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舞台 「背信者」 観劇レビュー 2023/03/04


写真引用元:ノーミーツ 公式Twitter


写真引用元:ノーミーツ 公式Twitter


公演タイトル:「背信者」
劇場:本多劇場
劇団・企画:ニッポン放送×ノーミーツ
脚本・演出:小御門優一郎
総合プロデューサー:石井玄
出演:伊藤健太郎、田中真琴、相田周二(三四郎)、青山郁代、新田桃子、石山蓮華、鍛冶本大樹、和田聰宏、上谷圭吾、オツハタ
公演期間:3/3〜3/8(東京)
上演時間:約2時間15分
作品キーワード:SF、オンライン演劇、現実と虚構、社会派
個人満足度:★★★★★☆☆☆☆☆


2020年にオンライン演劇で一斉を風靡した劇団ノーミーツ改め、「ノーミーツ」が初めて劇場で舞台公演を行うということで観劇。
今作は、2021年3月に『あの夜を覚えてる』で組んだニッポン放送の石井玄さんと再びタッグを組んでの公演である。
また、劇場観劇と配信視聴の2つの鑑賞方法で違う角度から作品を楽しむことで、どちらか一方にしかない仕掛けや演出を体験出来る点も、今回初めての取り組みとなっている。
私自身も、劇場観劇と配信視聴の両方を鑑賞した。

物語は、人類が積み上げてきた記録を一夜にして失った未曾有の電子災害「ビッグ・クラック」から四半世紀経った未来世界が舞台となっている。「ビッグ・クラック」以降、毎月「CAESAR」という雑誌を、「人々の知りたい情報を載せる」を方針として刊行してきた、イザクラ(和田聰宏)を編集長とする「CAESAR」編集部。
彼らは、謎のバーチャル配信者「バロ」が匿名で根拠のない情報を大量に流しているという事実もあって、証拠のある情報の雑誌記事の執筆に苦戦していた。
「CAESAR」編集部の編集者であるクスノキ(伊藤健太郎)は、秘密警察的な機関である「真理省」の正体を暴いて「CAESAR」の記事のネタにしようと奔走するが、キリエ(田中真琴)という謎の女性も登場して物語は思わぬ方向へ向かい...というもの。

非常にSF要素の強い作品で、劇団ノーミーツの作品を鑑賞したことある方なら伝わるかもしれないが、2020年7月に上演された『むこうのくに』がテイストとしては一番近いかもしれない。
しかし、今作の一番のテーマは「現実と虚構」であるということ。
昨今、SNS等で真偽が定かではない情報が溢れるように広がっている。
だからこそ、自分が今手にしている情報は真実なのか嘘なのかを突きつけられ考えさせられる点と、それから報道のあり方についても言及する社会問題的な要素も含まれた舞台作品に感じた。
そしてさらに面白い点としては、劇場観劇を現実、配信視聴を虚構と捉えると、同じものを見ているはずなのに劇場観劇と配信視聴で違った観え方があって、それがまさしく今作のテーマにもなっている点が面白かった。
だからこそ、劇場観劇と配信視聴両方の鑑賞が推奨される作品となっている。

しかし、物語がサスペンス要素が強くて疾走感を求められる展開であるはずなのに、それが舞台で上演されることによってその疾走感があまり感じられず、余計な間(ま)や転換によってテンポが…と感じた部分もあった。
それによって、あまり作品に没入しにくいシーンも多々あったのが個人的には勿体なく感じた。

だとしても、劇場観劇と配信視聴という2つの軸を上手く活かそうとした演出に加えて、『ジュリアス・シーザー』など演劇好きにも刺さるような伏線の張り方が巧妙で、2度以上観ても新たな発見があって楽しかった。
配信視聴(2023年4月2日まで)だけでも十分楽しめるので、多くの人にこの作品の魅力を堪能いただきたい。

写真引用元:ステージナタリー 舞台「背信者」より。


【鑑賞動機】

ノーミーツは、2020年5月の『門外不出モラトリアム』、同年7月の『むこうのくに』、同年12月の『それでも笑えれば』、2022年3月の『あの夜を覚えてる』と、いずれもオンライン生配信を視聴してきた。そしてついに、本多劇場で初めて舞台公演を上演するとのことで観劇することにした。
劇場観劇と配信視聴で異なる楽しみ方が出来ると聞いていたので、一観劇者としてどんな仕上がりになるのか非常に楽しみだった。


【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)

