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5分でわかる貴族と富豪の違い! ノーブリス・オブリージュと自己責任

意外に思われるかも知れないが、哲学的な意味での貴族は誰にでもなれる。
だが、現代社会では富豪になることが出来るのはチャンスに恵まれた者だけだ。

人間が貧困から脱出することは社会的な必要性に基づいた行為である。
だが、人間が富を寡占することは、社会のみならず個人にも幸福な結末を招くことは少ない。

哲学的な意味での貴族

己の観察と判断を持ち、権威に忖度迎合することもなく、自らの意思によって社会契約を履行して、国家公共とその理念を守らんとする者が、哲学的な意味での貴族であって、これこそが貴族と言う存在の本来の目的である。
王族出身のプラトンが、平民出身で文字も読めないソクラテスを最も高貴な人間であると考えていたことは疑いようのないことであるが、実はソクラテスは平民よりも下の階級の出身であったという説もあるのだ。
つまり、貴族であるかどうかは階級の問題ではなくて、知恵と勇気と行動の問題ということである。

ヨーロッパには、ノーブリス・オブリージュ(高貴なる義務)という価値観が存在するが、つまり、能力が高く地位を持った者は、必要な社会的な義務を負わなければいけないというものであって、これはアメリカ的な個人主義の対極である。
逆説的に言えば、アメリカにはこの貴族的精神が存在しない。
歴史的にはアメリカは、カルヴァン派プロテスタントの狂信者が、先住民をジェノサイドして造り上げた国家であるため、それは当然のことに過ぎないのではあるが…

貴族の地位に居ながら最も卑賎な精神をしていた女について

フランス革命の原因となった山奥野蛮の田舎姫は、国家を守るどころか家族を守ることも出来なかったが、その原因はヴァレンヌ逃亡事件で御洒落に拘ったからである。
革命が起きる前に、自らの統治する国を離れる王は、国家に対する背任としかならない。
そんなこともわからない彼女は、逃亡を急ぐよりも逃亡に使う優雅な服を用意することに数か月かけた。

結局のところ、彼女はフランスから離れることは出来なかったが、最終的に彼女の首は自らの胴から離れることになった。
この見てくれだけの厚化粧の女は、ナチス親衛隊と同じように、貴族から最も遠い精神をしていた。
ゲルマン民族の精神は貴族から最も遠いとはニーチェが述べたことであるが、このマリー・アントワネットもゲルマン民族ではある。

この女は貴族の精神を持たず、特権的地位と資産だけを所有していた。
彼女を貴族と呼ぶことは出来ないが、彼女を富豪と呼ぶことは出来る
彼女は、自らの地位と富を、自己満足的な妄想のため以外に活用することは出来ないのだ。
そして、彼女は、自分の裕福な待遇は、オーストリア王女として生まれた自らに与えられた天命的な特権とも述べていたのだ。
これは、プロテスタントカルヴァン派の運命予定説そのものであるが、ある意味においては自己責任論と類似している。

貴族と富豪の違いは何か?

貴族は社会的義務を負い、それを遂行する意識を持つ者であるが、富豪にはその義務がなく、単に私財の蓄積に熱心なだけの者のことである。
貴族は己のみならず、それ以上に社会とそれを成立させる理念を守ることを何よりも考えなければならない。
当たり前のことであるが、資産家であっても、公共の福祉に熱心であれば、富豪というよりも貴族である。

現代に貴族は存在するのか?

現代社会には貴族はほぼ存在していない。
人間の思考や判断を形成するものは、個々人の経験と知識と即応性、そして知恵と勇気と意思である。
危機に対峙して問題を解決する経験を持った者はほとんど存在しないし、現代社会で生活しているならば、消費主義的な知識しか体得することが出来るわけもなく、貴族の思考が身に付くわけもない。
なお、ソクラテスを見ればわかるように、民主主義国家においては国民は政治参加の義務を持つため、本来は貴族の思考を持つ義務があり、哲学的な意味での貴族で居る必要性がある。
現代日本は、資本主義国家である可能性は高いが、民主主義国家ではなくて単なる権威主義国家である。
そういった意味で、中華に一定に近い社会であるわけだが、どちらも儒教による洗脳教育を重視していることは事実だ。

マックス・ウェーバーとフリッツ・フィッシャーの意見

彼は、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で資本主義社会をプロテスタント(カルヴァン派)に基づくイデオロギー社会であると述べた。
カルヴァン派プロテスタントにおいては、現世における蓄財の成功こそが死後における救いの証という価値観が存在していて、これが資本の蓄積に繋がるというのが彼の理論であった。
ウェーバーの著書は、プロテスタント自体に資本主義を成立させる材料があると述べたものであるが、つまりはプロテスタントの価値観(知識・思考・行動)が資本主義社会に適した人間を造り、そうした人間が資本主義社会を造るという話である。
宗教が人を造り、人が社会を造るというわけだ。

