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【掌編小説】サヨナラ・ヘヴン

 青い空と湖に囲まれたその遺跡には、古い石造りの墳墓が並んでいました。はるか昔、この帝国を治めていた貴族たちの墓です。かつては美しく秩序だって並んでいた墳墓はいずれも、攻め入った異国人たちの手によって壊され、風化されるままに朽ちています。それは遠い過去に滅んだ、帝国のお墓そのもののように見えました。
 滅亡した帝国の墓標と、青い空と、波一つ立たない湖。
 人によっては寂しさや悲しさを感じるのでしょうが、僕にとってそこはただ、静かな場所でした。
 僕が生まれたのは、いつか滅んだ国のことを歴史の教科書で学ぶような時代で、だから、そんな過去は現実よりはずっと、おとぎ話に近かったのです。

 彼女がこの場所で絵を描くようになったのは、ある晴れた日の夕方のことでした。標高の高いこの場所では、夕焼けの色は澄んで見えるとその人は言いました。僕は見知らぬ人に急に話しかけられて少し緊張していたのか、上手く応えることができずに曖昧に頷きました。彼女が美人だったからかもしれません。
 この遺跡はいつの頃からか旅の人が訪れる名所になっていたので、僕は彼女が突然現れたことも、見慣れない服装をしていることも大して気に留めていませんでした。その衣装には遠い昔にこの辺りに住んでいた人が好んで身につけていた古い模様を刺繍してあるように見えましたが、旅の人の間ではその刺繍が御守りのような役割を果たすのだと父から聞いたこともあります。
 しばらくすれば彼女もここを去るだろうと思っていました。しかし、彼女はいつまで経ってもその遺跡で湖の絵を描き続けました。僕は彼女に近寄るわけでもなく遠ざかるわけでもなく、後ろからその絵を眺めていました。
 不思議だったのは、その絵に描かれているものが、ここから見える景色ではなかったことです。そこにあるのは確かに湖には違いなかったのですが、その下に、巨大な木とそれを取り囲む町が描かれていました。
「きみ名前は?」
 急に彼女が振り返ったので、僕はびくりと肩を震わせてから「アル」と名乗りました。「あなたは?」と聞き返せば良かったのでしょうがそこまで気が回らず、すぐに口を閉じてしまいました。彼女は少しウェーブかかった黒い髪に、灰色の瞳をしていました。こうしてまっすぐに顔を見るのは初めてのことです。僕の周りには灰色の目を持つ人はいなかったので、珍しいものを見るようにじっと見つめてしまい、急に恥ずかしくなって俯きます。彼女が笑ったのがわかり、余計に恥ずかしくなりました。
 彼女はカンヴァスを立てかけたイーゼルから離れ、僕の隣に立ちました。僕は顔を上げて、他の場所より透明と言われる夕日に照らされる彼女の横顔を見上げます。
「ここが好きなの?」
 そう問いかけられ、僕は頷きました。
「家が近所なんです。それにここは静かだから」
 そうね、静かね、と彼女は呟くように応えました。しばらく沈黙が続きます。空の高いところでコンドルの鳴く声を聞きました。わずかに風が抜け、湖の水面に波が生まれ、消えていくのが見えます。僕は置き去りにされたカンヴァスに視線を移します。少し躊躇いましたが、どうしても気になって口を開きました。
「あの絵は、どこの景色ですか?」
 彼女は絵の方を見て目を細めると、
「この辺りの歴史を知ってる?」
 質問を返してきました。僕はその意図を読み取ることができず、少し首を傾げます。
「ここは昔、帝国の領土で、そのあと異国からきた兵隊に帝国は滅ぼされてしまったって、学校では習います」
「そうね。正しいわ。でも、帝国の領土になる前にも国があったのよ」
 彼女の言葉に、僕は眉をひそめました。
「帝国が開拓する以前は、ここには湖しかなかったって……」
「本当は、そのずっと前に、滅んでしまった国があるの。この湖のずっと下に沈んでしまったから、もう知っている人は誰もいないかもしれないけれど」
 その国の絵を描いているの、と彼女は続けました。僕はそれが冗談なのか、それとも真実なのか判断しかねて黙っていました。彼女は僕の顔を見て少し微笑むと、
「もう夜が来るわ」
 と言います。空には、宵の明星が光って見えました。

    *

 僕は帝国が滅んでから百年以上経った時代に生まれました。異国の領地になる前の文化を、僕は情報としてしか知りません。それらはすべて「遠いもの」あるいは「かつてここにあったもの」です。感傷も、寂寥も、哀惜のような思いもなくただ、過去のことを考えると静けさだけが胸に満ちました。だから、彼女から聞いたかつてこの湖の場所にあった王国の話も、僕にとっては現実味のない、静謐な物語でした。