ストーリーに関しては、私が観劇して得た記憶なので、抜けや間違い等沢山あると思うがご容赦頂きたい。

一人の女性がカメラを持って登場し、シャッターを押す。その瞬間に背後のスクリーンに男性のシルエットが浮かぶ。

「CAESAR」編集部の会議室、編集長のイザクラ(和田聰宏)が、「CAESAR」の次回号の企画について何かアイデアがあるか編集者たちに問いかける。オオシコウチ(相田周二)は、「ラーメンゼロウ」というニ郎インスパイア系を企画のネタにしようと話したり、ミハラ(新田桃子)はファッションに関する伸びるソックスを企画のネタにしようと話をするが、どちらも却下されてしまう。
そんな中、編集者のクスノキがいないが、彼はどうしたのかという話題になる。デザイナーのババゾノ(石山蓮華)はこの前、秘密警察的な機関である「真理省」の人間に突然捕まったことを話し始め、もしかしたらクスノキも「真理省」に捕まったのではないかと噂する。
しかしその直後、クスノキ(伊藤健太郎)は「遅れました!」と言って会議室に駆け込んでくる。クスノキは「真理省」に捕まった訳ではなかった。
クスノキは企画を持ってきたと言って、いきなり「CAESAR」編集部でシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を寸劇として行い始める。イザクラがジュリアス・シーザー役をやって、副編集長のアオタ(青山郁代)がブルータス役を演じる。
イザクラは、最近は謎のバーチャル配信者「バロ」によって、匿名で顔を明かさず、嘘か本当かわからないような根拠のないことを言う存在が影響力を持っていたりなどして、「CAESAR」にとって脅威であることを言う。そして、とにかく演劇のようなニッチな人にしか分からない企画ではなく、多くの人が面白いと思う企画を持ってくるように編集者たちに指示する。編集者たちは、それぞれ企画のネタを探しに行く。

クスノキの目の前には、何やらマジシャン(上谷圭吾)がやってきて、箱の中に猫を閉じ込めようとする。そしてマジシャンは、この箱は50%の確率で毒を出して猫を死なせる箱だと言う。そして、猫を箱に閉じ込め、時間を置いて箱から猫を取り出す。すると、猫は箱の毒によって既に死んでいた。クスノキは、箱を開けた時には猫は毒によって死んでいたので、それ以前に猫は死んでいたと言うが、マジシャンは箱の中に猫がいた時は、猫が死んでいたかどうか観測できないので、猫が死んだのは箱から取り出した時だと語る。
次にマジシャンは、スリットを用意する。そのスリットに光を当てることによって、スリットから光が漏れてスクリーンに光が投影される。次に、スリットを2つにして光を当てると、何と2つのスリットから漏れる光同士が干渉して、波のように光が投影される。ここに、光が粒子でもあり波でもあることが証明される。しかし、その現象を観測しようとカメラでそれを撮影すると、光は干渉はなくなり2つのスリットから光が当たっているだけになる。つまり、観測しようとすると光は観測されたということを認識して姿形を変えるのだとマジシャンは説明する。

「CAESAR」の編集者たちは再び集まり、雑誌の企画に使えそうなものはないかと皆に尋ねる。クスノキは、「真理省」の正体を突き止めて記事にすれば人々は関心を持つのではないかと提案する。しかし、以前「真理省」の秘密を暴こうとした編集者が抹消された過去があるから危険だと言われる。
そこへ、キリエ(田中真琴)と名乗る一人の女性が、一枚の写真を持ってきてイザクラに差し出す。その写真は、大臣と若い女性がどこかの店で隣同士で手をつないでいる写真だった。これが世間に好評されれば、大きなスキャンダルとなる。キリエは、この写真を売るから「CAESAR」で雇って欲しいと懇願する。しかしイザクラは、証拠を積み重ねてから考えると、さらに写真を撮ってくるように要求する。
再び編集者たちは、企画のネタを探しに解散する。

クスノキは、校閲のセキ(オツハタ)から、アポロ計画が捏造だったのではないかということ、それからネッシーは存在するのではないかという噂が囁かれるが、映像が2000年以降のものなはずなのに画質が悪いなど疑わしいなど、捏造された情報に関する話を聞く。
再び編集者たちは会議室に集まるが、なかなか面白い企画は集められていない。しかしキリエは、さらにスクープとなる写真を用意してイザクラに渡す。イザクラはもう一枚写真を持ってきたら考えるとキリエに言う。

