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舞台 「きく」 観劇レビュー 2024/06/22


写真引用元:エンニュイ 公式X(旧Twitter)


写真引用元:エンニュイ 公式X(旧Twitter)


公演タイトル:「きく」
劇場:アトリエ春風舎
劇団・企画:エンニュイ
脚本・演出:長谷川優貴
出演:市川フー、zzzpeaker、二田絢乃、浦田かもめ、オツハタ、小林駿
公演期間:6/18〜6/23(東京)
上演時間:約1時間35分(途中休憩なし)
作品キーワード:ダンスパフォーマンス、生演奏、映像、前衛、考えさせられる
個人満足度:★★★★☆☆☆☆☆☆


長谷川優貴さんが脚本・演出を務める劇団「エンニュイ」の作品を初観劇。
「エンニュイ」は、お笑いコンビ「クレオパトラ」としても活躍している長谷川さんが主宰となって2017年に旗揚げし、かながわ短編戯曲賞2021で最終候補にもなっている団体である。
「エンニュイ」は、お笑い芸人であるピースの又吉直樹さんが名付け親で、『アンニュイ』と『エンジョイ』を足した造語であり、 物憂げな状態も含めて楽しむようなニュアンスで付けられたそうである。
今作は2019年に初演され2023年にも再演されており、今回で3度目の上演となっている。
また2023年上演時に「CoRich舞台芸術まつり!2023春」のグランプリを受賞しており、初めて観劇する団体だったが興味が湧いたので観劇することにした。

今作は母親が癌だったという話を元に「きく」ことをテーマとした、生演奏あり、映像あり、ダンスありのパフォーマンスに近い演劇作品となっている。
今作に役名など存在せず、出演者である市川フー、zzzpeaker、二田絢乃、浦田かもめ、オツハタ、小林駿の6人は箱馬に座って雑談を始める。
誰も喋っていない無音を表す「シーン」という表現は、手塚治虫によって生み出されたと話している。
他の5人は楽しく雑談している中で、小林だけはどこか体調が悪そうだった。
小林が頭を抱えているので、他の5人は偏頭痛かと軽く捉えるが、小林の「母親が癌だった」という言葉に場は一気に凍りつく。
それでも周囲の5人は徐々にいつものトーンで雑談を始めるが、小林は母親が癌になった辛さを他の5人に分かってもらえないと思ったらしく、彼らに怒鳴り散らす。
そこから、小林が母子家庭であるという生い立ちと共に、生演奏、映像、ダンスなど様々なパフォーマンスを繰り広げながら、前衛的に演劇が展開されていくが...というもの。

「前衛的に」と書いた通り、今作は小林の語る母親の癌の話がストーリーのように順を追って進行していくのではなく、小林が語る母親の癌の話が断片的に登場しながら、それを様々なパフォーマンスの中で挿入しながら表現されている。
例えば、オツハタが学校の先生のように黒板を使いながら生徒たちに教えるように小林の母親の癌の話をしたり、小林自身が巨大な芯のようなもので囁きながら話したりする。
6人の出演者がどこまでが台詞か分からないような序盤の雑談から、小林の母親の癌の話によって一気に展開が加速して、ダンス、映像、生演奏と観客が予想出来ないような展開で次々とパフォーマンスが繰り広げられるので、この作品はどうやって収束していくのだろうと最初はワクワクしながら観劇していた。

しかし、結局は90〜100分の上演でほとんど展開されているパフォーマンスは、小林自身の深刻な話に対して、直接的には無関係の周囲の人間たちは真摯に聞いてはくれないという、人間同士の分かり合えなさを様々な角度で表現しているだけに感じてしまい、個人的には物足りなかった。
小林が抱えている母親が癌になってしまったというエピソードには、今作では描ききれていない苦悩も沢山あるはずで、そういう心情も含めてもっと物語的に観たかったと思ってしまった。
これでは、母親が癌だったという事象を使って様々なギミックで遊び倒しているだけの演劇に見えてしまって、これを100分近い尺で観させられるのは少々内容的には薄く感じた。
ギミックを入れるにしても、どうしてこのギミックなのか、なぜこの演出の仕方を選んだのかがもう少し伝わってくるような演出でないと、なんでもアリになってしまう気がしてもっと洗練させて欲しかったと感じた。

