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25歳童貞が12億円稼いで300人以上の美女を抱きまくり、詐欺で全財産失った実話

はじめまして。よしと言います。

10年ほど前、僕は25歳無職童貞でした。高校中退・2年間の引きこもり経験・10年間友人がいないという、日本でも下位1%レベルのコミュ障だった自分は、毎日自殺を考えるほど鬱で病んでいました。

そこからストリートナンパに出会います。毎日血の滲むような努力を積み重ね、結果として3年ほどで300人以上の女性を抱きました。

同時期に始めた投資では最高資産12億円を稼ぐほどの大成功を収め、海外移住をして2年ほどのアーリーリタイヤ生活も経験しました。

日本に帰国してからはモテテクをさらに磨き上げ、ギャラ飲みアプリを上手く攻略したことをきっかけに、現役アイドル・キャバ嬢・ラウンジ嬢・モデル・レースクイーンなどのS級美女を毎夜のように抱きまくる生活が出来るようになりました。

全てが面白いように上手く行っていました。

金が無限にあるように感じられてキャバクラやラウンジに毎日通い、酒で記憶を失くし、女性を抱いたことも記憶から飛んで次の朝ゴミ箱の使用済みゴムでそれを知るといったことも、何回あったか思い出せません。

そんな何不自由なく堕落した最高の生活を謳歌していた時、被害総額130億円と言われる巨額の詐欺事件の被害に遭い、

突如として全財産を失いました。


これからお伝えする内容は全くの事実です。

本当は表舞台に出るのが好きではない人間ではありますが、生き残るために情報発信を開始し、再び浮上することを決意しました。

現在は六本木の自宅を解約し、天井1メートルにも満たないカプセルホテルの一室で、人工飼育される餌用昆虫のように生活をしています。見ず知らずのオジの汗臭い体臭を強制的に嗅がされたり、周りの音が筒抜けで他人のおならの音を聞いたりする度に、心をすり減らしています。そして最低限の生活資金すらも、いよいよ尽きようとしています。

今もしあなたが失意の底にいたり、壁にぶつかって新たな成長を求めて何か踏み出そうとしているのであれば、この記事が何かしらの救いのきっかけになることを信じています。

人生の歯車が狂ったきっかけ

僕の出身であるTwitter恋愛界隈は、驚くほどのコンプレックスを抱えた男性達が、飛躍的な成果を上げている場所です。童貞から始まって数ヶ月で100人切りし、恋愛弱者から抜け出してビジネスでも億を稼ぐような人間が、何百人とひしめき合っています。

そして例に漏れず、元々は自分もそんな最底辺からスタートした男の一人でした。

他人に対して心を完全に閉ざし、25歳まで童貞だったことの最大の原因は、遡れば中学時代のこと。自分の人生の歯車が狂ったきっかけは、ある日突然母親が家庭から消えてしまったことに由来します。


神奈川県のローカル駅から歩いて20分もかかる場末の一軒家で、両親と僕は3人で暮らしていました。父親は非常に寡黙な慶應卒のエンジニアで、物心ついた時から人間らしい会話を親子でした記憶がないくらい、コミュニケーションに難のある男でした。

母親は美大を卒業していて、稀に個展を開いたりはしていましたが金銭的には儲かっているわけでもなく、いわゆる平凡な専業主婦でした。

特に変わった点があったとすれば、母親は脳の血管に持病があり、引きつけを起こして年に数回くらい救急搬送されていたということかもしれません。

公共の場でいきなり倒れて「アアアアアー!」と大声を上げながら痙攣する姿に最初の頃こそ恐怖を覚えましたが、基本的にはその日のうちに回復して入院せずに帰ることが多く、家庭内では特に気にならない恒例行事のようになっていました。


ある日学校から帰宅して自宅へ帰った時、いつもなら出迎えてくれるはずの母親の声がありませんでした。「またどこかで倒れて救急車で運ばれたのかな?」くらいにその時は思っていました。

そんなことよりも早くゲームがやりたいという気持ちが強く、ドタドタと自室のある2階まで向かって行きました。自分の人生における唯一の楽しみは、ゲームでした。物心ついたころからファミコンをやりつづけ、小学2年生の頃に初めてプレイしたドラクエ6で視力が1.5→0.3になってしまったくらい、ハマりだすと徹底的にやり込みたくなる性格です。

2階に上がって開けっぱなしの部屋のドアから視界に入って来たのは、


全裸で仰向けになり、ベッドから頭だけをしおれた花のようにダラッと垂らして失神する、母親の姿でした。

その場ですぐ救急車を呼べばよかったものの、当時の僕にはそれが出来ませんでした。なぜなら

「女性の裸はいやらしいものだ」

という洗脳教育を両親から永遠とされていたからです。


エロいもの=悪、こういう教育をする家庭は多いのではないでしょうか。例えばテレビで観る映画の濡れ場などは手で目隠しをされたりしましたし、GTOやシティーハンターなどのアニメも見せてもらえなかったし、なにかにつけて「いやらしい」という発言を、聞かされ続けていました。これが自分が長年女性にコンプレックスを持ち続ける原因の一つにもなっていたと思います。

裸体の母親の身体を自分が直視して起こすということが出来ず、車で1時間離れた祖母を電話で呼び出して、母親をそのままの体制で放置しました。

結果として、これがきっかけで母親は1週間以上意識不明となり、1年以上の入院生活へと突入します。

極度の肌荒れで人格が変わった中学時代

そこから父親との二人暮らしが始まります。大きく変わったのは、食生活がジャンクフード中心の健康から程遠いものになったことと、家庭内での会話が一切なくなったことの2つでした。

元々母親は病的なほどのオーガニック志向で、常に無農薬有機栽培の野菜を買い揃え、無化調に拘り、出汁を取るにも鰹節を毎回削るほどでした。駄菓子で言えば、ねるねるねるねなんて当然買ってもらえませんでしたし、コンビニのクリームパンすら防腐剤が入っているという理由で中学生まで一度も口にしたことがないくらいでした。

普通の家に友達が遊びに来た時、カントリーマームやたけのこの里などのお菓子が出ると思います。

我が家に友達が遊びに来た時は、そういったお菓子は出ませんでした。

出たのは「芋」です。さつまいも。陶芸用のろくろで焼いた。しかも石焼き芋じゃないので、変に湿気ってて微妙にまずいんですよね笑。

そんなオーガニックな食生活だったので、幸いなことに肌トラブルは一切なく、髪の毛もツヤツヤではありました。


その反動で、母親がいなくなってからは、今まで無理やり押さえつけられていた欲求が爆発するわけです。お菓子も食べ放題、ゲームもやり放題、誰にも怒られない自由な暮らし最高!と最初は思ってました。

毎日近所のゲームセンターで友達と夜21時まで遊び、その合間にはドンキホーテでピザポテト・小岩井コーヒー牛乳・コーラなどを格安で買っては、大量に飲み食いしていました。

ゲームセンターから返った後で夜遅くに仕事から帰ってくる父親が用意する食事は、オリジン弁当のオイリーな糖質・脂質中心の弁当です。

そんな食生活を続けてたら、どうなるかわかりますよね。

そう、2ヶ月もしないうちに、当然のことながらニキビが半端ないことになったんですね。

もうおでこから顎に至るまで、あらゆる箇所に化膿したニキビが広がりました。ズキズキ痛いし、潰すなと言われたって顔洗ってたら自然と潰れるし、跡になったら永遠に消えないし。

朝晩顔洗っても1時間で脂がギトギトになるので「顔洗ってる?笑」とみんなに言われたりとか。

眉毛の部分にすらニキビが出来て、大量に毛が抜けて今でも生えてない場所があるくらいです。ふと笑った時に鼻の上のニキビが押し出されて膿が弾け飛んで女の子の顔にかかったこともあります。めちゃくちゃトラウマです。多分そこまでニキビが悪化する人はまぁいないんじゃないでしょうか。

元々は女子よりも肌が綺麗だったこともあって最初の頃は驚かれたりもしましたが、段々と「触れてはいけない話題・存在」のように認識されるようになっていきました。究極の非モテ人生のスタートです。