「CAESAR」所属のカメラマンであるスナカメ(鍛冶本大樹)は、クスノキと手を組んで一緒に雑誌のネタになる企画を探そうということになる。そして、クスノキとスナカメは、キリエの自宅に潜入することになる。
キリエの自宅には、「倒れゆく兵士」という昔有名だったカメラマンのハヤトトキヤマの写真が飾られていた。スナカメも、このハヤトトキヤマの「倒れゆく兵士」に感銘を受けてカメラマンを目指すことになった。しかし、ハヤトトキヤマはかつて「真理省」の正体を暴こうとして、それがバレてしまい世間から抹消されてしまった。
その時、キリエらしき人影が見えたので、2人は慌ててその場を離れる。

「CAESAR」の会議室にて、編集者たちはバーチャル配信者の「バロ」の動画を観ていた。言っていることに根拠などなくて、正しいのか間違っているのかよく分からないけれど、なぜか皆釘付けになって観てしまっていた。そして編集者たちは、「CAESAR」編集部はこんなに様々なスキャンダルの記事を書いてきたのに、よく「真理省」に目を付けられないよねと疑問に思う。イザクラがその辺上手くやっていると合点する。
イザクラもやってきて、そしてキリエも新たな写真を持ってやってきた。その写真は、なんとイザクラと「真理省」の職員が仲良く握手している写真だった。これは、イザクラが影で「真理省」と繋がっていたことを示すものだった。
キリエは、実はハヤトトキヤマの娘であり、ハヤトトキヤマを「倒れゆく兵士」は捏造だったという記事を出版して世間から姿を消させた「CAESAR」に対して復讐しようと、イザクラに近づいたのだった。
イザクラはバレてしまっては仕方がないと、その写真を使って「CAESAR」の記事を作れば良いと言う。編集長が「真理省」と繋がっていたとスクープされれば、人々は注目を集めるだろうと。
そこへ、副編集長のアオタが自分が「真理省」の職員であることを自白し、イザクラを仕留める。まるで、『ジュリアス・シーザー』の「ブルータスお前もか!」のシーンのように。そして今後の「CAESAR」編集部は、アオタの指揮の元、「真理省」の下部として働くように指示されてしまう。

クスノキとキリエは2人きりになる。クスノキはキリエに対して、「CAESAR」に復讐した所で世界は変わらない、キリエの父であるハヤトトキヤマが成し遂げたかった「真理省」の正体を暴くことによって、それを世間に公表して真実を世間に伝えようと言う。クスノキは、ハヤトトキヤマが達成できなかった未知の道を進んでいくのだと言う。
クスノキとキリエは、「真理省」を2人気絶させて衣装を奪い、「真理省」の内部に潜入する。そして2人は「真理省」の最深部へたどり着いたが、何とそこには誰もいなかった。まさかの展開に戸惑うクスノキだが、クスノキは「真理省」の正体を暴いたということで、その事実を世間に公表しようとするも世間は誰も見向きもしてくれなかった。世間は、バーチャル配信者「バロ」の動画をひたすらに再生し、楽しむのだった。
クスノキは、オオシコウチに振り向かせようとするも、今の上司はアオタであり、生活がかかっている以上アオタの言うことを聞くしかないと言うのだった。
スナカメはカメラマンを諦めており、キリエに自分が持っていたカメラを譲るのだった。

キリエがカメラを構えたその時、キリエは何者かによって気絶させられる。そこに登場したのは、ミハラだった。ミハラはリバーシブルのジャケットを着て全くいつもと違う服装をしているようだった。
ミハラは、バーチャル配信者「バロ」の中の人であり、「真理省」の中の人でもあった。ミハラは25年前の「ビッグ・クラック」について話す。ぞれまで人間はあらゆるデータを収集したことによって、加速度的に、まるでドミノ倒しのラストのようにあらゆることが解明されていった。そして人類は、最後にある一つの真理にたどり着いた。それは、この人間が住む世界が外の何者かによってデザインされているということ。つまり、人間は金魚鉢の金魚と同じということ。だから、これ以上データを収集することは危険だと感じて、人為的に「ビッグ・クラック」を起こしたのだと言うことだった。
ミハラは続ける。クスノキはその「ビッグ・クラック」の直後に生まれた人類で、親の存在を特定できない。だからこそ、自分の人生を自分だけのオリジナルの物語に置き換えて、自分が主人公の物語を作ってきたのだと言う。「真実」を知るということに世間は興味なくて、それを追い続けることこそが、自分主人公の物語なのだと。そしてミハルは、そんなクスノキの存在がちょっと痛いのだと言う。
そんなミハルの姿をキリエはシャッターに収める。ここで上演は終了する。