「その国の中心には大きな木があって、それを取り囲むように町が発展していった。小さな泉も湧いていたし、こんな標高の高い荒れ地の中では、比較的農作もしやすかった。そして、その国にはときどき、神様の子供が生まれもしたわ」
「神様の子供?」
「そう。その国の住人たちはみんな中心にそびえる大きな木のことを神様だと思っていたの。木は時々実をつけ、その中には人間の子供が入っていた。木から生まれた子供たちはみんな類い希なる才能を持っていて、どんどん文明を進めていったの。言葉も、技術も発達していった。今この国にあるものは大体、あの国にもあったわ。随分歴史を先取りしていたのね」
 彼女は、まるで見てきたような口ぶりで話を進めます。
「でも、その国の歴史は長く続かなかった。神様の子供たちは、権力を持ち始めて本来あった王家を滅ぼしてしまったのね。そしてお互いに国の派遣をめぐって争いを始め、小さな国の中は混乱に包まれた。血を血で洗うような紛争を、神様は酷く嘆いた。こんなつもりではなかった。ここに、この寂しい静かな場所に、天国を作りたかった。それだけだったといって」
 一度そこで言葉を切り、彼女は一つ息を吐きます。
「そして神様は、雨を降らせた。身動きもとれなくなるほどの強い雨だった。雨は百日間止むことなく、王国は神様と一緒に湖の下へ沈んでしまった」
「それが、かつてここにあった王国の歴史ですか」
 僕の問いに、彼女は頷きます。
「あなたは、誰なんですか」
 続けて僕はそう尋ねました。いつしか彼女の絵は完成して、そこには美しい水中の遺跡が描かれていました。異国に滅ぼされたこの墳墓によく似た静けさが、そこには満ちています。
 しばらく続いた沈黙のあと、
「わたしは、最後の神様の子供」
 と彼女は応えました。
「あまり目立った能力を持って生まれることはできなかったのだけれど、こうして死んだあとも、王国が忘れられないように語り部として残された。わたしの本体は今も、この湖の下にあって、ここにいるわたしは……幽霊のようなものよ」
 彼女はゆっくりと瞬きをします。その灰色の目は、微かに潤んでいるように見えました。
「ねえ、アルくん、この国を作った神様はね、確かに神様だったかもしれないけれど、多分、本来は力を持ちすぎただけの、ただの人間だったと思うわ。だって、あんまりに愚かでしょう」
 僕は頷きました。
 僕の知る神様は、異国の支配がこの土地で始まってからずっと一人きりの完全なる神様でした。神は全知全能であり、間違えることも嘆くこともありません。それに比べると、湖に沈んだ神様はあまりに人間くさく、愚かに見えました。
「でもね、わたしはそれでも、あの愚かで可哀想な神様のことを嫌いになれないの。彼はわたしの国を作ってわたしを生んだ、父親なんですもの」
 そう言って彼女は笑い、
「アルくん」
 と、僕の名前を呼びました。はい、と僕は応えます。
「これはあなたに」
 彼女は、イーゼルから絵を外して、僕の前に差し出しました。聞いてくれてありがとう、と言って。
「ヘヴンというの」
 彼女は続けます。
「その絵の名前。そして、わたしが話した今はもうない国の名前」
 ここに天国を作りたかったという神様の言葉を思い出し、僕は「天国という名前だったんですね」と応えました。
 彼女は首を振ります。夕日が逆光になって、その表情は見えませんでした。
「ヘヴンは、あの国の言葉で、故郷というのよ」
 僕は今一度、描き上がった絵に視線を落としました。水の中で揺らぐ街並みはまるで、涙で滲んだ視界から見える世界のようにも見えました。
 顔を上げたとき、もう、彼女の姿はどこにもなく、結局最後まで僕は、彼女の名前を聞くことができなかったことに気付きました。

 その日の夜、僕は夢を見ました。

 それは、ここがまだ荒れ地で、巨大な木すら生えていない頃の風景です。僕は誰でもない視点で、ぼんやりと辺りを見ていました。そのうち、空から見たこともないような乗り物がやってくるのが見えました。それは荒れ地に不時着し、ごうごうと炎を上げて燃え尽きます。何も残らないかと思ったその燃え跡に、小さな男の子が座り込んでいました。
 辺りは暗く、僕は彼の表情を見定めることはできませんでした。ただ、すすり泣くような寂しげな声だけが、空気を震わせます。
「だれか」
 その声は、
「だれか」
 しきりに、だれかと、繰り返しました。ここには誰もいません。
「遠い場所から来ました。僕は、ここに、天国を作るように、言われて。神様になるように、言われて」
 だれか、と声は繰り返し、そのうち、
「お母さん。お父さん。家に、家に帰りたい」
 小さな声で呟いたかと思うと、それきり彼は動かなくなりました。
 僕が瞬きをすると、彼の身体から芽が伸び、それはすぐに巨大な木になりました。

    *

 目が覚めると、すぐに彼女からもらった絵が視界に映りました。昨日見たあの夢は、天国を、いや、故郷を、作ることができなかった神様の記憶だったのかもしれません。

 今日も僕は、朽ちかけの墳墓から、静かな湖を眺めます。

 僕にとって歴史はすべておとぎ話でした。僕の故郷は異国に占領されたこの国です。僕は遠い国の言葉を喋り、遠い国から来た食物を食べます。それより前にこの土地で育まれたものを、僕は現実感をもって捉えることができません。それはもうすべて、失われた何かで、帰れないどこかで、けれどそれを、寂しいと思う心すら僕にはないのです。
 でもひとつだけ、考えついたことがあります。いつか、この目で、湖の底に沈んだ国を見ること。すべてが本当はおとぎ話ではなく、はるか昔に誰かが夢見たヘヴンは、そこにあるのだと知るために。そのとき確かに寂しいと、感じることができる気がするから。



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