんなのいじめのうちに入らないっしょ。なんて言う人もいるかもしれない。
今のそれと比べたら単純で、鼻で笑う人もいるかもしれない。
手を出されたとかでもなければ、物を取られたり隠されたりしたこともないし、ネットなんてまだまだ遠い時代だったおかげでSNSで悪口をなんてこともなかった。
ただ仲間はずれにされて、ただ「あの子と話すの禁止ね」の「あの子」になって、ただ汚いもの扱いされただけ。
それだけのこと。
なんだよっそれだけかいっ。と、思うだろうか。
思ったとしたら、その人にとって私のこの文章は有料の粗大ゴミでもなければ月1の資源ごみでもないし、週2の可燃ごみでもなければ週1の不燃ごみでもない。ショッピングモールの雑な分別ごみでもなければ公園の無秩序なごみでもない。
歩きながら噛んだ爪の、千切れて吐き捨てられた先っちょみたいなものだろう。ゴミ箱に入ることすらないんだろう。
だから読むのは時間の無駄かもしれない。
でも私は当時とてもつらかった。それを思い出したから書いてみる。
漫画やドラマなんかでよく目にするのは、転校生がクラスに馴染めなくていじめられるパターン。
しかし私はなんとも稀なことに、転校生にいじめられていた。
そんなこともあるらしい。
小学4年生になるタイミングで転校してきた彼女は色が白くてとても可愛かった。髪がサラサラと長くて大人っぽかった。流行をよく知っていておしゃれだった。
それでも初めはやはり緊張していて、不安そうで、ドギマギしていた。
私と数人の友達は彼女と同じ団地ということもあり、声をかけて仲良くなった。
休み時間は集まって話したり、みんなで一緒に帰ったり。
段々と新しい環境に慣れてきた彼女は、話す声も大きくなって、堂々と歩くようになって、男子とも女子ともみんなと仲良くなって、クラスの真ん中に存在するようになった。
その頃から、どちらかというと私が一緒に遊んでもらっているという感覚になった。なんとなくそんな気がした。
私は子どもっぽくておしゃれにも興味がなく、髪も結びあいっこなんてできないショートヘアで、家が特別お金持ちというわけでもなく、自慢できることや胸を張れることは何もなかった。
だからきっと、全てを持っている彼女に私が遊んでもらっているという感覚を持つのは不自然なことではなかったのだろう。
彼女の大きくて綺麗な家に遊びに行った時、みんなで2段ベッドに上がって遊ぶことになった。
ひとりずつハシゴを上がり、最後に私が上がった時。
「ユカはちょっと足の裏とか汚そうだからなぁー」
その時はみんな冗談っぽく笑っていて、私もキツめの冗談なんだろうと「なんでよぉー」と笑って終わった。
今思えば、その頃から少しずつ始まったんだと思う。だから、何かがきっかけで急に始まったとかではないんだと思う。いわゆるイジり。それが段々と強くなっていったんだと思う。
私も鈍感で、冗談と本気の境目がよくわからず、最初はヘラヘラ笑っているだけだった。
「ユカって毎日シャンプーしてる?してないよね?」
「ユカ、みんなでフケのチェックしてあげるよ」
「ユカ、手のひら擦ったら手垢いっぱい出てくるでしょ?やってみて」
気が付くと、私は"汚いキャラ"になっていた。
もちろん実際に汚かったわけではない。臭かったわけでもない。
ちゃんと毎日お風呂に入っていたし、服だってちゃんと毎日お母さんが洗濯してくれていた。上履きだって毎週持って帰ってタワシで洗っていたし、運動靴だって穴が空いたら新しいのを買ってもらっていた。体操服だってちゃんと毎回持って帰っていたし、給食袋だって毎週洗濯していた。ランドセルもおじいちゃんおばあちゃんに買ってもらったやつを綺麗に使っていたし、筆箱だって鉛筆だって消しゴムだって可愛いやつをお母さんに買ってもらっていた。
自慢できるほど大きな家でキラキラした生活が出来ていたわけではないけれど、みんなと違うところや、みんなより何かが足りていないことなんて何もなかった。みんなと同じような生活をして、みんなと同じように学校に行っていただけ。
だからなぜ私がそんなキャラになっているのか理解できなかった。
それは20年以上経った今でもわからないまま。
おそらく理由なんてない。たまたま私だっただけなんだろう。
カエルは熱湯に入れられると驚いて逃げ出すけれど、常温の水に入れて徐々に温度を上げていくと逃げるタイミングを失い死んでしまう。
私はカエルのようなものだったのかもしれない。
白が黒に変わってくれればわかりやすかった。でも、グラデーションのようにその集団の中で私の立ち位置が変わっていった。
そんなはずない。
どこかでそう思っていたのもあるのかもしれない。だからずっとこれは遊びなんだと思って笑っていたのかもしれない。
それ、嫌だからやめて。