個人的には、ラストの着地点はしっくりこなかったけれど、それ以外の伏線の張り方は見事だなと思いながらみていた。
シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を上手く劇中に取り込んで、それによって脚本が語るメッセージ性も凄く伝わった気がした。そして、量子力学の話を伏線に現実と虚構を語るストーリー構成が好きだった。自分が物理学専攻だったこともあって懐かしさもあって好奇心を掻き立てられた。
また、昨今はSNSの発達によって現実の自分とSNS上の自分で、たしかに実態の異なる自分が存在するななんてことも考えた。野田秀樹さんが2021年に上演されていた『フェイクスピア』にも通じる点があって好きだった。詳しい考察は、考察パートで記載する。

写真引用元:ステージナタリー 舞台「背信者」より。


【世界観・演出】(※ネタバレあり)

劇場観劇と配信視聴という2つの鑑賞方法で、作品が異なってみえるという画期的な演出方法が非常に印象に残った。それだけではなく、普段の演劇ではあまり見られないような演出や、数々の伏線を孕んだ舞台美術の選定にも色々と考えさせられる部分が多かった。
舞台装置、衣装、映像、舞台照明、舞台音響、その他演出について順に見ていく。

まずは舞台装置から。
舞台セットは非常にシンプル。本多劇場の広々としたステージには常設で仕込まれる装置はなく、開演のタイミングではステージ中央に天井から大きな縦長のスクリーンが一枚仕込まれている。そのスクリーンには、謎のバーチャル配信者「バロ」が一部のシーンで投影される。
ほとんど素舞台に近いステージ上には、シーンによって数々の舞台セットが運び込まれることによって、そのシーンがどこの場所で起こっているかが表現される。例えば、「CAESAR」編集部の会議室のシーンでは、複数のキャスター付きの長机が運び込まれたり、写真に収められている中身を表現する際には、スクリーンを使って映像で表現するのではなく、巨大な黒いボックスのような装置が運び込まれて、そちらで写真の中身が生身の人間によって表現される。あとは、黒いキャスター付きのパネルが複数運び込まれることによって、二重スリット実験が表現されたり、その他様々なシーンで汎用的に使用されていた。
あと、存在感の大きかった舞台装置といえば、何と言ってもラストのミハラが「バロ」で配信をする際に使用していた、一つの箱型の空間。そこには、ゲーミングチェア的なものが置かれていたり、デスクトップPCが置かれていたり、非常に近未来感のある舞台セットで好みだった。
あとは小道具に関しても、かなりこだわりを感じさせるものが多かった印象。例えば、スナカメが持参しているカメラはSONYの「α7」という一眼レフカメラ。そして、キリエが持参していたカメラがcanonの「EOS」という一眼レフカメラ(おそらく)。「α7」と「EOS」だったことは配信も視聴していて確認出来たが、なぜこの2つを選んだのかまではちょっと考察出来なかったが、配信によってそこまで確認出来たのも、何か意図があるような気がしている(カメラ詳しい方、ここの考察と解釈を教えて欲しい)。

次に衣装について。
近未来という設定もあるからか、特に「CAESAR」編集部の編集者たちの衣装がカラフルで好きだった。舞台セットが黒くモノクロなので、役者たちのカラフルな色彩が非常に際立っていた。そして配色も全員ではないけれど、何か理由があってその色になっているものもある気がした。例えば、アオタの青色の服装は、彼女が副編集長ということで、『ジュリアス・シーザー』でいうブルータスの役割を果たすがために、ブルーが配色されているように感じた。
イザクラの衣装も、グレーと赤いチェックが半々のスーツを着ていて、最初は凄く何かの伏線だと違和感を持っていたが、それが「真理省」と繋がっていたということを暗に意図しているという演出で納得した。ちょっとあからさまな演出にも思えたが。
また、ラストのミハラがずっと普段着ていた服がリバーシブルで、反対に着こなすと全く印象が変わってしまう仕掛けも巧妙だった。人間には表の顔と裏の顔があること、現実と虚構の違いを上手く演出した一例であるような気がした。

次に映像について。
映像は主に謎のバーチャル配信者「バロ」のアバターが、縦長のスクリーンに投影されることによって使用される。「バロ」が本多劇場という大きな劇場でデカデカと投影されるので、その存在だけでも不気味に感じさせられる。まるで一つの宗教であるかのように、「バロ」に支配され、人間がその支配下にされているような構図が印象的だった。
あとは、「ネッシー」は映像で投影されて、「アポロ計画」は映像で投影されずに実物で再現したのには何か理由があったのだろうか。映像で示せそうなことをあえて実物で表現したり、かといってすべてを実物で表現せずに映像に頼った、その切り分け方は分からなかった。

