【掌編小説】ヘスペラス

 休みの日の夕方、ひとりで家にいると何だか息が詰まるようで、わたしは玄関の鍵を開けた。梅雨入りしたというのに綺麗に晴れて、太陽が姿を消し去っても空は昼間の青さをとどめている。
 わたしの住む借家の道路を挟んだ向かい側には古い社宅のアパートがある。そこの公園をわたしは気に入っていた。日が沈んだ後の公園にはもう子どもの姿はない。ただ、カメを数匹連れた巻き毛の男の子がベンチでギターを弾いている。
 もじゃもじゃ頭とカメの組み合わせは、わたしにミヒャエル・エンデのモモを思い起こさせる。昼と夜の曖昧なあわいで、公園に流れる時間は止まっているようだった。錆び付いた古いブランコと小さなシーソーは遙か遠い昔に絶滅してしまった動物の化石のように、ひっそりと息を潜めている。
 曲が終わったところで「やあ」と声をかけると彼は眩しそうにわたしを見上げた。
「あれ、何で君がこんなところにいるの」
 彼は夢でも見ているような口調でわたしに尋ねた。「今日は休みだからだよ」と、わたしは足もとをうろうろするカメに視線を投げながら答える。
「死人なのに?」
「地獄暮らしの死人にだって休みくらいあるよ」
 わたしの言葉に、知らなかった、と彼は笑った。
「ギターを聴きに来たよ」
 と、わたしは言う。そっかあと彼は笑って、ギターを持ち直した。
 生きていた頃はよく、彼がいるバンドのライブに出かけた。CDも何枚も買ったし、「いつか何か一緒にやりたいね」と話したりもしていた。わたしは小説家志望で、大体しかめっ面でパソコンに向き合うのが日常だった。いろいろあってうっかり自殺してしまってからは、自分がどんなものを書いていたのかも思い出せない。
 彼のギターが好きだった。
 ステージ上で眩しいライトを浴びて髪を振り乱しながらギターを弾く彼の懸命な姿が好きだった。命を削るようだった。生きているなと思った。いつもそうだった。今もそうだ。ゆっくりと宵闇に飲まれていく、時間が止まったような公園で彼の音色だけが生きている。
「地獄の生活はどう?」
 ギターを弾き終わった彼が問う。わたしはひとしきり拍手をしてから、
「まさに地獄としか」
 と答えた。彼は笑う。
「小説は、書いてないの」
「死人だからね」
 もう書けない。わたしは答える。
 死んでからよくわかった。ものを作ることができるのは生きている人間だけだ。目を閉ざしたくてもきちんと目を開いて、どんなに浅くても息をして、時間を止めずにいられる人間だけだ。
 わたしにはもう、削る命も無い。
「ねえ、お誕生日おめでとう。きみは生きていなよ」
 わたしは言う。彼は少し泣きそうに顔を歪めて、「ありがとう」と小さく答えた。
 見上げれば、空はやわらかな宵闇に飲まれていく。夜を告げるように、宵の明星が鋭い光を放つのが見えた。




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