特に変わったのは女子の反応で、今まで普通に話してくれていたのが、自然と距離を置かれるようになりました。モテていたわけではないですが、そもそも人間として扱われなくなった感じですね。

例えば技術の授業。クラスの普通の男子がハンダゴテで溶接してる時に火傷して「アチッ!」と言った時は「大丈夫?」と何人かの女子が反応してくれるんですが、その2回後くらいの授業で自分がハンダゴテで火傷して「アチッ!」と言った時は、教室がシーンとしてるんですよ。何事もなかったかのように。心配する価値もない対象として認識されているからです。

そんな感じで、ただ日常を過ごすだけでも、かなりしんどくなっていきました。

さらに追い打ちをかけるのが、教師からのいじめです。自分はADHD傾向が強く、先生の全体指示が頭に入らないというのが小学生の頃からの悩みでした。先生の指示の後は必ず隣の子に、次に何すればいいのか聞く。明日の宿題と持ち物はなんなんなのか聞く。そんなことも何度も繰り返してると教えてくれなくなるので、先生に聞くようになるわけです。すると「よしはいつも話聞いてないな」と言われて、段々と担任からいじめられるようになりました。

 毎回帰りの回で名指しで「今日のよし君の悪かったところは・・・」とみんなに晒すように言われてました。そうするとさらにクラス内でのヒエラルキーが下がるので、虫けら同然の扱いを受けてましたね。結果として、元々いた男子一軍グループからも追いやられることになります。


その時期に丁度パソコンを買ったこともあって、僕はひたすらパソコンの魅力にめり込んで行きました。当時全盛だったWinnyというファイル交換ソフトを、ご近所さんの自宅Wifiを勝手に使って(当時のルータにデフォルトパスワードはかかってなかった)、PCゲーム・家庭用ゲーム・最新楽曲・PhotoShop・Homepage Builder・援交モノ・エロゲなどをひたすら違法DLしまくっていました。毎日のようにオナニーをして、さらにニキビ悪化に拍車がかかる日々です。

学校でもなるべく回りから外見のことを言われないように目立たないように振る舞う。家では父親との会話ゼロ。食事が終わったら速攻でパソコンの前へと戻り、深夜の3時半までネットゲーム。ハンゲームというポータルゲームサービスから始まり、メイプルストーリー・ラグナログ・パンヤ・海外FPSなどありとあらゆるゲームをやりました。メールのアドレスの送信元を偽装して教師になりすまし、セクハラメールを女子に送りつけたり、チート行為でBANされることも何度もありました。

学校でも家でも心休まる居場所のない自分にとって、ネットだけが救いの空間になっていったんですね。


そんな生活を続ける中で、中学1年生までの陽気だった自分はどこかに消えてしまい、陰気でヘイトにまみれたニキビ面のキモい奴へと変わっていました。

深夜まで起きていてもご近所さんからなんとも思われないために、雨戸を全て締め切って真っ暗な部屋で生活するようにもなります。夜にトイレを流すと家族やお隣さんに音が聞こえるので、ペットボトルにおしっこをためて引き出しに大量に保存。定期的に深夜の近所の公園まで運んで行き、空き缶入れにおしっこが入ったままのペットボトルを捨てに行ったりしていました。

そんな生活が2年間続いた中学時代は一切モテとは無縁のまま終わりました。偏差値という概念すらよく分からず相談する相手もいなかったので、そのままたいした受験勉強もせずに、偏差値43の底辺高校へ進学することになります。

精神が崩壊して引きこもりになった高校時代


高校に入ってからは少しだけ景色が変わりました。学校の偏差値が低すぎて周りの生徒全員が頭が悪いので、自分が天才扱いされるという現象が起きたんですね。

中学時代は成績の悪かった自分も、人生で初めてクラスメイトより優秀な立ち位置になったんです。それで心なしか自信が持てて来たりして、女子もチヤホヤしてくれたりしました。

それには普段からネトゲばかりやって、リアルでのコミュ力が圧倒的に低下していたことも幸運しました。

「ミステリアスキャラ」として認識してもらえたからです笑。

特に何も考えてないのに、「何考えてるか分からない」と言われて、成績がいいこともあって勝手に女子から評価が上がるという現象が起きました。

ただこの頃にはもう完全に人に心を閉ざしていたこともあって、友達が出来ることはありませんでしたが、毎日向こうから気にかけて話を振ってくれる学生生活は中々楽しかったですね。



そんな中、母親が長期の入院生活から帰って来ました。しかし、そこにいたのは全く別の姿の母親。体重は60キロを超え、車椅子に乗っての帰宅。最初の1週間で昏睡状態からは回復したものの、将来のリスクを減らすために脳の血管の手術を医者に勧められて父親が同意した結果、手術が失敗。知能が幼児まで退行し、新しく物事を記憶する能力をほとんどを失って、半身不随になってしまっていました。結果論ではありますが、普段のかかりつけ医からは不要な手術だったと後から言われたようです。

その時点で、自分の中での母親はすでに死んでしまっていました。


そこからは毎日介護士が2名ほど家に来るようになります。思春期の多感な時期に、常に見ず知らずの他人が家にいるというのは中々のストレスでした。

母親は常に家にいて、運動も一切せず、ブクブクと太り続けていく日々。あまりの体重に父親ですら車椅子に乗せるのが困難になって行きます。ある日、介助中の介護士と母親が一緒に床に倒れてしまったことがあります。僕は2階にいたのですが、ドシンという音とともにものすごい「大丈夫ですか!ごめんなさい」という介護士のキリキリとした声が響きました。

その時も僕は自室にひきこもることしか出来ませんでした。

「子供は自分の部屋に戻ってなさい」と、幼少期から何度も父親から言われてた自分は、積極的にそういったトラブルに助けに入るということがまず出来なかったんですね。とにかく邪魔しない・関わらないことが正しいと思い込んでいました。

そしてそれからというもの、母親はオムツに排泄するようになりました。

「おもらししちゃったみたい」

自分の意思ではなく、自然と出てしまったように、毎回嘘を付くようになったんですね。それは介助でトイレに移動させるにも大変な労力になってしまい、女性の力ではもう難しくなっていたからです。それに気を遣って、トイレでの排泄を諦めるようになったわけです。もはや人としての最低限の尊厳すら保つのが難しいような状態でした。

食事制限をすればいいけれど、幼児化してしまった母親の知能では難しく、それを行えるのは父親だけ。その父親も、アスペルガー気質の強い性格で、世間一般の常識的な発想をするのが苦手だったこともあり、食べたいものを特に制限なくあげていました。



家庭内はそんなめちゃくちゃな状態ではあったものの、学校にはそれなりに楽しく順調に通い続け、気付けば冬に。高校に入ってからは勉強の楽しさにも何となく気付くようになったため、成績はよかったですね。

ただ、唯一の問題が体育でした。

授業中に自分でペアを作らなければならなかったのですが、僕にはそれが出来なかったんですね。ぼっち経験者なら分かる悩みだと思います。

一度体育館で名前順に2列で整列して、隣の人とペアを作るように指示された時があります。僕は列の真ん中あたりにいましたが、なぜか僕だけ一人余りました。理由は、隣の人間が気持ち悪い僕とペアになりたくなくて、僕の後ろの人間とペアを組んだからです。しかもその隣の人間とは、クラス委員長でした。教師はそれを見て何も触れず、僕だけ教師と一緒にペアを組むことになりました。

優等生で同性の委員長ですら気持ち悪がって距離を取るし、それを教師は何も怒らないし、教師とペア組んでるのは自分だけだし、あらゆる要素が組み合わさってとても惨めな気持ちでしたのを覚えています。

そんな経験が積み重なるにつれて、体育の授業が本当にしんどくなってしまったんですね。なので体育の時間はサボって学校の図書室のパソコンで、ひたすら「ぷよぷよ」をやっていました。

そしてある日保護者面談がありまして、そのことについて父親に言われます。自分の成績のよさなどを褒めてもらえるものと多少なりとも期待はしていましたが、全く予想外のことを言われました。

