見出し画像

【掌編小説】天井で溺れるナポレオンフィッシュ

 天井ではあなたが溺れている。

 ソファに沈み込んだまま六畳の部屋から出なくなったわたしに餌を与えるようにあなたは温かなスープと形の悪いおにぎりを差し出して笑う。遮光カーテンを引いたままの部屋に、それでも夕暮れの鋭い西日容赦なく差し込んだ。ああ、今日がまた終わる。ずっと同じ今日だ。
 わたしから見えるもの。
 洗濯物が散乱した部屋。
 つかないテレビ。
 テーブルの上の枯れたアイビー。
 優しい顔で笑うあなた。
 ごめんなさいとわたしは顔を覆った。今日もまた駄目だった。ごめんなさいとわたしは繰り返した。身体は鉛のように重い。とても起き上がれない。そんなの、全部気のせいで全部甘えだと言うことはわかっていた。本当は何処にだって行けるんだよわたしは。起き上がる気でいるの。外に出るつもりでいるの。なのに一歩も動けない。あなたに迷惑をかけてばかりいるこんなのはもう嫌だ。
 もう死んでしまいたい。
 そう言って泣くとあなたはわたしの頭を撫でた。黒い縁の眼鏡の向こう、細めた目は優しかった。わたしが辛いときは夜中の三時でも四時でも電話に出るし、必ず駆けつけるから何処にも行くなとあなたは言う。ずっとここにいていい。起き上がらなくたっていいから。顔を上げるとあなたはわたしの荒れた唇にキスをする。容赦のないわたしは本当に三時でも四時でもあなたを呼び出した。夜が怖いのかとあなたは問う。そうじゃないとわたしはソファに沈み込んで答える。明日が来るのがずっと怖い。また今日になるのがずっと怖い。明けない夜はないなんて言葉は実は絶望の言葉でしかなくて、夜明けが来る度わたしはこの無為な身体を持て余して泣く。あなたはわたしの身体を抱いて、大丈夫だからここにいていいからと何度も繰り返した。なんでそんな風に言うのとわたしは噛みつく。心にもないことを言わないでとわたしは喚く。駄目だって思っているくせに面倒くさいって思っているくせに死なれたら後味が悪いからそうやって優しい顔ばかりしてわたしのことが好きだからなんて嘘言わないでよこんな駄目なやつ好きになる人なんかいるわけないでしょ適当な嘘つかないでもう離して。やがて東の空は明るみあなたはうとうとし始めるわたしを置いてあなたの生活に戻る。一睡もしないまま。わたしはソファで眠り、目が覚めればまたあなたに電話をかける。

 ソファに沈み込むわたしは天井を見上げる。
 高い場所であなたが溺れて苦しんでいる。そんな夢をいつも見る。わたしのせいだということはわかっている。ごめんなさいごめんなさいと繰り返すわたしにあなたは謝られると泣きたくなるんだと言った。あなたが泣いたことは一度もなかった。遠くに行きなよとわたしは言う。
 わたしなんか見えない、遠い場所へ。
 何日目だろう。何度目の今日だろう。海の底のようなわたしの部屋。もう、潜る力もないあなた。ただ息を止めて水に顔をつけて、霞む目をどうにか凝らしてわたしを見ている。
 別れて、とわたしは言った。

「お前はさ、俺の愛情を確かめるために嫌いになったんでしょとか面倒くさいでしょとか、もう別れてとか遠くに行ってとか、言うんだろ。引き留めて欲しいだけなんだよな。わかってるよ。わかってる」

 溺れるあなたは苦しそうに笑っていた。

「でもさ、それで俺が傷つかないとでも思ってる?」

 眼鏡越しに見えた笑顔は蒼白だ。
 いつから寝ていないのだろうとぼんやり思った。

「俺の方が死にたいよ」

 ごぼ、とはき出された空気があなたの顔を隠して、それきりだった。

 わたしはソファから立ち上がる。生ゴミが散乱した台所。回しっぱなしの換気扇。錆びた剃刀が置き去りにされたシャワー室。もう随分明けていなかったえんじ色のドア。ノブをひねれば驚くほどに簡単に開いた。東の空を見れば、明るみ青く染まっていた。立ち尽くす。徐々に差し込む光が痛くて視界が滲んだ。ほら見てまた、今日が始まるよ。
 振り返った部屋に赤いソファ。
 もう、随分遠く。


noteをご覧いただきありがとうございます! サポートをいただけると大変励みになります。いただいたサポートは、今後の同人活動費用とさせていただきます。 もちろん、スキを押してくださったり、読んでいただけるだけでとってもハッピーです☺️ 明日もよろしくお願い致します🙏