次に舞台照明について。
舞台照明の仕込み方が非常に斬新で個人的には好きだった。まず、本多劇場の天井からサスペンションライトを吊り込んで舞台上を照らすことをほとんどせず(実際にはいくつか配信で確認したが、普段の舞台ほど目立つものではなかった)、客席以外のステージ三方に一直線に蛍光灯のような横長のライトを設置し、さらにステージの上手下手から横に、ステージサイドスポット的に照明を照らすものが多くて斬新だった。
それがなんというか、非常にカメラスタジオ的な舞台セットになっていて、基本的にはカメラマンの物語でもあるので、非常に世界観が独特で面白かった。
あとは、そういった照明の仕込み方を生かして、二重スリット実験のような物理実験を実際にステージ上でやってみせる演出も面白かった。ただ、これは自分が物理学専攻で元ネタを知っていたから楽しめた部分もあるので、物理のことを詳しくない方が見たらどう思うかは分からない。
また、『ジュリアス・シーザー』のシーンでスクリーンに、血が飛び散るような紋様の照明を当てていたのも印象的で、あれがあったからこそイザクラをアオタが襲ったシーンが、『ジュリアス・シーザー』の「ブルータスお前もか!」のシーンと対応することも分かった。
それと、ステージ床面に照明によって模様のように花柄ではないけれどキレイに装飾される演出も好きだった。
ただ、カメラがフラッシュされる意図で、光量が強い照明が客席に一瞬当たる演出があったが、あれは人によっては眩しいので注文が入る可能性があるから注意喚起が必要かもしれない。私は平気だったが。

次に舞台音響について。
まず客入れと客出しのときに拍子木を鳴らすような音が流れていたのだが、なぜあれが流れていたかは分からなかった。これから古典芸能でも始まるのか、といったムードになっていたがそうでもないし。あまりにも本編の演出とかけ離れた音響演出だったので、何か意図があると思うが分からなかった。
そしてとにかくBGMは格好良かった。SF映画、もしくは重厚な社会派映画を見ているかのような重々しい音楽に魅了された。サウンドトラック欲しいレベルだった。
あとはカメラのシャッター音が、シーンをぶつ切りするような演出として使われていて面白かった。観たことある演出ではあったが。
「バロ」の音声も非常に良かった。話している箇所によっては、まるで別人が話しているかのように聞こえる。それが、「バロ」という存在自体が匿名で、そもそも単一の人物によって作られているとは限らず、実態がよくわからないことを強調しているようにも思えた。

最後にその他演出について。
何と言っても今作は、劇場観劇と配信視聴によって作品の見え方が異なってくる点が肝であるとも言えよう。劇場観劇でしか分からなかったシーンもあったり、配信視聴でしかわからないシーンがあったりした。劇場観劇では、やはり舞台上を俯瞰して見ることが出来るので、話している人物以外の人の行動なども窺えたりする。それだけではなく、例えば物語序盤でキリエがシャッターと押した瞬間に、シルエットでクスノキが現れる演出も劇場観劇でないと分からなかった。あとは、どのシーンでどの程度お客さんが笑っているか、公演回によっても異なるが劇場観劇だとしっかり分かる点も良い。
一方で配信視聴だと、こんなに映像カットが異なるのかというくらい、場面によって映されるカメラの位置が全く違って面白かった。これを瞬時に編集するスタッフさんたちの労力はいかにという感じもするが、革新的な舞台作品で素晴らしかった。特に、スナカメのカメラから撮影したものが配信で視聴されたり、それによって役者の背後についた白い紙に文字が書かれていたりと、配信でしか味わえない演出もあって楽しめた。そしてこれが、現実と虚構によって同じものでも違って見えるという、今作のテーマを物語っていて素晴らしかった。
あとは、「真理省」の中にクスノキとキリエが潜入する訳だが、そこの疾走感は舞台上で表現するとちょっとイマイチだったかなという感想。非常に映像的な展開だなと感じていて、「真理省」の人間にバレたらどうしようという緊迫感を持った状態でクスノキもキリエもいるはずである。だからこそ、そこには観客をグッと引きつけるものがないと面白さが成立しない。それが舞台だと、どうしてもシーンの転換に時間がかかるので、その挙動の遅さが緊迫感をだいぶ下げてしまって、ちょっと上手い演出とは個人的には思えなかったというのが率直な感想。「真理省」の実態はも抜けの殻で存在しなかったという展開も、ちょっとアニメ的で演劇作品としては相性はどうなのだろうかと感じながら観ていた。

