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【掌編小説】Scars of FAUNA

 母のことを、僕はほとんど覚えていない。

 僕が物心つく前に母は既に故人になっていて、だから仏壇に飾られている十数年前の母の写真にまるで見覚えはないのだ。今日は母の十三回忌で、僕はじっと正座をしたままお経を聞いている。法事も十三回目となると悲痛な雰囲気や寂寞感は薄れ、その分故人は一層遠くなってしまったような雰囲気があった。

 法要が終わってからも気忙しくしている父と祖母を置いて僕はひとり外へ出た。生まれ育った田舎町は初夏を迎えていて、そこら中から鳥や虫の鳴く声が聞こえる。僕は山沿いに伸びる曲がりくねった古いアスファルトの道を淡々と歩いた。

 母が死んだ年から、気弱になった父は家で動物を飼うようになった。父は犬が苦手で、一緒に暮らす祖母は猫アレルギーだから、熱帯魚や鳥やウサギやハムスターが多かった。僕らの世話の仕方が良くなかったのか、みんな平均より長く生きることなく死んで、今うちには何もいない。
 母が生きていればうちに来ることのなかった動物たちだ。いなくなったものの不在を埋めようとする僕らの心情は小さな彼らにとっては重荷だったろう。もっと純粋に愛してくれる家に行けば、彼らはもっと長く生きられたのではないかと思うこともある。
 みんな名前をつけて大事に世話をしていたはずなのに、遠ざかればやはりその声も顔つきも思い出せなくなっている。母と同じだ。記憶は抜け落ちて、もう随分遠くなった。
 僕が、薄情なだけなのかもしれないけれど。

 しばらく歩くと山の中腹にトンネルが現れる。僕はそれを抜け、山道をのぼる。古いアスファルトの道は次第に土と落ち葉の道に変わっていった。はき慣れたスニーカーでかさかさと葉を踏みしめ歩いた。
 死んだ動物たちはみんなこの山の奥に埋めた。母の命日が来る度、僕は必ず彼らの墓を訪ねるようにしている。

 やわらかな地面に、ほんの少し靴が沈み込む。つま先が汚れ、土の匂いがした。死んだ動物たちはみんな土に還って久しい。この地面もかつてはみんな生き物だったのだろうかと思った。この土は、ここに生きたものたちのなれの果てなのだろうか。
 一度足を止め、地面に触れてみる。冷たいと、そう思った。
 人が住むあたりからわずかに離れただけなのに、木々は鬱蒼と茂りもう車の通る音なんてひとつも聞こえない。つい最近このあたりでイノシシが出たと聞いたのを思い出す。もし出くわしたらどうしよう。まあそのときはそのときか、とぼんやり考えていると、かさかさと葉を踏みしめるような音が聞こえた。

 背筋が粟立った。

僕は木の陰にしゃがみ込み息を潜める。噂をすれば影というやつだ。何も言ってないけれど変なことを考えなければ良かった。
 僕が身を潜めるすぐ側には一際大きな樫の木があって、その根元が動物たちの墓だった。ちょうどそのあたりから物音が聞こえたのだ。僕は何の音も立てないよう、身体を強ばらせたまま視線だけそちらに向けた。
四本の足が、見える。
獣だ、とすぐに思った。同時に奇妙だ、とも思った。
四本の足が一本一本全て違って見えるのだ。蹄の有るもの、爪の尖ったもの、毛の長いもの、色も大きさもばらばらで、あれは獣ではなく山の怪の類いなのではないかとふと思った。いや、こんな科学と合理のご時世にそんなものが普通に存在してたまるかという感じではあるのだけれど、最悪の場合取って食われるかもしれない。それは困る。僕はとりあえず一旦帰ろうとそっと後ずさった。
ほとんど物音は立てなかったつもりだ。
 それでも、僕の視界に映る四本の足はこちらを向いた。しかも結構なスピードで歩いてくる。ひいっと小さく声が漏れ、僕は足をもつれさせてその場に転んだ。