「学校にきちんと行かないんだったら、もう好きにしなさい」

体育の授業に出なかったという部分だけをとって、きちんと学校に行ってないという風に決めつけられてしまったんですね。真面目に勉強して成績もかなりいいのに、一切評価の言葉がないのか。そこで僕の中の何かが切れました。

次の日には荷物をまとめて、家出をして祖母の家に引っ越ししました。学校にはそのまま通うつもりではいましたが、たまたま祖母の海外旅行のタイミングと重なって、お風呂の沸かし方が分からず1週間くらい風呂に入れない生活になります。流石に髪も顔も洗えない状態では学校には行けず、その間は休みました。

祖母が帰宅した時に自分がいたことには当然驚いていましたが、事情を話すと住んでもいいということに。実家には定期的にお見舞いに来ていて、家庭内の悲惨な事情を知っている唯一の存在だったので、快く受け入れてくれました。



そして次の日、何もなかったかのように学校に行こうと思ったんですが、外に出ようと思っても出れないんですね。その時、怖くて電車に乗れなくなっている自分に気づきました。

毎日通っていたから気付かなかっただけで、実は電車に乗ることに相当なストレスを抱えていたからです。その時の肌荒れは人生で最高レベルになっていて、電車に座っていたら正面のおばさんがジロジロとこっちを見て来たり、「あいつ気持ち悪すぎてヤバいんだけど笑」とヒソヒソ声で他校の生徒に言われたりするくらいでした。積もり積もっていた感情が爆発してしまい、数ヶ月不登校になりました。

それでもなんとか高校に通い治すわけですが、ある日精神科に行って抗うつ薬をもらった次の日から、朝起きることが出来なくなりました。そしてその数カ月後、僕は高校を中退することになります。

高校中退・受験失敗・浪人生活

高校を中退してからは、引きこもり生活になります。食生活は祖母との暮らしで改善されているはずなのに、ニキビは一向に治りませんでした。電車にも乗れず、昼間は外も歩けない。深夜にコンビニに行くのがやっと。外を歩いている時に高校生達の笑い声が聞こえると、自分のことを見て馬鹿にしててるんじゃないかとつい考えてしまって、ビクビクしていたのを覚えています。

毎日朝の5時くらいまでネットゲームをやって、昼過ぎに起きて、またネットゲームをやる生活。歯磨きも嫌いだったので、人と会う必要がなくなって歯を磨くこともなくなり、息は死ぬほど臭いし虫歯だらけにもなりました。

あと性欲がめちゃくちゃ溜まるんですよね。近くに女子校があって、家の前が通学路だったので帰りに通る女子高生の声が毎日聞こえて、それだけでムラムラしてくるわけですよ。一番やばかった時は、自転車に乗ってすれ違いざまに女子高生のお尻を触ろうと計画してました。実際、自転車に乗って50cm離れたところまで近づいたこともあります。本当に犯罪一歩手前で怖気づいてやめましたが、もし触ってたら父親には勘当されて人生も終わってたでしょう。



そんな生活を続けていた17歳の時に、夜の22時に、祖母が突然かかってきた電話を受けて、大きな声を出すのが聞こえました。

薄々こういう日が来るだろうなとは思っていたんですよね。

そう、母親が死にました。

車で病院にかけつけて、父親と一緒に手術室へ入り、医師から伝えられました。

「11月7日23時25分、ご臨終です」

ドラマでよく見るような台詞が本当にあるんだと、冷静な自分がいました。

葬儀の時の親戚からの白い目は今でも忘れません。親不孝者として蔑みの目を持って接して来る雰囲気が伝わって来ました。外から見たら、自分がどういった家庭環境でどう精神的に追い詰められていたかなんて、知るよしもないわけです。母親の葬儀では涙の一粒も出ませんでした。自分の中での母親は、とうの昔に死んでいたので。



そこから1年して受験になった訳ですが、勉強の仕方がまるで分からなかった自分は、当然のごとく受験に失敗。慶応卒の父と美大卒の母親は低学歴をいつもどこかで馬鹿にしていたため、大学に行かないという選択肢は自分の中ではありませんでした。そして代々木ゼミナールでの浪人生活へと進みます。

祖母の家は東京都心だったので、代々木の本校にいける環境ではありました。ただ自分は対人恐怖症になっていたために、通信衛星授業の個別ブースで一人授業を受けました。

毎日授業には欠かさず行ってはいたのですが、自分は記憶力が圧倒的に低いこともあり、選択していた日本史の偏差値が全く伸びず、再び受験に失敗し、代々木ゼミナールでの2浪目が始まります。

この時の精神状態はかなり悲惨でした。浪人生の何がつらいかというと、「社会的に一切存在が認められていない」ということだと思います。これは浪人を経験したことのある方なら実感したことがあるのではないでしょうか。どこかに帰属しているという意識がない時間は本当につらいものです。母親の墓参りの時に親戚とたまたま遭遇して一緒にごはんを食べたことがありますが、みんな慶應卒やMARCH出身だったので、見下して来る態度で本当に肩身が狭かったです。

記憶力が悪いなら日本史は諦めようということで2浪目は数学を選択しました。ほぼ知識がなかったため数ⅠAから勉強したのですが、だんだんと数学もそれほど簡単でないことに気づいていき、数学を捨てようと思ったのが11月の時点です。正直言って、もうまともな大学に行くのは無理かもしれないと諦めかけていましたね。人生終わったと。受験失敗=死と、心から思ってました。

そんな時に「政治経済」という科目の選択肢があることを知ります。当時は受験界の裏技的な存在で、なんと薄い参考書一冊さえ覚えれば、基本的には全ての受験範囲をカバー出来るとのことでした。

政治経済の存在なんて一度も聞いたことがなかったので最初は半信半疑でしたが、もう藁にもすがる思いで、自分にはこれしかないんだと確信して何周も一冊の教科書を繰り返して行きました。そしてわずか3ヶ月で合格レベルの偏差値に辿り着くことになります。

この時の成功体験は、今でも自分の人生を大きく形作っているように思います。諦めかけていてもどこかに道はあるし、ほとんどの人が選択していないことにこそ救いがあると。

残念ながら第一志望には落ちましたが、世間的にはそこそこ名が知られている大学に入ることが出来ました。3浪を目指そうかという思いもありましたが、新卒切符が2浪か2留までしか通用しないという噂をネットで見ていたこともあって、妥協して第2志望の大学へと進むことになります。

少しだけ行動して前に進めた大学時代

大学時代も心は閉ざしたままだったため、基本的には何も変わらないぼっち生活が始まりました。

授業前の最初のオリエンテーションでは、自分のような浪人経験のあるぼっちタイプがクラスに4人くらいいました。浪人をすると基本的にはぼっちになりやすい傾向があるようです笑。

そして、これは入ってから気付くのですが、なんと1年生は体育がクラス必修だったのです。この時は入学を後悔しました。また体育が原因で不登校になるのか・・・。大学でクラスがあるなんて、そもそも知らなかったし。

案の定、体育の授業が始まるとテニスの練習のためにペアを作るように指示されます。この最初のチャンスを逃したら、高校の二の舞になってしまうと僕は焦りました。自分から積極的に1人のぼっちに話しかけに行って長期契約を提案し、見事承諾。なんとかペア決めのストレスから逃れることが出来たわけです。

僕とはもう1人、2浪で入った男の子がいたのですが、彼は結局ペアが作れず、それが原因で不登校になってしまいました。自分から行動しないと何も起きないし、行動したら意外となんとかなるもんだなと、この時少し前向きな気付きがあった気がします。

しかしながら悲惨なニキビ跡は残ったままで、新しいニキビもどんどん出来ていた自分は、大学生なのにバイトすら出来ずにいました。社会性が全く上がらないわけです。流石に大学に入ると、浪人時代まで死ぬほどやったゲームに対する熱は下がって来て、ひたすら図書館で本を借りて読んだり、脳トレとして将棋をやったりして自分の能力を高めようとしていました。ネットで本の取り寄せ予約が出来たので、毎月何十冊と予約して近所の図書館で受け取り読みました。将棋だけでも本は100冊くらい読んで、MAXでアマチュア四段くらいまで行きました。