なお、カルヴァン派プロテスタントにおいては徹底的なまでに個人主義が追及され、利他性や公平性が徹底的に軽視されているということも付け加えておこう。
ドイツ系アメリカ人のトランプ前大統領はカルヴァン派プロテスタントの家庭で育った人間であるが、彼こそはこの精神を体現していると言える。
カルヴァン派プロテスタントはアメリカの人種差別と極めて強い関係を持った歴史が存在し、アメリカの北部よりも南部に多い宗教である。
ちなみにカトリックにおいては、個人の過度の蓄財と人種差別は「地獄への道」として否定されている
つまりは、カトリックとプロテスタントは完全に別の宗教なのだ。

そして、プロテスタントはヨーロッパ中部のゲルマン民族の間で流行した宗教であって、ヨーロッパ北部のノルマン人はそもそも宗教に関心が薄いし、ヨーロッパ南部のラテン人はカトリックを重んじたという歴史的事実が存在する。
そもそも、ゲルマン民族のカトリックは、最初からプロテスタントに近い性質を持っていたという説まで存在しているし、プロテスタントこそがナチスを成立させる基盤となったという理論を唱えたのがフリッツ・フィッシャーーだ。
なお、フリッツ・ハーバーのようなユダヤ人の科学技術者はドイツに多く存在していたが、そうした者はナチス政権では、追放されるか殺されるかのどちらかであった。
アルバート・アインシュタインもその一人である。

つまり、ニーチェが述べたとおりにプロテスタントは人間の精神における貴族性を破壊するということなのだ。

追記しておけば、ノルマン人やラテン人と異なって、徹底的に自己責任論と個人主義を重んじるゲルマン民族は、古代~中世において、国家というものの形成に完全に失敗していた。
彼等彼女等はアニメオタクのように自己愛や個人の妄想の追求に熱心でも、公共の利益や国家の理念を守る能力を持っていない。(ドイツロマン主義
バーサーカー(ヴァイキング)やローマレギオン(ローマ軍団)とは異なって、バーバリアン(野蛮人)は己のためにしか戦うことが出来ないというわけだ。
https://note.com/yrloki/n/n87f8a635ec10?magazine_key=m5e659e12bae3

国家の形成に必要なものは、実体性と公共性と人間理念の「機能的な繋がり」であって、ルネサンス時代にそれが成立したが故に、近代国家というものが誕生した。
だが、ゲルマン民族は「妄想と己と権威主義」の三位一体を何よりも好んでいる。
アメリカンドリームという個人的な栄達への追求も、ゲルマン民族的な精神そのものであるが、実のところ、アメリカにおける最大多数派は、アングロサクソン(イギリス系白人)ではなくて、ドイツ系アメリカ人である。

現代社会に適した人間とは何か?

蓄財のみに熱心で、国家公共における政治を考えず、蓄財のためのスキルのみを磨く人間。
自己責任論を追及し、高貴なる義務を否定する卑賎者。
そうした人間は、自らの利益のためには権威に絶対服従する。
ナチス親衛隊のアイヒマンのように、他者を恣意的に弾圧することにも抵抗を持たない。
笑えることに、自己責任論を唱える政府がそのような人間を推奨しているし、教育においてそのような人間を拡大再生産している。
富豪になること以外を何も思考できない人間だけが、増え続けている状態である。

ドイツがEUを支配しているのも、彼等の思考と行動が現代社会に最適化されているが故にだろう。
武器輸出大国のドイツはEUから搾取しても、ウクライナに軍事支援をすることすら拒絶している。
彼等彼女等が自らを偉大であると認識しているならば、思い込み(観念)と事実の区別をつける能力が欠如しているということだが、それこそがドイツ観念論というものなのだろうか?

そもそも、競争社会に最適化された人間は、本質的に他者と仲良くする能力が欠如している。
何故ならば、競争においては、他者と協力することよりも、他者を裏切ることの方が、優位を創り出す選択であるが故にだ。
これは社会全体の利益を低下させるが、個人の利益は最大限に増幅する行為なのだ。

現代日本人は、生活のための受験と金儲けに忙しく、公共政治や伝統文化について思考する習慣を持っていない。
科学技術についてすらも軽視し、金儲けのための中抜きや現実逃避的なオタクアニメには極めて熱心という有様だ。

儒教とプロテスタントの類似について

儒教は身内だけを優先し、一族で国の官位を独占することを親孝行とするような宗教である。(「全ての者には序列あり」という教義を持つのだから、儒教は宗教の定義を満たしている。)
カルヴァン派プロテスタントも、選民思想を有し、蓄財が選民の証であり、蓄財に成功するならば何をしても死後には救われるという価値観を持っているので、この二つの宗教は、実は同じ宗教なのだ。
故に、儒教であっても貴族を殺し、再分配を否定する市場原理主義と極めて相性がいい。

余談、東ローマ帝国のテオドラについて

なお、東ローマ帝国のユスティアヌス1世の王妃であったテオドラは、ゲルマリー・アントワネットとは異なって平民出身であったが剛毅な女性であり、彼女の国で反乱が起きた際には「王の服は最高の死に装束であり、逃亡するよりは反乱と戦うべきである」と述べた。
彼女と夫は反乱の鎮圧に成功し、王権を保つことに成功する結果となったのは、説明不要のことだ。

追記

この記事もおススメです。
https://note.com/saito12345/n/nb7bfd5914690


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