写真引用元:ステージナタリー 舞台「背信者」より。


【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)

映像作品に今まで出演されていた方々が多かった印象で、演技自体も舞台俳優という感じではなく映像に寄った演技という印象を受けながら観劇していた。今作は舞台作品でもあり、配信作品でもあるのでそれで良いと思うが。
特に印象に残った役者について見ていく。

まずは、主人公のクスノキ役を演じている伊藤健太郎さん。伊藤さんの演技はテレビドラマ等では観たことあったが、舞台での演技は初めて拝見する。
クスノキは非常に正義感に満ち溢れたキャラクター設定。「真理省」の正体を暴いて、真実を世間に公表したい。バーチャル配信者の「バロ」が匿名で事実かどうか分からない情報を垂れ流し、配信して世間はそんな情報に踊らされている世の中を変えたいという思いで、ハヤトトキヤマがなし得なかったことを成し遂げようとした。そういった感じの役を上手くこなしていて素晴らしかった。

次にキリエ役を演じた田中真琴さん。田中さんの演技を拝見すること自体初めて。
今作において物凄くキーマンとなる女性。ハヤトトキヤマの娘であり、「CAESAR」編集部に復讐しようとずっと行動していた。だからこそ非常にドライで無機質な感じを受けるキリエ、そこに彼女の格好良さがある。
田中さん演じるキリエも、あえて非常を表に出さず、もちろん良い意味でアンドロイド的に演じている点が、非常に素晴らしかった。近未来の作品によく登場するアンドロイドの女性、そんな無機質な感じを上手く演じていた。

次に、副編集長のアオタ役を演じた青山郁代さん。青山さんはミュージカルによく出演されており、たしか2021年に観劇した『レ・ミゼラブル』で出演されていた記憶である。また、オンライン演劇であるがノーミーツの2020年7月に上演された『むこうのくに』にも出演されていた。
青山さんは舞台女優というのもあって、凄く演技を観ていて引き込まれる魅力があった。それは生の演劇であるからというのもある。配信ではさほど感じなかったのだが、舞台でよりそれを感じた。
あとは、ブルータスという役どころも良かった。イザクラを倒して「CAESAR」編集部を仕切る感じがボスっぽさを醸し出していて好きだった。

あとは、編集者のオオシコウチ役を演じた三四郎の相田周二さん。相田さんは2022年3月の『あの夜を覚えてる』で拝見したが、生の舞台で演技を拝見するのは初めて。
三四郎さんのあのふわっとした感じのオーラが好きだった。かなり緊迫感のある作品なので緊張感の漂うシーンが多いが、それを相田さんの演技が所々和ませてくれた感じがあった。特に好きだったのは、「倒れゆく兵士」を演じるときに、体勢がきつくなって途中で止めてしまって、ゴルフを始めるあたりが好きだった。御御門さん、よく許したなあ、なんて思った。それも配信でなく、劇場観劇でこそよく分かるから良い演出だななんて思った。

あとは、ノーミーツに所属の俳優さんを生で拝見出来た点も嬉しかった。オツハタさんのあの味のある芝居や、上谷さんの勢いある演技を拝見出来て感無量だった。

写真引用元:ステージナタリー 舞台「背信者」より。


【舞台の考察】(※ネタバレあり)

2020年3月の新型コロナウイルス感染拡大を受けて、政府が緊急事態宣言を発令したことにより演劇は不要不急とされてすべての活動を停止せざるを得なかった。そんな中、劇団ノーミーツはオンライン演劇をzoomで実施して一斉を風靡した。それからオンラインで生の演劇をリアルタイムで配信する作品を連続的に上演してきた。
しかし、今や緊急事態宣言が発令されることもなくなって、コロナ禍から世界は脱出しつつある。演劇もコロナ禍前と同規模で上演されるようになり盛り上がりを戻している。そこで劇団ノーミーツ改め、ノーミーツは本多劇場で初めて観客を入れての舞台演劇を行うことになった。しかし、オンライン演劇をやってきたノーミーツであるからこそ、劇場観劇と配信視聴という2つの鑑賞方法によって同じ作品でも楽しみ方が変わるという、全く新しい取り組みに挑戦した。それが今作の『背信者』である。
ここでは、そんな全く新しい取り組み・挑戦について私なりの言葉で考察・レビューしていこうと思う。