受験で散々プライドをへし折られたこともあり、この頃は自分の頭が悪くないことを証明したい、という負のエネルギーを原動力に生きてましたね。

そんな自分が唯一行動力を出したのは、海外留学だったかもしれません。バンクーバーに40日ほどの短期間ではありましたが、留学準備期間中にもTOEICを猛勉強して650→830点にしたりと、大学生としては満足行く結果も得られました。短期集中の重要さに気づいたのもこの時です。基本的に人が何年かかっても達成出来ないような目標も、数ヶ月一点集中で挑めば達成出来るものです。

この成功体験で、少し自信はつきました。ちなみに今でも何か情報を調べる時は海外の文献や論文をリサーチしますし、海外旅行の時なども何不自由しないことなど、得たものは非常に大きかったように思います。


そして23歳の時に、父親が急死することになります。原因は不摂生による孤独死でした。カップラーメンばかり食べて毎日酒を欠かさず飲んでいたので、当然と言えば当然ですが、62歳というかなり若い死でした。

母親の時と違って、父親の葬式の時は泣きましたね。今までロクな会話の記憶もなければ、一度も歩み寄って理解しようとしてくれたこともなかったけれど、どうにかして分かり合う方法はなかったのだろうかと。3年近く顔を合わせていませんでした。

自分は子供の立場ではありますが、逆に歩み寄ることも出来たんじゃないかなと。父は言葉に関して不器用ではありましたが、金銭的援助などの行動面では何不自由ない暮らしを提供してくれたのも確かでした。

幼少期から精神的な虐待と言える行動や言動をとられていたこともあって、思春期の頃はずっと殺してやりたいと思うほどに憎んでいた父親でしたが、死を境に少しだけ怒りの気持ちも弱くなりました。


肌荒れと対人恐怖症はほとんど治らず、結局就職面接を経験することなく僕はそのまま大学を卒業します。就活に関するエピソードなどを聞いていると、とてもじゃないけれど自分の精神力では乗り越えられそうにないし、長期的に潰れてしまうことが目に見えていたからです。

25歳童貞がナンパを始めた

大学を卒業し、僕は親の数千万円の遺産を元に、株式投資を始めました。相場がよかったこともあり順調に利益は積み上がって行ったのですが、投資に慣れてくると「信用取引」というものに手を出してしまいがちなんですね。

信用取引を簡単に言うと、株を持っていれば、その株を担保にしてさらに多くの株を買えるという仕組みです。つまり、借金です。注意点としては値上がりの時は何倍も得出来るけど、値下がりの時は逆に何倍も損するということです。それでよくみんな破産します。

自分もその例に漏れず、これだけ相場が上がっていくから上がるだろうと思って初めて信用取引に手を出しました。その後で、上昇相場初の大暴落が起きました。たった2日間で溶けた金額は、2500万円です。

親戚から、「親からもらったお金を株で全額溶かして、お前は本当にどうしようもないやつだな」と言われるビジョンがありありと浮かんで来ました。

損切りした所が大底だったりしてさらに凹みましたが、毎日朝から晩まで相場を見て、CNBCと東京マーケットワイドを同時視聴して、投資・経済本を大量に読む生活を続けました。終わってみれば、400万円くらいの利益でその年は終わりました。


そして気付けば年齢は25歳。当然ながら女性経験は全くなく、株をやってて出会いなんて全くありません。このまま一生童貞のまま人生を終えていくのかもしれないなと思って諦めつつあった時、あるナンパの動画に出会います。

カリスマナンパ師が、童貞の男の子に渋谷のセンター街でのナンパを指導するという動画でした。

この動画を見た瞬間になぜか衝撃が走ったんですね。自分はこれまでの人生、ナンパとは一切無縁でしたが、なぜかすごく引き込まれました。そしてたまたま同じ時期にアマゾンのオススメ本に彼らの本が表示されて、もちろん僕は即購入しました。


カリスマナンパ師として出演している高石さんは、もともとパニック障害で対人恐怖症・引きこもりの経験者でした。それをナンパをすることによって克服し、ナンパ指導をしているとのこと。自分と重なるところが非常に多く、人生を変えるならこれしかないと直感しました。

なんだか政経を選択した時と似てますね笑。僕はこんな感じで不出来なばかりにいつも追い込まれて、普通の人が選択しない極端な選択肢に運命を感じて、そこに突き進むというパターンを繰り返してます。

彼は本業がカウンセラーだったので、すぐにカウンセリングの申し込みをしました。父親に対する恨みも相変わらず残っていたし、肌荒れやコミュニケーション障害のことも含めて、相談したいことはたくさんありました。


カウンセリングまでの期間、独学でナンパに挑戦したことがあります。が、とてもじゃないですが、街で女の子になんか話しかけられないんですよ。ただ話しかけるだけなのに、それが出来ない。怖い。めちゃくちゃ怖い。道を聞くだけでもいいのに、それが出来ない。初日にナンパに挑戦した時はそんな感じで、気付くと5時間くらい経ってました。今日こそは、今日こそはと、何日も繰り返しました。でも無理でした。

酒の力を借りたら出来るんじゃないかと思って、スト缶500mlを6本くらい飲み続けたこともあります。でもどれだけお酒を入れても無理で。最終的には女の子の後ろをひたすらつけていて、肩をトントンしようと思って、やっぱりやめようと怖気づいたり。

そこで記憶が飛んで、目を覚ますと渋谷駅の田園都市線ホームで横になって寝てました。駅員が車椅子に乗せてくれるんですが 駅員もめちゃくちゃ冷たいんですよ、機械的で。多分普段から酔っぱらいを相手にして嫌気がさしてるんでしょう。ナンパに失敗してメンタルやられてるのに、さらに酒で潰れるダメ人間としてあしらわれてる自分が重なって、本当にみすぼらしい思いでした。

当時は田園都市線の溝の口駅の近くに住んでいたのですが、渋谷から駅員に正しい方面の電車に乗せられたのに、気付くと春日部でした。中央林間で折り返して春日部まで行ってたんですね。それくらいベロベロになるまで酔っても、声をかけることへの恐怖は乗り越えられませんでした。


これはどうやら一人では無理だなぁと思って諦めて、カウンセリングの日を迎えます。当日は父親との確執であったり、誰からも認められないし生きていても仕方ないこと、女子との会話で何を話せばいいかわからないことなどについて、悩みを打ち明けました。そしてカウンセリングが終わります。たったの1-2時間で人生が変わるなんてことはもちろんなかったですが、自分の中で少し前進した気がしました。

「よかったらナンパを指導してくれませんか?」と言うと、彼はその当時もうナンパ指導はやっていなかったようで、「見るだけならいいですよ」と応じてくれました。誰かが見守ってくれるだけでも、大きな支えです。そして渋谷のTSUTAYA前で本格的にナンパに挑戦することになります。

これが正直めちゃくちゃきつかったですね。何回か女の子に声をかけたあとで、自分の防衛本能が働いて、反動でその場にうずくまって動けなくなったりしました。

何が辛いかというと、普通に生きてたら女性にシカトされる経験はまずないと思うんですよ。でもナンパの場合は平然とシカトされます。顔を一瞬見て、その後でシカトされることもあります。なんだブスじゃん、と思われるのがわかります。

飲食店の店員さんは、あんなに笑顔で接してくれるのに。お金が発生していない関係になったら、自分はこうも価値のない人間として扱われるんだ・・・。自分の恋愛市場価値を初めて認識する体験をして、めちゃくちゃダメージを食らって、その日のカウンセリングは終わりました。しかし、恐怖を乗り越える一歩踏み出せたことで、僕の中でも何かが変わりました。

その日以降、自分は毎日ナンパを続けました。一度心が折れてやめてしまったら、もう終わりだと思ったからです。文字通り、雨の日も風の日も、雪の日も台風の日もナンパをしました。15時くらいから街に出て、終電の0時30分くらいまでぶっ通しでナンパをしていました。僕にはナンパしかないと思っていましたし、駄目なら死のうという鬼気迫る思いがありました。