「……大丈夫?」

 背中に声をかけられ、僕は一層パニックを起こす。身体を起こそうとして上手く行かず、ようやく両手をついたところで、
――声?
 その違和感に気付いた。
 僕は目を見開き振り返る。そこには、四本足の持ち主がいて、僕を不思議そうに見下ろしていた。なんと言えば良いのかよくわからない。素直に描写すれば、ばらばらの四本足に、人間の上半身を持ち、身体は山羊だか鹿だかの毛皮に覆われている。二本の腕は人間のものだ。しなやかな白い腕。そして頭には山羊のような角が生えている。顔は何かの骨で作った乳白色のお面で隠されていて何も見えない。髪は茶色い巻き毛だ。髪の毛というよりはもうこれも動物の毛に近い。山の怪だ。もしくは僕が夢を見ているのか。
 何にしろ、ここを離れたい。
 しかし逃げようにも腰が抜けている。見逃してくれ助けてくれと言いたいが声にならない。急に陸に上げられた金魚みたいに口をぱくぱくとさせていると、
「別にとって食ったりしないよ」
 そう彼女は言った。
その声の質は「彼女」で正しいはずだ。表情は見えないけれど、声は少し愉快そうだった。僕はぽかんとして彼女の方を見る。本当よ、と彼女は続けて、今度は声に出して少し笑った。
状況把握は全くできていないが、僕は幾分落ち着いて息を吐く。思うように動かなかった身体がようやく動くようになり、ゆっくりと立ち上がった。
「あなた、あの……何者なんですか」
「さあ、なんだろう」
 不躾な僕の問いに、彼女は困ったように応えた。なんだろう。わたしにもよくわからないんだけど、随分長いことこんな格好でここにいるよ、と言う。
「かみさま、と呼ばれることもある」
 彼女は少しはにかむような調子でそう言って、
「あなたは、お墓参りに?」
 と続けた。樫の木の根元のほうに顔を向ける彼女を見て、僕は「え」と声を漏らす。何故それを知っているのだ。驚愕の表情を浮かべる僕を見て、彼女はまた少し愉快そうに笑った。
「わたし、あなたのこと知ってるわ」
 ずっと見ていたから、と彼女は言う。
「あなたのことだけじゃない。ここで生きている生き物のことを、わたしはずっと見てきた。よくわからないけれど、わたしはそういうものらしいから」
「見ている」
「そう。見て、それから」
 わたしはずっと憶えている。彼女はそう言って少し笑い、四つの足を折って跪き、樫の木の根元に向かって手を合わせた。
「あなたも、お墓参りに来たんでしょう?」
 彼女の言葉に僕は頷く。彼女の隣に並んで手を合わせた。