そんな事は言えない。彼女が怖いからじゃない。そんな事を言って空気が壊れるのが怖かった。私がそれを言うことで、冗談であるはずのことが冗談じゃなくなる気がした。私が笑えばそれは冗談になる。みんな楽しそうに笑ってる。だからこれは楽しい遊び。そう思った。
ずっとヘラヘラしているのが物足りなくなったのか、私はただ汚いだけのキャラではなく、徐々に私がみんなよりあらゆる面で劣っているキャラになっていった。
字が綺麗じゃなかったり、足が遅かったり、ピアノが弾けなかったり、男の子にモテなかったり。
笑われたり、馬鹿にされたり、話に入れてもらえなかったり。
誰にも相談できなかったわけじゃない。昔からお母さんとはよく話をしていて、その時も「今日〇〇ちゃんがこんな事言ってきて、ムカついたんよなぁー」と、愚痴のように話していた。
悲しい顔はしなかった。強気にプンプン怒って、そんなの気にしないけどとにかくムカついた。相手になんかしてないけどね。そんな日常の些細なひとコマとして話した。
だからお母さんも、そんなやつ相手にせんかったらええ。と、プンプン怒ってスルッと聞いてくれた。
私もそれでよかった。その程度のことだと思おうとした。
ただ"汚いキャラ"のことは絶対に言えなかった。言いたくなかった。
だって私は汚くなかった。お母さんはちゃんと私を綺麗に生活させてくれているのに、汚いもののように扱われてるなんて知られたくなかった。自分が何か言われることよりも、それが一番つらいような気がした。
その頃だった。
「あの子と話すの禁止ね」
その時の"あの子"は私じゃなかった。私たちの集団とは関係無い子だった。
彼女はいつものように笑って言っていた。だからいつもの冗談だと思った。だって、そんな事をする理由なんて無かったから。
私はいつものようにその"冗談"を笑って受け流した。
"冗談"だったから、私はその"あの子"と普通に話をしていた。
気が付くと"あの子"は私になっていた。
前の"あの子"は彼女の集団の中で笑っていた。
段々と私は笑えなくなっていった。
でも、それが嫌だと誰かに言うことはできなかった。当時から自分の気持ちを言葉にするのが苦手で、どう伝えたらいいのかわからなかった。
ある日の放課後、家に帰って宿題を済ませた後、進研ゼミの問題を解き、お母さんに丸つけをお願いした。
解いたページに手紙を挟んだ。
どこまで書いたのかは覚えていない。
もう学校に行きたくないです。と、書いたのは覚えている。
泣き虫のお母さんはその時泣かなかった。大きな声も出さなかった。すごく冷静だった。でも、確実に怒っている気配はあった。
夕方、お父さんが帰って来て、お母さんがその話をしていた。私は恥ずかしいような悲しいような、その場にいたくなくて、ずっと部屋に籠っていた。
光景は見ていない。でも、お父さんもきっと冷静だった。そしてすぐに彼女の家に電話をかけていた。リビングから聞こえてくるその声も冷静だった。
お父さんのその行動が、専門家や外の人から見て正しかったのかどうかはわからない。結局、その後も何も変わらなかった。でも、私はお父さんとお母さんの行動がすごく嬉しかった。
幸い、クラス全員から"あの子"扱いされていたなんてことはなくて、クラスの中のそのまた小さな集団の中での出来事だった。
だから私がひとりぼっちになることはなかった。
私は彼女の居るグループから少し離れた場所にいる子と話すようにした。その子と一緒に帰るようにした。避難所に駆け込むような気持ちだった。その子はすごく優しかった。
どんな風にそうしていったのかは覚えていない。でも、結構自然に入れたと思う。
私はその子に全てを話した。どうしてほしいとかじゃなった。ただ、聞いてほしかった。
その子はちゃんと聞いてくれた。普段は教室で大きな声を出すような子ではなかった。どちらかというと地味な方だったと思う。でも、そんなこと言うなんてひどい!と、プンプンしてくれた。私はそれだけですごく嬉しかった。
遠くから睨まれていることには気づかないふりをしながら、平穏な生活を過ごしていたある帰り道、彼女の集団が私の後ろから迫ってきた。
場所は今でもはっきりと覚えている。上り坂の途中。もうすぐ坂が終わるあたり。
私を追い抜く瞬間、彼女はギリギリ私にも聞こえる声で仲間たちに言った。
「10秒以内に離れないとウイルスがうつるよ」
私はそれまで沢山いろんなことを言われた。でも、なぜかその幼稚な言葉が一番許せなかった。
私の気持ちを理解してくれる人がいると知って、強気になっていたというのもあるのかもしれない。
次の日、担任の先生に提出する日記にこのことを書いた。
『こんなこと言われて、もう学校に行きたくないなぁー(笑)』
これも詳細までは覚えていないけれど、最後の強がりで少し冗談ぽく書いたのは覚えている。
先生から返ってきたコメントはシンプルで、忘れられない。