それでも結果なんて出ないわけですよ。話も聞いてもらえないし、カフェにも連れ出せないし、ライン交換すら出来ませんでした。それも当然で。

その時の僕はニキビ跡も相変わらず酷いままだったし、ファッションセンスだって誰のアドバイスもないから壊滅的。そもそも男友達ですら10年いなかったので、コミュニケーションの基礎中の基礎すらわからない状態だったわけです。趣味は将棋、若い女の子との共通の話題なんてない。そして家に帰ればネトウヨとして民主党を叩く意識高い系ツイートをしてるような人間です。自分は何も成し遂げてないのに、上から目線で評論してる、そんなヘタレ野郎でした。

自分が初めてライン交換出来たのは、毎日8時間以上のナンパ生活を続けて、丁度1ヶ月くらい経ったくらいですね。12月24日でした。相手はドイツ人の旅行者でした。

その数日後くらいに初めて女性を食事に連れ出せました。連絡先を交換したのとは別の女性でしたが、彼女もなぜか、日本に住んでいるドイツ人でした笑。

最低限の英語は出来たからこその結果ではありましたが、当時の自分としては素直に喜べなかった。外国人補正があるから優しさで接してくれてはいるけど、母国語でコミュニケーションが出来る日本人からは、自分は全く相手にされないんだなと。

正直、この頃には自殺を強く考えてました。元々肌荒れがきっかけで思春期の頃から自殺を考えてはいましたが、両親もいなくなり、自分の存在を必要とする存在が事実上いなくなった以上、「これだけ苦しんで生きてる理由ってなんなの?」と思ってしまったんですね。そんな自分を新しく認めてくれる相手も、どうやら現れそうにないし。ナンパ、つらいし。

センター街のTSUTAYAの横でガードレールに座っている女の子をナンパしてた時に、女の子に舐められてヘラヘラしながら連絡先交換を拒否された時に、もう全てが嫌になったこともあります。その時に、

「俺がもし死んだって別にお前に関係ねえもんな!」

と大声で叫んでカバンを地面に叩きつけてる自分がいました。

めちゃくちゃヤバいやつですよね笑。

歌舞伎町のドンキホーテ横のファミリーマートでフルボトルワインを買ってラッパ飲みしながらナンパをしたこともあります。あまりに上手く行かなすぎて、怒りから瓶を地面に叩きつけてワインボトルを粉々にして絶叫したこともあります。

日に日に限界は感じつつ会ったんですが、それでもここで諦める前にまた、誰かの力を借りようという気持ちになりました。もう少し頑張ってみようと。

そこで色々リサーチした結果、当時ナンパ界でもっとも実績があり信頼出来そうだと感じた男性が、「流星」というナンパ師でした。

モテ本も大量に読んだし知識はつけていたつもりではありましたが、ナンパに関する指導書というものは当時ほとんどなく、一度きちんと教えてもらう必要があるなと感じたんですね。

彼とは池袋のいけふくろう前で待ち合わせしましたが、出会った瞬間から怪しい雰囲気が出ていました。格好で言うと、デスノートのリュークをちょっとマイルドにした感じで、まず外で見かけないファッションでした笑。

彼と東口のカフェに移動して、ナンパをする上で必要な前提知識について学びました。

・女性をどうやって連れ出し先に連れ出せばいいか
・相手を好きになることの重要性
・女性は価値を下げたくない生き物

例えばこんな内容です。それまで読んでいたモテ本はアメリカのノウハウをそのまま翻訳して日本に合っていなかったり、そもそも通常のモテるアプローチとナンパは性質が異なることもあり、ナンパにきちんと即した知識というのは自分にとって新鮮でした。色々学んでいたつもりではあったけど、やはり独学だったこともあって、現場で必要な知識とのズレが起きていたんですね。

座学が終わった後は池袋駅の地下構内で一緒にナンパをして、流星さんがキャバ嬢をビタ止めして15分くらいひたすら説得しバーに連れ出すところに同行し、その日の講習は終わりました。

そこから段々と自分のナンパでの女の子からの反応が変わって行きます。メンタルが前向きに変化したことや、ファッションも実際に指導してもらったことなどが重なって、ラインもゲットしやすくなったし、カフェなどへの連れ出し回数も増えたんですね。何よりも影響が大きかったのは、彼のナンパコミュニティ(流星道場)を通じて色々な人との出会いがあったことです。やっぱり女慣れしている人達と一緒にいるだけで、その空気感が伝染するんですよね。

講習生には自分のような極度の非モテの出身の人もいれば、超一流大学のサークルで遊び散らかしていたようなモテ男もいます。職業は経営者・医師・教授など、かなりハイスペックな人たちも集まっています。ナンパというとあまりいいイメージはないかもしれませんが、自分がコミュニティを通じて出会った人達はみんな思慮深く周りに配慮出来る常識的な人ばかりでした。底辺のイメージがあるかもしれませんが、勉強ばかりしていたからこそ女性との関係に悩んでいる高所得者は結構多いんですよね。

さきほどの高石さんと一緒にカリスマナンパ師として動画に出ていた公家シンジさんとも流星さんが繋げてくれて、3人でご飯を食べたりもしました。

流星さんとは出会って10年近くが経つ今でも付き合いが続いています。義理人情が人一倍厚いことが、彼の周りにいつも人が絶えない理由だと思います。

そして講習から2-3週間が経った1月のある日、僕はついに童貞を卒業しました。雪の日、たまたま電車が止まっていて、群馬に帰る電車を逃した女子大生との出会い。色々な偶然が重なっての出来事でした。


そして投資もそのタイミングで大成功することになります。モンストが流行る前に開発会社のミクシィ株を買っていて、その後モンストが大ヒット。購入金額の何倍にも高騰し、年収では4000万を超えました。

ナンパもその後2月は4人,3月は6人,4月は9人,5月は11人と、面白いように結果が積み上がっていくわけですが、それと同時に虚しさも募っていきました。

女性と関係を持つことは持てるけど、付き合うことにはならないという悩みが出て来るわけです。誰とでも寝るような即系と呼ばれる女性を即っては、男の自分が逆にヤリ捨てされ続けることに、精神が病んでいきました。きちんと長期的な関係を経験したいという思いが日に日に強くなって行くわけです。

そんな時にたまたまいい感じになった女の子と付き合うことになりました。彼女とは一緒にドライブしたり、ディズニーへ行ったり、旅行したり。青春時代が一切なかった自分が、初めて心が浮つくようなきちんとしたデートというものを経験しました。

付き合いながらもナンパしてるところを見られて別れを告げられ、泣きながら好きな気持ちを伝えて復縁してもらったりもしました。付き合った期間は半年でしたが、心から自分のことを必要としてくれる存在がいる時間というのは、今までの人生で味わったことのないかけがえのない感覚でしたね。

その後ナンパを再開し、彼女を作ってやめるということを2回くらい繰り返し、僕はナンパをやめることになります。


ナンパを始めた頃の自分の動機は「復讐」でした。自分をこんな目に遭わせやがってと、女性のことを恨んでいました。今思うと完全にとばっちりでテロリストみたいな発想なんですが、当時の自分は真剣に「被害者」だと思ってました笑。

でも女の子ってやっぱり優しいんですよね、なんだかんだ。自分はイケメンでもないし、肌もめちゃくちゃ汚かったし、トーク力も低かったのに、路上で熱意をもって相手に話しかけていたら、それにきちんと向かい合って応えてくれたりするんですよ。女性の包容力に日々触れていくにつれて、自分の中の「復讐」という負の原動力も徐々になくなって行きました。

活動期間としては1年くらいでナンパ界隈からはフェードアウトして、ナンパもやめることになります。その時には十分に救われて、死にたい気持ちもいつの間にかなくなった自分がいました。

アイドルやレースクイーンを抱いた裏垢時代

ナンパ界隈から離れて、随分と時間が経っていました。その頃は新しい彼女とも1年半以上付き合っていました。自分のトーク力やスペックでは、ナンパで出会える女性のレベルにも限界があることに気づいたなどもあって、ナンパを再開する気力もなくなっていました。

