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【短編小説】くらげになる

2,592文字/目安5分


 雨はしとしと、この町を灰色に染める。分厚い雲は喧騒すらも覆い隠した。すごく静かだ。まるで海の中にいるみたい。息が詰まりそう。
 雨は嫌い、傘は好き。
 傘を差していると、世界から遠ざけられたような、そんな気がしてくる。赤だったり青だったり、黒や透明もある。いくつもの傘が同じようにぷかぷかと浮かんでいる。
 人の声、車の音。それらすべてを雨が飲み込む。町の中を歩いていることも忘れそう。せまいこの中だけがわたしの世界。雨はわたしを世界から切り離した。
 わたしはこの海を一人で漂い、彼との待ち合わせ場所、町の水族館にたどり着いた。彼は少し離れたところからわたしを見つけると、手を振った。

 彼と出会ったのは数ヶ月前、図書館で本を探していた時だ。わたしはうっかり本を落としてしまい、彼がそれを拾ってくれた。初対面なのに読んでいる本のことなんか話したりして、すぐに打ち解けた。
 笑うと目尻が下がるところ、ゆっくりと話すところ、自分の考えを言う時の少し力の入った目、その瞳がきらきらしているところ。そういうところ一つ一つが、いいなと思った。ずいぶんと落ち着いているから、歳が一つ下だと分かった時は驚いた。手をグーにしたら浮かぶ血管とか、話の合間の小さな咳払いとか。そういう部分も、彼の良さだと思った。


「水族館は、好き」
 わたしがそう言うと、彼は、うん? と返事をする。
「どういうところが好き?」
「暗いところ」
「暗いところ?」
 うん、暗いところ。とわたしは言葉を繰り返した。
「暗いと体の輪郭が少しぼやけるでしょ。それで水槽の前に立つと、魚の一つになったみたいに感じる」
「うん」
「わたしもここにいていいんだって思える」

 彼はわたしの言葉一つ一つに丁寧にうなづき、話を聞いてくれた。わたしを見てくれていると、そう感じる。前に付き合っていた人の反動かな。その人は、女性の扱いは上手だったと思う。髪を切ったとかの少しの違いに気づいてくれるし、とにかく褒めるのが上手。いつも道路側を歩いてくれたり、ドアを通る時は先をゆずってくれたり。でもそのことが、逆にわたしが気を遣ってしまっていた。疲れてしまった。
 最後はわたしが飽きられて終わった。別れる時に言われた「お前、なんか暗いんだよ」が今でもすぐ耳元で再生できる。暗くてうまく気がまわせない。自信も持てない。それがわたし。

 大きな水槽には、いろいろな魚が泳いでいる。
 赤だったり青だったり、大きいのから小さいの。よく動くのがいたり、あまり動かないのもいたり。いずれもこのせまい海の中をぷかぷかしている。

 彼が口を開いた。
「この魚たちが人間みたいに何か考えて生きているとしたら、何を考えていると思う?」
 その表情は少し楽しそう。わたしは水槽に目を向けた。
「なんだろう」
 少し考えて、
「そんなに変わらない気がする」
「人間と?」
「そう」
「なるほど、確かにね。僕もそんな気がする」
 彼も水槽の方に目をやった。
「お腹すいた、眠い、今日は動きたくない。案外変わらないかも。むしろ人間の方が、何も考えてないかもしれないね」

 わたしたちは初めて会ったその後から何度も会って、いろいろな話をした。物の見方、捉え方、考え方。わたしと同じものもあったし、違うものあった。たまに意見が正反対になることもあるけど、それが全然嫌じゃない。それどころか、もっと彼の話を聞きたい、もっと違いを比べてみたいと考えてしまう。彼もわたしと意見が分かれたとしても、否定しないでいてくれる。
 彼はどうしてわたしと一緒にいてくれるのだろう。暗い海の底にいるようなわたしと。

 水槽一つ一つ、順番に見ていった。その度に彼と話をしながら、自分が心地よくなっていくのを感じた。二人とも静かだから、もしかしたら周りから見ると楽しそうじゃないのかもしれない。彼は、わたしとこの海を泳いでくれている。

「くらげ、綺麗」
「そうだね。僕はこの触手の長いやつが好きかな」
「長くて自分に絡まっちゃいそう」
 ははは、と彼は笑う。
「存在感があって、あこがれるな」
「あこがれる?」
「うん、僕は昔から自分に自信が持てなくて。すぐ見栄を張ろうとする」
「そうは見えなかった。今も?」
「うーん、そうかも。このくらげはゆらゆらしてるだけなのに、堂々として見える」
 彼はまっすぐにくらげを見ていた。見栄を張らなくても、そのままでいいのに。そう思うのと同時に、良く見せようとしてくれていると感じて、少し嬉しくなる。
「君はどれが好き?」
 彼が訊ねる。
「わたしは……」
 水槽を見渡して、一つに指を差した。
「これかな。この隅っこの小さい、はぐれもの」
「どうして?」
「分かんない。なんとなく、見ちゃう」
「本当に小さいね」
 彼は不思議そうな様子でくらげを見ている。
「ごめんね、面白くないよね」
 暗いよね、こんなの。わたしの口から出てくる言葉は、決まっていつも暗い。それで人につまんないと思われる。
「ううん、いいと思う」
 彼はわたしの目を見て、きっぱりと言った。
「君はとても優しいんだと思う」
「どうして?」
「これだけ大きな水槽だと、どうしても大きいもの、触手が長いもの、よく動くものに目が行ってしまう。実際、君が言うまでこの小さいやつに気づかなかったよ」
 隅っこにいる小さなくらげは、どこに行くでもなく、傘を開いたり閉じたりしている。
「君はきっとそういうのを放っておけないんだ」
 彼は一つだけ咳払いをした。
「僕は、君のそういうところに惹かれたんだろうな。僕が気づかないことにも気づく。僕が目を向けないところにも焦点をあてる。君といると世界が広がる感じがするんだ。君の見るもの、行く場所、そこに僕ももっと一緒にいたいって思う」
 彼はわたしの名前を呼んだ。改まって呼ばれると緊張して、姿勢を正してしまう。
 水槽の前で二人、向き合って立っている。
 真剣なその眼差しは、わたしの心に絡みついて離さない。彼から小さく差し出された手。わたしはそれに、あなたの手にゆっくりと自分の手を重ねた。

「傘、一つでもいいかな」
 そう口にする声は、少し照れている。わたしはうなずく。
 せまいこの中はあなたとわたしだけの世界。
 ここから映る景色は、前よりも少しカラフルに見えた。
 赤だったり青だったり、黒や透明のいくつも浮かぶ一つになって、わたしたちは歩き出した。

 雨はまだ降り続いている。

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