今作のテーマは「きく」ということであり、その主軸を、小林の母親が癌になったということを赤の他人は真摯にきいてくれず無意識に他のことを考えてしまうエピソードに置いているが、そのテーマの置き方もしっくりこなかった。
むしろ、それを描きたいんだったら「きく」ことがテーマなのではなく、当事者にならないと共感し合えない人間同士の分かり合えなさではないかとも思ってしまった。
「きく」にもっとフォーカスしたいのであれば、日常社会のありとあらゆる「きく」にまつわるエピソードを描く方が自然ではないかと感じた。
劇中様々な演出手法で「きく」を表現しているが、それぞれの演出が独立で存在していて、母親の癌の話とも繋がってこなかった。

ただ、特に演出手法に関してはなかなかお目にかかることのない独特な表現手法が沢山あって新鮮な気持ちで観劇出来るので、普段と違う観劇体験をしたいという方にとってはオススメしたい。
大きな劇場では決して上演出来ない魅力は詰まっているし、普段商業演劇を観る方に新しい観劇体験をして欲しいと感じた。

写真引用元:ステージナタリー エンニュイ「きく」より。




【鑑賞動機】

「エンニュイ」は前から気になっていた劇団で、ピースの又吉さんが名付け親で、主宰がお笑い芸人というのも凄く印象的だった。今作は「CoRich舞台芸術まつり!2023春」でグランプリを受賞した作品だったので、これを機に観劇しようと思った。


【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)

ストーリーに関しては、私が観劇で得た記憶なので、抜けや間違い等沢山あると思うがご容赦頂きたい。

市川フー、zzzpeaker、二田絢乃、浦田かもめ、オツハタ、小林駿の6人は横一列に箱馬に座って雑談をしていた。一番下手側にいたオツハタは、無音であることを示す「シーン」という表現は手塚治虫が生み出したらしいと語る。そのことで小林以外の5人は盛り上がるが、小林はずっと頭を抱えていた。5人は小林にどうしたのかと声をかけるが、偏頭痛か何かだろうと5人は軽く捉えていた。
しかし、小林は「母親が癌になった」という力強い言葉を発する。その言葉によって、今まで楽しそうに談笑していた5人は一瞬にして凍りつく。なんて声をかけて良いのか分からないといった様子だった。徐々に5人は、少しずつ会話を始めて凍りついていた場は元に戻っていく。
しかし小林は大声で怒鳴る。どうして真摯に自分の話を聞こうとしてくれないんだと。

小林は、母子家庭で育った。小林に父親はいなかった。母親は未婚のまま小林を妊娠した。母親が小林を産もうと決意したのは、祖母のおかげだった。祖母がこの子はきっと大物になるに違いないと思うから産んだ方が良いと言ったから自分は生まれたのだと言う。
しかし、そんな祖母も今は亡くなっている。だからずっと小林は母親と二人しかいない母子家庭だったのである。
そんな小林の話をしている途中に、二田が立ち上がって、まるで小林の話なんて興味がないかのように別の話を始める。また、オツハタも立ち上がって妻と一緒にやっているゲームの話を始める。zzzpeakerはギターを取って生演奏を始める。一方で小林は、一人でステージの上手奥側でマイク越しに自分のことについて語っていた。
オツハタは、妻と一緒にやっているゲームの説明をする。誰か有名人なりきって「アリーナー」と叫ぶゲームで、もう一人は誰になりきっているかを当てるゲームである。誰になりきるかはお題が既に用意されていて、それを見て何になりきるか決まる。
オツハタが引いたお題のカードはIKKOで、オツハタはIKKOになりきって「どんだけー」と叫ぶところを「アリーナー」と叫ぶ。

再び小林のモノローグに戻る。祖母は認知症だったらしく、最後は自分のことを認知してくれなかったようであった。まるで小林と祖母との会話は、小林が祖母に一方的に会話をしているかのようであったと。
オツハタが認知症の人と一緒に歩いて世話をしている。認知症の人は、こうやって世話をして対話してあげた方が認知症の進み具合が遅くなるらしい。
二田は小人になって元気よく動き回っている。そのまま6人の出演者たちは体を使って元気よく踊ってダンスパフォーマンスを披露した。