投資は年収1000万円行かないくらいで毎年推移。投資では1年で積み上げた利益が1日で0になったりします。これから先の将来の不安定さを感じて、僕はネットビジネスの勉強を始めます。当時は無名だったわっきーさんの20万円の情報商材を購入したりしながら、メルマガを作ったりして試行錯誤しました。

そしてこの頃、僕は仮想通貨に目をつけて、ビットコインとNEMというアルトコインも購入します。誰に勧めてもビットコインは怪しいと言われて誰も買わなかった時代に、自分は仮想通貨の未来を直感・確信しました。それは学生時代に経済の勉強を真面目にしていたおかげで、学問的な裏付けがあったことが大きいです。

その裏付けを与えてくれた最大のきっかけが、僕が世界で唯一尊敬している人物である、高橋洋一教授です。彼がネット配信時代の「博士も知らない日本のウラ」という番組で初めてメディアに出始めた頃から、その特異性に僕は惹かれ、僕の経済観は彼のそれをそのまま吸収したものと言っても過言ではありません。

東大数学科・経済学科、プリンストン大学を経た財務官僚の出身で、一言で言えば「天才」なのですが、彼が特に当時よく使っていた用語が「マネタリーベース」です。日銀の政策が間違っていたせいで日本の成長が止まった理由を説明をする時に、よく彼が使っていた単語です。簡単に言うと、通貨の発行量です。

このマネタリーベースで見た時に、当時ビットコインを含めた仮想通貨全体は、日本円の100分の1にも満たない状態でした。仮想通貨が完全に通貨とは言えないといえ、世界共通という性質を考えた時に、100分の1は安すぎると僕は判断しました。そしてある程度まとまった金額を投資し、後にこれが目を結ぶことになります。




女性との出会いに関しては、ナンパをやめてからしばらく経ったこともあって、より魅力的な女性と効率的に会う方法を探していました。彼女とだけ付き合って日々枯れていく感覚の自分に、焦りも感じていたからです。

効率を考えるのであればマッチングアプリが浮かびましたが、ナンパ師時代に挑戦したものの、有料課金ですら2ヶ月で6いいね1マッチという散々な結果だったこともあり、とんでもない裏技を見つけるしかないなと色々考えていました。

そこでたまたま中イキ開発に関するサイトが検索に引っかかったんですね。デブの気持ち悪い催眠術師のおじさんが、モデルみたいな体型の可愛い女の子とのハメ撮り動画を大量に投稿していました。


それを見た時に、自分ならもっとレベル高いサイトを作れるなと思ったんですね。日本で一番上に出てるわりには、デザイン・内容ともにレベルが低すぎて。

その頃の僕は、すでに中イキ開発については有料の講座に参加した上で、ナンパでの豊富な実戦経験によって身につけることが出来ていました。脳イキもネットの動画を真似して覚えました。

結果的に、催眠誘導で彼女を失神させたり、セックスが終わった後「え、いたの?」と意味不明なことを言われるという自我喪失レベルまでも誘導出来るようになっていました。普通ならありえないことですが、変性意識状態を極限まで高められる関係性であれば、そういうことが起きたりします。

そしてモザイク処理と音声処理をした彼女とのハメ撮りを勝手に使わせてもらい、FC2とTwitterへアップロード。ネットビジネスの有料教材で学んだ知識を応用し、Wordpressと有料テーマを導入した完成度の高いサイトを作りました。瞬く間に検索上位となり、数カ月後には中イキ・脳イキと検索すると、先程のサイトを凌駕してGoogle検索1位の検索順位を確保するようになりました。

女性からの応募はすごかったですね。

毎日のようにメールがなりやまなかったです。年間で言えば数百件。即日抱かれたいという連絡が、写真付きで来るわけです。それだけみんな中イキに対して悩みをもっているということでもあります。彼氏から「イッた?」と言われるのがプレッシャーなわけです。まぁイッてれば明らかに身体の動きで分かるので、聞いている時点で終わりなんですが、僕も過去は当然そんな感じでした。

元AKBアイドルからも申し込みは来ましたし、現役アイドル・声優・キャバ嬢・レースクイーンなど、ストリートナンパでは出会えないような本当のハイスペック女性を、サイトを始めてから突然抱けるようになりました。

同時期に、仕込んでいた仮想通貨もバブルになりました。ビットコイン以外の暗号通貨をオルトコインと言いますが、世界で少なくとも数百種類あった当時のオルトコインの中で、一番値上がりしたのが僕の投資していたNEMでした。開発者の有料勉強会に参加したりもしていたので、投資家としてはかなり珍しいタイプだったと思います。

さらに値上がりの勢いに乗るため、持っていた不動産や株を売却して種銭を作り、仮想通貨にブッコミました。その年には億り人になり、一日で資産が3億円増えたり、次の日には2億減るというような狂乱相場も経験。マックスでの資産は12億円まで到達しました。

今思っても正直うまく行き過ぎましたね。


ただ、ここが僕のいけないところでもあるんですが、暗号通貨投資が面白くなってサイト運営に対するモチベーションはなくなっていきます。やる気が出たのは最初の3ヶ月に集中してコンテンツを作り込んだところまででした。僕はめちゃくちゃ飽きっぽく、同じことを続けられるのも基本的には半年が限界だったりします。後はそのまま惰性で続けている感じ。当然サイト更新は滞るように。

そして、どうしても初対面ではイケない女性がいるわけです。元カノはあれだけイカせられてのに、流石に初回から深い中イキまで誘導出来ることは少なく、なんなら全く中イキ出来ない子もいました。そういう子が希望を失って落ち込んでしまったりとか、彼氏のいる子が途中で罪悪感を感じて泣き出してしまうようなことも起きたりもしました。

基本的に自分はメンブレしやすいので、そういう体験が積み重なってもう女の子と会うのをやめようかなという気持ちになって行きました。裏垢運営中に出会った女の子を何人か彼女化して、僕は裏垢活動をやめました。


それと仮想通貨で金融資産が増えたのはいいものの、それはあくまで評価額の話です。利益確定して現金化しない限り、変動率の高い仮想通貨の儲けはあってないようなものです。そして年末あたりに急遽金融庁からの通達が出て、仮想通貨の税金は最大55%という気の狂った発表がされました。

株式投資と同じ20%の税制であれば利益確定出来たのですが、流石に55%はリスクとリターンに見合わず自分としても納得出来なかったため、利益確定出来ませんでした。そして色々調べた結果、海外での利益確定に関しては日本で税金がかからないということがわかり、海外へ移住することを決めます。そしてそこから2年間の海外生活が始まります。

海外移住してる期間は、彼女との遠距離恋愛でした。その間は仮想通貨の残高が増えていくことくらいしか楽しみがなく、女性との出会いもなくスキルの習得もない、ただただ停滞の時間でした。

食事がとにかくまずいことや、娯楽のなさが原因で精神的に限界を感じ、日本へと帰国することになります。

六本木時代

日本に帰国してからは彼女と同棲生活をはじめましたが、このままでいいのかなという思いがあったんですね。海外でのロックダウン生活でホテルに2週間隔離された時は精神が崩壊して、彼女と泣きながら電話して感謝の気持ちを伝えたりもしました。その時は結婚することも考えましたが、喉元過ぎれば熱さを忘れるもの。

せっかく日本に帰って浮気出来る環境なのに、一切しないのは勿体ないなという風にもなるように。

ただ、過去に裏垢で美女はたくさん抱けたけれど、本当の自分の実力で抱けたわけではありません。サイトは既に閉鎖してしまっているし、今後出会う方法もない。ナンパ時代には雑魚すぎて自分が満足するような本当の美女は抱くことが出来なかったけれど、改めて自分の実力の限界を試したいという思いがありました。

そんな中で港区界隈と呼ばれる、六本木で高額講習をしている人達の中で、カリスマ的な雰囲気の人物のツイッターに出会います。彼の周りのツイートを見ていると、どうやら本当の美女ばかりを抱いているとのこと。そして彼に実際会った人は口を揃えてすごい人とかレベチだと言っている。彼は自分と同じように非モテ出身から努力でその結果を得たようでした。