今作の感想に、作演出を務める小御門さんワールドが全開のようなワードがあったが、正直今作を観劇するまで小御門さんが、このような抽象度の高いSF系がお好きであることはあまり良く知らなかった。旗揚げ公演からノーミーツの作品を観ていて、SF要素を強く感じたのは2020年7月の『むこうのくに』くらいで、その他はむしろヒューマンドラマの要素が強かったので、SFと聞いてピンと来なかった。
けれど、今作を観劇してみて小御門さんががっつり演劇好きであること、そして難解な脚本が好みであることを痛感した。そしてそれは、私にとってはむしろ喜ばしかった。自分自身も物理学を専攻していた時期があったので、自分の知的好奇心を刺激してくれる要素も沢山あったからだ。
今まではオンラインドラマの脚本という印象があったので、今作で小御門さんは演劇がやりたい人なのだなというのを痛感した。

小御門さんが演劇好きであるという証明の一つに、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を取り上げるシーンがある。『ジュリアス・シーザー』は、1500年代にシェイクスピアによって書かれた政治劇であり、ローマの独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルに対する陰謀・暗殺とその死の余波が描かれている。かの有名な「ブルータスお前もか!」という台詞が登場する戯曲もこちらである。
丁度シェイクスピアがこの『ジュリアス・シーザー』の戯曲を執筆した時も、当時のイギリスではカエサルが暗殺された時と同じようなことが起こっていた。当時のイングランドではエリザベス一世が政権を握っていて絶大な権力を持っていたが、彼女は高齢で、後継者争いで、カエサルが暗殺された時と同様のことが起こるかもしれないという社会風刺にもなったいた。
歴史は繰り返すものである。カエサルが暗殺されてブルータスが政権を握った時も、エリザベス一世が絶大な権力を握っていたときも、常に強力な支配者は何者かによって滅ぼされて、群雄割拠の時代に戻るという真理は、どこでもいつの時代も変わらないものである。だからこそ、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』は何百年にも渡って繰り返し上演され続けるのだろう。

今作でも、強力な支配者が存在していて、その支配者が滅ぼされて再び支配されていたものたちがバラバラになるというシーンが複数登場する。一つは、「CAESAR」編集部のイザクラという編集長(カエサルに対応)が副編集長のアオタ(ブルータスに対応)によって倒されて、アオタが今度は支配するという展開である。これは、劇中では『ジュリアス・シーザー』が寸劇として劇中劇で演じられた時と同じような演出で展開されたので、観客も非常にイメージしやすかったと思う。こういった、シェイクスピアの戯曲に登場する役を、作品の他の登場人物に当てはめてストーリー展開するその方法が、野田秀樹さんっぽい感じがして小御門さんの演劇愛を痛感した。
もう一つは、未曾有の電子災害「ビッグ・クラック」である。人類はそれまで、全ての情報をデータとして記録し、手にしていた。しかし、それによって人類は絶望的な一つの結論、すなわち人類は外側にいる誰かの手によって支配されデザインされているということに気がついてしまった。だから人為的にすべてのデータを抹殺したから「ビッグ・クラック」が起きたとしている。これも、人間ではないが膨大なデータという圧倒的支配者が存在していて、それが抹殺されることによって、再び人類はバラバラになってしまったという『ジュリアス・シーザー』が描く普遍的真理と整合する。これによって、歴史が常に繰り返されるということも暗に示しいるとも考えられる。
また、劇中で「ビッグ・クラック」が起きた話が展開された時に比喩として使われていたのは、人類が高い塔を作って神様によって壊されて、人類は皆別々の言語を話すようになったというエピソードが登場した。これは旧約聖書に登場する「バベルの塔」の逸話ではないかと類推される。「バベルの塔」では、人間は皆共通の言語を話すようになってバベルの塔を作って天まで伸ばしていき、神の領域へ入ってきたので、神は人類の言語をバラバラにして塔が建設されないようにしたという話である。これは人類は科学技術を進歩させてあらゆるデータを管理して様々な難解な法則を解き明かしてしまったので、誰かに支配されているという境地に人類を気づかせることによって、「ビッグ・クラック」を引き起こさせたということと対応する。ここにも、「支配者が滅ぼされて再び支配されていたものたちがバラバラになる」という構造が浮かび上がる。
また、これは私の推測だが、バーチャル配信者の「バロ」は、「バベルの塔」の「バベル」から来ているのではないかと思っている。つまり、「バロ」もいずれは何者かによって滅ぼされる存在であり支配者であるということ、そしてそれがラストのシーンでキリエがミハラに向かってシャッターを押した瞬間なのではないかと考えられる。