小林は巨大な芯のような筒に向かってヒソヒソと浦田に向かって話していた。小林は広島にいる母親に会いに行きたいが、自分は東京にいて仕事もあってなかなか会いに行けないと言っている。おまけに小林は相部屋で頻繁に母親と電話で連絡をすることも難しいと言っている。
そのことを、オツハタは先生になりきって黒板に書いて整理していた。母親は広島にいて自分は東京にいるから、距離と時間と金がかかる。決して道のり=速さ×時間の数式ではないと。しかし(but)、小林は電話をかければいいじゃないかと、でも相部屋をしているから頻繁にかけられないのだと。
これには前提条件がある。それは、母親は〇〇である。この〇〇は何が入るかというと「ガン」である。そして、もう一つの条件があって、それは家庭環境にあるが何かというと母子家庭であることだと解説する。

市川がステージの前に出てきて観客にここまでの話はどうかときく。答えづらいよねと言って、ここからはゲームをするという。ちびまる子ちゃんの『おどるポンポコリン』のゲームで、タイミングがきたら「ポンポコリン」と言うゲームである。
ゲームが始まると、小林は下手に他の5人は上手にいる。小林は上手に向かいながら母親の癌の話をする。深刻な話をしているのに変なタイミングで他の5人は「ポワッと」と言う。
そのまま6人の出演者たちはステージ上を自由に暴れ回る。そして、市川とzzzpeakerで二人で漫才を始める。お茶をしに静岡まで行く話をする。お茶をするって茶摘みからするのかよと突っ込む。そのまま漫才をしながら二人とも捌け始める。変なタイミングで「ポンポコリン」と言って、このタイミングで言うのかよと突っ込む。

そこからステージ内にアナウンスが入る。まもなく「ear angels」が入場すると。そして6人の出演者たちは一列で「ear angels」の旗を持って登場する。
ここから試合が開始される。小林は巨大な芯みたいなものを構えている。それに対して市川が登場し、その反対側に口をつける。しかし小林が母の癌の話を始めて間も無くして市川は眠り始めていびきをかき始める。ここでホイッスルが鳴って市川は「スリーピング」でアウトとなる。
次にオツハタが芯の反対側に耳を当てる。小林が母の癌の話を始めると、オツハタはそれに対してリアクションしてしまいアウトとなる。
次にzzzpeakerや二田も試合に出るがアウトになってしまう。最後に浦田も出場するがイヤホンで聴いてしまってアウトとなる。

映像で玉置浩二の『メロディー』のMVが流れ、映像中央で玉置浩二が歌っていて、その周囲に老若男女様々な人々が曲をオンラインで合唱している。
そこから映像や生演奏やダンスパフォーマンスがあって、下手側からスモークが沢山出現する。みんな捌けて暗転する。

小林の周りに5人が座っている。小林は、どうしてみんなは自分の母親の癌の話を聞いてくれないんだと怒っている。5人は別に聞こうとしなかった訳ではないし真摯に聞いていたと言う。小林は、真摯に聞いていなかったと怒る。
浦田は、真摯に聞いていないように感じて不快な思いをさせてしまってゴメンと言う。そして自分は謝ったから小林にも謝れと謝罪を要求する。小林はどうして自分が謝らなければいけないんだと言う。浦田も自分だってどうして謝らなければいけないかって思ったけど謝ったと言う。

レコードが置かれている。これは「シーン」と言う無音の音楽が流れるレコードのようである。早速レコードをレコードプレイヤーで再生する。小林には何も流れているようには聞こえないというが、他の5人には音楽が聞こえると言う。小林は、じゃあ全員で同時にどういう音楽が流れているか言ってみろと求めるが、5人の言うことはバラバラだった。
ほらやっぱり流れてないじゃないかと小林は言う。ここで上演は終了する。