元々港区界隈は知ってはいました。港区講習を最初に始めたとされるごまきさんとも、先程触れた公家シンジさんを通じて会ったこともあり、色々な噂を聞いてはいましたが、ナンパ師時代は特に興味をそそられはしませんでした。

そして数年の月日を経て、美女を攻略するには俺にはここしかないんだと、その時に直感したわけです。はい、いつものパターンです笑。

彼がたまたまツイッターで会いたい人を募集していたので、リプライを送ってその日に会ってもらうことに。僕は基本的には即断即決のフッ軽をモットーにしているので、一番ノリにリプをした結果優先的に会ってもらえることに。

実際に会ってみると自分より年下ではありましたが、なるほど独特の雰囲気がありました。体格もでかく、ストーリーテリングも上手で、自然と引き込まれるような話し方。自分はかなり口下手のところがあって、そこを克服しない限りは美女に辿り着けないのかもしれないと思い込んでいたこともあり、彼の雰囲気に一層のまれました。

彼はビジネスでも成功していて、すでに年収は3000万円くらいあるとのこと。3000万円という数字は自分にとっては金額的には大きくなかったですが、投資で稼いだ金額とビジネスで稼いだ金額は難易度も違うし、自分とは対極の存在にも見えました。

よくよく話を聞いてみると、港区講習で稼いだ金額を知り合いの投資家に渡して運用してもらうことで、さらに儲けてるとのこと。年内には資産が1億になるらしく、その利回りは2ヶ月資金ロックで1.5倍とのことでした。

2ヶ月で1.5倍・・・。年利で計算すると1040%です。

そう、よくあるポンジ・スキームと呼ばれる詐欺の手口で見られるような利回りです。流石にそんな利回りは普通ありえないです。

ただ、自分はそれ以上の利回りを経験してたんですよね・・・仮想通貨で。年利20000%を経験してるので・・・。ナンパで3000人切りの師匠との出会い・脳イキで自我喪失させたスキル・仮想通貨で生涯賃金を1日で稼いだ経験。常識を超えた頭おかしい世界があるのを、何より自分自身の人生で何度も経験してるので。とりあえず話だけは聞いてみようと思ったんです。

そして彼が紹介する自称投資家のところへ行ったのが、全ての地獄の始まりでした。

案内されたのは都内の富裕層が住む一等地にあるマンションでした。投資家は終始笑顔で余裕があって、本当の金持ちってこんな感じなのかと思わされるくらいに雰囲気がとてもよかったです。子供にも合わせてくれました。その子供もハーフだったこともあってめちゃくちゃ可愛いんですよ。

最初に会った時はとりあえず3000万円くらい投資する予定でした。ちなみに当時資産はマックス12億円から目減りしたものの7億円くらいあったので、そこまでたいした金額ではありませんでした。

そして自分が仮想通貨でお金を稼いだことを伝えると、同じように仮想通貨を日本円に変えて、投資案件で運用して儲けたお金で税金払って綺麗さっぱりした子がいたよ、という話をしてきたんですよ。

その話が相当に魅力的だったんですね、自分にとっては。

実はその時、ある日突然国税が来るんじゃないかという不安に、いつもビクビクしながら過ごしていました。海外移住までして合法的に利益確定はしたのは確かですが、日本は法治国家の体をなした人知国家で、ホリエモンや青汁王子のように、見せしめとして逮捕・厳罰が課されたりもする国です。

例えば欧米のような先進民主主義国では、税金のことは法律で定めると言う「租税法律主義」というのが原則です。ところが日本ではこのプロセスを踏まず、金融庁が通達で租税をサクッと決めてしまうという「租税通達主義」と言えるレベルの独自のシステムになっています。

仮想通貨の税制は各国は事後的に成立させましたが、日本の場合は通達一本で決まり、かつ過去に遡って適用しますという民主主義国ではありえないプロセスでした。自分はそれに納得出来なかったので海外へ行きましたが、刺されない保証はどこにもありませんでした。

その慢性的な不安から逃れたかったのが、今思うと大きいです。もし国税が来ても罰則金を払えるだけのお金が数ヶ月で手に入る。「うわーそれめっちゃいいじゃん」って思ってしまったんですよね。

何回も会ってるうちに投資家のことをだんだんと信頼してしまって、気付くと全財産に近い7億という金額を振り込んでいました。。その頃にはもう確実に人生上がった気でいましたね。


ずっと付き合っていた彼女との約束も蔑ろにするようになりました。お金は確実に返ってくると確信していたので、財布の紐も緩んで歌舞伎町のキャバクラや六本木のラウンジで毎日のように飲み明かし、女の子を連れ込みやすいように六本木に引っ越しもしました。

しかしながら、根本は非モテのままなわけです。シャンパンをいくら入れても、リピートを何度もしても、アフターはいけるし家にも連れ込めるけどヤれない、というジレンマに陥るように。それでも夜職の美女を何とかして落としたいという思いがありました。

キャバクラ・ラウンジ・ガールズバー・コンカフェなど色々試して失敗に失敗を重ねた結果、最終的にパトというギャラ飲みアプリに出会います。

そこで僕は水を得た魚のように、美女を抱くことが出来るようになりました。理由としては圧倒的な競合の弱さです。会うだけで数万円かかるのにも関わらずホテル確定ではないギャラ飲みアプリには、無料のナンパやマッチングアプリで大量にいるような魅力的な男性が入ってこれないんですね。モテる人であればあるほど、女性に少しでもお金を使う出会いについては抵抗があるわけです。

一方で女性の質はキャバクラやラウンジより高く、難易度も非常に低い。

自分は色々もがき苦しんでブルーオーシャンを見つけることで今まで成功してきました。株式投資で苦しんで暗号通貨、ナンパで苦しんで裏垢作成、日本で苦しんで海外移住。

そしてこの時も夜の店で苦しんで、パトという活路を見出しました。

そして一度コツをつかんでからは、パトで簡単にラウンジ嬢やキャバ嬢を抱けるようになります。それで自信と経験がついたこともあり、今度はそれまで苦戦していた夜の店でも労せずして抱けるようになりました。

自分の目的であった、美女を抱くことを達成出来るようになったわけです。


その時も彼女の存在は大事ではありましたが、自分は新しい挑戦をしてるんだから、黙って見守って欲しいなという気持ちでした。はっきりと浮気したとは言いませんでしたが、彼女もそれに気付いてるふしはありました。デートの度に毎回無言になったり泣いたりということが重なりました。それにたいして、正直言って面倒くさいなぁと思ってましたね。

全てが上手く行き過ぎてセロトニンが出過ぎた結果、ドラッグでよく言われるワンネス体験や、幻覚も経験したくらいです。

「この世は動物・植物・人間も全て一体だし、石ころや機械などの無機物も含めて、全てが繋がってるんだ。感謝・・・。号泣」みたいに。多分ドラッグやったことある人は、この感覚わかると思いますが、シラフでそれが得られたりもしました。自分はなんでも出来るという万能感に満ちていました。

連絡もろくに返さなくなった彼女からは愛想を尽かされて、振られることになります。その時は、自分にはもっと経済的にも恋愛的にも上を目指せると思ったし、そうでなければならないという強迫観念に駆られていたように思います。毎日酒を浴びるように飲んでいたこともあり、異常なくらい攻撃的で支配的な雰囲気もありました。文字通り、完全に調子に乗っていました。


一方で投資家からの返信は段々と遅くなっていき、そのまま音信不通になります。紹介してくれた港区講師の彼が間に入って、何とか連絡をつないでもらうということを繰り返しましたが、その半年後、その投資家が破産申請を出し、全国ニュースにもなることになります。

その日、僕は全ての金融資産を失いました。

破綻を知った時、一日中部屋の天井を眺めていました。一食も口にしなかった日は久しぶりでした。いっそ飛び降りて楽になりたいと、何度思ったことか。ベートーベンの月光を永遠と流して、真っ暗な部屋でひたすら悲しみにくれていました。

