【掌編小説】アネクメーネ

「毎日いるのね」
「君もね」
「ええ」
「サイレンを聞きに?」
 僕の応えに、そうよ、と笑って彼女は視線を目前の地球に戻した。
 ステーションの大窓からは、手を伸ばせば届きそうなほど近くに青い地球の姿が見える。このステーションから地球まで、約二十五万キロメートル。肉眼でも雲の流れを追うことができるし、晴れ間からは大陸の姿も窺える。
 しかし、決して届かない距離だ。
 人類が地球を離れて七十余年。地球との最後の通信が途絶えてから、今年でちょうど五十年が経つという。かつて、人類があの星で生まれ、あの星で暮らしていたということが、僕にはよくわからない。僕はステーションで生まれたし、僕の両親もステーションで生まれた世代だ。祖父母は、幼い頃に少しだけ地球で過ごしたことがあるらしかったが、もう亡くなって久しい。教科書が伝える人類の歴史はほとんど、僕にとっては物語だ。
「僕はいつかね、地球に行ってみたいんだ」
 隣の彼女に言う。話をするのははじめてだが、いつも同じ時間にこの窓から地球を眺めている顔見知りだった。彼女は僕の言葉に笑って、
「もう、人が住めるような場所じゃないのよ」
 と、言った。知ってるよ、と僕は応える。
「七十数年前、核戦争による放射能汚染と流行病で人類は百分の一まで減少。ほんのわずかな、一部の人類だけが宇宙ステーションに移り住んだ。二十年の間、宇宙ステーションから地球に残った人類――地球人の観測が行われていたが、五十年前に地球との通信は突如断絶した。その後地球人の消息は不明」
 歴史で習ったよ、と僕は言う。彼女は頷く。
「僕が不思議なのは、どうしてみんなで宇宙ステーションに来なかったのかと言うことなんだ。本当のところはわからないけど、歴史の教科書には人類の大半は自ら地球に残ることを望んだって書いてあった。地球は、そんなに捨て難い場所だったのかい。死ぬような状況に陥っても。そんな素晴らしい場所なら一回行ってみたいじゃないか」
「素晴らしくなんかないわ」
 少女は薄く笑って応えた。
「確かに昔は素晴らしかったかも知れないけれど、終わりはもうぐちゃぐちゃだった」
「見てきたようなことを言うんだね」
 僕は言う。彼女はどう見ても、僕と同じくらいの、十五になったかなっていないかわからないくらいの容姿をしている。彼女はまた薄く微笑み、僕の顔を覗き込んだ。急に縮んだ距離に僕はどぎまぎする。その瞳は、まるでガラス玉のように透き通って――

「ガラス玉」

 僕は目を見開いて呟いた。
「そうよ。わたしロボットなの。気付かなかったでしょう」
「初めて見たよ。人型なんて」
 彼女は「そうよね」と笑った。七十年前は当たり前だったのよ、と続ける。
「わたしの主人は特に、造形にこだわる人だったから」
 そう言ってまた、地球に視線をやった。
「君は地球から来たの」
「そうよ」
「君の……マスターと一緒に?」
「いいえ。一人よ。主人は地球に残ったわ」
 声も、その優しい口調も人間と変わらない。本当に彼女がロボットなら、作った人は相当に大切に、丁寧に作り上げたはずだ。何故、と僕は問う。
「何故、一緒に来なかったの」
 彼女の目に、青い地球の光が逆さまになって映った。
「わたしを作ったとき、主人はもう五十歳をこえていた。そして――あなたも知っているでしょうけれど、最初のステーション行きの舟は離陸と共に爆破、墜落したの。このままここで死ぬか、得体も知れぬ宇宙ステーションまで死ぬかも知れない旅をするか。彼は前者を選んだ。それだけ。自分の家で死にたいって彼は言ったわ。生まれた場所で、生まれた星で」
 ステーションは静かだ。照明が時間の経過を告げるように少し暗くなった。
 ここで暮らす人間は、僕を入れて百五十八人しか居ない。祖父の代の――かつて地球人だった人間は一人も残っていない。みんな、環境に慣れず病で死んだという。父の代の人間も深刻な病を患う人が後を絶たない。
「主人は、それでもね」
 彼女は続けた。
「忘れられないようにしたかったのよ。自分のことと、自分の星のこと。勝手な人でしょう。だからわたしをここに送った。わたしは何でも覚えているの。地球の景色も空の色も。昼も夜も季節も雨も。彼の声も、手の大きさもあたたかさも、何もかも。彼がパスワードを入れなければメモリは消えない。わたしには、パスワードを知る由もない」
 歌うように話す、彼女の表情は穏やかだった。それは彼女がロボットだからなのか、彼女の人生がそうさせているのか、僕にはよくわからなかった。
「君は帰りたい?」
 僕の問いに、彼女は緩やかに首を振る。
「言ったでしょう。もう人が住める場所じゃない。主人も亡くなっているわ。乾いた死体が転がるだけの誰も居ないあの星はね、もう、終わった場所なの」
 その時、遠いサイレンが聞こえた。ステーション時間、十八時ちょうど。かろうじて耳に届く程度のサイレン。僕は地球に視線を戻す。
「誰も居ないなら――」
 地球との通信が途切れた五十年前から、毎日同じ時間にサイレンが鳴る。地球から聞こえているというのはどうやら間違いないらしい。かつてそれは地震とその規模を伝えるための緊急用のサイレンだったそうだ。しかし、それがどうして毎日同じ時間に、ステーションに響くほどにけたたましく鳴るのか、誰も知らない。
「誰も居ないなら、あのサイレンは」
 僕の問いに、彼女はまた首を振った。
「わからない。でもきっと、誰でもない。それでも、毎日あの音を聞きにきてしまうわたしは、愚かだと思う」
 響くサイレンは遠い悲鳴のようにも、呼び声のようにも、存在証明のようにも聞こえる。ただ、忘れないでくれと。まだ、ここにあるのだと。
「帰りましょう」
 彼女は言った。僕は顔を上げる。遠く尾を引くように、サイレンは消える。
「もうじき、ステーションにも夜が来るわ」






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