最初の小林の「母親が癌だった」と言う発言から、小林の生い立ちをモノローグで語り始めるシーンを観て、この作品はどんな方向に向かっていくのかと序盤は楽しみだった。かなり特殊な演出手法も相まって序盤は全く退屈せずに観ていた。
しかし、市川が観客にここまでどう?ときいてくる辺りから、これは一体どこまでこういう演出を繰り返していくのだろうと首を傾げるようになって徐々に満足度が下がっていった。そこから、「おっ」と個人的に思えるものがなくてそのまま終わってしまった感じだった。
シーン一つずつ観ていくと面白いものは沢山ある。オツハタの「アリーナー」のゲームや、元気よくパフォーマンスダンスするシーン、オツハタ先生の黒板による授業形式で小林の状況を語られるシーン、『踊るぽんぽこりん』ゲーム、漫才、ear angels、玉置浩二のMV、スモークマシーンなど単体だと面白く見える。しかし、それらが何の脈絡もなく突然出てきて、それが後続のシーンにも影響しないで終わっていく感じに、ただ遊びを入れているだけに感じてしまってこれなら何でもアリじゃないかと感じてしまった瞬間に全てが冷めてしまった。
そしてラストのシーンから、やはり小林の母親の癌の話を、周りの5人が誰も真摯に聞いてくれないことへの不満じゃないかと感じ取ったのだが、だとしたら余計になぜ「きく」にフォーカスされるんだろうと思ってしまった。聞こうとしているのに真摯に聞けていない。それには、もっと5人の人の心情や関わり方に原因があるはずなのに、きく・きかないという動作にしか言及していなくて勿体なかった。
個人的には、母親の癌をベースに創作するのなら、もっとそれに伴う小林の苦悩などを日常に即して描いて欲しかった。周囲の人が聞いてくれないという事象以外にも苦しいことは沢山あると思うのに、それが全く描かれてなくて勿体なかった。もっと演劇として描けるものは沢山ある気がした。

写真引用元:ステージナタリー エンニュイ「きく」より。


【世界観・演出】(※ネタバレあり)

非常に独特な演出なのだが、アトリエ春風舎という小劇場だからこそ上演できる作品だと思って、小劇場の良さと自由度とインディーズ感を十分に感じられた作品だった。
舞台セット、映像、舞台照明、舞台音響、その他演出の順番で見ていく。

まずは舞台セットから。
アトリエ春風舎のステージには凝った舞台装置は仕込まれておらず、スクリーンが3枚横一列に上から吊り下げられており、シーンによって降ろされたり仕舞われたりしてた。
天井からは所々作り物の特に意味がある訳でもないと思うが飾り物が吊り下げられていた。そして、ステージの黒い壁にグチャグチャの白い紙が何枚か貼られていた。天井にも一枚白い紙が貼ってあって、私は席が後ろの方で文字が見えなかったが、英語で何か書かれていた。
あとはステージ上に箱馬が人数分置かれていて、その箱馬に座って談笑したり、その箱馬を移動させて様々なシチュエーションを作り出していた。下手手前側にはビデオカメラが置かれていて、そこにもスタッフが固定でついていて、映像に投影する映像を撮っていた。
ステージ上には箱馬の他に、飲み物や荷物など様々な小物が置かれていて、まるで稽古場のように生活感溢れる舞台空間になっていた。
捌け口は、ステージ下手側奥から上に階段があって、そこへ捌けられるようになっていた。またステージ入り口も捌け口として機能していて、そこは普通に観客の出入り口でもある。
生活感溢れる舞台セットで、何も着飾らない所に小劇場のインディーズらしさがあって良かった。

次に映像について。
映像は基本的に、下手手前側に置かれたビデオカメラに映る映像が投影されていた。観客は客席からステージを見るが、映像を観ることによって下手手前側から見える景色も同時に鑑賞できるようになっていた。特にそのアングルを活かした映像演出はなかったのだが、視覚による情報の大きさは感じられた。
あとは玉置浩二の『メロディー』のMVがスクリーンに投影されるシーンがあった。あれはおそらくYouTubeの動画をそのままスクリーンに投影していると思われる。
欲を言えば、もう少し映像を活用する意味は見出しても良かったかなと思う。出演者が寝そべって手でキツネを作るシーンがあったが、そのキツネが映像ではっきり分かったくらいで、特に映像の活かし方が上手いとは感じなかった。

次に舞台照明について。
あまり舞台照明に関しては、大きな工夫はなかったように思えた。オープニングの客入れからシームレスに6人の雑談が始まって徐々に照明が切り替わっていく所は好きだった。