    *

 それからしばらく、僕は山に住む彼女に会いに行った。樫の木の近くに立ち寄れば彼女はどこからともなく現れ、僕の話し相手になってくれた。理由はわからないけれど、彼女と話すととても懐かしい気持ちになった。
あるいは、と僕は思う。あるいは、今も母親が生きていたら、こんな風だったのかもしれない。
「ここに生きている生き物をずっと見てきたって言ってたね」
 僕の言葉に彼女は緩く頷く。
「動物相ってわかる? その時代その場所に生きた動物の集合。人間はそのすべてを把握することができないんだってさ。どれだけ地域を限定しても、どうしたって抜け落ちるんだ。何かが」
 かみさまは全部わかるの、と僕は聞いた。そうね、と彼女は応える。
「わたしはそれを記録して忘れないためにここにいるから。わたしは本当に何でもない、ただの土地の記憶の集合体なのよ。ちょうどこの土と同じ」
 そう言って彼女は地面を撫でた。とても優しい、まるで子どもの頭を撫でるような仕草だった。
 僕はふと、彼女と初めて会った日に地面に触れたことを思い出した。その冷たさと、やわらかさを。そして生き物は死んで土に還るということを。
「土は昔生き物だったんだろう」
 僕は呟くようにそう言った。それは、生きていたものたちの最後の姿だ。僕は樫の木の根元に視線を移す。
「あなたも昔は生き物だったの」
「どうなのかしらね。忘れたわ」
 僕の問いに、彼女は静かに応えた。
「いつの間にかここにいた。その前はわからない」
 でも、そんなのはどうだって良いのだと彼女は笑う。
「あなただって、自分が生まれる前のことなんて憶えていないでしょう。それと同じことよ」
「そういうものかな」
 僕は目を伏せた。生まれる前どころか、僕は自分を産んでくれた人の顔も声も思い出せないのだ。人間の僕は、たくさんのことをすぐに忘れていく。それは傷跡のように残り続ける空白で、時々思い出したように酷く痛む。
「忘れていくのは辛いよ」
 僕の言葉に、彼女はそっと頷いた。遠くで鳥の鳴く声がした。葉の揺れる音。僕は目を閉じて、開く。その瞬間不意に浮かんだ疑問を、僕は素直に口にした。
「ねえ、あなたは、どうして僕の相手をしてくれるの」
 唐突な問いに、彼女は一瞬戸惑ったように僕を見た。それから樫の木の根元に顔を向け、
「時々、誰かと話がしたくなるから」
 と言う。
「わたしはわたしが何者なのかわからないし憶えていない。わたしはわたし以外のことを全部憶えているけれど、わたしを憶えていてくれるひとはきっと誰もいないから、」
 時々、探しに来るの、と彼女は言った。
「みんなわたしより先に死ぬし、生きていても忘れてしまうかも知れないのにね」
 それでも、どうしてもね、と彼女は困ったように笑った。
「憶えていたいよ」
「うん。知ってるわ」
「全部、忘れたくなかったよ」
 うん、と彼女は頷く。
「もしも忘れてしまっても、忘れてしまったなって、時々思い返して。それだけでいい。あんなことがあったけれど、忘れてしまったなって」
 いつ付けたのか思い出せない、消えない傷跡みたいに。
そう言って彼女は笑った。笑った、ような気がした。

    *

 そのうち、僕は山に立ち寄らなくなった。彼女に会いに行きたいと思うことはあったけれど、祖母の体調が悪くなり、学校も忙しくなって足が向かなくなってしまった。死骸が土に分解されるように、ゆっくりと関係が解けていくのを傍観しているうちに、また一年が経った。
 僕は仏壇の前に座り、母の写真に向かって手を合わせる。じっと写真を見つめ、記憶を辿ろうとする。かけらのように、母が笑った顔だとか、声だとか、そんなものが零れ落ちてこないだろうかと期待したりもする。けれどやっぱり、僕は何も思い出せない。
「ごめんね、お母さん」
 ごめんね、忘れて。
僕は手を合わせる。写真の向こうの母は何も言わない。

 家を出て山へ向かった。去年と同じようにトンネルを抜けてやわらかい土を踏みしめてあの樫の木のもとへ向かう。木の枝で手の甲を切ったが、僕は構わずに歩き続けた。彼女はどうしているだろうと思った。この一年のことも、彼女は全て憶えて、今も何処かで生き物たちを見守っているのだろうか。
 樫の木の下に辿り着き、僕は膝をついた。動物たちの墓の前で手を合わせる。彼らの名前をまだみんな呼べることに安堵しながら、しばらくそこでじっとしていた。

 彼女が現れることはなかった。

 僕は、思い返す。空白に塗りつぶされた彼女の顔を。優しい声を。あのしなやかな腕とちぐはぐな身体を。かみさまと呼ばれた、自分の正体を知らぬ寂しがりの誰かを。
「いつか忘れるのかな、僕は」
 右手の甲に、血が滲んでいた。
 僕はそれを左手で拭って立ち上がり、来た道を戻っていった。


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