全てを失い、カードの返済も遅れ、人生で初めてのリボ払いも経験。家計簿アプリの残額が-80万円と表示された時は、この世の終わりを感じました。

そして金がなくなると、それまで関わってくれていた人も、次第に離れて行くことになります。最初こそほとんどの人が心配はしてくれましたが、1ヶ月,2ヶ月,3ヶ月と経つに連れて、徐々にインスタのフォローを外されることも増えて行きました。特に、超有名キャバ嬢は誰一人として残らなかったですね。

その時初めて、ただ自分を利用することだけを考えた多くの女性と、容姿が優れているという理由だけで付き合いを重ねていた自分に気付きました。今まで自分の魅力で落として来たと思っていた女性の中には、本当は金だけを見ていたことにも気付きました。



何もかも失ってふと浮かんで来たのが、元カノとの何気ない日常の幸せです。一緒にただ30分くらい近所を散歩した時の思い出、TSUTAYAで借りたクレヨンしんちゃんのロボとーちゃんを観て一緒に泣いた時の思い出、江ノ島で3時間釣りをして日焼けで1ヶ月苦しんだ時の思い出。強い刺激はなかったけれど、そういった時間こそが、自分にとって本当に大切だったことを思い出したのでした。

そして半年ぶりに元カノとの連絡を取ることになります。とりあえず大変な自体になっているということと、声だけでも聞かせてほしいということを伝えました。そこで返って来たのは、

「そうなんだ。で?」

という返信でした。まぁ、そうなりますよね。好き放題遊んで自分から離れておきながら、自分によって都合のいいタイミングになってノコノコ戻って来たわけですから。

何度か断られもしましたが、それでも何とか電話だけしたいということを伝えて、電話することに。

通話が始まってから、相手はほとんど無言でした。

それでも、自分がこれまでやってきたことへの反省と、二人で過ごした思い出のことなどについて、一方的に話し続けました。

そのまっすぐな気持ちが伝わったのだと思います。気付くと、二人で号泣してましたね。その気持ちを、別れる前に伝えてほしかったと言われました。半年経っていても、相手に僕を好きな気持ちは残っていたようでした。

その後何回か食事をして、僕たちは復縁することになります。

残された資産を全て現金化して再挑戦するものの、予想もしない出来事が

お金もなく、人間関係も徐々に失われて行く中で、唯一希望を持てたのが前へ進んでいる時間でした。そして僕には強い味方がいました。六本木時代に色々な人脈が出来たのですが、その中にアフィリエイター出身で、プロダクトローンチで有名な一人の人物がいました。彼は詐欺が発覚する前にも投資家の家に突撃して夜逃げしてることを確かめて教えてくれたり、全財産を失ってからも何度も食事に行ってくれたりと、自分にとって命の恩人とも言える存在でした。

彼とは詐欺に会う以前からの付き合いであり、親身になって自分に寄り添ってくれる数少ない人物だったため、彼と会うことで自殺衝動を抑えて前に進める気持ちを保つことが出来ていました。

資産的にも十億円以上を稼いでFIREしている人物です。そしてある日、彼が稼いでいるビジネスの根幹であるアフィリエイトについて話を聞く機会がありました。アフィリエイターとインフルエンサーを繋ぐシステムをその時に丁度開発をしていて、既に契約している他の大手企業のクライアントよりも格安で、その利用権を販売してくれるとのことでした。

自分もインフルエンサーとは多数繋がりがあったので、これはイケるかもしれないと思いましたね。

投資家として稼いで来た以上、まとまった金額を初期投資して、それを回収するというのがマインドセットにはなっています。ところが権利を買うお金もない状態でした。

そこで幸運にも僕に唯一残されたものがありました。それが祖母が遺産として残した自宅です。実はその前年に祖母がなくなっていて、僕に一軒家を残してくれていたのでした。

思春期からの7年間を過ごした思い出の空間であり、流石にこれを売るのは忍びない気持ちではありましたが、ただ家という固定資産があっても前に進むことは出来ません。今度は投資ではなく、しっかりと実業をやってすぐに回復しようという。そう思って、売却しました。

今まで培って来た人脈を駆使しして、一番儲かる確率の高そうな投資先を選びました。一つはそのアフィリエイトシステム、もうひとつはグレーではありますが、知人を通じた夜系の店舗ビジネスでした。


結果として、店舗ビジネスでは本当にしんどい思いをしました。女の子がマニュアル通りに動かないし、集客も全く上手くいかないし、毎月赤字でした。そして最終的には、銀行口座を管理していたその知人が疾走。

店舗を閉めようと思い数百万円で売却することになったのですが、売却先のケツモチをしていた半グレに恐喝されて、逆に数百万円を支払わされることにもなりました。

そして、命の恩人だった彼が開発していたはずのアフィリエイトシステムについては半年以上経っても一切成果報告がなく、知人を通じて連絡したりはしたのですが、最終的に音信不通となりました。

振り返ればその彼をつないでくれたのも、投資家と繋げてくれた港区恋愛講師の彼でした。

その他にも、ここで触れていないような詐欺が5件以上あり、数百万円〜2000万円と様々。そして気付くと全ての資産を失い、カプセルホテル生活をしている現在へと至ります。(2023/05/08時点)

最期に残ったもの

これだけ色々な詐欺にかかったにも関わらず、加害者達のことを恨まない僕のことを、不思議に思われたりもします。そもそも僕は誰かを恨むということは不要な思考だと思っています。騙す彼らにも彼らなりの事情があったのでしょう。そして自分に色々な気付きを与えてくれるきっかけであったと僕は捉えています。

見失っていたことはたくさんあります。お金の使い方、人との接し方、誰を大事にすべきか、なんのために生きているのか。お金を持って好き放題していた自分では気付かなかったことが山程ありますし、逆に言うと、好き放題しなければ気付けなかったこともあるわけです。

これは自分に与えられた試練であり、ハードモードや縛りプレイのようなもの。そして、この障害を乗り越えた先には、筋肉が激しい負荷での断絶を経てさらに強化されるように、より強くなった自分と出会うことが出来るでしょう。

そして、失敗についても後悔していない理由があります。それは、人生には実は失敗なんてないと心から思っているからです。失敗はその瞬間点だけ見た時に失敗と言えるものであり、最終的な成功を前提とした場合、通過点の一つでしかなくなります。そのためにはどん底を抜ける努力が必要になりますが、必ず最終的には成功するという確信を持って生きることにより、過去の失敗は全て気にする必要がなくなるものです。

自分のメンタルを保つ上で、支えてくれる仲間達の存在も大きかったです。

流星さんを始めとして、あべしさん、虎さん、五条、黒豆さんなど、色々な知人が自分のメリットにならないにも関わらず、ご飯をごちそうしてくれたりプレゼントをくれたりして支えてくれました。表に出ていないような方々も含めると、何十人という人が自分を支えてくれました。六本木時代に出会った人脈も、決して捨てたものではありません。

彼らに恩を帰すためにも復活したいという思いが、自分を前に進ませてくれています。もしこれを読んでいるあなたが彼らの下で何かを教えてもらう機会があるのであれば、それはとても貴重な経験になるでしょう。

また離れて行った女性がいる一方で、すっからかんになっても自分のことを好きでい続けてくれる女性も、複数人いたことも大きな支えでした。その中には昼職の子もいれば、キャバ嬢・ラウンジ嬢の子もいます。

一度得たお金はなくなりますが、知識や経験は頭の中に残り、誰も盗むことは出来ません。だからこそ、自分はやり直せることを確信しています。

何を始めるにも出来が悪く、人一倍苦しんだ自分に与えられた使命は、同じ悩みを持つ多くの人を成功へ導くことにあると、今回の試練を通じて僕は気付きました。その使命を果たすために、これから圧倒的な成功へと突き進んで行くつもりです。

既に成功した人間のエピソードを聞くことは多いと思いますが、これから這い上がり0から卓越した成果を収める人間の生き様を、これからあなたの記憶に刻んで行きます。


ここまでお読み頂き、ありがとうございました。


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