次に舞台音響について。
音響には「きく」ということをテーマにしているだけあって沢山の工夫があった。そしてスピーカーで流す音と、生音があった。
まずはスピーカーから流す音について。一つ目に客入れで流れていたラジオがあった。ラジオのあのちょうど良い塩梅のボリュームとラジオらしい音が心地よかった。ラジオを聞いて、これに関しても「きく」ということに思いを馳せた。次に「ear angels」のシーンによる二人のスタッフの実況音声。確かに何かのスポーツ観戦をするのも「きく」というのが重要だよなと思う。そしてその実況がとてもリアルで良かった。架空の競技なのに、あそこまでサッカー観戦をしているように感じさせられるのは凄いなと思った。
次に生音について。生音は生演奏と効果音がある。
生演奏に関しては、zzzpeakerさんのギターの演奏が素晴らしかった。zzzpeakerさんのあの風貌にギターが似合うというのもあるし、おそらく即興で弾かれていると思うが、それが雰囲気にいつもハマっていて素晴らしかった。
生音の効果音は沢山あった。役者たちが飛び上がってドンドンと地面が鳴る音、二田さんが地面を叩きつける音、zzzpeakerさんが壁を叩きつける音などの効果音的な生音が沢山登場した。
その他に、役者の声も音なんだと思わせる演出も多かった。例えば、序盤のシーンで5人の出演者が雑談している声の大きさも人によってまちまちで、日常の雑談もこんな感じで聞き耳立てるよなと思わせた。その心地よい声のボリュームをぶち壊しにするのが小林で、小林のいきなりの怒鳴り声にビクッとさせられた。これも「きく」が関連する行為だった。
小林が巨大な芯のようなものを使って声を発する感じも独特で好きだった。あの筒から発せられる特有の声に「きく」を連想させられた。
また無音も一つの音だとも認識させられた。序盤の手塚治虫は無音を「シーン」と表現したことが伏線になるのかもしれない。ラストに音の出ないレコードから、それぞれが何かしらの音を感じ取ってきいていた。もちろん、レコードからは何も流れておらず、流れていないではないかと小林は怒り出すのだが、想像で人ぞれぞれがどんな音楽が流れているのか楽しむのも「きく」ということに関連しているのかもしれない。この終わり方であるのならば、「きく」というのはイマジネーションや意識するということなのかなとも思った。

最後にその他演出について。
前説が非常にユニークで面白かった。市川さんとzzzpeakerさんで黒板に諸注意を記載していく。声を使わずに文字だけで表現する。しかし、その文字を書くときにチョークが黒板を打ち付ける音で、観客はそちらに意識をするのかもしれないなと感じた。拍手のところで、チョークで黒板に点を沢山書くように打ち付ける音も、どこか拍手を促しているように思えてユニークで好きだった。
漫才のシーンのクオリティは流石で高かった。長谷川さんがお笑いコンビをやっているだけあって、本物の漫才を観ているかのようにキレがあった。話のネタが面白いというのと、二人が話すテンポが心地よかった。ただ、なぜあのシーンで漫才があったのかは不明だった。
あとは出演者全員のダンスパフォーマンスが凄かった。決して身体表現能力が高いとかそういうのではなく、よくそこまで殻を破って感情を爆発させながら暴れて踊り出せるなという感想。昔仙台で観たシアラボのようだった。あそこまで全力で体を動かして叫べたら気持ち良いだろうなと思う。終盤では息が切れるまでやっていてはあはあしながらやっている姿も印象的だった。

写真引用元:ステージナタリー エンニュイ「きく」より。


【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)

役者陣は、エンニュイの劇団員の方と客演の方がいらっしゃって、初めて拝見する方もいれば以前も観たことある方もいた。ダンスパフォーマンスといい演技といい皆素晴らしかった。
人数も少ないので6人全員について記載する。

まずは、エンニュイの劇団員の市川フーさん。市川さんの演技を拝見するのは初めて。
一番存在感のある男性で、色々と力強く感じた。途中で観客にどうでしたか?と聞くシーンは、私が観劇した回は前方の上手側の観客だったが、どういう基準で選んでいるのだろう。
たまにツッコミを入れて笑いを取る感じが好きだった。