『それは良くないことだよ。一度話をしましょう』
次の日の帰りの会が終わり、さようならを言う前、先生は当事者だけでなく、同じ団地に住んでいる子全員に残るよう告げた。
その真意はわからない。私の伝え方の問題だったのか、先生の考えがあったのか。
何も知らない子も何人か居て、先生の話にびっくりしていた。
その時、どこまでどういう話し合いがあったのかは忘れてしまった。
先生が椅子に座って、取り囲むようにみんなが円になって立っていた光景は覚えている。
何をもって話し合いが終了して、誰がどう言ったかなんてことも忘れてしまった。
彼女がごめんなさいとは言っていないことは覚えている。
だからハッキリと彼女が悪者にはなっていない。だからハッキリと私がつらい思いをした側ということにはなっていない。
捻くれた考え方なのかもしれない。でも、そう思ってしまう。
次の日、登校すると、彼女が後ろから声をかけてきた。
「ユカ。おはよ!はい、コレ!」
渡されたのはノートだった。
何かのキャラクターのノートだった気はする。何のキャラクターだったかは思い出せない。
『いろいろあったけど、また仲良くしようね!このノートは交換日記だよ!』
私は"いろいろあった"彼女と、また"遊んでもらえる"存在になった。
その交換日記も数回のやり取りで自然消滅し、すぐに5年生になって彼女とはクラスがバラバラになった。
私も新しいクラスで新しい友達を作り、新しい出会いからブラスバンド部に入り、ブラスバンド部でまた新たな友達もできた。
彼女は違うクラスの中心グループで、いつも男子や女子と大きな声で笑い、堂々と廊下を歩き、楽しそうに学校生活を送っていた。
その後のことは何も知らない。中学まで同じだったけれど、なぜあの頃一緒に遊んでいたのか不思議に思うほど違うルートを歩いていた。
目立つ彼女を見かけることはよくあった。でもきっと彼女は私なんか目に入っていないだろう。
成人式で会った時には
「えー!ユカ、綺麗になったじゃーん!」
と、私は彼女に"褒めてもらえた"。
私の忘れられない4年生のあの頃は、きっと彼女にとってちょっとしたトラブルのひとつで、自然に彼女の記憶の中から消えてしまっているのだと思う。
先日、避難所のような存在だった子と久々に会った。
その子とだけはずっと定期的に連絡をとっている。
マスク会食を心がけながらランチを済ませた後、何しよっか。という話になった。
「小学校が近いから、ちょっと外から見てみる?」
そんな提案から、小学校時代の話になった。
「4年生の時はいろいろあったよね」
今となってはもう昔のことで、ポップに"いろいろあったよね"と言えるようになった。
「あの頃、ユカから言われた言葉でずーっと忘れられないのがあるんよ」
友達が突然泣きそうな顔で言い出した。
「そんなつもりはなかったんだけど、〇〇ちゃん(彼女)とちょっと話したり遊んだりしたことがあって、その時ユカに『あなたは、私じゃなくて〇〇ちゃんを選んだんだね』って言われたんだよね」
私はそのことを全く覚えていなかった。当時の私は心が狭く狭くなってしまっていたのか、私を助けてくれた友達に、まるであの頃の彼女と同じような事を言ってしまっていたらしい。
「本当にそんなつもりなかったんだけど、それがずっと忘れられなくて…本当にごめんね」
友達は何度も泣きそうな顔で謝っていた。
何も覚えてなかった私も泣きそうになりながら、こちらこそごめんねと何度も謝った。
忙しい休日のランチタイムのカフェで、30を過ぎた大人が何度も謝り合うというのはなんとも異様な光景だったのではなかろうか。
あの時、彼女からは聞けなかった"ごめんなさい"
もし聞けていたとしても、きっとこのごめんなさいの方が暖かいだろう。
きっとこのごめんなさいの方が本物だろう。
いろいろあったあの頃。
私はあの頃のことを"いじめられていた"と表現したことがない。
いじめの定義がよくわからない。
そんなのいじめのうちに入らないよと言われるかもしれない。
ただの悪ふざけ。子どもの悪戯。子どもの喧嘩。
なのかもしれない。
でも今回のこの文章で"いじめられていた"と表現してみることにした。
そんなことで、どこかの誰かの何かになるとは思わない。
ただ、そうすることで、あの頃必死にヘラヘラ笑っていた私の、冷たくて重い鎧を外してあげられるような気がした。
そうすることで、あの頃必死にそんなはずないと涙をこらえていた私に、つらかったねと言ってあげられるような気がした。
なんて、そんなのはもうあの頃の私には届かないけれど。
今日の一曲:カッターナイフ/LOST IN TIME
今日もすきだぞー。
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