話は戻して、今作のテーマである「現実と虚構」について考察したいと思う。
今作は、劇場観劇を現実、配信視聴を虚構と捉えると、同じ作品でも異なって見えるシーンがあり、その両方を鑑賞することによって作品として完結するという狙いがある。

この構造は、物語序盤にメタファーとして説明がなされている。それが、上谷さんがマジシャンとして登場し、猫を箱に隠したり、スリットを使ったりするシーンが該当する。
マジシャンは、生きた猫を50%の確率で毒を出す箱に閉じ込めた後に、猫を箱から脱出させる。猫は箱から取り出した時には毒によって死んでいたが、箱から取り出す直前はどうだったのかは人間には観測できない。取り出した時には死んでいたので死んでいたとするのは早計で、もしかしたらそれまで生きていたかもしれない。
この理論、実は今作のオリジナルのシナリオではなく、「シュレディンガーの猫」という元ネタがある。「シュレディンガーの猫」というのは、シュレディンガーという物理学者が量子力学のそれまでの記述を否定するために発表した思考実験である。猫は箱の中に閉じ込められている間、観測不可能なので生きている状態と死んだ状態の2つが重なり合っていることを示した。

その「シュレディンガーの猫」から出発して、量子力学はさらに発展して光の存在が粒子と波の両方の素質を持つことを突き止めた。それが「二重スリット実験」であり、劇中ではマジシャンがシュレディンガーの猫のあとに登場させている。
それは、1つのスリットに光を当てると当然線上に光が投影される。ここまでは良くて、これは光の粒子性を証明しているのだが、問題はその次で、横に2つスリットを用意して光を当てると、光は干渉して何本もの光の線がスクリーンに投影される。もし光が粒子でしかない存在であれば、このような現象は起き得ない。なぜなら、光は電子という粒子としてどちらか一方のスリットしか通ることが出来ないからである。そうすれば、ニ本の光の線しか投影されないはずである。しかし、光は干渉して見えるのは、光が波の性質も持っていて確率的に光は左側のスリットに通り抜けたものと、右のスリットに通り抜けたものの重ね合わせであると考えられるからである。
さらに面白いことに、この現象をカメラで撮影すると、その干渉は消えて2本の光の線しか残らなかった。つまり、何か機器を用いてこの現象を観測しようとすると、光は粒子性だけを残して挙動を変えるのである。光の電子が、観測されたとまるで自覚して挙動を変えるかのようなのである。

この観測されると挙動を変えるという光の性質が、劇中の今後の伏線になっていく。それは、クスノキが真実を追い求めて「真理省」の正体を暴こうとした結果、「真理省」はもぬけの殻だったという事実である。これは、観測しようとすると挙動を変える光の性質と全く一緒である。
また、そもそもこういった存在はSNSを当たり前のように利用する私たちにも当てはまることを示唆している。私たちの多くは、当たり前のようにSNSという虚構の自分を作り出す。現実世界で振る舞う自分の存在と、SNS世界で振る舞う自分では挙動が異なる人は沢山いるであろう。もちろんSNSに限らず、公私で自分のキャラを分けている人だって沢山いることだろう。
でもそれは、きっと自分という存在が現実世界の自分と虚構のSNSでの世界の自分の重ね合わせなのかもしれない。今の自分がどちらとかなくて、確率的にそんな複数の自分がふわふわと漂っているのが本当なのかもしれない。けれど、他の人間が観測しようとする、つまりその人にコミュニケーションしようとすると、そうでない自分はかき消されて表向きの自分しか出現しない。そう、だからきっと人間も光の性質と同じで、観測しようとすると別の側面は姿を消すのかもしれない。

だから、現実と虚構というのは切り離して考えることは出来ず、常に重ね合わさって存在するものである。だからこそ、今自分が観測している、その人やそのものは、自分が観測していない時間に別の振る舞いを起こしているものなのかもしれない。劇場観劇という現実と、配信視聴という虚構で別の角度から見ると違った作品に見えるように、同じものは様々な切り口から見ることによって全く違うものに見えたり、絶対に自分には観測出来ない側面もあるのかもしれない。
そんなことを考えさせてくれる興味深い作品だったので、非常に私としては面白い作品だと感じている。

写真引用元:ステージナタリー 舞台「背信者」より。


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