次に、同じくエンニュイ所属のzzzpeakerさん。zzzpeakerさんの演技を拝見するのも初めて。
帽子をかぶっていつも下を向いている感じがとても似合っていて好きだった。あの脱力感といいインディーズ感といい、ギターがとてもよく似合っていた。
あの無表情ぶりも好きだった。顔を白くしながら呆然とやる感じが良かった。

同じくエンニュイ所属の二田絢乃さん。二田さんの演技を拝見するのも初めて。
二田さんはとても明るい感じの女性で、笑い声も甲高くていつも視線が彼女にいってしまっていたような気がした。序盤の雑談シーンでも、凄く会話の仕方がナチュラルで観ていられたし聞いていられた。
そして中盤で、ぶっ飛んではっちゃけて暴れ回るギャップも魅力的だった。

客演の浦田かもめさんは、二田さんとは対照的でどちらかというと大人しめで静かな女性だった。
あまり感情を顔に出さず、淡々とその場で演技をしているような感じで、それがまた二田さんとは違った魅力を持っていて素晴らしかった。
あとはラストシーンで、小林に謝らせる感じが凄く迫力あって良かった。この役は確かに二田さんでなく浦田さんだなと思って見ていた。

客演のオツハタさんは、ノーミーツの作品で劇場観劇を含めて何度か観たことがある。
顔面が凄く濃いから見入ってしまいがちだが、そんな強面でも穏やかにモノローグを語ったり、優しく話しかけるように話す点がギャップがあって良かった。
オツハタ先生の授業のシーンは好きだった。オツハタさんは先生役が似合っているなと思った。私は観ていないが先日までONEOR8の『かれこれ、これから』で本番に出演されていて、すぐにこちらの本番で凄いなと感じていた。

最後に、今作で一番のキーマンであった小林駿さん。小林さんも初めて拝見する。
顔立ちは至っておとなしそうな男性なのだが、怒鳴り散らしたり、母が癌になった話を始めると途端にちょっと恐怖を覚える存在になる。そんなオーラがあるからラストシーンは説得力があるのかもしれない。
小林さんが全力でダンスのように暴れて踊りまくる姿がとてもギャップがあって良かった。

写真引用元:ステージナタリー エンニュイ「きく」より。


【舞台の考察】(※ネタバレあり)

ここでは、今作のテーマである「きく」ということと、人が自分の話を聞いてくれないことについて考察していこうと思う。

私が今作を観劇していて思ったのは、普段人の話を聞く時に、自然と違うことを考えてしまうことってあるよなと思いながら観ていた。例えば、私が授業中に先生が野球を例に数学の問題を説明している時、自分は野球にまつわる過去の思い出などに意識がいってしまうことはあると感じた。
そして、そういった意識を今作ではパフォーマンスとして舞台上で上演させているようにも思えた。小林が母親が癌になったという話を受けて、それは確かに自分の中で耳に入ってきているのだが、意識は違う所に行ってしまっていて、スポーツ観戦のことを考えていたり、ゲームのことを考えたりと面白いことに向かっていってしまっているということを表現したいように思えた。
だから小林が、母親が癌になった話をしているのに、他の5人が別の違うことをしているのである。「アリーナー」という言葉を叫んだり、漫才をしていたり、『踊るポンポコリン』のゲームをしていたり、「ear angels」のスポーツ観戦の実況をしていたりなど。

人間の意識というのは面白いもので、特に論理立てられている訳ではなく、時系列ごちゃ混ぜだったり、ときにはこの世に存在しないものまで作り上げて想像させることもある。
その意識はどういうことから立ち上がってくるかというと、今現実世界で自分が触れていること、例えば小林が母親が癌になったという話の内容であったり、その時の気分だったり(例えばなんか面白いことしたいなとか、退屈だなとかそういう感情)、過去に自分が体験したことだったりが、色々と自分の頭の中でごちゃごちゃになって、自分の意識の中でしか出現しないようなものが湧き上がってくるのだと感じた。

きっと、オツハタの中では、小林の母親が癌だったという話を受けて、小林の祖母が認知症だったと言っていたので、自分が認知症の知人や家族の相手をしていた時のことを思い出して、あのようなパフォーマンスが展開されたのかもしれないなと意味づけることができた。
スポーツの実況も、きっと聞き手の5人のうちの誰かの頭の中で、きっとスポーツ観戦のことに頭がいっている人がいたのだと思う。小林が深刻な話をしているにも関わらず。
だから現実の世界で小林の言葉を聞いてはいるのだが、自分の意識の中ではその聞き取れた言葉を遊んで、勝手に妄想のスポーツ観戦を立ち上げてしまっているのだと考えた。

