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#小説
【掌編小説】晩秋のサクラ
こたつに足を入れるとき、一度中を確認する癖が抜けない。冬になると飼っていた猫がこたつの中で、端から端まで体を伸ばして眠っていることが多かったからだ。猫がこたつで丸くなっていることなんてほとんどなくて、大体どこから足を入れても「ここはわたしの寝床だ」というように噛みつかれた。だから、いつも細心の注意を払って、彼女の邪魔にならないように暖を取らなければならなかった。
猫は今年の春に死んだから、もう
【掌編小説】夜を重ねて
足の爪を切っている。
親指から順番に、爪切り鋏を差し込んでいく。ぱちんと、さっきまでわたしだった部分が切り落とされる。わたしは爪切りがあまり得意ではない。いつも切りすぎてしまって、小指から血が滲むことも多かった。
「ポメラニアンが飼いたい」
隣でテレビを見ていた彼が、ぽつりと呟いた。
わたしは手を止めて顔を上げる。最近買い換えたばかりのテレビの画面には、転がるように走り回るポメラニアンの映
【掌編小説】金魚の夢
毎夜、浅い眠りを繰り返す。
深い眠りには滅多に就くことができないから、よく、夢を見た。いつも同じ夢だ。
わたしは、深い水槽の底にいて、息のできない苦しさに喘ぎながらずっと、分厚いガラスの向こうの部屋を見ている。わたしの部屋だ。ベッドの上には、膝を抱えてこちらを睨む、わたし自身がいる。眠れないのだろう。疲れ切った表情は、わたしが一番よく知っている。
わたしは、どうにかこの深い水槽から出ようと
【掌編小説】夢のあと
プラットホームに供えられた花が枯れている。終電の行き過ぎた地元の駅。プラットフォームはおろか駅自体にわたし以外の誰もいない。わたしはしおれた花束を拾い上げ、新しいものを同じ場所に置く。
十月の夜の空気は冷たく、けれど刺すような寒さはまだ遠い。初秋のやわらかさを失い、冬の鋭さを持たぬ曖昧な寒さはただ「足りない」という言葉がよく似合った。
この駅で友人が死んだ。この夏のことだ。
いつもは閑散
【掌編小説】夜明け前
真夜中に目が覚めて、部屋の片付けをしようと思った。
目についたのは本棚で、一番下の段にある手帳をすべて出して重ねる。ここ十年間くらいの手帳を、なぜかずっと大切に保管していた。でもこれはもう要らないものだと思い至ったのだ。
ページを開いてみれば、なんと言うことはなかった。何時にどこで待ち合わせだとか、この日はあのバンドのライブに行くだとか、殴り書きのように予定だけが書き込まれていて、そこに感傷
【掌編小説】ヘスペラス
休みの日の夕方、ひとりで家にいると何だか息が詰まるようで、わたしは玄関の鍵を開けた。梅雨入りしたというのに綺麗に晴れて、太陽が姿を消し去っても空は昼間の青さをとどめている。
わたしの住む借家の道路を挟んだ向かい側には古い社宅のアパートがある。そこの公園をわたしは気に入っていた。日が沈んだ後の公園にはもう子どもの姿はない。ただ、カメを数匹連れた巻き毛の男の子がベンチでギターを弾いている。
もじ
【掌編小説】こどくの飼い方
こどくを飼うことになった。
こどくは暗くて寒い場所を好むらしいので、わたしは冷蔵庫をこどくの住処に選んだ。食事はいつも冷凍食品か外食で済ませてしまうから、部屋の冷蔵庫には時々飲むビールくらいしか入っていない。手のひらにのるサイズのこどくは冷蔵庫の隅でじっとしている。
えさには甘いものを、と聞いて、わたしは百円のプチシュークリームを買ってきてはこどくにやった。けれどこどくはうつろな目でそれを眺
【掌編小説】天井で溺れるナポレオンフィッシュ
天井ではあなたが溺れている。
ソファに沈み込んだまま六畳の部屋から出なくなったわたしに餌を与えるようにあなたは温かなスープと形の悪いおにぎりを差し出して笑う。遮光カーテンを引いたままの部屋に、それでも夕暮れの鋭い西日容赦なく差し込んだ。ああ、今日がまた終わる。ずっと同じ今日だ。
わたしから見えるもの。
洗濯物が散乱した部屋。
つかないテレビ。
テーブルの上の枯れたアイビー。
優しい
【掌編小説】アネクメーネ
「毎日いるのね」
「君もね」
「ええ」
「サイレンを聞きに?」
僕の応えに、そうよ、と笑って彼女は視線を目前の地球に戻した。
ステーションの大窓からは、手を伸ばせば届きそうなほど近くに青い地球の姿が見える。このステーションから地球まで、約二十五万キロメートル。肉眼でも雲の流れを追うことができるし、晴れ間からは大陸の姿も窺える。
しかし、決して届かない距離だ。
人類が地球を離れて七十余年。地