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『少女を埋める』(桜庭一樹著)を読んで

8月の終わり頃、Twitterのタイムラインを少し賑わせた”騒動”があった。
その内容についてはここでは触れないが、これについて友人がツイートしていたのを見て興味を持ち、初めて『文學界』という文芸誌を購入した。

桜庭一樹さんの本は読んだことはなかったので、これを機会に読んでみようと思ったからだ。

この作品は私小説ではあるが、具体的な名称が出てくるので主人公の冬子のモデルが桜庭さんであることは100%分かるようになっている。

コロナ禍で父の死を迎え、実家に戻り一連の儀式を終えて帰ってくるお話の中に、現代の日本社会が抱える様々な問題、そして家族を含む自分自身の問題を散りばめ、都内と地元のエピソードを絡めて丁寧に描いている。

私はこの作品の主要テーマはジェンダーであると感じた。
”女性”はどう生きてきたのか、日本社会全体という巨視的な一般論とは別に、私小説であるのでより個人的なエピソードを通して描き出している。
鳥取県がどこまで日本の地域社会における普遍性を持っているかは分からない。
しかしここでは鳥取県というよりは、東京や大阪などの大都市との対比として見ればよいと思う。

話は少し逸れるが、私は東京に通勤する千葉県在住者で、出身は茨城県南だ。都内へは電車一本で一時間以内で行ける地域で育ったので、田舎ではあるが首都圏というのは、それは鳥取県のような地域とはまた別の意味で特殊であると思っている。

話を戻そう。
この短編(中編かな?)は、様々な示唆に富んでいて、それでいて私小説ゆえに主観なので何かを断定できる要素はない。
読み手の経験値によって気になるところがかなり違ってくるだろう。
例の”騒動”ではある文芸批評家が”介護”というケア視点から作品を取り上げ、その”読み”が断定的に書かれてたために起こった。

『死』、とりわけ親族の死というのは、親戚縁戚含め、それまでの人間関係が如実に表れる場でもあり、そこには、そこにしかない『一つの社会』が存在する。
死によって表面化する実体、とも言えようか。
そして通夜から葬儀、納骨などの一連の儀式を行う中で、冬子の中に色々な感情が湧き出でてくる。

それまでの人生において、地域や家族との間に何かしらの確執があればとても複雑だ。
そう、このお話はそういう意味で複雑だ。
そして作家である冬子は感受性も強いから色々なことを思う。
その思いに共感できる人、出来ない人がいるだろう。
親は団塊世代、冬子はロスジェネ世代。
近頃は毒親、という言葉もよく目にするが、その要素もないわけではないが、地方ゆえに現代においてもなお根強く存続する、家父長制的な男支配の構造が、とても寂しげに描かれている。
しかし、その家父長制が古いから、ジェンダー的に否定される慣習だから、ということで否定的に発信していた冬子だが、一人になった母にかける言葉に大きな矛盾を感じてしまったところは、私的に好きなシーンだ。

本当の多様性とは何なのか。

冬子自身は家父長制を封建制として否定するリベラル思想の持主で、理論武装をすることで忌まわしきしがらみから抜け出し、それでもしつこくつきまとう因縁のような、切り離せない宿命に抗い、もがき、東京で作家として成功した。
冬子が自由に生きていくためには明らかに切り離さないといけないものがあった。
それはもちろん鳥取だけの話ではなく、多くの地方でも同じことがあるだろう。
その意味で首都圏は違う。東京は近いから”逃げ場”にはならない。

冬子の実存に即した、ゆえに冬子にしか理解できない複雑さの中に、日本社会が抱える地域や家族、仕事、友人などの問題を、”コロナ禍の死”を通して描いた、素晴らしい作品だと思った。
そして冬子が女性というだけで、その中には必然的にジェンダーの問題が大きく横たわっていることが浮彫りになるのだ。

こういうタイムリーな私小説、いいなぁ。

あと、これくらいの量は映画向きだと思う。
内面をどうセリフの中に落とし込むか、脚本難しそうだけど、社会的には作って欲しいな。

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