もしかしたら聞き手は眠ってしまって夢を見ているのかもしれないとも思う。実際夢というのは、現実世界で受けた体験や経験に影響を受けることも強くある。小林が母親が癌になったという話を聞きながらウトウトしてしまって、その言葉はまるで子守唄のように聞こえているから影響を受けているのだけれど、意識は眠っているのでその言葉に影響された夢の世界にいるとも解釈できる。

そういうこともあって、今作のテーマは「きく」ということよりも、人間の意識にフォーカスされた演劇作品なのではないかと思って見ていた。「きく」というのは人間の一種の動作であって、その「きく」という態度を取る人間の行動心理に、この物語の核となるテーマがあるように思った。
前説で役者が何かを喋らずに黒板に文字を書くだけで、観客が前説を聞いているようになるのも、それはきくというよりは人間の意識がそこに向かうからなのかもしれない。オツハタ先生が黒板で母親の癌について解説するのも、生徒がそれを必死に聞こうとするのも、先生の話は聞かなきゃという意識なのかもしれないし、その黒板のチョークの音が響き渡ることによって、そちらへ注意力を向けさせるのかもしれないと感じた。
玉置浩二のMVも、遠く離れている人でも誰でも彼の音楽に耳を傾けられるのは、その人たちが聞きたいと意識を玉置浩二の音楽に向けようとしているからなのかもしれない。
観客が劇中に役者が壁や床を叩く音に敏感になるのは、「きく」ということをテーマにとった芝居だから、そういう事象に対しても意識が向きやすいのかもしれない。

そして最後に、無音についての言及があった。これは無音なので、もちろん音は流れていない。これは完全に何か物理的な音をきくというよりはイマジネーションの境地に入っている、つまり意識である。
人間が想像で音を聞こうとする時、間違いなく自分が過去に聞いたことのある音しか想像できないと思う。そしてその中でも特に自分にとって印象的に残っている音が聞こえてくるはずである。
また、無音から音を想像する時は、過去に自分が何を聞いたかだけではなく、今の自分の心境がどんな状態かということにも影響すると思う。聞き手の5人は、いつもと変わらない日常であったからそれなりに心も平常心を保っていて、各々違う音をイマジネーションできた。
しかし、小林は自分の母親が癌になったという悲劇に支配されてしまって何も想像できる余裕もなく、周囲が何も聞いてくれないというフラストレーションも溜まっていて、何か無音を聞くという余裕がなかったのだと思う。

私も10年前に父親を癌で亡くした経験がある。まだ私はその時19歳で、この大変な状況をどう抱えていったら良いかわからず、色々な友達にも話したのだが、どこかしっかりと相手にされなかった印象は確かにあって、そのことに対して私は物凄く孤独を感じた。
19歳ともあれば、基本的にはみんな両親ともに生きている人がほとんどで、片親だったとしても離婚したとか、そういう事情だったりした。だから尚更、自分が理解されていないように感じた。
しかし、それは相手のせいではなく自分の意識の問題でもあったりする。長い時間と共にその悲しみは解消されていったが、そういう精神的に不安定な状態が自分の意識を変えてしまって、聞こえるはずの音も聞こえなくなってしまうのかなと思った。

きくということは、見るという視覚情報に比べて弱い認知能力だと思う。であるが故に、意識に翻弄されることも大きくて、本当にきいたのか、きいていないのか分からなくなってくることも多いと思う。
だからきくという動作は、意識と密接に関係しているのだと今作を観劇して改めて思った。
ただ、小林の母親の癌の話を周囲の人間が聞いてくれないという軸一本で100分近く上演するのは、流石に途中で飽きてくるので、これはこれで面白い発想だと思ったが、もう一歩違う視点や見方もあると満足度は上がった気がした。それでも、きくことに関して改めて考えさせられる良い機会だったので観られて良かった。

エンニュイ「きく」より。


↓オツハタさん過去出演作品


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